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初帳─惨楽記─
噓霧寒のメランコリー
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──朝の5時。意識が朦朧とする中、煩いアラーム音で目を覚ました。まだ真っ暗な部屋で、枕元に在る一筋の光を閉じかけの視界で探す。堕落の時間がぶち壊れた原因。これを片手で消し、私はまた目蓋を閉じた。
──視界が真っ白になる。はっと気付いて目を開いた。部屋の中は明るく、朝だというのを認識する。壁の掛け時計を確認した──どうやら7時を回ったところらしい。そこで寝坊助は「またか」と思うのだった。これでは少し前の話と同じ。
とりあえず、私はベッドから降りた。寝癖でぐしゃぐしゃの髪の毛を軽くいじり、部屋の温度に身体を震わせる。
「さむい」
そう独り言のように口から出てしまった私は多少寝ぼけ眼の目をこすり、自室から出た。
洗面台につくと、正面の化け物を見て不快な気持ちのまま口をゆすぐ。それが終わると和室に向かい、入って手を合わせた。いつもどおり。
次はリビングに向かい、テーブルの上の食パンの袋を手に取った。2枚だけ取り出してオーブントースターに入れる。食パンを焼いている間に、冷蔵庫からハチミツの小瓶を取り出し、美味しくも不味くもないインスタントコーヒーを淹れた。いつもどおり。
視線を時計に移す──7時と15分を回ったところだ。ぼけっとしながら一口だけブラックコーヒーに口付けをすると、チンとトースターが鳴る。それに頭を小突かれたように席を立ち、食パンをお出迎え。
「いただきます」
息を吐くようにそう私は呟くと、ハチミツを塗りたくり食パンをかっ込んだ。
朝食を済ませると残りのコーヒーを一気にあおり、洗面所へ。服を脱いで風呂場に入り、シャワーを浴びる。浴び終えると洗面所で身体を拭きながら、その寒さに顔を歪ませた。
「さむい」
またそのように呟き、タオル生地のポンチョを着る。洗面台で見たくないものを見ながらドライヤーの線を入れ、中途半端な丈の髪を乾かした。いつもどおり。
身支度をして軽く髪の毛を整え、マフラーを巻いた。リビングの掛け時計に視線を移す──8時を回ったところだ。ちょうどいい。玄関で靴を履き、鍵を持って家を出る。家の鍵をかけ、いつものように階段を降りて愛車を引っ張り出した。
作業のようにいつもの路を走る。ペダルを漕げば漕ぐほど風が強く当たり、冷たくて寒い。寒くてたまらない。足が良く冷えた。どうしてスカートなんだろうと今更ながら思う。ハンドルに巻き付ける悴だ指は、何かで刺しているような痛みすら感じていた。
「さむい」
またそう呟き、苛立つ。そんなことでさえも苛立ち、乾いた唇を噛む。……否、苛立っているのはそんなことではないのだ。恐らくは──昨日のこと。しかし、それを寒さのせいにしたかった。ただそれだけなのである。
暫して、いつもどおり到着した。鞄の中からスマホを取り出し、時間を見る──8時と45分だ。かかった時間は早くも遅くもない。
愛車を押しつつ駐輪場を目指す。いつものように自分と同じような服装をした者たちが周りには集まっていた。また下らない一日が始まるのだ、と虚しくも思う。
……いつものように。
__________
「……さて、冬休みまであと一ヶ月を切ったからといって浮かれたりして事故でも起こさないように。気を引き締めて行けよ」
と、そんな可もなく不可もなく絶対に思ってもいないような話をする紫藤。紫藤のそこまで必要のない話が終えるとチャイムが鳴った。その合図で、私は面倒くさそうに鞄の中からいつものセットを出し、頬杖をつく。そして、左側に目をくれた──まあこんなにも陽は出ているのにどうして寒いものであろうか。
右側ではあちこちから「さみぃ」「だりぃ」と聞こえ、各々が下らないことを話していた。どうもまだ先のクリスマスの話まで、やれ恋人がどうとか恋愛がどうだのといつもどおり煩い。ましてや数人のあの女子らに至っては男子の目もはばからず、楽しそうに品の無い話までに移行させる始末である。阿呆なの?
