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第二章 ポストクリスマス

埋葬林攻防戦 (4)

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 猛吹雪のなか、二森は埋葬林に向かって車を走らせている。彼女の腕では、八九二がハザード警告を鳴らし続けていた。

「わかってるよ!」

 二森は叩くようにして八九二を黙らせる。
 車載テレビからはニュースが流れていて、埋葬林の拡大と、800メートル以上離れていた駅が飲み込まれた旨を報道していた。

「くそっ。モタモタしてる間に……!」

 己の踏ん切りの悪さに、二森自身、いい加減頭にきていた。
 真っ先に埋葬林へ向かえばいいものを、国葬連へ行ってしまった甘え。そして、その甘えの代償として、無用の惨事を招いてしまっているこの状況。

 フロントガラスには、二森を逆撫でするように雪がばちばちと張り付く。苛立ち任せにワイパースイッチを叩き下ろす二森。
 ワイパーは千切れんばかりの仕事をするが、目の前の雪を取り払うだけである。降りしきる雪に、視界は悪くなる一方だった。

 その悪い視界の端で、ゆっくりと地面が盛り上がるのを二森は見た。

「なんだっ……!?」

 対向車線をめくり上げるように、畑から国道に向かってなにかが地中を進行してきていた。

 前を行く車が、次々と急ブレーキとスリップを繰り返し、車道から弾け飛んでいく。対向車線はめくれ上がり、対向車はアスファルトと一緒に畑へ転がり落ちる。
 二森の右足は、一瞬、ブレーキを踏みかけた。しかし、とっさに切り替え、アクセルペダルを踏みつける。

 悲鳴とクラクションと、道路が崩壊する音が聞こえる。
 地中を進行していたなにかが、急カーブを描いて停止した。国道を分断した形だ。道路は盛り上がり、行く手は阻まれた。

 それでも、二森は盛り上がる車道に向かってアクセルを踏み続けた。中央分離帯に突っ込んで止まった車を、わずかにハンドルを左にきって避ける。そして、すぐさまハンドルを戻すと、後輪が雪に取られて車の尻が滑った。

 二森は、噛み砕かんばかりに歯を食いしばった。

 尻を滑らせたまま、二森の車は盛り上がったアスファルトを駆け上がる。車体がわずかに浮いて、車輪が空転する。
 ほとんど横滑り状態のまま、二森の車は盛り上がったアスファルトを飛び越えた。左側の車輪二つで着地。そのまま倒れて横腹を削る。中央分離帯の手前で車はひっくり返り、ガードレールに突っ込んでようやく止まった。

 逆さまでシートに張り付けられている二森。シートベルトを外して、彼女は肩から天井に落ちた。叩きつけられた長身は、痛みにうずくまる。

「死ぬかと……」

 息も荒く、二森はひっくり返った車から這い出した。スーツが雪にまみれて白く染まるなか、金髪のおかっぱ頭にわずかな赤が差す。頬まで流れ落ちてきた血をぐいと袖で拭い、彼女はよろよろと立ち上がった。

「いったい、なにが……」

 アスファルトを突き破り、いまは動きを止めているそれが、二森にはのように見えた。

「まさか、御神木の……」

 つぶやいた二森の目に、さらなる異様が飛び込んでくる。
 かろうじて事故を逃れた数人が、車を降りて巨大な根に近づいて行ったときだった。

「おいおい! なんだこのバカでかいゴボウぉおおおああ……!?」

 奇声を上げて、カップルの男が木になった。思わず男に抱きついた女も、同じく木になってしまう。そして、盛り上がったアスファルトの向こう側からも、何本かの木が顔を出した。

 二森は慌てて腕の八九二を確認する。起動していた収集プログラムは、愛子が三人組を抑えている様子が表示されていた。

「まだ、間に合うか……!」

 吹雪のなか、二森は埋葬林に向かって走り出す。しかし、彼女の平たい靴は雪を捉え損ね、地面に全身を打ち付けてしまう。

「……いっててて。くっそ!」

 呻きながら立ち上がった二森。その彼女の横を、側道を駆け上がってきたSUVが通過する。後方を確認し、国道へ合流しようとした運転手と目が合う。

「あ! 先生!?」

 運転席の男は二森に気付き、SUVを急停止。パワーウィンドウを開いた。

「沙兎ちゃん!? の、乗って!」
「林崎先生、どうしてここに?」
「どうしてもこうしても、こんな状況じゃ研究室にこもってたらハザードが起こる。僕の優先事項は、この物語世界と研究室の存続だからね」

 二森を助手席に乗せ、林崎のSUVが走り出した。いまだスタッドレスタイヤを装着しているのか、薄く積もった雪をものともしない。

「こっちとしても、この物語世界には存続してもらいたい」
「そうじゃないだろう。だから君は甘いんだ、沙兎ちゃん。君の最優先事項は、いまとなっては成果物の回収であるはずだ。この世界の存続なんて二の次だろう? あの子らに関していえばさらに下だ。CFSや新生CFSの抹殺のほうが、まだ優先順位が高いくらいだ。違うかい?」

 二森は項垂れ、ダッシュボードに頭を乗せる。

「いい加減、わたし自身ムカついてた。あの子たちに対しては、どうしても非情になれない」
「さっさと始末していれば、こんな状況にはなってないものなあ」

 林崎は、腕の八九二をコツコツと叩いた。その八九二は、いまにも壊れそうなくらい傷だらけだった。

「あの子ら自身は知る由もないだろうけど、いまやあの三人は物語世界を破滅に導く急先鋒だ」
「うん……」



 ◆



 断続的に響く銃声。そのたびに弾ける死者の木と、バギーの破片。

 慌ててハンドルをきったからか、バギーは横転し、俺たちは投げ出された。俺と優衣子は、どうにか左右の大木の陰に隠れられた。しかし、不魚住は続く銃撃に阻まれ、バギーに釘付けにされてしまった。

