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ヒスババアと呼ばれた日
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「……ヒスババア」
その言葉を聞いた瞬間、私の中のなにかがぷっつりと切れてしまった。
もう、限界だった。
湯気の立たない鍋、食べ残しのカレー、洗濯機の終わったままの音。リビングの照明はやけに冷たくて、私は泣き止まない娘を抱えたまま立ち尽くしていた。
「……なによ、それ」
かすれた声で問い返したが、返ってくるのはため息だけだった。
夫は疲れ切った顔でソファに沈んで、スマホの画面を睨みつけていた。
「だってそうだろ?すぐ怒鳴るし、こっちが何言ってもヒステリックに返すし。俺だって、仕事して疲れてるんだよ」
「……そう。じゃあ、あなたがやってみたら?」
自分でも、声が震えているのがわかった。
「無理。また上司から電話だよ、俺あっち行ってるから」
そう吐き捨てて、夫は寝室へと消えてしまった。
残されたのは、泣き疲れていつしか眠ってしまった娘と、止まった時間のような静けさ。
私は娘の小さな背をさすりながら、深く息を吐いた。
「ごめんね、怒ってばかりで。ほんとうは、そんなつもりじゃないの」
そう言いながらも、湧き上がる怒りをおさめる場所もなくて泣きたくなる。
この日々のどこに、私はいるのだろう。
誰のために頑張っているのか、自分でもよくわからなかった。
出産を終えたあの日、産院のベッドの上で泣きながら笑った自分を、今でも覚えている。あのときは、ただ幸せだった。小さな命を抱きしめるだけで胸がいっぱいで、夫も育休をとってくれて、二人で力を合わせて娘のために頑張っていた。
それが、どうしてこうなったんだろう。
「もう寝よう、お願いだから……」
再び泣き出してしまった娘に向かって、絞り出すように声をかける。
けれども、娘はの声はますます大きくなる一方でどうにもならなかった。
夜が深まり、体が鉛のように重くなる。
頭も痛いし、肩も痛い、そして何より心が痛かった。
気づけば、私は床に座り込んで、ぼんやりとカーテンの隙間から夜明け前の空をながめていた。
静寂の中、冷たい空気だけが肌を刺す。
娘はようやく眠りについて、私はただその寝顔を見つめていた。
「こうしていれば、かわいいのにね」
もちろん娘のことは愛おしい。それでも、苦しいときがある。
その矛盾に、もうどうすればいいのかわからなかった。
「消えたい」
気づけば、その言葉が口からこぼれていた。
その瞬間、何かが破裂するような音がして、視界が白く染まった。
まばゆい光。
風の匂い。
足元の感触が消えて、次に感じたのは石畳の冷たさだった。
「……え?」
ゆっくりと目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
高い天井に、陽光を通す巨大なステンドグラス。壁は白く、柱には金色の装飾が施されていた。そして私を取り囲む、見知らぬ服をまとった人々の姿も。
「やったぞ、召喚に成功したぞ!」
西洋の甲冑に身を包んだ兵士のような男たちが、驚きの声を上げていた。
私の目の前では、白いローブのようなものを着た老人が両手を掲げている。
「召喚者よ、ようこそ。我らの王国へ」
「召喚?」
頭が真っ白だった。
娘の名前を叫んでも、返事はない。
足元を探しても、小さな影はどこにもいなかった。
「待って……。娘が、私の娘は?娘はどこにいるの!」
「落ち着きなさい、召喚者よ」
老人は、私に向かって静かに言った。
「そなたに託す使命がある。この国の幼き王子の世話を、頼みたいのだ。」
不思議なことに、気持ちがすうっと落ち着いてこの老人の言っている言葉が頭の中ではっきりと理解をすることができた。
「……世話を?」
「そうだ。まだ四歳の、やんちゃな王子だ。乳母メアリーと従者ウィルが、そなたを支えるだろう。安心するがよい」
「かしこまりました」
まるで魔法でもかけられているかのように、思ってもいない言葉が口から出てくる。
それでも、私の頭の中は混乱していた。
どうして、私なのか。どうして、娘を残してきてしまったのか。
どうして私は、ここにいるのか。
「では、行きなさい」
「はい」
それでも、ひとつだけ分かったことがあった。
あの世界には、もう戻れない。
少なくとも、今すぐには。
私は唇を噛みしめながら、震える手を握りしめた。
あのとき夫に言われた言葉が、また頭の中で憎たらしく響く。
――ヒスババア。
だったら、見てなさいよ。
今度こそ、ちゃんと誰かを育ててみせる。怒鳴らずに、泣かずに、ちゃんと笑って。