そんなことをため息混じりに思いつつ、時計に目を配る──9時と10分。嗚呼、そろそろか。私は軽く欠伸をし、中途半端な丈の髪をいじる。
チャイムが鳴った。いいタイミングで室内のドアが開き、城郁が入る。いつもどおり、とても長くて少し癖のある髪の毛がふわふわと動いた。
城郁は眼鏡をかけ直すといつもどおり目の前に「山月記」と、まあ相変わらずの達筆で縦書きする。その書かれた内容を見て、私は少し口元を綻ばせた。……嫌いじゃない。
城郁が口を開いた。
「それでは──」
__________
さて、何時間が経ったであろうか。ちらっと室内の掛け時計に目を配る──11時と5分。もう一時間弱もすれば昼食だ。
必要なものを出し、溜息をつく。そして中途半端な丈の髪をいじると、何かを忘れているような感覚に陥った。はてさて、何だったかな……などと考えている中、向こうから何やら愚かな会話が聞こえて来た。
「だるくね?」
「だりぃ」
「確かにめんどくさいな。腹も減るのに何時間も拘束されてね」
「退室まわね? 今日は寒いし、もう無理だわ」
「それな」
「いいだろ、いつも言うけど俺たち金払ってるんだし。何しようが勝手だよね」
などと言い放ち、三人の男子はだらだらと退室する。勝手なわけないよ、阿呆なの? 特に椛野。椛野は理屈にもなっていない意味不明な事を、理屈のように話すのは相変わらずである。まあ良く話すいつもどおりの会話なので、さして思うことは何もないが。
彼らが退室してすぐあたりに井賀が入ってきた。また時計を確認する──11時と10分。まあそろそろか、と姿勢を正した。
チャイムが鳴る。その合図と共に井賀が口を開いた。
「ああ、まず冷蔵庫の中身調査のやつ、集めるぞ。」
──しまった。私は井賀の言葉で、別の事を思い出す。
「……お弁当、冷蔵庫に忘れた。」
__________
午後0時。私は徒歩で戻っている。
先程は仕方なく、近くのスーパーで菓子パンを2つ買った。あんパンとメロンパン……あまり好きじゃない。安くなっていたため買ったのである。今月は少し厳しい。
どうも先月から良くない事ばかりだ。運が悪いのか、私が悪いのか……まあ基本的には後者だろう。そして前者の場合もあるだろう。だが、不運とは別に天災の如く訪れるものもある。そういうものに限って、数は少なくとも事が大きい。
さて、そのようなことを意識するようになったのはいつからだろうか。事の大きさ小ささを重点に置かなければ、若しかすると去年からかもしれない。では2年前は? 5年前は? 10年前はどうだろうか……否、そこまで遡っても無意味だ。恐らく、そんな以前では自覚がない。私が考えるべき問題はいつから認識していたのか、というところからだろう。自分はよもや阿呆かと疑うくらいである。
そんな下らなく当たり前な自問自答を繰り返して、去年の出来事から振り返ろうとしていた矢先、気が付くと目的地に着いていた。じゃあいいかな、と一旦忘れることにする。
私はいつものバルコニー(自称)の飲食スペースで昼食をとることにした。もちろん先客はいない。
「いただきます」
……誰も聞くことはない。誰も知らない。そんな状況下の中、この言葉は自分にだけ良く聞こえていた。なんということもない、いつもどおりである。
あんパン、メロンパンの順に一気にたいらげ、水筒の水を続けてあおった。水が喉を通ると、昨日のこと──彼奴の顔が頭によぎる。苛立つ。苛立って拳を軽く握った。周りには誰もいないのだ、少しなら口に出してしまった方が楽だったのかもしれない。しかし、口に出したことでそれを認めるのが──私には怖かった。……かもしれない。
そんな事を思いつつ、気を紛らわせるために書き物の用事を始めた。……これでいい。これでいいのである。
虚しくも鳥は明るい音で鳴き、寒くも陽だけは輝いていた。
__________
あれから、一時間くらいが経過し、私は席で呉雅の話を聞きながらノートに書いていた。いつもどおりである。
……呉雅の話はとても長い。そもそも話すのが好きであり、特にギャグトークを好む。時には、話に熱中すると癖で身振り手振りを使ってくる……などと思いつつ、再び呉雅の話に耳を傾けた。
「──つまり、要は今解説した三角関数の三種類は……基本的かつ重要な考え方だからね。そう……サイコさん、と覚えんだよ! あっ、タが抜けてた。これじゃあダメじゃんダメダメ! 一つでもかけちゃダメです! ダメよバカーんあなたー……なんつってね!」
嗚呼……そして、話がとてもつまらない。どうしてだろうと思ってしまうくらいに本当につまらない。頑張ってくれているのは見ていてとても感じるのだが、恐ろしいほどにつまらない。悲しいことに呉雅渾身のギャグトークは毎回、誰一人として微笑すらしないのだ……それが彼のキャラとして定着してしまっているのもあるが。
しかし、凄いのがこのスタイルをずっと保ち続けているということだ。若い頃からこのスタイルだったという噂である。恐らく笑ってくれることはないだろうが、それでも尚この信念を貫き通したのだろう。性格か、趣向か、或いは情熱か……何がそこまでも呉雅をつき動かしているのか全く検討もつかなかった。……否、性格かなあ。
私もそれくらい何かにこだわって、一つのことに打ち込めたらいいのだろうと深く思った。……さて、出来るだろうか。
