乙女の涙と悪魔の声

あた

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裏庭

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 ◆

 バアルはチョークで書かれた魔法陣の前に立っていた。レイチェルの前例があるので、つづりに間違いがないことを再三確認する。

 手に持った本は、悪魔を呼び出す手順を書いたもの。皮肉にも、人間が書いたというそれを開き、レイチェルの涙が入った小瓶を取り出した。涙滴を魔法陣に落とし、唱える。
「我が名はバアル。ソロモン七十二柱における序列一位および、指輪の所有者である権限によって、汝を召喚する。いでよ、ハーゲンティ」
 魔法陣が光りはじめ、牛の姿の悪魔が出現する。
「ズモーッ」

 真黒な身体の下には、血管が浮いて見える。言語を持つ悪魔と持たない悪魔がいる。バアルとしては、しゃべらない悪魔のほうが御しやすい。言葉はときに事態をややこしくするからだ。

 ハーゲンティのいかにも獰猛そうな様子にも動じず、バアルは淡々と言う。
「汝の名はハーゲンティ。序列は四十八番。封印の言葉は「cattleキャトル」」
 ソロモンの指輪を差し出すと、悪魔が徐々に吸い込まれていく。毎回のことなので、特に苦労もない作業だ。レイチェル・キーズを召喚したのは本当に予期せぬ事態だった。静まった部屋に、本を閉じる音が響く。

「ブラックー」
 その声に、バアルは肩を揺らした。ドアを開くと、レイチェルが傘立ての後ろをのぞき込んでいた。
「何をしてるんだ?」
「ブラックを探してるのよ」
 彼女は振り向いてそう言う。澄んだグリーンアイズに、バアルの姿が映りこんでいた。

「ブラック?」
「犬よ。あなたが幻覚呼ばわりした」
「で、見つかったのか」
「いないの。あなたが隠してるんじゃない?」
 澄んだ瞳が、疑わし気な色になる。バアルは咳払いをした。
「そんなことより、贄が足りなくなった」
 そう言って空の小瓶を振ると、レイチェルが顔をしかめる。
「また泣けっていうの?」
「そのブラックとかいう犬が死んだ想像でもすれば簡単だろう」

 小瓶を渡されたレイチェルは、「なんてひどいこと言うの?」とつぶやいて、また傘立ての裏を覗き込んだ。そんなところには犬どころか猫も入れないのではないかと、バアルは思う。

 実際、レイチェルが探している犬など存在しない。
 そう、そんなもの、どこにもいないのだ。

 ◇

 レイチェルは自室のベッドに座り、手元にある小瓶を眺めていた。涙は悲しいときには勝手に流れるけど、泣かなければならないとなると、全然出てこないのはなぜだろう。

 悲しかったことを思い出そうと、目を閉じてみる。やっぱり、両親が亡くなったことだ。教会で、献花した時のことを思い出す。運ばれていく二つの棺桶。もう、二度と会えないのだと、埋められていくそれを見つめていたこと。

 じわっと涙がにじんで、慌てて小瓶を手に取る。
 涙はにじんだだけで、瓶に流れ落ちすらしなかった。
「はあ……」
 大体、なんで無理に泣かなくちゃいけないんだろう。

「自分で泣けばいいのに」
 レイチェルはそうつぶやく。まあ、バアルが泣いているところなんか想像つかないけど。というか、そもそも、悪魔が泣いたりするのだろうか。
 恨めし気に小瓶を見ていると、コンコン、とノックの音がした。バアルだろうか。

「まだ泣けてないわ」
 そう言って扉を開くと、バラムが立っていた。
「あら、バラム」
 笑顔になってしゃがみ込む。
「どうしたの?」
 バラムはすっ、と絵を差し出した。

「あら?」
 レイチェルは絵を見下ろし、目を瞬く。廊下に飾ってあった絵だ。鏡を見ている、女性の絵。素敵だな、と思っていたものだ。
「くれるの?」
 尋ねると、こぐまはこくこくうなずいた。
「でも、いいの? 勝手に。バアルに怒られない?」
 バラムは少しだけ迷った後、またうなずく。
「ありがとう。うれしいわ」

 どこに飾ろうかと壁を見ていると、バラムがくい、と腕を引いてきた。
「え、何?」
 ぐいぐい腕をひかれる。
 レイチェルは絵を置いて、バラムの後についていった。


 バラムはレイチェルを連れて、キッチンを抜け、裏口の扉を開く。こちらに何があるのだろう。
「わあ」
 レイチェルはバラムの後ろから顔を覗かせ、思わず声を漏らして感嘆する。目の前に広がっていたのは、自家農園だった。花壇もあって、花が咲いている。英国のガーデンとはまた違うが、レイチェルの好きな雰囲気だった。

「こんなところがあるのね……」
 バラムはここの野菜を使って料理をしていたのだろう。悪魔が野菜を育ててるなんて、なんだかおもしろい。

 バラムはレイチェルに籠を渡し、トマトのような丸い野菜を指さす。
「これを取ればいいのね」
 レイチェルはそう言って、ハサミで枝を切る。バラムはズッキーニのような長い野菜を収穫し始めた。バラムには届かないところの野菜はレイチェルが取ってやり、低くて取りにくいところに実っている野菜はバラムが取る。
  ──なんだか楽しい。ロンドンではこういうことを体験しなかった。

 こうしていると、ここがバビロンだなんて忘れてしまえそうだ。レイチェルは、しばらくバラムとの共同作業を楽しんだ。

 蜂が飛んでくると、バラムはパニックに陥って、籠を放って走り回った。蔦に足を取られ、転んでいる。
「バラム、大丈夫?」
 レイチェルは慌ててバラムに走り寄ろうとしたが、ふと、黒い影が見えたような気がして足を止める。

 井戸のあたりに、黒い犬がたたずんでいるように見えた。
「あっ」
 レイチェルは思わず、そちらに向かって走り出す。起き上がったバラムが、行ってはだめだというように、腕を引いてきた。

「離して、やっぱりいたわ、あの犬よ!」
 思い切り腕を引かれたせいで、レイチェルは地面にしりもちをついた。バラムが慌ててレイチェルを助け起こす。
「離して!」
 腕を払うと、バラムがびくりとした。
「あ……」
 怯えた顔で後ずさるバラムに、レイチェルは近づいていく。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」 

 バラムはびくびくしながら落ちた野菜をかき集め、たたた、と家の中に入って行ってしまった。
 ──せっかく、歩み寄ってくれたのに。
 レイチェルは足元でつぶれた野菜を見て、うなだれた。
 どこに行ってしまったのか、犬の姿はもう見えなかった。
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