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世話係への任命
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あの瞬間から、私はずっと夢の中にいるような気がしていた。
朝がきても夜がきても、どこか現実感がなかった。
ただ、目の前の出来事を受け入れるしかなかった。
「召喚者、リカ様ですね」
私を案内してくれたのは、灰色の髪を結い上げた四十代くらいの女性だった。
背筋がすっと伸び、仕立ての良い黒いドレスを着ている。その声に、厳しさと優しさを含んでいた。
「私は王子殿下の乳母をしております、メアリーと申します。以後、お見知りおきを」
「リカです、よろしくお願いいたします」
名乗る声が、少しだけ震えた。
今更ながら、日本語を話しているのに確かに相手には通じている。それもまた、この世界の理らしかった。
メアリーの後を追って石造りの廊下を進むと、外の光が差し込んでいた。
窓の外には遠くまで続く城壁と、青々とした森が広がっていた。その光景に、本当に私は違う世界に来てしまったのだと目を見張った。
こんなにも美しい場所なのに、私の心はどこか冷えたままだった。
「あなたさまのお役目は、王子殿下のお世話全般です。食事、着替え、遊び、勉強の付き添い……。つまり、母親代わりということですね」
「母親、代わり……」
その言葉に、胸が強く痛んだ。
私は、本当の母親の役割を、実の娘を置いてきてしまった。
二歳の娘の温もりを、あの愛らしい笑顔を。思い返してしまい、喉の奥を詰まらせてしまう。
「無理をなさらずとも、よろしいのですよ。殿下はわがままで、少々手のつけられないお方ですから」
そう言って、メアリーは苦い笑みを浮かべていた。
「ですが、あなたさまのようにお若い方が来てくださったことはとても心強く思います。ウィルもすぐに戻りますので、紹介いたしますわ」
「ウィルさん、というのは……?」
「殿下の従者で、護衛のようなものです。若いですが、責任感が強い子ですよ。……さあ、殿下がお待ちかねですよ」
そう部屋の扉が開かれた瞬間、小さな叫び声が響いた。
「いやだ!たべたくない!!」
部屋の中では、幼い男の子が使用人の手から逃げ回っていた。
金色の髪に青い瞳、あどけなさを残した顔立ちをしていながらも目にはしっかりと強い意志が宿っていた。この国の王子、エリアス。
まだ四歳と聞いていたものの、どう見ても手強そうだった。
「エリアス殿下!」
と、メアリーが声をあげた。
「またお食事を残されるのですか?」
「だって、いやなんだもん!たべたくない!」
王子は小さな足で床を蹴り、椅子を倒し、その拍子にスープが床に飛び散った。
私は思わず駆け寄り、反射的に声を荒げてしまう。
「こらっ、危ないじゃない!」
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
メアリーも、使用人たちも、息をのんで私のことを見ていた。
そして王子もまた、大きな瞳で私の顔を見上げていた。
……ああ、やってしまった。
大きな声を出すつもりはなかったのに。
泣き止まない娘を叱りつけていた、あの頃の嫌な自分が思わず出てしまっていたのだ。
「ご、ごめんなさい!」
思わず床に膝をついて、頭を下げて丸まった。一国の王子にこのような言葉を言い放ってしまった私は、殺されてしまうのだろうか。
怯えながらきつく目を閉じていると、上からぽつりと言葉が降ってきた。
「……ママみたい」
そして、あたたかく小さな手が私の頭に触れていた。
胸が、締めつけられた。
もう泣くまいと決めていたのに、涙がにじむのを止められなかった。
「ないてるの?だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。ぎゅってしてあげるからね」
そう言って、王子はあろうことか私を小さな手で抱きしめてくれた。
「申し訳、ありません」
「ママはね、おこるとこわいけど、さいごはぎゅってしてくれたんだ」
そう言って、王子は少し照れたように笑っていた。
そのあどけない笑顔が、私には娘と重なって見えていた。
「ありがとうございます」
涙を拭いて、顔を上げていま一度王子に向きなおる。
「では、こんどは私がぎゅってしてあげましょうか?」
「ほんとう?」
「ええ、約束しましょう。ちゃんと最後まで食べることができたら、ぎゅってしてあげますよ」
「わかった!ぼく、たべるよ。……いすをもってきて!」
その言葉に、止まっていた時が動き出す。
王子は笑顔を見せながら、時には苦い顔をしながらも出された食事を行儀よく食べ進めていた。