そんな事を考えつつ、私は呉雅の話に耳を傾け、至極面倒くさそうに頬杖をついた。
__________
──チャイムが鳴る。さて、もう午後5時くらいだろう。夜ほどではないが辺りは暗くなってきており、一面が藍色の空だ。最近は段々と日没が早くなって来ている気がする。否、やはりそうでもないかもしれない。気のせいだろうか。まあ少なくとも、あの10月の時よりは早いだろう。などとふと思いつつ、私は靴を履き替えた。
全てここでの用事が終わった私は、鞄を背負い駐輪場へ。数ある自転車の中から自分の自転車を探したが……どうも見つからない。確かこの辺りに停めたはずなんだけどな、とボヤきつつ自分の記憶を辿ってみる。はて、今朝はどこに置いただろうか……などと思い出しつつ探していると、やっと発見した。つい、嗚呼もうなどと呟き愛車の元へ。どうも奥の方に置いてしまったらしいがあまり記憶に無い。まあ、気付けば随分忘れやすくなったものだと反省した。
私は自転車に鍵を刺し、後輪のスタンドにキックを見舞う。そしてサドルに跨がろうとした最中だった。──聞き覚えのある声を耳にする。私はその声で後ろを向くと、少し離れた所に彼奴がいた。恐らく自転車を取りに来たのだろう、駐輪場の前で友人を三、四人ほど引き連れて楽しそうに会話をしていた。……方庵、沼津付、椛野、あと一人は……誰だったか。まあそれよりも、あなたたち三人はサボって帰ったんじゃないの、と言いたい。
などと思っていると、こちらの視線に気付いたのか彼奴と目が合う。……私は瞬時に目を逸らした。流石に昨日の今日ではバツが悪い。背を向け、自転車を押し始めた。後ろからは彼らの会話が聞こえて来る。
「うぃー、ウエノン。どしたよ、あ? ……あの子か? お前ら知ってる?」
「しらねぇ」
「うちのやつじゃないか? 同じ。名前は覚えてないけど、ちょっと暗くて口数の少ないやつだよ。……あれ、確かウエノン前あいつと話してただろ? ということは、お前はあいつのことをよく理解しているはずだよね」
やはり椛野は頭がおかしい。
「マジかよ。どんな感じだった? やっぱり喋んねぇの?」
「しりてぇ」
「ここまで友人が聞いているんだ。だから、お前は答えるべきだよ。これは義務」
そんな下らないことを彼らが言っていると、彼奴がくすくすと笑う声が聞こえてくる。今度は彼が話し始めた。
「いやいや、良く知らないよ。」
「えっ、でも話ししたんじゃん? どんな様子だったのかくらい分かんだろ。」
「しりてぇ」
「嘘は良くないよウエノン。友人に隠し事は絶対に良くない。如何なる事柄でも、理由があっても話すべきだよ。それが出来ない奴は頭がおかしい、人間じゃない。これは義務、友人は絶対だよ」
椛野は少し黙っていてほしい。
「別に隠してないさ。ちょっと紫藤の頼まれ事で一緒になったから軽く挨拶しただけだよ」
彼はさらっと自然な口調でそう言ってのける。全く嘘偽りの雰囲気は微塵も感じられない。本当にそう思う。
──だが、はっきりと嘘をついた。
まあ、どうでも良い。私には関係ない。自転車をぐいぐい押していく。
「おい、あの子もう帰っちゃうぜ、いいん?」
「やべぇ」
「挨拶くらいはしたらどうかな? ……とは思ったけどこの場合は挨拶とかそんな礼儀正しいことは必要ないでしょ。あいつは恐らく気付いてないし。気付いていないからその必要はないよ。絶対にない。時間と労力の無駄だ。挨拶なんて合理的じゃないよね」
うん、そんなわけないよ。本当に椛野は頭が何故だかおかしい。それに頭良さそうに頭の悪いことを言うところも変だと思うよ。
しかし、そんな彼らの声も次第に小さくなる。早歩きしながら自転車に跨った。ペダルを踏み込む。
──そういえば、あの三人以外にいた彼奴のもう一人の友人は誰なんだろうか。見覚えがある気がしてきた。しかし、全く思い出せない。一言も喋らず、彼らと共にいただけだが……本当に誰だろうね。まあ、いいか。
私は、ペダルの踏み込みを強くした。
黙々と帰路を進む。何事もなく、特に何もなく。
その最中、辺りは真っ暗だった。住宅街の街灯で辛うじて見えるが、もう夜の様な空模様である。……暗闇の中で、ふと彼奴の言葉を思い出す。あの時、私の中で何かが弄ばれ、踏みにじられた気分だった。とてつもない屈辱だ。酷くからかわれ、馬鹿にされた。……お前、どうしてそんなことを
「言ったの?」
……そう、私は震える声で呟いた。放った白い霧のような熱が宙に舞い、空に溶けるように打ち消される。自転車を漕ぐ音と共に、かき消される。とてつもなく虚しい。虚しくてたまらない。
そして、容赦なく凍てつくような寒さが私の身体を斬りつける。痛い。……そして、痛いのは寒さのせいだけではないことも分かっていた。脳裏で谺響する嘲笑うような彼奴の声が聞こえる……この胸に灼くような痛みは、外傷的なものではないとはっきり理解できた。気持ちが悪い。
そんな事を考えつつ、自転車のハンドルをぎゅっと握る。私はとりわけ女らしくはないが、今の自分は失恋でもしたような生娘の如く女々しいと感じた。もっとも、今回のこれは失恋などといったものとは全く別のものなのだが……事の大きさ、感覚と言えば近いのかもしれない。──ハンドルを握る手を強めれば強める程、胸の痛みも身体の痛みも強まる。
私は、そんな怒りを虚しさに変えるようにハンドルを思いっきり叩いた。
