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呼声
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自室に戻ったレイチェルは、ベッドに腰かけて、オルゴールを手に取った。ねじを巻いて、チェストに置く。ピアノ型のオルゴールが「Tristesseを奏でだした。
レイチェルは膝を抱え、曲に耳を澄ました。……家庭教師にピアノを習っていた時、この曲がなかなか弾けなくて、難儀したのだった。誰でも知っている柔らかな旋律を口ずさむ。
――楽譜をなぞるだけではダメなんです。
神経質そうな家庭教師 ガヴァネス》は、レイチェルに向かってそう言った。心を込めて弾かなければ、だれの心も打つことはできないと。
つっかえてばかりいるレイチェルの下手くそなピアノを、父と母は最期まで辛抱強く聞いてくれた。
結局、上手に弾けるようにはならなかったのだ。もっと練習して、うまく弾けるようにしておけばよかった。
もう二度と、両親にピアノを聞かせることができないと知っていたら。そんなこと考えても、仕方がないんだけど。
ねじが止まり、奏でられていた曲がふっ、と止む。
レイチェルはベッドから立ち上がり、ふらりと部屋を出た。
廊下を歩いていき、階段を下りる。ちょうど、洗濯籠を抱えたモリーが通りかかった。レイチェルのほうを見あげ、笑みを浮かべる。
「あら、どうかされましたか」
「あの……ピアノを弾きたいんだけど」
モリーは目を瞬いた。
「駄目よね」
「いえ、ミシェル様に聞いてまいりますね」
彼女はそう言って、階段を上っていく。しばらくして、ミシェルと一緒に戻ってきた。
「マリア、ピアノを弾くんだって?」
「いえ、ちょっとだけ。下手なの」
「聞かせてよ。モリー、ピアノの鍵を開けて」
「はい」
モリーが鍵を取りに行っている間に、ミシェルは腕を組んでつぶやく。
「そういえば、レイチェルもピアノを弾いてたんだって」
「そ、うなの」
「ああ。でもあんまりうまくなかったらしい……あ、来た」
さあ、こっち。そう促され、レイチェルは歩き出す。内心では、身内でもひいきできないほどに下手だったのか、と落ち込む。
ピアノは客間の端にあった。モリーがカギを開けるのを見ながら、ミシェルが笑う。
「調律してないからひどい音だろうね」
「そうね……妹さんは、ピアノは弾かなかったの?」
「ああ、あいつは音楽センスゼロで、ダンスのたびに相手の足を踏みつけまくってたからな。足を踏まれるのに耐え抜いた男とめでたく結婚したけど、今思うと彼ってマゾなのかなあ」
モリーはピアノの蓋をあけながら、
「ユーリス様はお心が広くてらっしゃるのですよ。淑女に足を踏まれたくらいでめげるようでは紳士失格でございます」
「いや、淑女はふつう足踏まないだろ」
レイチェルは、少し黄ばんだ鍵盤を見つめた。ミシェルが横から、
「ああ、ほっとくとこうなるんだ」
「こういう管理は旦那様のお仕事ですが」
「まあ、弾けないことはないって。コーボーは筆を選ばないっていうしな」
モリーが怪訝な顔をした。
「コーボーって誰です?」
「中国の有名な書家だよ。レイチェル、どうぞ」
促され、レイチェルはピアノの前に座った。鍵盤に手を置き、音を奏でだす。意外にも、けっこう楽譜を覚えていた。
ミシェルは関心したように、
「上手じゃないか。この曲、なんだっけ」
「ショパンの『Tristesse』でございますよ。ミシェル様ってば」
「有名な曲?」
「それはもう」
背後でとぼけたやりとりとする二人の声を、レイチェルはぼんやりと聞いた。
――レイチェル。
バアルの声が聞こえた気がして、はっと手を止める。
「マリア? どうしたの?」
レイチェルは立ち上がり、あたりを見回した。
「バアル?」
ミシェルがこっそりモリーに尋ねている。
「バアルって誰? 作曲家の名前?」
「さあ……聞いたことがございませんが」
気のせいか。こんなところで、バアルの声が聞こえるわけがない……レイチェルが座りなおそうとしたとき、明り取り用の大きな窓の外に、さっと黒い影が走った気がした。
「!」
レイチェルは目を見開いて、そちらへ走り寄る。鍵を開けて、窓を押し開いた。影は庭の草木の間を、素早く駆けていく。
