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罪人
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バアルは、椅子に腰掛けて、髪をグシャグシャかき回すルイスをじっと見た。この男がレイチェルの従兄弟。行動パターンが似ていると言ったものの、尊大な口調や、人を不快にさせるせせこましさは、まるで似ていない。彼はバアルの視線を感じたのか、じろっとこちらを睨みつけた。品のなさがにじみ出た声で、不機嫌に問いかけてくる。
「なんだ」
「べつに」
不快なものをわざわざ見る必要はないと、目をそらす。
コンコン、とノックの音がした。立ち上がり、ドアを開けると、お盆を持ったバラムがとことこと歩いてくる。ついで、レイチェルが入ってきた。
ルイスは目の前を横切ったバラムを見て飛び上がり、おもいきり叫んだ。
「ぬいぐるみが動いてる!」
大声を聞いて、びくりとしたバラムから、レイチェルはお盆を受け取る。
「彼はぬいぐるみじゃないわ」
「君もそう思っていたようだけどな」
バアルは口を挟む。
「なんなんだここは、化け物の巣窟か!」
「そうだな、君を入れると三人だ」
「僕は人間だ。男爵だ!」
冷たい目で、バアルはルイスを見た。どうやらこの男は、社会的な地位が高ければ高潔だとでも言いたいらしい。
「身内殺しが立派な人間のやることか? 恥を知れ」
ルイスは顔をひきつらせた。
「僕が誰を殺したっていうんだ」
「私の両親を」
レイチェルが言うと、部屋の中がしん、とした。
「な、なにを言ってるんだ! 僕が人殺しなんかできると思うかい? 大体、君の両親は事故死だろ!?」
焦り気味に言うルイスに、レイチェルは冷静に返す。
「ええ。馬車が横転して、そのせいで」
「じゃあ、僕は関係ないね。馬車は御者が用意するものだろ?」
「でも、あなたがやったと聞いたの」
「誰に」
「悪魔に」
レイチェルが答えると、ルイスがバアルに目をやった。
「彼じゃないわ、別の悪魔によ」
「あいつはなんなんだ? 君の恋人かい」
「違うわ。彼は私を間違って召喚してしまっただけ」
レイチェルはそう言って、紅茶を一口飲んだ。ルイスは不審げにカップの中身を見ている。
「どうぞ。バラムの淹れたお茶はおいしいのよ」
「それ、あのクマの名前かい? あれも悪魔なの?」
ルイスの視線は、バアルの足元にいるバラムに向かっていた。バラムは怯えたように、レイチェルの足にぎゅっ、としがみつく。
「そうよ。かわいいでしょう?」
「どこが。気味が悪いね」
彼は鼻を鳴らして、紅茶を一口飲んだ。
「あなたと趣味が合ったことはなかったわね」
「まあ、君は女の子だからね」
レイチェルは黙って紅茶を飲んだ。ルイスがカップを置いて、レイチェルに身を寄せてくる。
「なあ、こんな気味の悪いところ早く帰ろう」
「でも、帰ったらあなたは私を訴えるんでしょう?」
「あんなの気にしてたのかい、冗談だよ!」
「本当?」
「もちろんさ。それにもう昔のことだろう?」
ルイスの手が、レイチェルの髪に触れた。それを見て、バアルがぴくりと肩を揺らす。バラムがはらはらと三人を見比べている。
「この気持ちは何年経っても変わらないさ。今だって僕は、君と結婚したいと思ってるんだから」
「そう……」
うれしい、と返したら、ルイスは鷹揚にうなずいてみせた。レイチェルは、緑の瞳を彼に向けた。
「私が、紅茶に毒を入れたとしても?」
レイチェルのその言葉に、ルイスが目を見開き、ばっ、と手を離す。
「なんだって!?」
「これは解毒剤よ。ほしかったら、本当に私の両親を殺したのかどうか、言って」
レイチェルは素早くルイスから離れ、懐から出した小瓶を見せた。
「おい、冗談だろ、レイチェル」
「どうせもう帰れないのよ。正直に言って、ルイス」
ルイスは真っ青になって喉に手を当てた。
「そんな」
彼は震えるだけで、何も言おうとはしない。
「言ってくれないのね」
レイチェルは呟いて、目を瞑った。そして意を決したように、小瓶の中身をあおる。そのまま、床に崩れ落ちた。
「!」
バアルはレイチェルに駆け寄って、彼女を抱き起す。レイチェルは真っ青になって、震えている。
「毒を飲んだんだ……バラム、水を!」
バラムは慌てて部屋を出ていく。
「な、どういうことだ?」
呆然とつぶやくルイスを見もせずに、バアルは言う。
「黙ってろ。口を開いたら殺すぞ」
バアルは指をレイチェルの口内に入れ、毒を吐き出させる。バラムが持ってきた水を少しづつ飲ませると、レイチェルがごほ、とせき込んだ。
「よし、あらかた毒は出た。僕は彼女を二階へ運ぶ。バラム、なんの毒か調べておけ」