__________
「──ただいま」
勿論、声は返ってこない。荷物を下ろすと部屋の中で服を脱ぎ、部屋着に着替える。リビングの掛け時計に目をやる──6時前、といったところだ。
私はソファーに座り、ふうと一息つく……いつもどおり。
冷蔵庫を開けた。今日持っていくはずだった弁当を取り出し、電子レンジへ。温めている間にインスタントのブラックコーヒーを淹れる。冷え切った唇をコーヒーに付けた……今日は何故だか、いつもより一際苦く感じる。
夕食の弁当を食べ終えた。スマホを弄り、画面の時計を確認──何だ、まだ6時半にもなってないんだね。
私は、お腹休めに外政関連のネットニュースを観ることにした。アメリカとロシアの貿易に関する首脳会談の記事。内容は全く嫌いではないはずだが、いつもと違って頭に入らない。その理由を認識したくないのでスマホの画面を切って、シャワーを浴びに行った。
蛇口をひねり、身体にお湯を当てる。まあ、少しは落ち着いた。浴びる時間としてはいつもより少し早いが、少しサッパリして心休めたかったのである。
気持ちが穏やかになってきたところで、身体を洗いつつ考え事にふけった。……そういえば、明日は休日である。はて、何故だか忘れていた。特に休日に対していつもの私のように趣味の予定や楽しみもないが、基本平日は出たくもない足を運び、拘束されるのを考えれば自由に一日を過ごせるのは嬉しいものである。しかし、何をしようか……書くか、読むか、寝るか。嗚呼、私がするのはそれくらいだろう。……何か打ち込めることでもあればいいんだけどなあ。
そんな事を考えつつ、余計なことを考えないようにしていた。
風呂場から出ると、いつもどおりタオル生地のポンチョを着て見たくも無いものを見ながら髪を乾かす。
終えると部屋に行き、寝間着に着替えた。ベッドに腰掛け、倒れ込む。ぼーっと天井を見つめ、目を瞑った。……拳を強く握り締める。自分を上手く誤魔化してはいるが、やはり苛立っているのは分かっていた。また、あの忌々しい彼奴の顔が脳裏に浮かび、嘲笑う声が聞こえてくる……昨日のことも、今日のことも。何度も思うが、まあ酷くからかわれたものだ。昨日のことを思えば思うほどに、屈辱だ。気持ちが悪い。騙されたようで、でもそれは違くて。唯、唯、怒れば怒るほど虚しく思えてくる。
第一、どうして昨日はあんなことを言い、今日は全くこうも違うのだろうか。──あの時、私に見せた顔は嘘の顔なの? 誰も教えてくれない。彼奴以外、誰も答えは知らない。考えれば考えるほどに虚しい。だが、その事だけが腫瘍の如く頭にへばりついて離れてくれなかった。
思い返せば、彼奴の言動というものはどうも掴みどころがなかったのである。まあ、私がああいった人種を知らないのかもしれないが。それにしても掴みどころがなかった。彼奴の特定の言動は何を意味しているのか分からず、何を考えているのかも分からず、適当なのかもしれず、計算し尽くしているのかも知れず、といったそんな奴である。理解したくとも理解をさせない、そんな雰囲気を放っていた。──嗚呼、そうか。今日も彼奴も昨日の彼奴も、いつもと何も変わらぬ事はなかったのだ。腹では何を考えてるのか分からない不気味さを感じる。……はあ、最悪だなあ。
彼奴の周りの人間は気付いていないが、私は奴の不気味さや禍々しさは感じていた。その為、奴と関わった時点でこういう目に合うと本能的に感づいてはいただろう。そう、奴は何も考えていないし何も思っていないのだ。だからこそ関わるべきではなかった。なのに……どうしてこうなってしまったのか。嗚呼……最近は特にだ。奴の持つもうひとつの面が、その意識を中和させていた。……最悪。こんなことがあるから他人と関わらない方が良いのだ。これではまた同じことだ。しかし、もう起こってしまったことは仕方がない、また意識を遠ざければ良い。そう、また遠ざければ……考えなければ良いのだ。私は目を瞑りながら必死で何も考えないようにする。頭から何もかも消そうと、何も考えないことを意識した。無になろうと、空っぽにしようと……だんだんと意識が暗闇の中へ落ちていく。少しずつ、少しずつ──
『──無理だよ、お前には』
──な。嗚呼……なんだ、寝ちゃってたんだ……。
私は上体を起こして自室の掛け時計を見やる──深夜0時前。結構寝てしまった。
いつものようにスマホに充電器を差し、ベッドにあるスタンドライトの明かりを付け、自室の電気を消す。そして、ベッドに入ろうとしたところで……どうも冷や汗をかいていたということに気がつく。……そうか、さっきの夢か。あまり覚えていないが、どうも思い出したくもないような内容だったと思う。……悲しく、苦しく、懐かしい。そんな気持ちだ。……まあ、いいや。私はベッドに潜った。
そんな事より、今日のことは忘れてしまおう。変な冷や汗こそはかいていたが、寝たことですっきりしたというか落ち着いた、というよりは……そういうことにしたい、が正解だが。
