愚かな道を辿りながらそれでも兄を愛する

陽花紫

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取り巻く闇と憧れと慰め

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 ネスが屋敷に来てから、季節はひとつ巡っていた。
 あたたかな陽が中庭に落ちる頃、マコトはようやくその明るさに目を慣らしはじめていた。

 ネスは、よく笑う青年でもあった。
 どのような時でも柔らかく微笑み、怒ることを知らないような冷静さを兼ね備えていた。
「マコト様、もう解いてしまったんですか?」
「そんなことより、添削を頼むよ。解くべき問題はまだ沢山あるんだから」
「はい、わかりました」
 ネスは教え方も丁寧で、時折その解説に冗談を交えながら退屈を感じさせなかった。
 しかしそれは高みを目指すマコトにとっては、余計な優しさでもあった。

 ――僕は、笑顔なんて求めていない。

 欲しいのは、兄の隣。ただそれだけであった。

「少し、休みませんか?そんなに詰め込んでも、疲れるだけですよ」
 ネスの柔らかな声が、耳へと届く。
 紅茶の湯気の香りが、微かに揺れた。
「きっと兄上様も、今頃休憩されているころだと思いますよ?」
「……兄さんは、僕よりも忙しいんだ」
 誘導が上手くなったネスの言葉にも、マコトは動じなかった。
 視線を落としたまま、黙々と問題を解いていく。
 ネスは肩をすくめて、一足先にと紅茶を口にする。それ以上、何も追及はしなかった。

 しばらくしてマコトはペンを置き、静かに窓の外を眺めていた。
 ネスが新たに紅茶を淹れるものの、それを口に運ぶ気は起きなかった。
 二人の間に、沈黙が流れる。
 それでも不思議と、息苦しくはなかった。

 ――この人は何も、求めないんだな。

 そのようなことをふと、マコトは思った。
 兄への想いもその劣等感も、胸の内で渦巻く嫉妬も、ネスの前では音を立てずに沈んでいく。それは救いのようであり、同時に不穏な気配を漂わせていた。

 ネスの授業が終わる頃、廊下の向こうからかすかな笑い声が聞こえた。
 ミリと、カルの声であった。
 マコトは扉を静かに開けて、その様子を覗いた。
 ミリはいつものように美しく微笑んで、カルの肩にその手を置いていた。その仕草はごく自然で、誰が見ても信頼と友情の証に見えたことであろう。
 しかしマコトには、そこに確かに愛の温度を感じていたのだ。
 胸が、ひどく痛む。
 その痛みに呼応するかのように、ネスの手は静かにマコトの肩に触れる。
「大丈夫ですか?どこか、具合でも?」
 その低い声が、耳に触れる。マコトは反射的に、顔を背けてしまう。
「……なんでもない」
「なんでもないような顔には、見えませんが……」
 ネスの声は、穏やかなものであった。しかしそのどこかに、わずかな強さがあった。

 マコトは答えることもなく、扉を開けて静かに歩き出す。
 その背を、ネスは追うようなことはしなかった。

 その夜、マコトは眠れずにいた。
 ミリの、愛する兄の笑顔が脳裏に浮かぶたびに、胸の奥がひどく締めつけられる。
 いてもたってもいられずに窓辺へと立つと、大きな月が浮かんでいた。
 そしてその光に照らされるように、遠くの中庭に二つの影があるのを見つけた。
 それは寄り添うミリとカルの姿であり、マコトは思わず目を閉じた。
 世界が遠のくような静けさだけが、部屋を包んでいた。それでも涙は出なかった。ただ、胸の奥が燃えるように熱いだけであった。

「マコト様。まだ、起きていらっしゃったんですね?」
 突然、背後から声がかかる。
 それはネスであり、夜着姿のまま寝ぼけたような笑みを浮かべていた。
「……少し、外の空気を吸いたくて」
「夜風は冷たいですよ?風邪をひいたら大変です。さあ、これを……」
 そうネスは、そっとマコトの肩に上着を掛ける。
 その仕草が、妙に温かなものであるように感じられた。マコトは初めて、兄以外のぬくもりに包まれたような気がした。
 それがどのような意味を持つのか、わからないままに。