バラムは必死にうなずき、レイチェルが落とした小瓶を拾い上げ、たたた、と部屋を出て行った。バアルがレイチェルを抱き上げると、緑の瞳がうっすら開いた。
「バアル……」
「しゃべるな」
「お願い、ルイスを、向こうに、帰して、私、彼の罪を、書いた、遺書を……」
言いかけて、レイチェルはくたりと身体を脱力させる。バアルは呆然としているルイスを放置して、部屋を出た。
◆
レイチェルをベッドに寝かせ、バアルは部屋を見渡した。先ほどレイチェルが言っていた、遺書をさがす。ベッドのそばのチェストに、手紙が乗っているのに気づき、そちらへ向かう。
手紙を手に取って、椅子に腰かけた。かさりと紙を開くと、こうあった。
「父と母が亡くなり、家をなくし、生きていく希望がなくなりました。神の意に背き、自分で命を絶つ不孝をお許しください。ただ一つ、知っていてもらいたいことがあります。私の従兄弟、ルイス・デュフォーは、私の両親を殺しました。どうか、彼を調べて、父と母の無念を晴らしてくださるよう、お願いします。レイチェル・キーズ」
バアルは彼女の柔らかい筆跡を、指でなぞった。
「馬鹿なことを」
なぜ止められなかったのだろう。レイチェルが、毒を盛るはずなどない。最初から自分で飲むつもりだったのだ。
こんなことをしてどうなるというのか。ルイスが裁かれたところで、自分が死んだら元も子もないのに。
だがバアルは知っていた。人間は時々信じられないくらい、馬鹿なことをするのだ。
手紙の他に、ネモフィラの花をしおりにしたものが二つ置いてあった。『バアルへ』『バラムへ』と書かれている。
バアルはしおりをポケットに入れ、レイチェルの金髪に手を伸ばして撫でた。ただでさえ白い肌が蒼白になり、額には冷や汗が滲んでいる。浅く息をする肩は、細く、頼りない。
レイチェルの閉じた目から、涙が一筋、流れ落ちた。それを指先でそっと掬い取り、小瓶に落とす。
これは、レイチェルが生きている証だ。
コンコン、とノックの音がしたので、返事をすると、バラムが部屋の中に入ってきた。タオルの入った洗面器を枕元に置いて、花を差し出す。
鈴のような白い花。その実、猛毒の花。
「ホワイト・ベルか」
あの時、毒があるなどと教えなければよかった。それとも、教えずとも彼女は自力で毒草を見つけただろうか。バラムはベッドのふちに手をかけ、泣きそうな顔でレイチェルを見ている。
「バラム、レイチェルを看ていろ」
バアルはバラムにしおりを差し出して、ドアに向かった。
階下に行き、自室に戻ると、床にへたり込んでいたルイスがはっ、と顔を上げる。乱れた髪が額に張り付いていた。
「れ、レイチェルは」
「死んだ」
バアルがそう言うと、ルイスが震えた。
「三人も殺したことになる。重罪だな」
冷たい目を向けると、ルイスは喉を引きつらせた。
「僕のせいじゃない! レイチェルは勝手に毒を飲んだんじゃないか」
つまり、レイチェル以外の二人──彼女の親を殺したと認めたのだ。
バアルはルイスの襟首を掴み、魔方陣の前まで引きずって行った。
「やめろ、離せ!」
無言で手を振り、彼の頬に傷をつけると、ルイスはびくりと震えた。恐る恐る頬に触り、こっけいなほど騒ぐ。
「血だ!」
他人を平気で傷つけるくせに、自分は痛みに弱いのだ。
反吐が出る。
「次勝手に喋ったら顎を無くすぞ」
バアルが無表情で言うと、やっと黙った。バアルは魔方陣の一部を靴で消し、チョークで文字を書いた。懐から小瓶を出し、魔方陣に垂らす。
レイチェルの涙が、きらりと光って落ちていった。
魔方陣が発光し始める。本を開き、唱えた。
「我が名はバアル。ソロモン七十二柱第一序列と指輪を所有するものの権限において命じる。現れよ、アンドロマリウス」
魔方陣から、蛇に絡みつかれた悪魔がずずず、と現れる。ルイスは目を見開いて固まっていた。
「何用か」
アンドロマリウスは屈強な男の姿で現れた。悪人を捕らえるという腕は、岩のように盛り上がっている。バアルはルイスを指差し、淡々と言う。
「この男は殺人を犯した。相応しい裁きを」
「うむ」
アンドロマリウスがぬっ、と手を伸ばすと、ルイスが悲鳴を上げた。
「嫌だ! 僕をどうする気だ!」
「ふさわしいところに連れて行き、受けるべき罰を与える」
バアルはルイスの襟首を引き、アンドロマリウスに押し付けた。屈強な腕が、ルイスの首に巻きつく。
「ぐあっ」
ぎりぎりと締め上げられていたルイスが、くたりと気を失った。
「連れて行け」
バアルは冷酷に告げる。
「御意」
アンドロマリウスが、魔方陣に吸い込まれていく。ルイスの姿も引き込まれ、やがて見えなくなった。