私はメアリーに謝ろうと声をかけようとしたものの、反対にお礼の言葉を言われていた。
「あのような殿下のお姿を見たのは、初めてです。リカ様、ほんとうに、ありがとうございます」
「いえ、私は何も……」
そして、その後は王子の今日のスケジュールについてメアリーから話を聞いていた。
その途中、扉を開けて見知らぬ男性が部屋に入ってきた。
私と同じような年頃の青年は、黒く長い髪を一つにまとめて、深い青の軍服のようなものを着ていた。
「ウィル、ちょうどよかったわ。ご挨拶なさい」
メアリーが、声をかける。
その名前に、青年が王子の従者であることを思い出す。
「こちらが、召喚者であらせられるリカ様です。今日から殿下の世話を任されます」
「ウィル、と申します。殿下の護衛兼従者をしております」
そう言って、丁寧に一礼をした。
その仕草はどこか整いすぎていて、少し息苦しいほどだった。
「よろしくお願いいたします、リカ様」
「こちらこそ、よろしくお願いします。その、お二人とも……様なんてつけないでください。私はただの、平凡な母親ですから」
思わずそう伝えてはみたものの、二人は殿下の母親代わりなのだからと頑なに譲らなかった。
私も二人のことはメアリー、ウィル、と呼び捨てにすることになったものの初対面の人を呼び捨てにするなんて不思議な感覚だった。
いまいちど私が召喚された経緯をメアリーがウィルに説明していると、ウィルは落ち着いた瞳で私を静かに見つめていた。
「それにしても、平凡な母親が異界から召喚されるとは……」
皮肉でもなく、淡々とした口調。
けれどそこには、ほんのわずかに興味の色があった。
――ウィル。
その名前を、馴染むように心の中で繰り返す。
この青年が、やがて私にとって大きな支えになることなど、このときの私はまだ知る由もなかった。
「リカ、みて!ぼく、ぜんぶたべたよ」
すべてを平らげた王子は、私に向かって手を差し伸べた。
「すごいですね、王子殿下」
思わずそう伝えて小さな背中に手を回せば、王子は小さな頬をふくらませてこう言った。
「リカ!ぼくも、エリアスってよんで?」
「……わかりました。エリアス、よくがんばりましたね」
強く強く抱きしめれば、エリアスは満足げに微笑んでいた。
***
その夜、私は初めてこの世界の寝台で目を閉じようとしてた。
王子が深い眠りについている寝息が、隣室から静かに聞こえてくる。
それは泣きわめく娘の声ではない。
それでも、不思議と、あの小さな音に少し救われている自分がいた。
「……おやすみなさい、エリアス」
そっと呟いた声が、静かな闇に溶けていった。
朝がきても夜がきても、どこか現実感がなかった。
ただ、目の前の出来事を受け入れるしかなかった。
「召喚者、リカ様ですね」
私を案内してくれたのは、灰色の髪を結い上げた四十代くらいの女性だった。
背筋がすっと伸び、仕立ての良い黒いドレスを着ている。その声に、厳しさと優しさを含んでいた。
「私は王子殿下の乳母をしております、メアリーと申します。以後、お見知りおきを」
「リカです、よろしくお願いいたします」
名乗る声が、少しだけ震えた。
今更ながら、日本語を話しているのに確かに相手には通じている。それもまた、この世界の理らしかった。
メアリーの後を追って石造りの廊下を進むと、外の光が差し込んでいた。
窓の外には遠くまで続く城壁と、青々とした森が広がっていた。その光景に、本当に私は違う世界に来てしまったのだと目を見張った。
こんなにも美しい場所なのに、私の心はどこか冷えたままだった。
「あなたさまのお役目は、王子殿下のお世話全般です。食事、着替え、遊び、勉強の付き添い……。つまり、母親代わりということですね」
「母親、代わり……」
その言葉に、胸が強く痛んだ。
私は、本当の母親の役割を、実の娘を置いてきてしまった。
二歳の娘の温もりを、あの愛らしい笑顔を。思い返してしまい、喉の奥を詰まらせてしまう。
「無理をなさらずとも、よろしいのですよ。殿下はわがままで、少々手のつけられないお方ですから」
そう言って、メアリーは苦い笑みを浮かべていた。
「ですが、あなたさまのようにお若い方が来てくださったことはとても心強く思います。ウィルもすぐに戻りますので、紹介いたしますわ」
「ウィルさん、というのは……?」
「殿下の従者で、護衛のようなものです。若いですが、責任感が強い子ですよ。……さあ、殿下がお待ちかねですよ」
そう部屋の扉が開かれた瞬間、小さな叫び声が響いた。
「いやだ!たべたくない!!」
部屋の中では、幼い男の子が使用人の手から逃げ回っていた。
金色の髪に青い瞳、あどけなさを残した顔立ちをしていながらも目にはしっかりと強い意志が宿っていた。この国の王子、エリアス。
まだ四歳と聞いていたものの、どう見ても手強そうだった。
