紹介制のとある秘密の屋敷にて

陽花紫

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リリーの決断

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 その日の曇り空は、どこまでも重く沈んでいた。
 夫であるアレインの隣に座る馬車の中で、リリーは自らの手を強く握りしめていた。

 揺れる馬車の音が、いつもより遠くに聞こえるような気がしていた。
 まるで世界そのものが、二人がこれから向かう場所を拒むかのように。あるいは、優しく押し出すかのように。
 馬車は、大きく揺れていた。

「本当に、行くのかい……。リリー」
 アレインの声は震えてはいないが、どこか自責の念がにじんでいた。
「君が望まないのなら、今すぐ引き返すこともできなくはない」
「私だって、……望んでいるわけではないのよ?」
 そうリリーは微笑んだつもりであったが、口角はうまく上がらなかった。
「でもね、アレイン。……必要だと思うの」
 その言葉に、アレインは何も言葉を返すことができないでいた。
 否定でも肯定でもない、ただの沈黙。
 その沈黙こそが、この二年の重みでもあったのだ。

 二人で過ごした夜、交わした希望やその祈り、そして二人の間に少しずつ積もっていくその焦り。
 王都では近頃、子宝に恵まれぬ貴族の夫婦が増えていた。その原因は不明であった。
 しかし、だからこそその“紹介制の屋敷”は、貴族夫妻の間で密かに広まっていたのだ。

 リリーの友人であるエレナは、その顔に笑みを浮かべながらこう伝えていた。
「悩んでいるのなら、行ってみて。少なくとも、誰かに話すだけでも救われると思うわ」
 しかしその目は、どこか遠くを見つめていた。
 エレナは一度あの屋敷に行き、そして子供を身籠った。
 しかしその屋敷で何があったのか、詳細語ることはなかった。
 ただ「助けられた」と、小さく口にしただけであった。

 その話は夫のアレインとともに聞いていたが、その言葉に初めに希望を見つけたのはリリーのほうであった。
「アレイン」
「なんだい」
「……私は、あなたが一緒にいてくれれば、それでいいの」
「それは僕も、同じことだよ」
 そうアレインは、リリーの手を優しく包み込んでいた。
 その温もりは確かなものではあったのだが、どこか遠ざかるような気配もあったのだ。

 ――今日を境に、私達夫婦の関係は戻れなくなってしまうのかもしれないわ。

 そのような予感が、リリーの胸をかすめていた。

 馬車はゆっくりと、ある豪奢な屋敷の前で止まる。
 重厚な門扉が軋むでもなく滑らかに開き、黒い衣服に身を包んだ美しい青年が姿を現した。
 細く長い指が胸元で重なり、彼は流れるような所作で礼をしてみせた。

「ようこそ、お越しくださいました。紹介状を拝見いたします」
 青年の笑みは柔らかであったが、どこか仄暗い魅力も備わっていた。
 客を歓迎しながらも、何かを測るような視線。
 この屋敷が、ただの相談所ではないと知らせるかのようでもあった。
 アレインは静かに紹介状を見せ、青年は確かにと頷いた。

「まずは旦那様と奥様、それぞれにお話を伺います。どうぞ、ご安心ください」
 青年の手が、リリーとアレインの間にすっと差し込まれる。
「さあ、こちらへ」
 その瞬間、リリーの手からはアレインの手の温もりが離れてしまう。
「旦那様は、あちらの者がご案内いたします」
 そしてアレインもまた、同じように美しい青年によって反対側へと案内をされてしまった。

 リリーはわずかに揺れる心を押さえつけながら、青年の後を追った。

***

 屋敷の廊下には高い天井と、見たこともないような華美な白い花が飾られていた。
 甘い香りがゆっくりと喉の奥に溶けて、胸へと広がっていく。歩くほどに、その身は軽くなるような、不思議な感覚でもあった。

「さあ、奥様。こちらです」

 案内された扉の前へと立つと、青年は軽く頷き、その扉を押し開けた。

 薄暗い部屋のなかでは、五、六人の男たちが立っていた。
 全員が整った仕立ての服を纏い、その目元には仮面があった。
 その仮面の奥の視線だけが、リリーの姿を捉え静かに射抜いていたのである。
「ようこそ、奥様」
「あの……」
 青年はリリーを椅子へと促し、にっこりと微笑んでみせた。
「ここでは、すべての会話が保護されています。どうか私共には、お心を楽にして全てをお話しください」
 心を楽にと言われても、リリーの身は緊張と不安とでわずかに震えていた。
 しかし青年は急かすこともなく、リリーに向けてただ微笑みを浮かべるのみ。
 リリーは、喉がからからに乾くのを感じていた。しかしここでは、茶も出る気配もなかった。
 そしてここまで来てしまった以上、もう逃げることはできないと心を決めていた。
 夫であるアレインの顔が、脳裏によぎる。彼のために、家のために。
 そう思い、深く息を吸いこんだ。

