思い当たらない名前

陽花紫

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穏やかな日々

 それからの日々は、穏やかに流れていく。
 アオは料理が得意で、トウヤは休日はよく家に招かれていた。
 鼻を掠めるカレーの匂い、窓から差し込む午後の光。そのすべてが、トウヤが今まで知らなかった生活の感触となる。
「トウヤ、辛いの平気?」
「うん。アオの作るやつなら、なんでも食える」
「じゃあ、もっと辛くしようかな」
「やめろよ、美味しく食べたいんだよ」
 二人で笑いながら、テーブルに並ぶ皿をつつく。このような瞬間がずっと続けばいいとトウヤは思っていた。

***

 ある夜、アオは突然打ち明けた。
「俺……兄さんが、いたんだ。三つ上で、すごく優しかった」
 その話を聞いた瞬間、トウヤの胸の奥がかすかに鳴る。
 兄、という言葉。聞き覚えのない記憶が、どこかで揺れたような気がした。
 しかし、何も思い出すようなことはなかった。
「いたんだ……って、今は?」
「うん、もういないんだ。俺が高校生のとき、事故で亡くなった」
 とても、静かな声であった。
 トウヤはただ、頷くことしかできないでいた。
「でも、兄さんは……すごくいい人だったよ?ヨキっていう名前でさ。俺と違って明るくて、男らしかった。でも甘いものが好きで……俺がこっそり買って帰ると、子どもみたいに喜んでたんだ」

 ――ヨキ。

 その名前に、胸の奥で何かが微かに動いたような気がした。
 しかしそれも、屈託のないアオの笑みによってすぐさま消えてしまう。
「優しい人だったんだな」
「うん。……たまに、似てるなって思う」
「誰に?」
「トウヤに。笑い方とか、ちょっとした間の取り方とか」
 そのような言葉に、思わずトウヤも笑っていた。
 しかしその笑みの奥で、嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。
「やっぱり、似てる」
 その言葉が、なぜか冷たく響いた。

***

 冬が、近づいていた。
 アオの部屋のカレンダーには、雪景色が描かれていた。アオはその前に立ち、何かを思い出すかのように呟いた。

「今度さ、実家に来ない?母さんに紹介したいんだ。ちゃんと、俺の恋人だって言いたい」

 その言葉はあたたかいものであるはずだというのに、なぜだかトウヤの息が詰まる。
 実家、その響きが遠い夜のメッセージを呼び起こす。
 しかし過去の記憶は完全に消したはずである。アプリも、電話番号も、すべて。
 今のトウヤには、何も残っていない。
「いいよ。……行こうか」
「ほんとに?母さん、きっと喜ぶと思うよ。連絡してみるよ」
 アオは、嬉しそうに笑っていた。
 トウヤはその笑顔に頷きながら、心の奥に浮かぶ不安を強く押し込めた。

 ――それでも、手放したくはなかった。

 アオをもう、誰にも渡したくはなかったのだ。


 その夜、アオが寝息を立てる隣で、トウヤは眠りにつくことができないでいた。
 暗闇の中で、数年前のメッセージを思い返す。
 『ヨキは、亡くなりました。』
 あの文字のひとつひとつが、なぜかだか目の裏に浮かぶようであった。
 記憶の奥に沈んでいる、ヨキという名前。それが、今にも形を取り戻そうとしているかのような気がしていた。

 ――まさか、な。

 心の中で呟いても、胸のざわめきは止まることを知らなかった。
 アオの寝顔を見つめながら、トウヤはただ静かに手を伸ばす。その髪を撫で、唇にそっと触れる。
 この温もりを、失いたくはない。
 たとえその代償が、どれほど重いものであったとしても。

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