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第二章 ポストクリスマス

鴉の木

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「ごめん。ごめんな、不魚住」

 ぐったりと俺に寄りかかる不魚住は、なにも答えないし動かない。鼓動もない。ただ俺の体を血で濡らす。

 認めたくなかった。
 空は青く澄んでどこまでも高いのに、地にへばりついた俺は友達の死体を抱いている。
 不魚住が死んだなんて、認めたくなかった。どう見たって、死んでいるのに。いつまでも離れることができなかった。

「お前はずっとブレーキを踏んでいてくれたのにな……。ごめんな、不魚住」

 不魚住がブレーキから足を離した途端、この有様だ。

 信号機を疑った。そして、親友の手を引いて赤信号を渡った。結果的に不魚住を死に追いやった俺の手は、まるで地獄へ引きずり込む物の怪の類だ。

 きし。

 音が聞こえた。
 瑞々しい音。生命の躍動を感じさせる音。

 不魚住のボロボロになった装束の下から、若い芽が出てきていた。

「あぁ……」

 そうだ。
 やっぱり、不魚住は死んだのだ。
 嫌だ嫌だと首を振っても、認めたくないと空を仰いでも、不魚住は死んだのだ。
 もう戻らない。優衣子のときとは違う。確かな実感をともなって、俺の親友が腕のなかで死んでいる。木に変わろうとしている。

「行かなくちゃな」

 後戻りはできない。
 ここで引き下がっては、不魚住は無駄死にだ。

 まだ動く。俺の体は、まだ動くのだ。俺は生きている。助けてもらった。
 だから、不魚住の生と死に意味を与えるためにも、俺は進まなくちゃいけない。
 不魚住のおかげで、俺は世界の嘘を暴くことができるのだ。

 不魚住をそっと横たえる。
 ふと顧みた並木道は、ざわざわと音を立てて消えようとしている。徐々に死者の木々が元の位置に戻り始めていた。

 そんななか、死者の大木と比べると小さい――まだ若い死者の木が、ゆっくりと近づいてきた。

「な、なんだ?」

 閉じる並木道を抜け、土や草をかきわけて、小ぶりな死者の木が俺たちのそばに来る。そして、まるで抱き上げるかのように、根を動かし、不魚住をその幹に預けさせた。

「ばあちゃん?」

 俺は、訳もわからないまま、そう口にしていた。
 急激に鼻が痛くなる。

「ばあちゃん、不魚住が……!」

 眼球周辺が燃えるように熱い。

「不魚住が……、死んじゃったよ!」

 堰を切って、涙がこぼれ落ちる。
 制御不能だった。自分でも驚くくらい大きい声で泣いた。

 白衣の男の死体。
 武装した男たちの死体。
 不魚住の遺木。
 生きる者のいない死者の園で、俺はひとり泣きじゃくった。



 ◇



 他人を扇動することの恐ろしさを知ったような気がする。良かれと思って友達の手を引いた。そんな自分が、じつは地獄へ導く悪魔だったなんてこともある。

 なにが出るかは、わからない。
 平和な嘘の世界を破壊して、現れるのは地獄の真実かも知れない。
 でも、いいさ。壊してやる。俺はもう悪魔なのだから。
 申し訳ないけれど、父さんも、母さんも道ずれだ。この世界の人すべてを道ずれにして、俺は真実の地獄へ落ちる。

「優衣子は……」

 逃げていてくれれば良いな。
 どこへ?
 わからない。わからないけれど、消えた暗い顔の女を思い出す。こつぜんと、どこかへ消えてしまった。そして、そいつと仲間なのかどうかは、もうどうでもよくなった二森沙兎。あの人が優衣子を連れ去ったのなら、どこかへ消えるように逃げていてくれるかも知れない。

 ふと、立ち止まる。大鳥居を背に、御神木へ向かう足が止まる。
 太陽は西に傾き始め、埋葬林は影がすこし濃くなってきていた。

 思えば、不思議だった。
 不魚住は殺された。だというのに、怒りというものが消えてしまっている。全身を焼くかと思えた衝動がない。
 白衣の男は不魚住自身が果たした。暗い顔の女は消え、仲間らしき男たちは果てている。そして、二森沙兎に関しては、敵なのか味方なのか、いまいち測りかねる。味方だと断言できるほど信用してはいない。だけど、敵だと断言するには、あの人はすこし甘っちょろい気がするのだ。

 だからだろうか。怒りはない。燃えて尽きてしまったのだろうか。
 ただ己に起因する申し訳なさだけがあった。いまは、それも薄れてきている。

 どういうことだろう?
 いや、いい。進もう。とにかく御神木のもとへ。
 視界の端にへばりついたゴミを手で払いのけ、俺は歩く。巨大な根を横切って、天を衝く幹へと向かう。体は重く、目はかすむ。けれど、脚は確実に運ぶ。それに集中する。一歩一歩、確実に歩いていく。

 どのくらい進んだろうか、巨大な根に囲われた小さな祠があった。壁のように立ち上がる根に遮られ、日の光も薄い場所。静かで、涼しくて、すこし湿っている。
 祠の横には、その場所を守るかのように石像が設けられていた。普通の神社でいう狛犬とかの類だろう。狐だったり猿だったり、魚だったりと様々だ。そして、この場所にあったのは、カラスだった。祠よりもすこし手前、左右に二体の鴉の石像。台座の上で、じっと俺を見ていた。