 ネスは少し離れ、マコトの隣に立ち静かに夜空を見上げた。
「夜空の星は、地上から願いをひとつ吸い上げて輝くと聞いたことがあります」
「願い?」
「ええ。だから綺麗な星が多いほど、苦しむ人々もまた多くいるということですよ」
 常とは異なり、とても静かな声であった。
 マコトは思わず、笑みを浮かべた。
「そんなの……、嫌な話だな」
「でも、だからこそ美しく輝くのだと思います」
 ネスはそう言って、少しだけマコトの顔を見た。
 その瞳の中に、自らの姿が小さく映るのをマコトは知ってしまった。
 マコトがミリを見つめるときと同じような視線ではあったが、しかしそこには哀しみではなく優しさが含まれていたのだ。


 その夜、マコトは不思議な夢を見た。
 星降る草原で、誰かが自らの手を握っている。その手はミリではなく、ネスのものであった。

 翌日、屋敷は朝から騒がしくあった。
 ミリの学友が、訪ねていたのだ。ミリは現在学院に通い、時折友人が屋敷を尋ねることも何度かあった。
 その友人は明るく小柄で、貴族の中でも評判の美青年であった。そしてその青年がミリに好意を寄せているのは、誰の目から見ても明らかであった。

 廊下の陰からその様子を目にしたマコトは、思わず息を呑む。
 兄の目の前でその青年は跪き、何かを訴えかけていたのだ。
「どうか僕と、付き合ってほしい!なんなら、遊び相手でもいいからさ!」
 ミリは困ったように、眉を寄せて笑みを浮かべていた。
 そして軽く息を吐いて、静かにこう告げた。
「遊ぶにしても、初めての相手は何かと面倒なんだ。出直しておいで」
 その言葉に青年は驚き目を見開くものの、そして悔しげな表情をみせて立ち上がった。
 去っていく背を見送りながら、ミリはまるで何事もなかったかのように微笑んでいた。

 ――こんなの、兄さんじゃない。

 マコトはその場から、動けずにいた。
 兄の知らない一面を見てしまい、その動揺を隠せずにいたのだ。
 あの優しさの裏にある、冷たい視線。
 思わず、足元がふらりと揺れる。その肩を、すかさずネスは支えていた。
「その様子だと、……見てしまったんですね?」
「……あれは、誰」
 掠れた声が、喉からこぼれおちる。
「あんなの、兄さんじゃない……」
 ネスは、何も言わなかった。
 ただ静かに、マコトを抱き寄せるだけであった。
 その腕の中は、驚くほどあたたかなものであった。

「大丈夫ですよ、マコト様。あなたは、あなたのままでいいんです」

 その言葉が、心の奥へと響き渡る。
 マコトはその温もりを、拒むことができなかった。
 ミリの背に向けて手を伸ばすことができない代わりに、そっとネスの胸元に顔をうずめた。
 胸の奥で何かが軋みながら、少しずつ形を変えていく。しかしそれが何なのか、マコトはまだ知らなかった。
 しかしもう以前のようにはいられないと、確かに感じていたのである。

***

 それ以来、マトコはぼんやりと宙を見つめることが増えていた。
 授業にも身が入らず、ただネスとともにペンを置いて静かに紅茶を啜る日が続いていた。

 ある日、マコトは目の下を黒くしていた。
 思わずネスが授業を休むようにと伝えるものの、マコトはただネスの背に腕を回すだけであった。
「しばらく、こうしていて」
 突然の抱擁に戸惑うものの、ネスは静かにマコトの身を抱きしめ返した。
 何か事情があったのかと顔を見るものの、その顔は強くネスの胸元へと擦り付けられていた。

 マコトは昨晩、ミリとカルの情事を目にしてしまっていたのだ。
 いつも固く閉ざされているはずである兄の私室の扉が、少しだけ開いていたのだ。
 マコトは閉めようとそこに近づくと、奥から何やら物音が聞こえた。思わず息を殺し、そっと部屋の中をのぞくと、そこには重なる二つの影があった。
 寝台の上で、二人は裸で抱き合っていたのだ。
 思わず逃げ出し、マコトは自室へと戻るものの、心臓がうるさく音をたてて眠りにつくことができなかった。
 しかしそのようなことをネスに伝えることもできぬまま、マコトはただその温もりに心を落ち着かせていた。


