乙女の涙と悪魔の声

あた

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帰郷

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 光の粒子が舞って、きらきら輝いている。バアルは指先にあった感覚を確かめるように、伸ばした手を動かした。さっきまで、ここにいたのに。
 輝くような金髪も、新緑のようなグリーンアイズも、もうない。一瞬で消えてしまった。

 いや、元の居場所へかえったのだ。レイチェルは人間なのだから、人間の世界へ戻るべきだ。これで、いいのだ。
 潤んだ緑の瞳を思い出すと、心が波だった。なぜレイチェルが泣いたのか、わからない。

「帰りたかったんじゃないのか」
 バアルは誰にでもなくつぶやいた。答えるものはいない。光の柱は天高くまで続いていて、見通すことはできなかった。あの先に、レイチェルがいるのだろうか。手を伸ばしかけ、止める。
 ──光を求めるなんて、悪魔がすることじゃない。
 帰ろう、と漏らした声が足元におちる。
 漆黒の羽根を広げ、バアルはバベルの塔から飛び立った。


 自宅へ向かうと、バラムが玄関でそわそわと待ち構えていた。バアルと目が合うと、気遣わしげに見上げてくる。バアルは淡々と、
「レイチェルは無事に帰った」
 と言う。バラムはぽん、とバアルの脚に手を置いた。
「はげましてるつもりか?」

 子ぐまがこくりとうなずく。まさかバラムになぐさめられるとは。バアルは思わず苦笑した。バラムの小さな頭に手を置く。
「元に戻るだけだ。今までと、何も変わらない」
 そう、今まで通り、悪魔が二人いる生活に戻るだけだ。バアルは懐に入れたしおりをそっと押さえ、自室へ向かった。


 ◇


 まるでリフトで引き上げられているかのような、上がっていく感覚。ふわふわと体が浮上して、レイチェルはとさりと音を立て、地面に倒れた。
「っ……」
 こぼれ落ちた涙をぬぐい、顔をあげる。
「ここ……」
 レイチェルは眩しさに目を細めた。バビロンよりずっとあかるい。膝をちくちくと擦るのは芝生だ。陽光に、白いテーブルと椅子が照らされている。

 どこからどう見ても、長閑なロンドンの午後だ。そして、すぐそばにはキーズ家が佇んでいる。ここで生まれ、ここで育った。ここには、父と母と過ごした思い出がたくさんつまっている。

 だからこの家さえあればいい。そう思っていたのだ。そう、泣く必要なんてない。レイチェルは息を吐き、立ち上がる。
 テラスから中に入り、視線を動かす。ルイスがいなくなったと、使用人たちが騒いでいるかもしれない。
 レイチェルが室内に声をかけようとしたら、足音がした。

「どちらさまですか?」
 その声に、レイチェルは振り返る。メイドが一人立っていた。見覚えのないメイドだ。ルイスが雇ったのだろうか?
「あの、ルイスはいる?」
「ああ~、ルイス坊っちゃんは、ずっと行方不明です」
「行方不明……?」

 メイドはにこりと笑い、
「お座りください。お茶をお持ちしますので」
「え、ええ」
 レイチェルはうなずいて、ソファに腰掛ける。メイドはエプロンのリボンを揺らして歩いて行った。レイチェルはそれを見送って考える。
 まず……遺言状を探さなくては。父がそういったものを書いていたかは不明だが。

「お待たせいたしました」
 戻ってきたメイドが、レイチェルに紅茶を差し出す。
 レイチェルは紅茶を一口飲み、
「あなた、名前は?」
「リナと申します」
「リナ、ルイスが行方不明って言ってたけど……どういう意味?」
 リナは可愛らしく首をかしげた。

「私は最近入ったのでよく知らないのですが、ルイス様は七年前いなくなってから、ずっと戻られないのです」
「ずっと?」
「ええ、ですからミシェル様が跡を継がれて……」
「い、いまは、何年?」
 メイドが口にした数字に、レイチェルは息を飲んだ。
 それは、レイチェルがバビロンに飛ばされた年号の──およそ十七年後だったのだ。

 呆然としているレイチェルの背中に、声がかかった。
「あれ、お客さん?」
 振り向くと、茶髪の青年が立っていた。見覚えのある面差しに、レイチェルはぽかんとする。
「あなた──ミシェル!?」

 ミシェルは目を瞬いて、不思議そうに首をかしげる。
「きみ、どっかで見たことあるな」
「レイチェルよ、ほら、一度、あなたをブランコに乗せてあげたでしょ?」
 十四歳年齢が離れていた、はとこのミシェルだ。
「レイチェル?」
 彼はこちらへ来て、じーっとレイチェルを見た。
「確かに似てるなあ……けど、レイチェルは行方不明だし、きみは若すぎるよ」