私は目を瞑った。明日は休日だ。今日のことは忘れてのんびりと過ごそう。下らないことだ。これ以上考えても仕方がない。どうせなんということもなく、私が間違っていただけだから。もう彼奴と関わらなければいい事だ。……しかし頭から離そうと離そうとすればするほどに冷や汗をかき、鼓動が早くなり、寝付きが悪くなる。気持ちが悪い。吐き気さえした。嗚呼──本当に私おかしいよ。何もかも調子が狂ってしまった。まあでも、もう関係はない。どうせ上手く一睡してしまえば頭から離れてしまうものだ。そう、きっと……朝が来ればどうでもいいことになっているはず。そう自分に言い聞かせた。……そんなことは無いと分かってはいたが、とにかく寝ることで気分を逸らしたかった。現実から遠ざかりたかったのだ。
自問自答……良くも悪くもあるこの癖は、もう安定剤に使えなくなってしまった。
……ああ、そうか。そっか……お昼に考えていた厄災の発端はあそこからだったんだ。私は今更ながらに気付く。気付いてしまったがそれを認識し、考えることを酷く拒絶したくなった。……もう何も考えたくない。思考を停止させたい。
そんな最中、私は目を開いた。そして、敢えて口元をほころばせる。
「寝たら治る。きっと明日は落ち着いている。明日は楽しく過ごしているだろう」
そんな事をわざと口に出して読み上げるように言ったのだ。まるで呪文のように、洗脳のように……これで大丈夫。
──嗚呼、酷く下らない。私らしくない。こうしてまた、私は自分に嘘をついてしまった。耳に覚えた汚らしい彼奴の笑い声は霧のように溶けるはずもなく、体温はそこまででもないのに寒さが目立って感じる。……虚無感、極まりない。
しかし、そんなことを考えているうちに意識が遠のいていく。身体の感覚も感じなくなり、いよいよ望み通り寝に入っていた。やっとだ。そして半分ほど途絶えかけたところで、意識が深く落ちると共に強く思うのだった。
──このまま目が覚めなければいいのに。
──視界が真っ白になる。はっと気付いて目を開いた。部屋の中は明るく、朝だというのを認識する。壁の掛け時計を確認した──どうやら7時を回ったところらしい。そこで寝坊助は「またか」と思うのだった。これでは少し前の話と同じ。
とりあえず、私はベッドから降りた。寝癖でぐしゃぐしゃの髪の毛を軽くいじり、部屋の温度に身体を震わせる。
「さむい」
そう独り言のように口から出てしまった私は多少寝ぼけ眼の目をこすり、自室から出た。
洗面台につくと、正面の化け物を見て不快な気持ちのまま口をゆすぐ。それが終わると和室に向かい、入って手を合わせた。いつもどおり。
次はリビングに向かい、テーブルの上の食パンの袋を手に取った。2枚だけ取り出してオーブントースターに入れる。食パンを焼いている間に、冷蔵庫からハチミツの小瓶を取り出し、美味しくも不味くもないインスタントコーヒーを淹れた。いつもどおり。
視線を時計に移す──7時と15分を回ったところだ。ぼけっとしながら一口だけブラックコーヒーに口付けをすると、チンとトースターが鳴る。それに頭を小突かれたように席を立ち、食パンをお出迎え。
「いただきます」
息を吐くようにそう私は呟くと、ハチミツを塗りたくり食パンをかっ込んだ。
朝食を済ませると残りのコーヒーを一気にあおり、洗面所へ。服を脱いで風呂場に入り、シャワーを浴びる。浴び終えると洗面所で身体を拭きながら、その寒さに顔を歪ませた。
「さむい」
またそのように呟き、タオル生地のポンチョを着る。洗面台で見たくないものを見ながらドライヤーの線を入れ、中途半端な丈の髪を乾かした。いつもどおり。
身支度をして軽く髪の毛を整え、マフラーを巻いた。リビングの掛け時計に視線を移す──8時を回ったところだ。ちょうどいい。玄関で靴を履き、鍵を持って家を出る。家の鍵をかけ、いつものように階段を降りて愛車を引っ張り出した。
作業のようにいつもの路を走る。ペダルを漕げば漕ぐほど風が強く当たり、冷たくて寒い。寒くてたまらない。足が良く冷えた。どうしてスカートなんだろうと今更ながら思う。ハンドルに巻き付ける悴だ指は、何かで刺しているような痛みすら感じていた。
「さむい」
またそう呟き、苛立つ。そんなことでさえも苛立ち、乾いた唇を噛む。……否、苛立っているのはそんなことではないのだ。恐らくは──昨日のこと。しかし、それを寒さのせいにしたかった。ただそれだけなのである。
暫して、いつもどおり到着した。鞄の中からスマホを取り出し、時間を見る──8時と45分だ。かかった時間は早くも遅くもない。
愛車を押しつつ駐輪場を目指す。いつものように自分と同じような服装をした者たちが周りには集まっていた。また下らない一日が始まるのだ、と虚しくも思う。
……いつものように。
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「……さて、冬休みまであと一ヶ月を切ったからといって浮かれたりして事故でも起こさないように。気を引き締めて行けよ」
と、そんな可もなく不可もなく絶対に思ってもいないような話をする紫藤。紫藤のそこまで必要のない話が終えるとチャイムが鳴った。その合図で、私は面倒くさそうに鞄の中からいつものセットを出し、頬杖をつく。そして、左側に目をくれた──まあこんなにも陽は出ているのにどうして寒いものであろうか。
右側ではあちこちから「さみぃ」「だりぃ」と聞こえ、各々が下らないことを話していた。どうもまだ先のクリスマスの話まで、やれ恋人がどうとか恋愛がどうだのといつもどおり煩い。ましてや数人のあの女子らに至っては男子の目もはばからず、楽しそうに品の無い話までに移行させる始末である。阿呆なの?
