それは悲劇などではなく

陽花紫

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再会

 ある日、町の空気は軽やかで、穏やかに吹く風が花の香りを運んでいた。

 診療所の前庭では、カズが静かに洗い物をしていた。
 陽の光を受けて、その頬に浮かぶ笑みは至極穏やかなものであった。

「カズ。くれぐれも、無理はしないように……」

 窓際から、ヨリのあたたかな声が投げ掛けられる。

「大丈夫。あと少しで終わるから」

 振り向いたその表情に安堵の笑み浮かべながらも、ヨリは時折、カズの瞳の奥に宿るわずかな影を見逃しはしなかった。
 穏やかな日々暮らしの中で、ふと、どこか遠くを見つめるような寂しさがある。
 それが誰への想いなのか、未だにヨリはカズに問いかけるようなことができずにいた。

 ある日の昼時、休診時間であるというのに診療所の扉が勢いよく開かれた。

「突然、すまない。ある、人間の男を探しているのだが……」

 まるで咆哮であるかのように、辺り一面にやけに大きく響く声。
 その瞬間、カズの手から陶器の皿が滑り落ちる。
 乾いた破片の音が、二人の間に流れる静寂を裂いていくようでもあったのだ。

 思わず、目を見張る。
 扉の前に立っていたのは、深い青の衣をその身に纏い、黄金の髪に琥珀色の瞳を持つ、ある一人の獣人であったのだから。

 時が、止まったようでもあった。
 何事かと駆けつけたヨリは、その男の姿を目の当たりにするなり本能的にカズの前へと立っていた。

「失礼ですが、あなたは……?」
「俺は、レム。この国の王子だ」

 その言葉に、ヨリの耳がわずかに動く。

「……王子様が、なぜこのような田舎町に?」

 レムは顔色一つ変えることなく、低くこう告げた。

「カズを、迎えに来た」

 その名を呼ぶ声に、カズの胸は強く跳ねる。
 懐かしくもあり、そして痛いほどに愛おしいその響きをカズはこれまで待っていた。
 待っていたはずでもあったのだ。しかし、今は隣にヨリがいる。
 ヨリもまた、すぐさま二人の間柄に気づいてはその胸をひどく痛めていた。

 カズは静かに呼吸を整え、掠れた声を振り絞る。

「……迎えに……?」
「そうだ。あれからずっと、お前のことだけを探していた。だがどれだけ探しても、お前は見つからなかった……」

 レムのその声は、ひどく震えていた。

「やっと、見つけた……」

 ヨリは黙って、カズを見た。
 カズは青ざめた顔をして、しかし、震える唇を開いていく。

「レム、俺は……」

 しかしその名を呼ぶだけで、胸の奥から熱いものが込み上げる。
 だが、涙を流すような真似はしなかった。
 カズはヨリに向き直り、静かにこう言った。

「……少しだけ、彼と話をさせて……。すぐに終わるから」

 ヨリはただ、頷くことしかできずにいた。

「すまない……」

 レムもまた、大きく息を吐いてヨリの隣を過ぎ去った。

 カズとレムは、奥の部屋へと消えていった。
 扉が閉まる音がして、静寂だけが広がっていく。

 診療所の椅子に深く腰を下ろして、ヨリは一人項垂れた。

「あれが、……」

 かつてカズが愛した獣人は、確かに、愛してはいけないような立場の男であったのだ。
 しかしあの琥珀色の目には、まだカズへの愛が浮かんでいた。

 祈るように、手を組んだ。
 カズと揃いの銀の輪が、ささやかな光を放っていた。しかしそれは、決して王宮の眩さには敵わない。
 ヨリはただ、深く息を吐いていた。

***

 別室で、二人は静かに向かい合う。

 レムは言葉を失ったかのように、ただカズの顔を見つめていた。
 しかし、覚悟を決めたように口を開く。

「少しばかり、やつれたか……?だが、穏やかな顔をしている」

 その言葉に、カズもまたレムの目を見てこう呟く。

「ヨリが、……。先ほどの彼が、行き倒れていた俺を見つけてくれました。とても、……優しい人です」
「……そうか」

 沈黙が、落ちる。
 その間も、レムの目はカズの身へと向けられていた。
 そして、視線は下へと降りていく。
 その場所に辿り着いたとき、レムはかすかに唇を震わせた。

「子は……、どうなった……」

 その問い掛けに、カズの瞳がわずかに揺れた。
 そして、小さく首を横に振る。

「……生まれることは、ありませんでした……」

 レムの表情が、凍りつく。
 あまりにも長く、その沈黙は続いていた。

 やがてレムの肩は大きく震え、両の拳が膝を打つ。

「すまない……すまない、カズ。もっと早く、お前のことを見つけていれば……!」
「それは、レムのせいじゃない」
「違う!俺は……、お前と子を守ると誓った……!」

 鋭い爪が拳に食い込み、やがて、そこから細く赤い血が流れていく。
 カズは静かに手を伸ばし、涙に濡れるレムの頬へと触れていた。

「泣かないで……。俺は、今もこうして生きている。あの子は……きっと空から、あなたのことを見つめている」

 その言葉に、レムは息を詰まらせた。

「カズ……。お前は、俺のことを……」
「……レム。あなたに愛されたこと、それは俺の誇りです」
「では、なぜ……」
「でも、もう俺の生きる場所はここにある。今の俺には、ヨリがいるから……」

 頬を掠める銀色の光に、レムは全てを理解したかのようにゆっくりと顔を上げていく。

 その瞳に、もう涙はなかった。

「……そうか」

 レムはゆっくりと立ち上がり、最後にカズの手を優しく握った。
 その手のひらに、かつての温もりが思い出される。

「お前を失って、俺は王子であることの意味を知った。これからはこの国を、お前のような人間が笑って生きることができるような国へと変えていくつもりだ」

 レムはカズの手の甲に、口づけを一つ落としていく。
 その静かな誓いに、カズは涙をこぼしながら微笑んだ。

「……ありがとう。レムならきっと、いい王様になる……」

 レムはそれ以上何も言うようなことはなく、静かに部屋を後にした。

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