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近づきたいとは言ってない
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神領が俺たちを連れて行ったのは、レトロな雰囲気の喫茶店だった。メニューも手書きで、柱時計があったりする。俺が店内をキョロキョロ見回していたら、
「蕎麦屋を改築して、喫茶店にしたんだってさ」
「へえ」
どうりで、奥には座敷まである。初めて来る店だったが、落ち着く雰囲気だ。
「この時間、飲み物を頼むとおやつがつくんだよ」
神領はそう言って、なんにする? とメニューを開いた。俺はコーヒー、恵は紅茶、神領は抹茶を頼む。
注文を終えた神領は水を飲み、
「はあ、生き返るなあ」
恵と俺の視線を受けて、首をかしげた。
「ん? なに?」
「言っちゃなんだけど……お前みたいなまともなやつが、よくあんな奴の側にいて平気だな」
「まあ、確かに俺は久我に比べたら平凡だね」
あっさりと言い、神領はおしぼりで手を拭く。俺は尋ねた。
「SP、って、お金もらってるの?」
「ああ、うん。久我個人に雇われてる。俺、合気道やっててね」
SPといっても、ただの高校生だから。神領はそう言った。
「最初は無給だったけど、あいつが関係をはっきりさせるために払うって言って」
「関係?」
「つまり、俺は友達じゃないって線引き」
その言葉に、はっとする。神領は久我の友達じゃないし、久我には友達はいない──。この前もそう言っていた。
「親があいつの運転手だからね。友達にはなり得ないよね」
「そんなこと……」
「久我はそう思ってるし、まあそうかなって俺も思う」
「神領は、久我のことどう思ってるんだ?」
俺が尋ねると、神領は首をかしげる。
「うーん……昔は嫌いだったな」
「昔から知り合いなんだ」と恵が言う。
「うん、小学生かな、初めて会ったのは」
「俺たちと同じだな」
恵を見ると、微笑みが返ってきた。つまり、神領と久我も幼なじみなのだ。なのに、この違いはなんなのだろう。そう思った次の瞬間、神領がとんでもないことを言い出した。
「小学一年の時久我が誘拐されて、それ以来の付き合い」
誘拐? 神領の思わぬ言葉に、俺は息を飲む。
「久我はご存知の通り、議員の息子だ。送り迎えは当然車で、自宅は警備会社に守られてる。狙う隙はないんだよ」
みんなそう思ってたんだ、当時は。
「じゃあ、なんで誘拐されたかっていうと」
神領が言葉を切る。飲み物とおやつが運ばれてきたのだ。
「パンケーキだ。美味しそうだなあ」
嬉しそうに言い、神領はナイフをケーキに立てる。俺は、話のつづきをじりじりと待つ。彼はケーキを四等分し、その内の一つを頬張った。
「その当時の運転手が、久我を攫ったんだ」
神領はケーキを咀嚼し、
「運転手は、久我を海辺の倉庫に連れて行き、三日間監禁した。ちゃんと食事を食べさせていたし、乱暴もしなかった」
淡々と話す。
「久我の父親は金を払うつもりだった。それだけなら、ただの誘拐──ただのってことはないけど──だったけど」
パンケーキを飲み込む音が響く。
「誘拐には、久我の母親が関与してた」
水を飲む音だけが、やけに大きく聞こえる。
「彼女は、金銭的な理由で運転手と結託してた」
久我の母親は、アルコール中毒で問題ばかり起こしていたのだそうだ。久我たちとは、別居状態だったらしい。
「母親はやけになっていたらしいね。銀行口座も押さえられていて、金が手に入らなきゃ、酒すら買えない状態だった」
暴力の跡はなかったんだ。だけど。
「久我は三日間ずっと、母親に罵倒されていたらしいよ。あんたに価値がないから金をよこさないんだって。挙句に、それを止めようとした運転手を」
二切れ目のパンケーキにフォークが刺さる。
「ぐさり。多分、精神的に不安定だったんだろうね」
俺は思わず喉を鳴らした。
「久我は母親が人を刺すところを見た。そして、死体とともに一晩を過ごした。あたりをふらついていた母親は、保護され、責任能力の鑑定を受け、精神病院に入った」
パンケーキを平らげて、神領は手をあわせる。
「ごちそうさま」
「……それで、新しい運転手が、神領のお父さんに?」