こうして、私の異世界での子育てが始まったのだった。
その言葉を聞いた瞬間、私の中のなにかがぷっつりと切れてしまった。
もう、限界だった。
湯気の立たない鍋、食べ残しのカレー、洗濯機の終わったままの音。リビングの照明はやけに冷たくて、私は泣き止まない娘を抱えたまま立ち尽くしていた。
「……なによ、それ」
かすれた声で問い返したが、返ってくるのはため息だけだった。
夫は疲れ切った顔でソファに沈んで、スマホの画面を睨みつけていた。
「だってそうだろ?すぐ怒鳴るし、こっちが何言ってもヒステリックに返すし。俺だって、仕事して疲れてるんだよ」
「……そう。じゃあ、あなたがやってみたら?」
自分でも、声が震えているのがわかった。
「無理。また上司から電話だよ、俺あっち行ってるから」
そう吐き捨てて、夫は寝室へと消えてしまった。
残されたのは、泣き疲れていつしか眠ってしまった娘と、止まった時間のような静けさ。
私は娘の小さな背をさすりながら、深く息を吐いた。
「ごめんね、怒ってばかりで。ほんとうは、そんなつもりじゃないの」
そう言いながらも、湧き上がる怒りをおさめる場所もなくて泣きたくなる。
この日々のどこに、私はいるのだろう。
誰のために頑張っているのか、自分でもよくわからなかった。
出産を終えたあの日、産院のベッドの上で泣きながら笑った自分を、今でも覚えている。あのときは、ただ幸せだった。小さな命を抱きしめるだけで胸がいっぱいで、夫も育休をとってくれて、二人で力を合わせて娘のために頑張っていた。
それが、どうしてこうなったんだろう。
「もう寝よう、お願いだから……」
再び泣き出してしまった娘に向かって、絞り出すように声をかける。
けれども、娘はの声はますます大きくなる一方でどうにもならなかった。
夜が深まり、体が鉛のように重くなる。
頭も痛いし、肩も痛い、そして何より心が痛かった。
気づけば、私は床に座り込んで、ぼんやりとカーテンの隙間から夜明け前の空をながめていた。
静寂の中、冷たい空気だけが肌を刺す。
娘はようやく眠りについて、私はただその寝顔を見つめていた。
「こうしていれば、かわいいのにね」
もちろん娘のことは愛おしい。それでも、苦しいときがある。
その矛盾に、もうどうすればいいのかわからなかった。
「消えたい」
気づけば、その言葉が口からこぼれていた。
その瞬間、何かが破裂するような音がして、視界が白く染まった。
まばゆい光。
風の匂い。
足元の感触が消えて、次に感じたのは石畳の冷たさだった。
「……え?」
ゆっくりと目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
高い天井に、陽光を通す巨大なステンドグラス。壁は白く、柱には金色の装飾が施されていた。そして私を取り囲む、見知らぬ服をまとった人々の姿も。
「やったぞ、召喚に成功したぞ!」
西洋の甲冑に身を包んだ兵士のような男たちが、驚きの声を上げていた。
私の目の前では、白いローブのようなものを着た老人が両手を掲げている。
「召喚者よ、ようこそ。我らの王国へ」
「召喚?」
頭が真っ白だった。
娘の名前を叫んでも、返事はない。
足元を探しても、小さな影はどこにもいなかった。
「待って……。娘が、私の娘は?娘はどこにいるの!」
「落ち着きなさい、召喚者よ」
老人は、私に向かって静かに言った。
「そなたに託す使命がある。この国の幼き王子の世話を、頼みたいのだ。」
不思議なことに、気持ちがすうっと落ち着いてこの老人の言っている言葉が頭の中ではっきりと理解をすることができた。
「……世話を?」
「そうだ。まだ四歳の、やんちゃな王子だ。乳母メアリーと従者ウィルが、そなたを支えるだろう。安心するがよい」
「かしこまりました」
まるで魔法でもかけられているかのように、思ってもいない言葉が口から出てくる。
それでも、私の頭の中は混乱していた。
どうして、私なのか。どうして、娘を残してきてしまったのか。
どうして私は、ここにいるのか。
「では、行きなさい」
「はい」
それでも、ひとつだけ分かったことがあった。
あの世界には、もう戻れない。
少なくとも、今すぐには。
私は唇を噛みしめながら、震える手を握りしめた。
あのとき夫に言われた言葉が、また頭の中で憎たらしく響く。
――ヒスババア。
だったら、見てなさいよ。
今度こそ、ちゃんと誰かを育ててみせる。怒鳴らずに、泣かずに、ちゃんと笑って。
こうして、私の異世界での子育てが始まったのだった。
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