 そしてその感情は、いつしか歪んだ憧れへと変わってしまう。
 マコトは、いつの日か屋敷に押しかけていた兄の友人のことを思い返していたのである。

 ――初物じゃなければ、兄さんに抱いてもらえるのかな。

 そのような不純な思いを抱えながらも、何もすることはできなかった。
 ミリの身を支えるのは、いつだってカルなのであったからだ。
 そしてその身を、ネスは静かに抱き留める。いつしかその手は、マコトの頬を撫でるようになっていた。
「大丈夫ですよ」
 その言葉に、マコトは何も返すことができないでいた。
 ネスの笑みは、暗い夜の闇を明るく照らす太陽のようでもあった。しかしそのあまりの眩しさに、マコトは顔を背けてしまう。
 そのような明るい場所に、兄は存在していなかったからである。

***

 時は流れ、ミリの家庭教師であるカルの退任の話が持ち上がっていた。
 ミリはカルとの婚姻を望み秘密裏に動いていたのだが、そのことが両親へと明るみになってしまったのだ。
 カルは離れへと追いやられ、その間ミリは夜の街を出歩くようになっていた。
 社会勉強のためであると両親はマコトに告げていたが、マコトはその真意を知っていた。
 自棄になったミリは、夜な夜な男を求めて彷徨い歩いていたのだ。
 時には日の明るいうちにマコトの私室を訪れ、その苦しい胸の内を吐き出すものであるからマコトもまた何もできないでいる自らの身を責めていた。

 ――どうすれば、兄さんの心を癒してあげることができるんだ。

 カルの身を救おうと動いては見たものの、屋敷の使用人の警戒は厳しいものであった。

「今日も、駄目だった」
 そのように肩を落としうなだれるマコトの身を、ネスは静かに抱き寄せた。
「マコト様……」
「ネス、駄目なんだ。僕の力じゃ、どうにもできない」
 目に浮かぶ涙に唇を寄せながら、ネスは甘い言葉を囁いた。
「マコト様は、よく頑張っていると思います」
 マコトの渇いた心に、ネスの言葉が水滴のようにわずかに広がる。それは着実に、日を追うごとに増していく。

 いつしかネスの慰めかたも、深い口づけへと変わってしまう。
 マコトはもはや抵抗する気力もなく、ただそれを受け入れていた。次第にその手つきもわずかな熱を含むようになり、ゆっくりとマコトの頬を優しくなぞる。
「マコト様、大丈夫ですよ」
 その言葉に、マコトは兄の幻をみてしまう。
 甘く囁かれ褒められ、そして抱きしめられる。
 いつしか二人は授業中であるというのに、常に肌を触れ合わせ互いに笑みを交わすようになっていた。

***

 ある時、ネスは大胆にもマコトの身を自らの膝の上へと乗せていた。
 マコトは静かにペンを動かし、ネスは白い首筋の匂いを嗅いでいた。
「ネス、くすぐったい」
 時折そのような笑みがマコトの口から漏れてしまうものの、ネスは気にすることなく机の上の紙を指差した。
「……ここ、間違っていますよ?」
「どこ?……ああ、わかった」
「あと少し、頑張りましょう」
 机の上では真面目に指導をしているものの、その下ではネスは熱を持った自らの身をマコトの背に向けて擦り付ける。
 そのようなことを気にすることなく、マコトはただひたすらに文字と向き合っていた。

「……いつになったら、解けるんですかね」
 ため息交じりに吐かれたネスの呟きは、静かに消えていく。


 次第にマコトは、求められることの喜びを感じてしまうようになる。
 ネスの透き通った目には自らの姿しか映らず、その名を呼ぶのも、声をかけるのもマコトただひとりだけであった。浮つく気持ちを覚えながらも、マコトは未だにミリのことを心の奥深くで想っていた。

 カルは退任し、近頃のミリは男遊びが激しくなっていた。
 その姿はとても痛々しく、マコトは兄の顔を見たくないと思っていた。
 しかしそれでも、心の奥底ではミリのことを強く求めてしまうのであった。
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