魔方陣の前から離れ、椅子に座った。これだけで済んだのに、レイチェルはどうしてあんなことを。ポケットからしおりを出し、眺める。ネモフィラの花。森を愛する、が語源らしい。新緑のような、レイチェルの緑の瞳を思い出す。
涙に濡れた、憐れで、美しい瞳。
バアルはしおりに、そっと唇を当てた。
◆
それから、レイチェルは三日間眠り続けた。
人間はすぐ死んでしまう。昔、バアルがそう言ったら、ソロモンがこう返してきた。
──そうだな、悪魔に比べたら、我々の命は儚い。だからこそ日々を大切にするんだ。
出会ったときは若々しかったソロモンも、すでに老人になっていた。
──あんたはほかの人間と違うだろう。指輪があれば、永遠の命が手に入るんじゃないのか。
ソロモンは、なにも答えずに笑っていた。
ノックの音がして、バアルは閉じていた瞼をひらく。視線を動かすと、ドアの隙間からバラムが顔を覗かせていた。
「レイチェルが、起きたのか」
身を起こしながらそう尋ねると、こぐまはふるふると首を振る。バアルはため息をついた。
バラムが、お盆を持ってこちらに来る。テーブルの上に、野菜スープとパンが置かれた。以前よりも質素な食事だが、バアルは文句をつけず、黙々とそれを食べた。バラムは喋らないし、レイチェルがいなければ、屋敷は静かだ。
犬を探して傘立ての後ろを覗いていたレイチェルを思い出し、バアルはくすりと笑った。バラムが驚いたようにこちらを見る。
思えば、バラムの前で笑ったのは初めてだ。悪魔には笑うという習慣がない。基本的に一人で生きているから、笑う必要がないのだ。
「レイチェルが来る前は、こうだったな」
バアルはそう言った。悪魔が二人。しかも主従関係だ。会話などない。今もそれは変わらないのだ。バラムは使役する悪魔であって、レイチェルのように、愛着を持って接することが、自分にはできない。
それでも、バラムがいてよかったとは思った。少なくとも今、独り言をつぶやかなくて済む。
「僕のせいだな」
ここに呼ばなければ、レイチェルは真相に気づくことはなかった。何もしらなければ、少なくともあんな真似はしなかっただろう。
バラムがふるふると、首を横に振った。違う、とでも言いたげだった。
違わない。
レイチェルは悪魔になどかかわらず、人間の世界で生きていくべきだったのだ。バアルはスプーンを置いて、立ち上がった。
「レイチェルの様子を見てくる。これを片付けたら、おまえは休め」
再びふるふると首を横に動かすバラムの頭に手を置いて、バアルは部屋を出た。
二階へと上がっていき、レイチェルが寝ている部屋のドアを開く。暗い部屋の中で、ランプの火を灯した。灯りに照らされたレイチェルは、蝋のような顔色をしている。
洗面器の水を替え、絞ったタオルで彼女の首筋を拭う。白い肌を、汗が流れ落ちる。
ソロモンの死体を見た時を思い出した。
レイチェルも死ぬのだろうか、ソロモンのように。
バアルにはひとつ、不思議なことがあった。なぜソロモンは、死んだのか。ソロモンの指輪があれば、不老不死になることも可能だっただろうに。彼はそうはしなかった。悪魔には、死は訪れない。自然死はない、という意味で、不死身なわけではないが。
死が訪れるのは、他の悪魔に食われた時や、何らかの理由で魔力が尽きた時だ。
バアルはソロモンの指輪をはめた手で、レイチェルの手を握りしめた。
「レイチェル」
起きてくれ。そう願うが、彼女は目を覚まさない。バアルにソロモンの指輪は使えない。正しいものではないから。自分にできるのは、封印だけだ。レイチェルの頬を、涙が伝う。また泣いている。
バアルはレイチェルの手を離し、彼女の目尻にそっと触れた。すくいとった涙を、ぽとりと小瓶に落とす。
──これは、最後の贄だ。そう思いながら、バアルはランプの灯を消した。
キッチンに向かうと、バラムが台に乗り、皿を洗っているところだった。よく、レイチェルと一緒に皿洗いをしていた。臆病で、人を恐れていたバラムが、人間に心をゆるした。
「バラム」
名を呼ぶと、くるりと振り向いた。台からぴょん、と飛び降りて、こちらに来る。トコトコやってきたバラムに、くまの帽子を差し出した。
バラムは目を丸くしてこちらを見る。バアルがうなずくと、それを受け取り、嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「今まで助かった」
バアルがそう言うと、跳ねるのをやめて、こちらを見上げる。つぶらな瞳。礼をいうべきだとレイチェルにさんざん言われたな。
「ありがとう」
バラムはじっとバアルを見て、にこ、と笑った。バアルはバラムを抱き上げ、自分の部屋へと向かった。
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