「待って!」
レイチェル、と背後から呼び止める声がしたが、レイチェルは構わずに、影を追って走り出す。黒い影はキーズ家の裏手に回り込み、門を飛び越えて、外に出て行った。
レイチェルは門にかかっている鍵を開ける。焦っていたせいで、指を挟んでしまった。
「っ」
焼けるような痛みが走ったが、こらえて、門を押し開けた。
影は歩道を駆け抜け、路地に入っていく。
「待って」
レイチェルは必死に呼びかけながら、影を追った。はあはあと息をつきながら、路地の向こうを見通す。まっくらで、見えない。入っていくのが恐ろしかったが、レイチェルはごくりと唾をのみ、路地に足を踏み入れた。
歩いていくと、路地の隅に、影のようなものが揺らめいているのが見える。
「あの……あなた、バビロンにも、いた?」
その時、路地裏にある店の扉がいきなり開いた。ヴェールを被ったきわどい格好の女が出てきて、こちらを見る。同時に、影が霧散した。
「あんた、客?」
女からじろじろ見られて、レイチェルは身体を縮こめる。
「いえ、あの」
「ちょうど暇だったんだ。安くしとくから入ってはいって」
レイチェルは腕をぐいぐい引っ張られ、つんのめった。
「待ってください、店って、なんの!?」
「占いだよ。若いんだからあるでしょ、恋の悩みとか」
恋? バアルの顔が思い浮かんで、レイチェルはかあっと赤くなった。
「あっ、赤くなった~かわいい~」
「お、お金がないので、また今度」
「お金なんて後でいいって」
女はレイチェルの腕をつかんだまま、店の中に入る。店の中にはテーブルがあり、水盆が乗っていた。
「そっち座って」
テーブルをはさんだ向こうがわを指さされ、レイチェルは腰を据える。女はテーブルに肘をついて、身を乗り出す。笑うと、唇から八重歯が覗いた。乗り出したせいで豊かな胸元が強調されて、レイチェルは目のやり場に困る。
「私は占い師のグレモリー。あんたは?」
「レイチェルです」
「で? どんな悩み?」
「あの……遠くにいる人たちが、元気かどうか」
「おっけー。これに名前書いて」
レイチェルは渡された紙に「バアル」「バラム」とそれぞれ書いた。女は紙をちぎって、水盆にぱらぱらと撒いた。そうして手をかざし、
「この者たちを探せ」
すると、紙がぐるぐる水盆の中を回り始めた。
「!」
レイチェルの反応を見て、グレモリーはにや、と笑う。そのうち、紙がすうっと水に溶けて、ゆらゆらと揺れ始めた。絵の具でも流したかのように、色が混ざり合っていく。やがて、水面に像が映り込んだ。
「あ、映ったよ」
レイチェルは水盆を覗き込み、はっとした。バアルとバラムが映り込んでいる。女は水盆をのぞき込み、
「やだ、いい男……って悪魔じゃん!」
ばっ、とこちらを見た。
「あんた、悪魔と付き合ってんの?」
「付き合ってるわけじゃないです」
レイチェルは疑問に思って、女に目をやる。
「なんで悪魔だってわかったんですか……?」
「だって私もそうだし」
女はベールをとった。とがった耳があらわになって、レイチェルはあっ、と声を上げる。
「なんで悪魔が」
「結構いるのよ、こっちの世界で商売する悪魔」
彼女はそう言って、ベールをばさばさ振る。
「やめたほうがいいよー。悪魔ってさー人間のこととか基本利用してポイだしー」
「バアルはそんなことしません」
「あ、それ危険だよね。彼だけはそんなことしないの~とかって。そういう考えって、超危険」
レイチェルはぎゅっと拳を握り絞めた。なんにせよ、バアルにはもう会えないのだ。
「お金は、後から持ってきます」
踵を返しかけたレイチェルに、グレモリーは声をかけて来た。
「お金じゃなくてもいいよ」
「でも」
「何か大事なものをちょうだい。他では替えのきかないもの」
「……探してみます」
レイチェルはそう言って、占いの館を出た。
キーズ家の屋敷へ戻ると、裏門のところにミシェルが立っているのが見えた。レイチェルが近づいていくと、彼はぱっ、と顔をあげた。
「レイチェル!」
いったいどうしたの、と尋ねてくる。
「あの……声が聞こえたの」
「声?」
「知ってる人の、声」
ミシェルは怪訝な目でレイチェルを見て、ふ、と笑った。
「レイチェル、君、寝ぼけてるの? あんなに上手にピアノを弾いていたのに」
「……そうかもしれないわ」