「さあ。お悩みを、どうぞ」
 その声に誘われるがままに、リリーは静かに口を開いた。
「……夫と結婚して、二年になります。けれど、まだ授かる気配がなくて」
 声が、震える。
 知らぬ間に、その手も強く握りしめていた。
「不満、というほどではありません。ですが、何度夜を重ねても……その、結果が出ないもので……。それで、友人に紹介を受けてここに参りました」
 部屋の空気が、わずかに揺れた。
 誰かが息を呑んだのか、リリーの心が震えただけであるのか、それは誰にもわからなかった。

「なるほど」
 青年は、深く頷いた。
 そして、言葉を続けた。
「恐らく、その原因は旦那様のほうにあるのではないかと考えられます。通常では、婚姻関係を結んで一年以内に第一子が産まれるのが当たり前ですからね」
 その言葉は、刃物のように鋭くリリーの胸を突き刺した。
「そんな……。アレインに、落ち度があるなんて……」
 しかし青年は、冷静な声でこう告げた。
「落ち度などではありません。すべての夫婦が抱える、その可能性の一つに過ぎないのですから」
「可能性?」
「そうです。そして奥様には、別の種を選ぶ権利があります」
「別の……」
「ええ。あなたさまが子を授かるために、自らの手で、ふさわしい血を持つ者を選ぶことができるのです。ここは、そういった場なのですよ」

 その言葉に、リリーの呼吸は止まった。
 その言葉の意味が正確に理解できた瞬間、その身は冷たくなっていく。

 部屋の男たちの視線は、ゆっくりと、しかし確実にリリーのその身へと向けられていた。
 まるで衣服の下の素肌を通り越し、その心までをも見定められているような感覚でもあった。

「この者たちの中から、選ぶことができるのです。皆、血筋は確かです。どうか、ご安心を」
 そのようなことを言われても、リリーはただ震えることしかできないでいた。
 今から、この中の一人とその行為をしなくてはならないのかと。
「わ、私は……」
「もし迷われるようでしたら、全裸にさせますか?それとも、あなたさまの好みに合う者をこちらのほうで見繕いましょうか」
「や、やめてください!」
 思わず、声までもが震えてしまう。

 男たちはその反応を面白がるようでもなく、ただ一様に静かであった。
 その沈黙はもはや不気味なようにも思え、そして妙な神聖ささえも感じさせていた。

 ――逃げたい。でも、選ばなければならない。アレインとの、未来のために。

 そのような時であった。
 ふと、一人の男がリリーの目に留まる。
 その男だけが、仮面の下でただ穏やかに微笑んでいるような気がしたのだ。
 その笑みは、他の誰とも異なっていた。獣のようでもなく麗しくもなく、ただ、あたたかかであったのだ。

 ――この人となら、私は……。

「……あ、あの方を。お願いしたく思います」
 リリーは震える指で、その男の身を指差した。

 選ばれた男は歩み出て、リリーに向けて静かに手を差し伸べた。
「奥様、こちらへ」
 その声は低く、やや掠れていた。
しかしどこか懐かしい響きが、リリーの心をくすぐった。

***

 薄闇の廊下を歩き、リリーは別室へと導かれていた。
 いくつも扉が並んでいるうちの一つの前に男は立ち止まり、そっとその扉を開けた。
 扉を閉める音は、やけに静かに響いていた。

 そこには大きな寝台がひとつと、側には水差しと二つのグラスだけがあった。
 その用途を隠しもしない、ただ白く整えられた部屋であった。

「……ダリオと、申します」
 男は仮面を外し、優雅な礼をしてみせた。
 思わずリリーも礼を返し、その姿を見上げていた。
 特徴的な黒い巻き毛に、しなやかに引き締まったその身。
 強い意志の宿る眉と、高い鼻梁。そして、わずかに厚い唇。

 そのひとつひとつが彼の美しさを形作っていたのだが、それ以上に。
 彼の瞳はどこまでも静かで、深くもあった。

「リリーです。その、よろしくお願いいたします」
 その名を告げた瞬間、リリーの胸の奥はわずかに熱を帯びていた。
「大丈夫ですよ、リリー様」
 ダリオはゆっくりと近づき、その手でリリーの指先を包み込んだ。
 夫とは違う、大きなあたたかい手であった。

「あなたさまはきっと、子沢山になることでしょう」
 その低い声は、予言のように確信めいていた。
 理由も根拠もないはずであるというのに、多くの悩みを抱えていたリリーの心の奥に静かに染み渡るようでもあった。

 ダリオの手が、そっとリリーの頬を撫でる。
 その触れ方があまりにも丁寧で、リリーはその身の奥がずくりと疼くのを感じていた。
「緊張されていますか?」
「……少しだけ」
「大丈夫ですよ。決して、痛みは与えませんので」

 ダリオの言葉には不思議な力があった。
 その力が、リリーの羞恥も恐れをも溶かしていく。

 一度きりの逢瀬。
 もう、二度と会うことはない。
 それなのに、今この瞬間だけはリリーはダリオの言葉を信じたかった。

「あなたさまが選んだのは、正しい選択であると。今宵この私が証明してみせましょう」
 ダリオの力強い腕の感触に身を任せながら、リリーは静かに目を閉じた。

 静寂のなか、彼の温もりが重なる直前に、天井の灯火がふと揺れたような気がした。
 まるでこの出会いが、運命の裂け目に生まれた一瞬であることを告げるかのように。
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