「エリアス殿下!」
と、メアリーが声をあげた。
「またお食事を残されるのですか?」
「だって、いやなんだもん!たべたくない!」
王子は小さな足で床を蹴り、椅子を倒し、その拍子にスープが床に飛び散った。
私は思わず駆け寄り、反射的に声を荒げてしまう。
「こらっ、危ないじゃない!」
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
メアリーも、使用人たちも、息をのんで私のことを見ていた。
そして王子もまた、大きな瞳で私の顔を見上げていた。
……ああ、やってしまった。
大きな声を出すつもりはなかったのに。
泣き止まない娘を叱りつけていた、あの頃の嫌な自分が思わず出てしまっていたのだ。
「ご、ごめんなさい!」
思わず床に膝をついて、頭を下げて丸まった。一国の王子にこのような言葉を言い放ってしまった私は、殺されてしまうのだろうか。
怯えながらきつく目を閉じていると、上からぽつりと言葉が降ってきた。
「……ママみたい」
そして、あたたかく小さな手が私の頭に触れていた。
胸が、締めつけられた。
もう泣くまいと決めていたのに、涙がにじむのを止められなかった。
「ないてるの?だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。ぎゅってしてあげるからね」
そう言って、王子はあろうことか私を小さな手で抱きしめてくれた。
「申し訳、ありません」
「ママはね、おこるとこわいけど、さいごはぎゅってしてくれたんだ」
そう言って、王子は少し照れたように笑っていた。
そのあどけない笑顔が、私には娘と重なって見えていた。
「ありがとうございます」
涙を拭いて、顔を上げていま一度王子に向きなおる。
「では、こんどは私がぎゅってしてあげましょうか?」
「ほんとう?」
「ええ、約束しましょう。ちゃんと最後まで食べることができたら、ぎゅってしてあげますよ」
「わかった!ぼく、たべるよ。……いすをもってきて!」
その言葉に、止まっていた時が動き出す。
王子は笑顔を見せながら、時には苦い顔をしながらも出された食事を行儀よく食べ進めていた。
私はメアリーに謝ろうと声をかけようとしたものの、反対にお礼の言葉を言われていた。
「あのような殿下のお姿を見たのは、初めてです。リカ様、ほんとうに、ありがとうございます」
「いえ、私は何も……」
そして、その後は王子の今日のスケジュールについてメアリーから話を聞いていた。
その途中、扉を開けて見知らぬ男性が部屋に入ってきた。
私と同じような年頃の青年は、黒く長い髪を一つにまとめて、深い青の軍服のようなものを着ていた。
「ウィル、ちょうどよかったわ。ご挨拶なさい」
メアリーが、声をかける。
その名前に、青年が王子の従者であることを思い出す。
「こちらが、召喚者であらせられるリカ様です。今日から殿下の世話を任されます」
「ウィル、と申します。殿下の護衛兼従者をしております」
そう言って、丁寧に一礼をした。
その仕草はどこか整いすぎていて、少し息苦しいほどだった。
「よろしくお願いいたします、リカ様」
「こちらこそ、よろしくお願いします。その、お二人とも……様なんてつけないでください。私はただの、平凡な母親ですから」
思わずそう伝えてはみたものの、二人は殿下の母親代わりなのだからと頑なに譲らなかった。
私も二人のことはメアリー、ウィル、と呼び捨てにすることになったものの初対面の人を呼び捨てにするなんて不思議な感覚だった。
いまいちど私が召喚された経緯をメアリーがウィルに説明していると、ウィルは落ち着いた瞳で私を静かに見つめていた。
「それにしても、平凡な母親が異界から召喚されるとは……」
皮肉でもなく、淡々とした口調。
けれどそこには、ほんのわずかに興味の色があった。
――ウィル。
その名前を、馴染むように心の中で繰り返す。
この青年が、やがて私にとって大きな支えになることなど、このときの私はまだ知る由もなかった。
「リカ、みて!ぼく、ぜんぶたべたよ」
すべてを平らげた王子は、私に向かって手を差し伸べた。
「すごいですね、王子殿下」
思わずそう伝えて小さな背中に手を回せば、王子は小さな頬をふくらませてこう言った。
「リカ!ぼくも、エリアスってよんで?」
「……わかりました。エリアス、よくがんばりましたね」
強く強く抱きしめれば、エリアスは満足げに微笑んでいた。
***
その夜、私は初めてこの世界の寝台で目を閉じようとしてた。
王子が深い眠りについている寝息が、隣室から静かに聞こえてくる。
それは泣きわめく娘の声ではない。
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