レイチェルはそう呟いて、ミシェルと共に裏門を潜った。
──忘れなきゃ。彼とはもう会えない。
その晩、レイチェルはバラムからもらった帽子を抱きしめて眠った。
これは夢だ、とわかる夢を時々見る。レイチェルがその晩見たのも、そんな夢だった。天高くそびえるバベルの塔。それが、音を立てて崩壊する──。崩壊した塔の下に、バアルとバラムが下敷きになっていた。
レイチェルははっ、と目を開いた。その瞬間、涙が零れおちる。朝陽が、彼女の金髪に降り注いでいる。
起き上がり、額に触れたら、ひどい汗をかいていた。どくんどくんと、心臓が嫌な音を立てている。
「……っ」
レイチェルは汗をぬぐい、ぎゅっ、と寝巻きの胸元を握りしめた。
どうしてこんな夢。昨日、二人は無事だって確認したはずなのに。起き上がり、着替えてから階下へと降りていく。食堂に向かうと、ミシェルがすでに朝食の席についていた。
こちらを見て笑みを浮かべる。
「やあ、おはよう、レイチェル」
「おはようミシェル」
レイチェルはそう言って、彼の向かいに座った。ミシェルは新聞をがさがさ開いている。モリーがやってきて、呆れた声を出した。
「ミシェルさま、また新聞をお読みになりながら食事をされているんですか」
「いいじゃないか、べつに」
「お客様がいらっしゃるんですよ」
「マリアは気にしないよ、モリーみたいにケンケンしてないし」
「ケンケン? ケンケンってなんですか、ジャンケンの仲間ですか」
「そこに食いつかなくていいよ」
レイチェルは二人のやりとりに苦笑しつつ、ミシェルが見ていた新聞に目をやった。トップ記事には、南京条約の締結について見出しが出ている。その隣の小さな記事に、「ロンドン塔に謎の光が出現?」と書かれていた。
レイチェルは、記事に載っている白黒写真に目を奪われた。ロンドン塔の天守閣に、光の柱が映し出されている。バベルの塔から伸びていた光によく似ていた。
「──それ……」
ミシェルはがさりと新聞を鳴らし、一面を見て、ああ、と漏らした。
「これね。昨日からロンドン塔に光の柱が注いでるんだって。一部の人間が、神のご降臨だとか地球外生命体だとかなんとか騒いでるらしい。こないだ火事があったし、なにかといわくつきだよねえ」
「行ってみた?」
「行かないよ。僕はオカルトに興味ないんだ」
レイチェルはそう、と相槌をうち、カリカリのトーストを齧った。
レイチェルは膝を抱え、曲に耳を澄ました。……家庭教師にピアノを習っていた時、この曲がなかなか弾けなくて、難儀したのだった。誰でも知っている柔らかな旋律を口ずさむ。
――楽譜をなぞるだけではダメなんです。
神経質そうな家庭教師 ガヴァネス》は、レイチェルに向かってそう言った。心を込めて弾かなければ、だれの心も打つことはできないと。
つっかえてばかりいるレイチェルの下手くそなピアノを、父と母は最期まで辛抱強く聞いてくれた。
結局、上手に弾けるようにはならなかったのだ。もっと練習して、うまく弾けるようにしておけばよかった。
もう二度と、両親にピアノを聞かせることができないと知っていたら。そんなこと考えても、仕方がないんだけど。
ねじが止まり、奏でられていた曲がふっ、と止む。
レイチェルはベッドから立ち上がり、ふらりと部屋を出た。
廊下を歩いていき、階段を下りる。ちょうど、洗濯籠を抱えたモリーが通りかかった。レイチェルのほうを見あげ、笑みを浮かべる。
「あら、どうかされましたか」
「あの……ピアノを弾きたいんだけど」
モリーは目を瞬いた。
「駄目よね」
「いえ、ミシェル様に聞いてまいりますね」
彼女はそう言って、階段を上っていく。しばらくして、ミシェルと一緒に戻ってきた。
「マリア、ピアノを弾くんだって?」
「いえ、ちょっとだけ。下手なの」
「聞かせてよ。モリー、ピアノの鍵を開けて」
「はい」
モリーが鍵を取りに行っている間に、ミシェルは腕を組んでつぶやく。
「そういえば、レイチェルもピアノを弾いてたんだって」
「そ、うなの」
「ああ。でもあんまりうまくなかったらしい……あ、来た」
さあ、こっち。そう促され、レイチェルは歩き出す。内心では、身内でもひいきできないほどに下手だったのか、と落ち込む。
ピアノは客間の端にあった。モリーがカギを開けるのを見ながら、ミシェルが笑う。