そんなことをため息混じりに思いつつ、時計に目を配る──9時と10分。嗚呼、そろそろか。私は軽く欠伸をし、中途半端な丈の髪をいじる。
チャイムが鳴った。いいタイミングで室内のドアが開き、城郁が入る。いつもどおり、とても長くて少し癖のある髪の毛がふわふわと動いた。
城郁は眼鏡をかけ直すといつもどおり目の前に「山月記」と、まあ相変わらずの達筆で縦書きする。その書かれた内容を見て、私は少し口元を綻ばせた。……嫌いじゃない。
城郁が口を開いた。
「それでは──」
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さて、何時間が経ったであろうか。ちらっと室内の掛け時計に目を配る──11時と5分。もう一時間弱もすれば昼食だ。
必要なものを出し、溜息をつく。そして中途半端な丈の髪をいじると、何かを忘れているような感覚に陥った。はてさて、何だったかな……などと考えている中、向こうから何やら愚かな会話が聞こえて来た。
「だるくね?」
「だりぃ」
「確かにめんどくさいな。腹も減るのに何時間も拘束されてね」
「退室まわね? 今日は寒いし、もう無理だわ」
「それな」
「いいだろ、いつも言うけど俺たち金払ってるんだし。何しようが勝手だよね」
などと言い放ち、三人の男子はだらだらと退室する。勝手なわけないよ、阿呆なの? 特に椛野。椛野は理屈にもなっていない意味不明な事を、理屈のように話すのは相変わらずである。まあ良く話すいつもどおりの会話なので、さして思うことは何もないが。
彼らが退室してすぐあたりに井賀が入ってきた。また時計を確認する──11時と10分。まあそろそろか、と姿勢を正した。
チャイムが鳴る。その合図と共に井賀が口を開いた。
「ああ、まず冷蔵庫の中身調査のやつ、集めるぞ。」
──しまった。私は井賀の言葉で、別の事を思い出す。
「……お弁当、冷蔵庫に忘れた。」
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午後0時。私は徒歩で戻っている。
先程は仕方なく、近くのスーパーで菓子パンを2つ買った。あんパンとメロンパン……あまり好きじゃない。安くなっていたため買ったのである。今月は少し厳しい。
どうも先月から良くない事ばかりだ。運が悪いのか、私が悪いのか……まあ基本的には後者だろう。そして前者の場合もあるだろう。だが、不運とは別に天災の如く訪れるものもある。そういうものに限って、数は少なくとも事が大きい。
さて、そのようなことを意識するようになったのはいつからだろうか。事の大きさ小ささを重点に置かなければ、若しかすると去年からかもしれない。では2年前は? 5年前は? 10年前はどうだろうか……否、そこまで遡っても無意味だ。恐らく、そんな以前では自覚がない。私が考えるべき問題はいつから認識していたのか、というところからだろう。自分はよもや阿呆かと疑うくらいである。
そんな下らなく当たり前な自問自答を繰り返して、去年の出来事から振り返ろうとしていた矢先、気が付くと目的地に着いていた。じゃあいいかな、と一旦忘れることにする。
私はいつものバルコニー(自称)の飲食スペースで昼食をとることにした。もちろん先客はいない。
「いただきます」
……誰も聞くことはない。誰も知らない。そんな状況下の中、この言葉は自分にだけ良く聞こえていた。なんということもない、いつもどおりである。
あんパン、メロンパンの順に一気にたいらげ、水筒の水を続けてあおった。水が喉を通ると、昨日のこと──彼奴の顔が頭によぎる。苛立つ。苛立って拳を軽く握った。周りには誰もいないのだ、少しなら口に出してしまった方が楽だったのかもしれない。しかし、口に出したことでそれを認めるのが──私には怖かった。……かもしれない。
そんな事を思いつつ、気を紛らわせるために書き物の用事を始めた。……これでいい。これでいいのである。
虚しくも鳥は明るい音で鳴き、寒くも陽だけは輝いていた。
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あれから、一時間くらいが経過し、私は席で呉雅の話を聞きながらノートに書いていた。いつもどおりである。
……呉雅の話はとても長い。そもそも話すのが好きであり、特にギャグトークを好む。時には、話に熱中すると癖で身振り手振りを使ってくる……などと思いつつ、再び呉雅の話に耳を傾けた。
「──つまり、要は今解説した三角関数の三種類は……基本的かつ重要な考え方だからね。そう……サイコさん、と覚えんだよ! あっ、タが抜けてた。これじゃあダメじゃんダメダメ! 一つでもかけちゃダメです! ダメよバカーんあなたー……なんつってね!」
嗚呼……そして、話がとてもつまらない。どうしてだろうと思ってしまうくらいに本当につまらない。頑張ってくれているのは見ていてとても感じるのだが、恐ろしいほどにつまらない。悲しいことに呉雅渾身のギャグトークは毎回、誰一人として微笑すらしないのだ……それが彼のキャラとして定着してしまっているのもあるが。
しかし、凄いのがこのスタイルをずっと保ち続けているということだ。若い頃からこのスタイルだったという噂である。恐らく笑ってくれることはないだろうが、それでも尚この信念を貫き通したのだろう。性格か、趣向か、或いは情熱か……何がそこまでも呉雅をつき動かしているのか全く検討もつかなかった。……否、性格かなあ。
私もそれくらい何かにこだわって、一つのことに打ち込めたらいいのだろうと深く思った。……さて、出来るだろうか。
そんな事を考えつつ、私は呉雅の話に耳を傾け、至極面倒くさそうに頬杖をついた。
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──チャイムが鳴る。さて、もう午後5時くらいだろう。夜ほどではないが辺りは暗くなってきており、一面が藍色の空だ。最近は段々と日没が早くなって来ている気がする。否、やはりそうでもないかもしれない。気のせいだろうか。まあ少なくとも、あの10月の時よりは早いだろう。などとふと思いつつ、私は靴を履き替えた。
