ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました

陽花紫

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寝不足の夜

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 この世界に来て、十日が過ぎた。
 相変わらず、現実なのか夢なのか分からないまま私は日々を過ごしていた。

 朝は早く、夜は遅い。
 泣き、笑い、怒り、そして謝る――。
 その繰り返しの中で、私はいつの間にか“世話係”らしくなっていた。
 
「エリアス、靴を履いてください。外は冷えますよ」
「いやだ!このくつ、いたいんだもん!」
「それじゃあ、少し大きい方にしましょうか?」
「それはぶかぶかだから、もっといや!」

「……もう、それならどうすればいいのよ」
 思わず、ため息が出てしまう。
 こんなやりとり、まるで昔の娘との朝みたいだった。
 そして眠い目をこすりながら「ママ、抱っこ」と言ってくる娘の姿を思い出してしまっては、勝手に胸が締めつけられる。

 エリアスは娘とは違うとは思っていても、心のどこかで娘の存在を探してしまう自分がいた。

「リカ様、少し休まれては?」
 見かねたメアリーが、優しく声をかけてくれる。
「殿下のわがままにすべて付き合っていては、身が持ちませんよ」

「ありがとうございます。大丈夫ですよ、子どもって、こういうものですよね……」

 そう答えながらも、瞼の裏がじんと熱くなる。
 本当は、大丈夫なんかじゃない。

 初日以来、私はぜんぜん眠ることができていなかった。
 自分ではないほかの誰かが作ってくれたあたたかい食事を口にしても、なにも味がしなかった。
 心のどこかが、まだあの時から止まったままだった。

 夜になると、エリアスはよく泣くようになっていた。
 もしかしたら、初日はただ沢山の刺激を受けて疲れていたせいであって普段は娘と同じで寝つきが悪いのかもしれない。
 悪夢を見るのか、突然目を覚ましては
「ママ、ママはどこ?」
 と、泣きはじめる。

 そんなとき、私はそっと寝台の傍に座って手を握ってこう唱える。
「ここにいるわ。大丈夫、大丈夫だからね。……怖い夢は、もう終わったの」
 何度も何度も、エリアスが落ち着くまでそう言い聞かせる。

 それでも、大粒の涙が止まらない時がある。
 その姿が、娘の夜泣きと重なって、私まで泣きたくなるのを必死に堪えていた。


 ある夜、私もついに限界を迎えてしまう。
 泣き止まないエリアスに苛立って、気付いた時には遅かった。
「いい加減にして!寝なさいって言ってるでしょ!」
 声が響いた瞬間に、我に返る。

 エリアスは怯えたように目を見開き、私のことを見つめていた。
 その瞳に映る恐怖の色が、あまりにも痛かった。

 ――まただ。
 また私は、怒鳴ってしまった。
 娘のときと同じように。
 胸の奥がぎゅっと締まり、がくがくと体が震えた。耐えきれなくなってその場にしゃがみこみ、思わず呟いた。
「ごめんなさい……。ごめんなさいね、あなたに怒りたくなんてなかったのよ」

 すると、小さな手が私の頬に触れた。
 エリアスが、私の涙を拭ってくれていた。
「……ぼくのほうこそ、ごめんなさい」
 たどたどしい言葉に、息が詰まる。
「あなたが謝るようなことじゃない。あなたが悪いんじゃないの、大丈夫よ。ごめんなさい。どうにもできない、自分が嫌なだけなのよ」
 私はその手を包み込み、静かに頭を撫でた。
「なきむしはだめだって、いわれているのに。それでも、ママがいないとこわいんだ」
 エリアスもまた、離れて暮らす母の愛情を求めているんだと思った。
 この世界で、王子として、一人で様々なものを抱えて生きているんだと思うと思わず強く抱きしめたくなってしまう。
「怖い気持ちも、よくわかるわ。いいのよ、人間だもの。泣いても、怒っても」
「いいの?」
 そして、娘もまた同じような寂しさを抱えていたのかもしれないと思うと、私はやりきれない気持ちでいっぱいになった。
「……そうよ」

 強く抱きしめ合って、私はエリアスの涙を拭きながら、こう思い立った。
「……そうね、大事なのは、泣いた後に笑顔になれることよ」
「……えがおに?」
「そう。泣いたって、誰も何も悪くないの。でも、ずっと泣いていてもますます悲しくなってしまうわ。それなら、泣いた後に笑顔でぎゅって、しましょう?」

 エリアスが、小さく頷く。
 私はもう一度強く抱きしめて、ゆっくりと背を撫でた。
 その温もりに、あの子の体温が重なって、涙がこぼれた。


***


 翌朝、ウィルが部屋に入ってきたとき、私はまだ床に座っていた。
 どうやら眠るエリアスを抱いたまま、うたたを寝していたらしい。

「……また、徹夜ですか」

 低い声に目を開けると、ウィルが眉をひそめていた。
 彼はいつも冷静で、感情をほとんど表に出さない。けれどもその瞳の奥には、わずかな心配の色が見えた。
「子どもは、泣くものですよ。叱るより、待つほうが難しいですが……」
 差し出された水をありがたく受け取って飲み干せば、昨晩までのもやもやとした気持ちがすうっと消えていくような気がした。

 そしてすっきりとした頭で、ウィルから投げられた言葉の意味を考える。彼の言葉はいつも遠回しで、ただでさえ疲労で頭が回らない私にとっては少し難しいところがあった。
「……待って、あなたに、子どもがいるようには見えないけど?」
「いません。ですが、王子を見ていればわかります」
「……そう……。じゃあ、少しは私の気持ちもわかってくれる?」
 思わず皮肉を言ってしまったが、ウィルは微笑すら浮かべずにこう言った。
「ええ。リカ様は、よく働いてくださっています。この十日で、殿下が夜泣きのあとすぐ眠れるようになりました。それは恐らく、あなたさまの声を覚えたからなのでは?」

 静かな朝の光が、窓から差し込んでいた。
 ウィルの言葉は不器用で、それでも不思議と私の胸に沁み渡っていた。
「……ありがとう」

「礼には及びません。ただ、無理だけはしないでください。リカ様に万が一のことでもありましたら、殿下が悲しみます」
 そう言い残して、ウィルは扉の向こうへと消えていった。

 背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、私は小さく息をついた。

 ――この世界に来てから、初めて「誰かに見守られている」と感じた。


 その夜、私は久しぶりに深い眠りについていた。
 エリアスも途中で起きることはなく、静かな寝息だけが聞こえていた。

 夢の中で、愛する娘が笑っていた。
「ママ、おこってもいいよ」
 と言って。
 私は強く強く娘を抱きしめた。
「今までほんとうに、ごめんね。大好きよ」
「ママ、だいすき。ぎゅーっ」

 その声があまりにも優しくて、目が覚めたとき、枕元がわずかに濡れていた。


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