「調律してないからひどい音だろうね」
「そうね……妹さんは、ピアノは弾かなかったの?」
「ああ、あいつは音楽センスゼロで、ダンスのたびに相手の足を踏みつけまくってたからな。足を踏まれるのに耐え抜いた男とめでたく結婚したけど、今思うと彼ってマゾなのかなあ」
モリーはピアノの蓋をあけながら、
「ユーリス様はお心が広くてらっしゃるのですよ。淑女に足を踏まれたくらいでめげるようでは紳士失格でございます」
「いや、淑女はふつう足踏まないだろ」
レイチェルは、少し黄ばんだ鍵盤を見つめた。ミシェルが横から、
「ああ、ほっとくとこうなるんだ」
「こういう管理は旦那様のお仕事ですが」
「まあ、弾けないことはないって。コーボーは筆を選ばないっていうしな」
モリーが怪訝な顔をした。
「コーボーって誰です?」
「中国の有名な書家だよ。レイチェル、どうぞ」
促され、レイチェルはピアノの前に座った。鍵盤に手を置き、音を奏でだす。意外にも、けっこう楽譜を覚えていた。
ミシェルは関心したように、
「上手じゃないか。この曲、なんだっけ」
「ショパンの『Tristesse』でございますよ。ミシェル様ってば」
「有名な曲?」
「それはもう」
背後でとぼけたやりとりとする二人の声を、レイチェルはぼんやりと聞いた。
――レイチェル。
バアルの声が聞こえた気がして、はっと手を止める。
「マリア? どうしたの?」
レイチェルは立ち上がり、あたりを見回した。
「バアル?」
ミシェルがこっそりモリーに尋ねている。
「バアルって誰? 作曲家の名前?」
「さあ……聞いたことがございませんが」
気のせいか。こんなところで、バアルの声が聞こえるわけがない……レイチェルが座りなおそうとしたとき、明り取り用の大きな窓の外に、さっと黒い影が走った気がした。
「!」
レイチェルは目を見開いて、そちらへ走り寄る。鍵を開けて、窓を押し開いた。影は庭の草木の間を、素早く駆けていく。
「待って!」
レイチェル、と背後から呼び止める声がしたが、レイチェルは構わずに、影を追って走り出す。黒い影はキーズ家の裏手に回り込み、門を飛び越えて、外に出て行った。
レイチェルは門にかかっている鍵を開ける。焦っていたせいで、指を挟んでしまった。
「っ」
焼けるような痛みが走ったが、こらえて、門を押し開けた。
影は歩道を駆け抜け、路地に入っていく。
「待って」
レイチェルは必死に呼びかけながら、影を追った。はあはあと息をつきながら、路地の向こうを見通す。まっくらで、見えない。入っていくのが恐ろしかったが、レイチェルはごくりと唾をのみ、路地に足を踏み入れた。
歩いていくと、路地の隅に、影のようなものが揺らめいているのが見える。
「あの……あなた、バビロンにも、いた?」
その時、路地裏にある店の扉がいきなり開いた。ヴェールを被ったきわどい格好の女が出てきて、こちらを見る。同時に、影が霧散した。
「あんた、客?」
女からじろじろ見られて、レイチェルは身体を縮こめる。
「いえ、あの」
「ちょうど暇だったんだ。安くしとくから入ってはいって」
レイチェルは腕をぐいぐい引っ張られ、つんのめった。
「待ってください、店って、なんの!?」
「占いだよ。若いんだからあるでしょ、恋の悩みとか」
恋? バアルの顔が思い浮かんで、レイチェルはかあっと赤くなった。
「あっ、赤くなった~かわいい~」
「お、お金がないので、また今度」
「お金なんて後でいいって」
女はレイチェルの腕をつかんだまま、店の中に入る。店の中にはテーブルがあり、水盆が乗っていた。
「そっち座って」
テーブルをはさんだ向こうがわを指さされ、レイチェルは腰を据える。女はテーブルに肘をついて、身を乗り出す。笑うと、唇から八重歯が覗いた。乗り出したせいで豊かな胸元が強調されて、レイチェルは目のやり場に困る。
「私は占い師のグレモリー。あんたは?」
「レイチェルです」
「で? どんな悩み?」
「あの……遠くにいる人たちが、元気かどうか」
「おっけー。これに名前書いて」
レイチェルは渡された紙に「バアル」「バラム」とそれぞれ書いた。女は紙をちぎって、水盆にぱらぱらと撒いた。そうして手をかざし、
「この者たちを探せ」
すると、紙がぐるぐる水盆の中を回り始めた。
「!」