俺が尋ねると、神領は頷く。
「うん、そう。当然ながら面接は厳しかった。うちの父親は善良さだけでは誰にも負けなかったから、見事難関を突破。それに、久我と同じ年頃の俺が息子だったから」
多分、友情が芽生えて心の傷が癒えるとか思ったんじゃないかなあ。のんびり言い、抹茶を啜る。
「でも、残念ながらそうはならなかった。久我は俺を信用してなかったし、俺は久我が嫌いだった」
その言葉が意外で、俺は神領を見つめた。嫌いなのに、ずっと一緒にいられるだろうか? 彼は笑い、
「だって、久我は氷みたいなやつだったからね。冷たくて、長いことそばにはいられない」
久我は頭もいいし、運動もできた。ルックスがいいから、女の子にもモテた。だが久我は、近づいてくる誰のことも受け入れはしなかった。
一方的に好意を持ち続けるのは難しい。だからみんな久我から離れていくのだ、と神領は言った。
「子供心に、こいつとだけは友達になりたくないって思ってた」
一人きりで教室にいる、小さな久我を想像したら、なんだか胸が痛んだ。
「でも、SPになったのは、なんで?」
「うーん、なんでかなあ。響きがかっこいいから?」
それにさ、と続ける。
「運転手の息子だからねえ。久我には逆らえないよ」
コーヒー冷めるよ、と言われて、俺はカップに手をつける。確かに、もうぬるくなっていた。いつのまにか、結構な時間が経っていたのだ。同じく、紅茶に手を付けていなかった恵が言う。
「俺たちに、その話をしたのはなんで?」
「なんでかなあ。君たちは、いや、君は、久我に近づいてきてる」
そう言って、神領は俺を見る。
「そんな人間は、この十年いなかった」
十年。俺はその年月の長さに、息苦しくなる。恵が毒づいた。
「だから、ヒロにスケープゴートになれって? 冗談じゃない。心の傷? そんなもの、医者で治せばいい」
「まあ、そうだよね。理由があれば人を傷つけていいわけじゃない」
神領はそう言って、抹茶碗を置く。
「でも、何か一つ歯止めがあれば、いざという時、あいつは助かる。俺じゃあいつの緩衝材にはなれないんだよ」
どうしてかなあ、と神領は言う。
「あるんだよね、その人じゃなきゃダメ、ってことが」
俺はハッとした。その人じゃなきゃ、ダメなことがあるんだ──久我に、そう言ったのを思い出したのだ。神領はふう、と息をついて立ち上がる。
「じゃあ、俺は先に行くよ。おごろうか?」
恵は伝票を押さえる。
「自分の分は、自分で払う」
「はは」
恵にはねつけられた神領は、気に止めた様子もなく、五百円玉を置いて歩いていった。その姿を目で追いながら、恵はつぶやく。
「何が平凡だか。くえないやつ」
「十年は、長いよな」
俺がそう言ったら、恵が首を振った。
「ヒロ、確かに彼の過去は気の毒。でも、同情したって、ろくな目に合わない」
「同情なんかしてないよ。あいつは、やっぱり間違ってるし」
それに、俺があいつの緩衝材になれるなんて、とてもじゃないけど思えなかった。
その夜、雅美のことが気になったのもあるが、神領の話も影響し、俺は久我に電話をかけた。
しばらくコール音が響き、「なんだ」という声がした。久我だ。
「あ、俺」
「誰だおまえ」
「橘ヒロだよ……」
俺は、がくりと脱力した。電話越しだと、俺の声すらわからないようだ。これで近づいているなんて、神領の眼鏡の度は大丈夫だろうか。
「ああ、おまえか。何か用か?」
久我の声は寝起きなのか、なんだかぼんやりしていた。
「寝てたのか?」
「そうだ。用件をさっさと言え」
「あの子、どうなったかな、と思って」
「あの子? 雅美か。芳佳が家に連れて帰って、『三次元』と『二次元』の違いについて諭したらしい」
なんだそれ。用語だけ聞くと、数学の授業みたいだ。
「お、おう、そうか」
「それだけか? 切るぞ」
「あのさ」
「なんだ」
「おやすみ」
少しだけ間が空いた。もしかして久我は、おやすみって誰かに言ったことが、ほとんどないんじゃないかって思う。
「……ああ、おやすみ」
いつもより、ちょっとだけ柔らかい声に、どきりとした。
ぷつり、と通話が切れる。俺はスマホを机に置いて、ふう、と息をついた。
「優しい言い方、できるじゃん」
そうつぶやいて立ち上がり、カーテンを引こうとして、手を止める。
「あ、満月」