全てここでの用事が終わった私は、鞄を背負い駐輪場へ。数ある自転車の中から自分の自転車を探したが……どうも見つからない。確かこの辺りに停めたはずなんだけどな、とボヤきつつ自分の記憶を辿ってみる。はて、今朝はどこに置いただろうか……などと思い出しつつ探していると、やっと発見した。つい、嗚呼もうなどと呟き愛車の元へ。どうも奥の方に置いてしまったらしいがあまり記憶に無い。まあ、気付けば随分忘れやすくなったものだと反省した。
私は自転車に鍵を刺し、後輪のスタンドにキックを見舞う。そしてサドルに跨がろうとした最中だった。──聞き覚えのある声を耳にする。私はその声で後ろを向くと、少し離れた所に彼奴がいた。恐らく自転車を取りに来たのだろう、駐輪場の前で友人を三、四人ほど引き連れて楽しそうに会話をしていた。……方庵、沼津付、椛野、あと一人は……誰だったか。まあそれよりも、あなたたち三人はサボって帰ったんじゃないの、と言いたい。
などと思っていると、こちらの視線に気付いたのか彼奴と目が合う。……私は瞬時に目を逸らした。流石に昨日の今日ではバツが悪い。背を向け、自転車を押し始めた。後ろからは彼らの会話が聞こえて来る。
「うぃー、ウエノン。どしたよ、あ? ……あの子か? お前ら知ってる?」
「しらねぇ」
「うちのやつじゃないか? 同じ。名前は覚えてないけど、ちょっと暗くて口数の少ないやつだよ。……あれ、確かウエノン前あいつと話してただろ? ということは、お前はあいつのことをよく理解しているはずだよね」
やはり椛野は頭がおかしい。
「マジかよ。どんな感じだった? やっぱり喋んねぇの?」
「しりてぇ」
「ここまで友人が聞いているんだ。だから、お前は答えるべきだよ。これは義務」
そんな下らないことを彼らが言っていると、彼奴がくすくすと笑う声が聞こえてくる。今度は彼が話し始めた。
「いやいや、良く知らないよ。」
「えっ、でも話ししたんじゃん? どんな様子だったのかくらい分かんだろ。」
「しりてぇ」
「嘘は良くないよウエノン。友人に隠し事は絶対に良くない。如何なる事柄でも、理由があっても話すべきだよ。それが出来ない奴は頭がおかしい、人間じゃない。これは義務、友人は絶対だよ」
椛野は少し黙っていてほしい。
「別に隠してないさ。ちょっと紫藤の頼まれ事で一緒になったから軽く挨拶しただけだよ」
彼はさらっと自然な口調でそう言ってのける。全く嘘偽りの雰囲気は微塵も感じられない。本当にそう思う。
──だが、はっきりと嘘をついた。
まあ、どうでも良い。私には関係ない。自転車をぐいぐい押していく。
「おい、あの子もう帰っちゃうぜ、いいん?」
「やべぇ」
「挨拶くらいはしたらどうかな? ……とは思ったけどこの場合は挨拶とかそんな礼儀正しいことは必要ないでしょ。あいつは恐らく気付いてないし。気付いていないからその必要はないよ。絶対にない。時間と労力の無駄だ。挨拶なんて合理的じゃないよね」
うん、そんなわけないよ。本当に椛野は頭が何故だかおかしい。それに頭良さそうに頭の悪いことを言うところも変だと思うよ。
しかし、そんな彼らの声も次第に小さくなる。早歩きしながら自転車に跨った。ペダルを踏み込む。
──そういえば、あの三人以外にいた彼奴のもう一人の友人は誰なんだろうか。見覚えがある気がしてきた。しかし、全く思い出せない。一言も喋らず、彼らと共にいただけだが……本当に誰だろうね。まあ、いいか。
私は、ペダルの踏み込みを強くした。
黙々と帰路を進む。何事もなく、特に何もなく。
その最中、辺りは真っ暗だった。住宅街の街灯で辛うじて見えるが、もう夜の様な空模様である。……暗闇の中で、ふと彼奴の言葉を思い出す。あの時、私の中で何かが弄ばれ、踏みにじられた気分だった。とてつもない屈辱だ。酷くからかわれ、馬鹿にされた。……お前、どうしてそんなことを
「言ったの?」
……そう、私は震える声で呟いた。放った白い霧のような熱が宙に舞い、空に溶けるように打ち消される。自転車を漕ぐ音と共に、かき消される。とてつもなく虚しい。虚しくてたまらない。
そして、容赦なく凍てつくような寒さが私の身体を斬りつける。痛い。……そして、痛いのは寒さのせいだけではないことも分かっていた。脳裏で谺響する嘲笑うような彼奴の声が聞こえる……この胸に灼くような痛みは、外傷的なものではないとはっきり理解できた。気持ちが悪い。
そんな事を考えつつ、自転車のハンドルをぎゅっと握る。私はとりわけ女らしくはないが、今の自分は失恋でもしたような生娘の如く女々しいと感じた。もっとも、今回のこれは失恋などといったものとは全く別のものなのだが……事の大きさ、感覚と言えば近いのかもしれない。──ハンドルを握る手を強めれば強める程、胸の痛みも身体の痛みも強まる。
私は、そんな怒りを虚しさに変えるようにハンドルを思いっきり叩いた。
__________
「──ただいま」
勿論、声は返ってこない。荷物を下ろすと部屋の中で服を脱ぎ、部屋着に着替える。リビングの掛け時計に目をやる──6時前、といったところだ。
私はソファーに座り、ふうと一息つく……いつもどおり。
冷蔵庫を開けた。今日持っていくはずだった弁当を取り出し、電子レンジへ。温めている間にインスタントのブラックコーヒーを淹れる。冷え切った唇をコーヒーに付けた……今日は何故だか、いつもより一際苦く感じる。
夕食の弁当を食べ終えた。スマホを弄り、画面の時計を確認──何だ、まだ6時半にもなってないんだね。
私は、お腹休めに外政関連のネットニュースを観ることにした。アメリカとロシアの貿易に関する首脳会談の記事。内容は全く嫌いではないはずだが、いつもと違って頭に入らない。その理由を認識したくないのでスマホの画面を切って、シャワーを浴びに行った。
蛇口をひねり、身体にお湯を当てる。まあ、少しは落ち着いた。浴びる時間としてはいつもより少し早いが、少しサッパリして心休めたかったのである。