レイチェルの反応を見て、グレモリーはにや、と笑う。そのうち、紙がすうっと水に溶けて、ゆらゆらと揺れ始めた。絵の具でも流したかのように、色が混ざり合っていく。やがて、水面に像が映り込んだ。
「あ、映ったよ」
レイチェルは水盆を覗き込み、はっとした。バアルとバラムが映り込んでいる。女は水盆をのぞき込み、
「やだ、いい男……って悪魔じゃん!」
ばっ、とこちらを見た。
「あんた、悪魔と付き合ってんの?」
「付き合ってるわけじゃないです」
レイチェルは疑問に思って、女に目をやる。
「なんで悪魔だってわかったんですか……?」
「だって私もそうだし」
女はベールをとった。とがった耳があらわになって、レイチェルはあっ、と声を上げる。
「なんで悪魔が」
「結構いるのよ、こっちの世界で商売する悪魔」
彼女はそう言って、ベールをばさばさ振る。
「やめたほうがいいよー。悪魔ってさー人間のこととか基本利用してポイだしー」
「バアルはそんなことしません」
「あ、それ危険だよね。彼だけはそんなことしないの~とかって。そういう考えって、超危険」
レイチェルはぎゅっと拳を握り絞めた。なんにせよ、バアルにはもう会えないのだ。
「お金は、後から持ってきます」
踵を返しかけたレイチェルに、グレモリーは声をかけて来た。
「お金じゃなくてもいいよ」
「でも」
「何か大事なものをちょうだい。他では替えのきかないもの」
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レイチェルはそう言って、占いの館を出た。
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「レイチェル!」
いったいどうしたの、と尋ねてくる。
「あの……声が聞こえたの」
「声?」
「知ってる人の、声」
ミシェルは怪訝な目でレイチェルを見て、ふ、と笑った。
「レイチェル、君、寝ぼけてるの? あんなに上手にピアノを弾いていたのに」
「……そうかもしれないわ」
レイチェルはそう呟いて、ミシェルと共に裏門を潜った。
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これは夢だ、とわかる夢を時々見る。レイチェルがその晩見たのも、そんな夢だった。天高くそびえるバベルの塔。それが、音を立てて崩壊する──。崩壊した塔の下に、バアルとバラムが下敷きになっていた。
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起き上がり、額に触れたら、ひどい汗をかいていた。どくんどくんと、心臓が嫌な音を立てている。
「……っ」
レイチェルは汗をぬぐい、ぎゅっ、と寝巻きの胸元を握りしめた。
どうしてこんな夢。昨日、二人は無事だって確認したはずなのに。起き上がり、着替えてから階下へと降りていく。食堂に向かうと、ミシェルがすでに朝食の席についていた。
こちらを見て笑みを浮かべる。
「やあ、おはよう、レイチェル」
「おはようミシェル」
レイチェルはそう言って、彼の向かいに座った。ミシェルは新聞をがさがさ開いている。モリーがやってきて、呆れた声を出した。
「ミシェルさま、また新聞をお読みになりながら食事をされているんですか」
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レイチェルは二人のやりとりに苦笑しつつ、ミシェルが見ていた新聞に目をやった。トップ記事には、南京条約の締結について見出しが出ている。その隣の小さな記事に、「ロンドン塔に謎の光が出現?」と書かれていた。
レイチェルは、記事に載っている白黒写真に目を奪われた。ロンドン塔の天守閣に、光の柱が映し出されている。バベルの塔から伸びていた光によく似ていた。
「──それ……」
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「これね。昨日からロンドン塔に光の柱が注いでるんだって。一部の人間が、神のご降臨だとか地球外生命体だとかなんとか騒いでるらしい。こないだ火事があったし、なにかといわくつきだよねえ」
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