 バビロンとロンドンでは時間の流れが違うのだろうか。レイチェルは事情を説明しようとして、口ごもった。バビロンに行ってて、今戻ってきたところなの──なんて、誰が信じるだろうか。きっと、頭がおかしいと思われて終わりだ。
 黙り込んだレイチェルを見て、ミシェルがあっ、と声をあげた。
「わかった! きみはレイチェルの娘だね?」
「え?」

 ミシェルは生き生きと言葉をつむぐ。
「レイチェルが生まれた家を見に来たんだ。だろ?」
 彼は自分なりの予測を嬉々として語る。確かにそれなら辻褄があう……だろうか?
「え、ええ、そうなの」
 レイチェルがうなずくと、ミシェルがにこりと笑った。
「やっぱり。名前はなんていうの?」
「ええと、マリア」
 とっさに母の名前を言った。

 彼は案内するよ、と言ってレイチェルの手をひく。立ち上がってみたら、ミシェルはレイチェルよりずっと背が伸びていた。手足も長くて、背中も広い。

 十七年前はあんなに小さかったのに、立派になって……レイチェルが内心しみじみしていたら、ミシェルが顔を覗き込んで来た。
「マリア?」
「な、なに?」
「なんだかボーッとしてるから」
「ごめんなさい、なんでもないの」

 ミシェルはレイチェルの手を引いて、屋敷中を歩いた。レイチェルにとっては勝手しったる我が家だが、ミシェルは初めて来訪した客にするように案内する。
「ここがレイチェルの部屋だったらしいよ」
 ミシェルはそう言って扉を開けた。レイチェルは自室を見渡し、懐かしさにため息をつく。机もテーブルもそのままだ。ベッドの脇に、赤いトランクが置かれている。

「あ、これ……」
 レイチェルはトランクを手にし、なつかしい、とつぶやいた。
「え?」
「あ、な、なんでもないの」
「なんでも、レイチェルはそのトランクだけを残して失踪したそうだよ」
 うーん、謎だよね、とミシェルはつぶやく。

「それからすぐ、ルイスも消えたっていうし……この家は中々曰く付きなんだよ」
「そう、ね」
 レイチェルはトランクの表面をそっと撫でた。十七年放置されていたせいか、ほこりをかぶっている。

 ミシェルはじ、とレイチェルを見て、
「しかし、本当にレイチェルに似てるね」
 だって本人だから。レイチェルはそう言うのをこらえ、ミシェルに笑顔を向けた。
「ミシェル、案内してくれてありがとう。ちょっとだけ、この部屋にいてもいいかしら」
「え? もういいの?」
「ええ」

 じゃあ、僕は下にいるから。ミシェルはそう言って部屋を出て行った。レイチェルはドアが閉まったのを見て、トランクをそっと開ける。中には衣類や日用品、それから両親がくれた誕生日プレゼントがあった。
 レイチェルは箱を取り出し、膝の上に置いた。ドキドキしながら、リボンを解く。
 しゅるりと解かれたリボンが、床に落ちて丸くたわんだ。

 包みを開き、箱の蓋を開ける。中に入っていたのは、ピアノの形をしたオルゴールだった。そっと撫でて、微笑む。
「かわいい」
 レイチェルはねじをまいて、曲を奏でる。穏やかで美しいのに、どこか物悲しいメロディー。ショパンの、「Tristesse別れの曲」だ。十七年たっても、オルゴールは錆びていなかった。
 ──これを買いに行って、両親は事故にあったのだ。いや、ルイスに殺されたのだ──。

 胸が苦しくなって、レイチェルはぎゅ、と目を瞑る。ぱた、と涙が落ち、オルゴールに当たって跳ねた。
「あ」
 レイチェルは、慌ててハンカチでオルゴールをふく。
 コンコン、とノックの音がした。
「マリア?」
 ガチャ、とドアが開き、ミシェルが顔を出す。
「よかったら夕飯を食べ……どうした!?」

 泣いているレイチェルを見て駆け寄ってくる。彼はせわしなく手を動かしながら、おろおろとこちらを見下ろす。
「どこか痛いの?」

 なんだか、仕草がバラムに似てる。そう思ったらまた涙が出て、レイチェルは顔を覆った。
 大きな手のひらが、そろそろとレイチェルの背中を撫でる。
 なかないで、と言いながら、ミシェルはそっとレイチェルに寄り添った。
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