窓越しに、お札のすかしみたいな月が出ていた。天上天下唯我独尊の久我も、同じ空の下にいるんだよな。俺はそう思いながら、まんまるの月を見上げた。
「蕎麦屋を改築して、喫茶店にしたんだってさ」
「へえ」
どうりで、奥には座敷まである。初めて来る店だったが、落ち着く雰囲気だ。
「この時間、飲み物を頼むとおやつがつくんだよ」
神領はそう言って、なんにする? とメニューを開いた。俺はコーヒー、恵は紅茶、神領は抹茶を頼む。
注文を終えた神領は水を飲み、
「はあ、生き返るなあ」
恵と俺の視線を受けて、首をかしげた。
「ん? なに?」
「言っちゃなんだけど……お前みたいなまともなやつが、よくあんな奴の側にいて平気だな」
「まあ、確かに俺は久我に比べたら平凡だね」
あっさりと言い、神領はおしぼりで手を拭く。俺は尋ねた。
「SP、って、お金もらってるの?」
「ああ、うん。久我個人に雇われてる。俺、合気道やっててね」
SPといっても、ただの高校生だから。神領はそう言った。
「最初は無給だったけど、あいつが関係をはっきりさせるために払うって言って」
「関係?」
「つまり、俺は友達じゃないって線引き」
その言葉に、はっとする。神領は久我の友達じゃないし、久我には友達はいない──。この前もそう言っていた。
「親があいつの運転手だからね。友達にはなり得ないよね」
「そんなこと……」
「久我はそう思ってるし、まあそうかなって俺も思う」
「神領は、久我のことどう思ってるんだ?」
俺が尋ねると、神領は首をかしげる。
「うーん……昔は嫌いだったな」
「昔から知り合いなんだ」と恵が言う。
「うん、小学生かな、初めて会ったのは」
「俺たちと同じだな」
恵を見ると、微笑みが返ってきた。つまり、神領と久我も幼なじみなのだ。なのに、この違いはなんなのだろう。そう思った次の瞬間、神領がとんでもないことを言い出した。
「小学一年の時久我が誘拐されて、それ以来の付き合い」
誘拐? 神領の思わぬ言葉に、俺は息を飲む。
「久我はご存知の通り、議員の息子だ。送り迎えは当然車で、自宅は警備会社に守られてる。狙う隙はないんだよ」
みんなそう思ってたんだ、当時は。
「じゃあ、なんで誘拐されたかっていうと」
神領が言葉を切る。飲み物とおやつが運ばれてきたのだ。
「パンケーキだ。美味しそうだなあ」
嬉しそうに言い、神領はナイフをケーキに立てる。俺は、話のつづきをじりじりと待つ。彼はケーキを四等分し、その内の一つを頬張った。
「その当時の運転手が、久我を攫ったんだ」
神領はケーキを咀嚼し、
「運転手は、久我を海辺の倉庫に連れて行き、三日間監禁した。ちゃんと食事を食べさせていたし、乱暴もしなかった」
淡々と話す。
「久我の父親は金を払うつもりだった。それだけなら、ただの誘拐──ただのってことはないけど──だったけど」
パンケーキを飲み込む音が響く。
「誘拐には、久我の母親が関与してた」
水を飲む音だけが、やけに大きく聞こえる。
「彼女は、金銭的な理由で運転手と結託してた」
久我の母親は、アルコール中毒で問題ばかり起こしていたのだそうだ。久我たちとは、別居状態だったらしい。
「母親はやけになっていたらしいね。銀行口座も押さえられていて、金が手に入らなきゃ、酒すら買えない状態だった」
暴力の跡はなかったんだ。だけど。
「久我は三日間ずっと、母親に罵倒されていたらしいよ。あんたに価値がないから金をよこさないんだって。挙句に、それを止めようとした運転手を」
二切れ目のパンケーキにフォークが刺さる。
「ぐさり。多分、精神的に不安定だったんだろうね」
俺は思わず喉を鳴らした。
「久我は母親が人を刺すところを見た。そして、死体とともに一晩を過ごした。あたりをふらついていた母親は、保護され、責任能力の鑑定を受け、精神病院に入った」
パンケーキを平らげて、神領は手をあわせる。
「ごちそうさま」
「……それで、新しい運転手が、神領のお父さんに?」
俺が尋ねると、神領は頷く。
「うん、そう。当然ながら面接は厳しかった。うちの父親は善良さだけでは誰にも負けなかったから、見事難関を突破。それに、久我と同じ年頃の俺が息子だったから」
多分、友情が芽生えて心の傷が癒えるとか思ったんじゃないかなあ。のんびり言い、抹茶を啜る。