 ゴミ捨て場の鴉。電線で休む鴉。なんの用なのか、ベランダの手すりに止まる鴉。ひょいと、道端に降りてきた鴉。目の前の苔むした石像の鴉。
 どこにいたって、なぜだか鴉にはすこし怯んでしまう。真っ黒なその瞳に見られ、足を止めてしまう。俺は口を開きかける。言葉は出ない。鴉に通じる言葉を俺は持たない。だけど、確実に俺という存在を鴉は認識している。俺もそうだ。だから、鴉でなくて人間であったなら、軽く会釈でもしかねない空気感。鴉と目が合うと、いつもそうなる。

 黒い瞳に、確かな知性を感じるからかも知れない。
 だけど、俺たちは互いに意思の疎通をはかる術を持たない。ただ互いに意識しあって、瞳の奥の意思を感じているだけ。

「はは……」

 乾いた笑いがこぼれた。

 変わらないか。
 共通の言語を持っていたって、わかり合えないことはある。意思がぶつかり合うこともある。もう駄目だと諦めてその場から飛び去ることもある。無理やり意思を通そうと腕を振り上げるやつだっている。そんなとき、目の前にいたのは果たして人間だろうか。俺の目には人間として映っていたろうか。相手の目には、俺は人間の姿に映っていたろうか。
 手すり、あるいは電線の上で、様子を窺う鴉と変わらない。俺たちは、言葉を話す鴉だ。

 俺は祠を横切る。
 鴉の石像は、今度はなにを見つめているのだろうか。遠く広がる死んだ鴉の群れ――鴉の木々だろうか。

 ひどく穏やかな気持ちだった。
 いや、すこし違う。風がなく、波打たない湖とは違う。凍り付いて動かない湖だ。凍った水面のような心を引きずって、俺は進む。
 重い足取りが残している赤い足跡も、それほど気にならない。実は横腹に空いていた穴も、もう気にならない。ただ歩く。真実の地獄へと向かって足を運ぶだけ。

 いつの間にか、視界は緑の薄明が渦巻いている。ときおり見えていた粒子だろう。しかし、その濃さが尋常ではない。まるで、あわく光る緑の海だ。俺の動きに反応して、粒子がするすると動いている。不思議と、どれほど濃くても粒子以外の物が見えなくなることはない。

 その粒子が、ごうごうと上空に巻き上がっている場所があった。巨大な蛇の移動。はたまた、観測史上最大の竜巻。あるいは、嵐の壁。
 ついに俺はたどり着いた。
 大鳥居を越えた埋葬林の中心――深奥――禁足地。岩木林宮の御神木だ。

 ここまで近づくと、もはや木とは思えない。質感こそ木ではあるが、その圧迫感は巨大な壁だ。緑の嵐渦巻く大壁。

「不魚住、優衣子」

 親友の名を口にした。

「俺、たどり着いたよ」

 伸ばした手の甲に、小さくて白い花が咲いた。続いて、中指にも咲いた。俺にはそんな可愛らしい趣味はないが、まるで花の指飾りだ。
 お花の指輪をした俺の手は、緑の嵐をやすやすと通り抜け、御神木の幹に触れる。

 一瞬、大地震が起こったような気がした。あらゆる根底を揺らして崩す大災害。しかし、実際は地震など起こっていない。
 と思う。なにせ、もう俺の目には埋葬林や御神木は映っていない。いや、わからない。

 なにが起きているのか、わからない。

 洪水だ。情報の洪水に、脳が痺れている。安全装置だろうか。とてつもない情報量で脳が焼き切れないように、いったん受け流したような気がする。

 ぼんやりとする頭で、どうにか端を掴もうとする。雪崩れ込んでくる一人の身には余る情報を、すこしずつ整頓し、フォーカスしていく。

「あぁ、鬼沢おにさわくん。お疲れ様です。どうでした、初の仕入れ作業は?」

 え?
 鬼沢とは、だれだ?
 あんたは、だれだ?

「いやー、まさか戦場の真っ只中に行くことになるとは思いませんでした。飛んできた砲弾を見るなり、即撤退です。あの音と震動は二度と体感したくありませんね」

 だれの声だ。
 俺か?

 そうだ。俺だ。鬼沢だ。鬼沢晃おにさわこうだ。
 いや、違う。俺は外ヶ浜巽だ。

 これは、記憶か。
 情報に飲み込まれないように、強く自分自身を意識する。

「危ない……。それは運が悪かったですね。観測所も頑張ってはいるんですが、どうしても誤差は生じるみたいです」

 目の前でこちらに向かって話す年上の女性。常盤坂園美ときわざかそのみは、とても優しそうで、どこかで会ったことがあるような、むせ返るほどのノスタルジアを感じさせた。

「……ばあちゃん?」

 なぜか、そう口走ってしまった。

 そして、俺はこの世界のあらましを知った。




 ―― 第二章 ポストクリスマス 完 ――
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