気持ちが穏やかになってきたところで、身体を洗いつつ考え事にふけった。……そういえば、明日は休日である。はて、何故だか忘れていた。特に休日に対していつもの私のように趣味の予定や楽しみもないが、基本平日は出たくもない足を運び、拘束されるのを考えれば自由に一日を過ごせるのは嬉しいものである。しかし、何をしようか……書くか、読むか、寝るか。嗚呼、私がするのはそれくらいだろう。……何か打ち込めることでもあればいいんだけどなあ。
そんな事を考えつつ、余計なことを考えないようにしていた。
風呂場から出ると、いつもどおりタオル生地のポンチョを着て見たくも無いものを見ながら髪を乾かす。
終えると部屋に行き、寝間着に着替えた。ベッドに腰掛け、倒れ込む。ぼーっと天井を見つめ、目を瞑った。……拳を強く握り締める。自分を上手く誤魔化してはいるが、やはり苛立っているのは分かっていた。また、あの忌々しい彼奴の顔が脳裏に浮かび、嘲笑う声が聞こえてくる……昨日のことも、今日のことも。何度も思うが、まあ酷くからかわれたものだ。昨日のことを思えば思うほどに、屈辱だ。気持ちが悪い。騙されたようで、でもそれは違くて。唯、唯、怒れば怒るほど虚しく思えてくる。
第一、どうして昨日はあんなことを言い、今日は全くこうも違うのだろうか。──あの時、私に見せた顔は嘘の顔なの? 誰も教えてくれない。彼奴以外、誰も答えは知らない。考えれば考えるほどに虚しい。だが、その事だけが腫瘍の如く頭にへばりついて離れてくれなかった。
思い返せば、彼奴の言動というものはどうも掴みどころがなかったのである。まあ、私がああいった人種を知らないのかもしれないが。それにしても掴みどころがなかった。彼奴の特定の言動は何を意味しているのか分からず、何を考えているのかも分からず、適当なのかもしれず、計算し尽くしているのかも知れず、といったそんな奴である。理解したくとも理解をさせない、そんな雰囲気を放っていた。──嗚呼、そうか。今日も彼奴も昨日の彼奴も、いつもと何も変わらぬ事はなかったのだ。腹では何を考えてるのか分からない不気味さを感じる。……はあ、最悪だなあ。
彼奴の周りの人間は気付いていないが、私は奴の不気味さや禍々しさは感じていた。その為、奴と関わった時点でこういう目に合うと本能的に感づいてはいただろう。そう、奴は何も考えていないし何も思っていないのだ。だからこそ関わるべきではなかった。なのに……どうしてこうなってしまったのか。嗚呼……最近は特にだ。奴の持つもうひとつの面が、その意識を中和させていた。……最悪。こんなことがあるから他人と関わらない方が良いのだ。これではまた同じことだ。しかし、もう起こってしまったことは仕方がない、また意識を遠ざければ良い。そう、また遠ざければ……考えなければ良いのだ。私は目を瞑りながら必死で何も考えないようにする。頭から何もかも消そうと、何も考えないことを意識した。無になろうと、空っぽにしようと……だんだんと意識が暗闇の中へ落ちていく。少しずつ、少しずつ──
『──無理だよ、お前には』
──な。嗚呼……なんだ、寝ちゃってたんだ……。
私は上体を起こして自室の掛け時計を見やる──深夜0時前。結構寝てしまった。
いつものようにスマホに充電器を差し、ベッドにあるスタンドライトの明かりを付け、自室の電気を消す。そして、ベッドに入ろうとしたところで……どうも冷や汗をかいていたということに気がつく。……そうか、さっきの夢か。あまり覚えていないが、どうも思い出したくもないような内容だったと思う。……悲しく、苦しく、懐かしい。そんな気持ちだ。……まあ、いいや。私はベッドに潜った。
そんな事より、今日のことは忘れてしまおう。変な冷や汗こそはかいていたが、寝たことですっきりしたというか落ち着いた、というよりは……そういうことにしたい、が正解だが。
私は目を瞑った。明日は休日だ。今日のことは忘れてのんびりと過ごそう。下らないことだ。これ以上考えても仕方がない。どうせなんということもなく、私が間違っていただけだから。もう彼奴と関わらなければいい事だ。……しかし頭から離そうと離そうとすればするほどに冷や汗をかき、鼓動が早くなり、寝付きが悪くなる。気持ちが悪い。吐き気さえした。嗚呼──本当に私おかしいよ。何もかも調子が狂ってしまった。まあでも、もう関係はない。どうせ上手く一睡してしまえば頭から離れてしまうものだ。そう、きっと……朝が来ればどうでもいいことになっているはず。そう自分に言い聞かせた。……そんなことは無いと分かってはいたが、とにかく寝ることで気分を逸らしたかった。現実から遠ざかりたかったのだ。
自問自答……良くも悪くもあるこの癖は、もう安定剤に使えなくなってしまった。
……ああ、そうか。そっか……お昼に考えていた厄災の発端はあそこからだったんだ。私は今更ながらに気付く。気付いてしまったがそれを認識し、考えることを酷く拒絶したくなった。……もう何も考えたくない。思考を停止させたい。
そんな最中、私は目を開いた。そして、敢えて口元をほころばせる。
「寝たら治る。きっと明日は落ち着いている。明日は楽しく過ごしているだろう」
そんな事をわざと口に出して読み上げるように言ったのだ。まるで呪文のように、洗脳のように……これで大丈夫。
──嗚呼、酷く下らない。私らしくない。こうしてまた、私は自分に嘘をついてしまった。耳に覚えた汚らしい彼奴の笑い声は霧のように溶けるはずもなく、体温はそこまででもないのに寒さが目立って感じる。……虚無感、極まりない。
しかし、そんなことを考えているうちに意識が遠のいていく。身体の感覚も感じなくなり、いよいよ望み通り寝に入っていた。やっとだ。そして半分ほど途絶えかけたところで、意識が深く落ちると共に強く思うのだった。
──このまま目が覚めなければいいのに。
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