「でも、残念ながらそうはならなかった。久我は俺を信用してなかったし、俺は久我が嫌いだった」
その言葉が意外で、俺は神領を見つめた。嫌いなのに、ずっと一緒にいられるだろうか? 彼は笑い、
「だって、久我は氷みたいなやつだったからね。冷たくて、長いことそばにはいられない」
久我は頭もいいし、運動もできた。ルックスがいいから、女の子にもモテた。だが久我は、近づいてくる誰のことも受け入れはしなかった。
一方的に好意を持ち続けるのは難しい。だからみんな久我から離れていくのだ、と神領は言った。
「子供心に、こいつとだけは友達になりたくないって思ってた」
一人きりで教室にいる、小さな久我を想像したら、なんだか胸が痛んだ。
「でも、SPになったのは、なんで?」
「うーん、なんでかなあ。響きがかっこいいから?」
それにさ、と続ける。
「運転手の息子だからねえ。久我には逆らえないよ」
コーヒー冷めるよ、と言われて、俺はカップに手をつける。確かに、もうぬるくなっていた。いつのまにか、結構な時間が経っていたのだ。同じく、紅茶に手を付けていなかった恵が言う。
「俺たちに、その話をしたのはなんで?」
「なんでかなあ。君たちは、いや、君は、久我に近づいてきてる」
そう言って、神領は俺を見る。
「そんな人間は、この十年いなかった」
十年。俺はその年月の長さに、息苦しくなる。恵が毒づいた。
「だから、ヒロにスケープゴートになれって? 冗談じゃない。心の傷? そんなもの、医者で治せばいい」
「まあ、そうだよね。理由があれば人を傷つけていいわけじゃない」
神領はそう言って、抹茶碗を置く。
「でも、何か一つ歯止めがあれば、いざという時、あいつは助かる。俺じゃあいつの緩衝材にはなれないんだよ」
どうしてかなあ、と神領は言う。
「あるんだよね、その人じゃなきゃダメ、ってことが」
俺はハッとした。その人じゃなきゃ、ダメなことがあるんだ──久我に、そう言ったのを思い出したのだ。神領はふう、と息をついて立ち上がる。
「じゃあ、俺は先に行くよ。おごろうか?」
恵は伝票を押さえる。
「自分の分は、自分で払う」
「はは」
恵にはねつけられた神領は、気に止めた様子もなく、五百円玉を置いて歩いていった。その姿を目で追いながら、恵はつぶやく。
「何が平凡だか。くえないやつ」
「十年は、長いよな」
俺がそう言ったら、恵が首を振った。
「ヒロ、確かに彼の過去は気の毒。でも、同情したって、ろくな目に合わない」
「同情なんかしてないよ。あいつは、やっぱり間違ってるし」
それに、俺があいつの緩衝材になれるなんて、とてもじゃないけど思えなかった。
その夜、雅美のことが気になったのもあるが、神領の話も影響し、俺は久我に電話をかけた。
しばらくコール音が響き、「なんだ」という声がした。久我だ。
「あ、俺」
「誰だおまえ」
「橘ヒロだよ……」
俺は、がくりと脱力した。電話越しだと、俺の声すらわからないようだ。これで近づいているなんて、神領の眼鏡の度は大丈夫だろうか。
「ああ、おまえか。何か用か?」
久我の声は寝起きなのか、なんだかぼんやりしていた。
「寝てたのか?」
「そうだ。用件をさっさと言え」
「あの子、どうなったかな、と思って」
「あの子? 雅美か。芳佳が家に連れて帰って、『三次元』と『二次元』の違いについて諭したらしい」
なんだそれ。用語だけ聞くと、数学の授業みたいだ。
「お、おう、そうか」
「それだけか? 切るぞ」
「あのさ」
「なんだ」
「おやすみ」
少しだけ間が空いた。もしかして久我は、おやすみって誰かに言ったことが、ほとんどないんじゃないかって思う。
「……ああ、おやすみ」
いつもより、ちょっとだけ柔らかい声に、どきりとした。
ぷつり、と通話が切れる。俺はスマホを机に置いて、ふう、と息をついた。
「優しい言い方、できるじゃん」
そうつぶやいて立ち上がり、カーテンを引こうとして、手を止める。
「あ、満月」
窓越しに、お札のすかしみたいな月が出ていた。天上天下唯我独尊の久我も、同じ空の下にいるんだよな。俺はそう思いながら、まんまるの月を見上げた。
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