「不魚住!」
「まだ、大丈夫!」

 不魚住は身を小さくしながら、バギーのシートを開いている。シートの下にはちょっとした収納があるらしく、ショルダーバッグを取り出していた。

「うわっ!」

 不魚住が短く悲鳴を上げた。
 バギーの周辺に銃撃が行われたのだ。

 不意にばらまかれる弾幕は、どうにも一人の銃撃ではないように思えた。ときおり優衣子がライフルで応戦するも、相手の手数が多すぎてどうにもならなかった。それどころか、姿さえ確認できない。
 相手は、悪戸の言っていた暗い顔の女だろうか。そして、仲間だという二森さんもいるかも知れない。そうであるとして、どっちがマシだろうか。後退と前進。愛子と二森さんたち。
 愛子なら、ロジックで説き伏せられるだろうか。いや、愛子のアウトプットを変化させられるほどのインプットを、俺たちができるとは思えない。冷徹なアルゴリズムで、俺たちを叩き伏せるだろう。

「僕はこのまま、ここで引き付ける! 二人は迂回して進んで!」

 そう叫んで、不魚住はショルダーバッグから弾を取り出した。そして、震える手でグレネードランチャーに込めている。

 そうだ。
 いまさら後退なんてあり得ない。俺たちは前進するしかない。

「お前も来い、不魚住!」
「駄目だ! バギーから出たら撃たれる!」

 不魚住の言葉を肯定するように、並木道の向こうから弾丸がバラまかれる。銃撃は徐々にバギーへと集中してきていた。狙いを絞り始めたのだろう。

 反対側にいる優衣子を見ると、向こうも俺を見ていた。可哀想なくらい蒼白な顔で、花を咲かせている。

「巽! 優衣子! 行って!」

 行くしかない。どうにか進んで、どうにか撃退できれば、不魚住も助けられる。
 俺は優衣子に頷いて見せる。優衣子もまた、俺に頷いて見せた。

 浅葱色の袴。装束姿の不魚住が、朱色のグレネードランチャーを手にしている様子は、改めて見るとくらくらしてくる。
 グレネードランチャーを手にした馴鹿の向こう側には、同じく朱色のマークスマンライフルを撃つサンタクロースがいる。少し前の俺は、まさかこんな状況に置かれるだなんて、微塵も思わなかった。

 思うことさえ、できなかった。
 偽りの信号機。それを、俺たちは暴きに行く。

 相手の銃撃。そのわずかな間隙を衝き、不魚住は横転したバギーから頭を出す。グレネードランチャーの引き金が絞られた。
 俺と優衣子は、それを合図のようにして、密集した大木のなかを進み始める。

「待ってろ、不魚住!」

 前方で轟音が響く。不魚住のグレネードだろう。今回は本当に薔薇などではなかった。

 その爆発音を聞きながら、俺は大木をかき分けて進む。並木を形成したためだろう、死者の木々はぎちぎちに密集していて、ほとんど飛び越えるようにして進まなければならない。
 並木道のほうを窺うが、優衣子の姿は見えない。いくら運動神経が良いほうだとはいえ、彼女はライフルを持ったままだ。うまく進めているだろうか。

 銃声と、それに応戦する爆発音。自分の荒い呼吸。揺れる木々の葉擦れの音。
 かき分ける。飛び越える。前へ。不魚住が耐えている間に、とにかく前へ。

 ふと気付くと、断続的に響いていた銃声が止んでいた。



 ◆



「同志妙見、一人に絞りましょう」
「そうですね。では、バギーに釘付けにした彼にしましょう」

 大鳥居の柱に隠れながら、妙見と二人の男が並木道に向けて発砲を繰り返していた。

「グレネード!」

 もう一方の柱にカバーしている男が叫んだ。
 妙見たちは弾道を見極め、柱の陰に隠れる。大鳥居のやや手前で、放物線を描いて飛んできたグレネードが炸裂した。

「あの少年、けっこう慣れてますね」
「同志アンドリュー、それよりもライフルの射撃が止んだ。周囲を警戒してください。赤い子が来るかも知れません」
「了解。いざというときは?」
「巽少年以外は、射殺しても構いません」

 アンドリューは薄く笑みを浮かべる。

「我々が同志悪戸の仲間だとも知らず、三人は向かってきている。我々は御神木を守るフリをして、巽少年の仲間を殺し、彼の視野を狭める。御神木へ一直線に向かわせる」
「同志アンドリュー、いまさら任務内容の確認ですか?」

 妙見は柱から身を出し、射撃しながらアンドリューに応答した。

「いや……。この作戦も、同志悪戸が考えたものですか?」
「はい。いやらしい搦め手を考えさせたら、あの人はピカイチかと。それがなにか?」
「同志悪戸は、子供相手でも容赦などしない人だな、と」
「当然です。子供を相手にしているのは、過程で生じた事柄にすぎません。我々が相手にしているのは、あくまでも“楽園”です」

 暗く沈んだ表情で、妙見はアンドリューを一瞥した。重そうな目蓋のしたで、なんの感情も含んでいないような黒い目が動いている。

「そうですか……。いや、たしかにそうですね。すみませんでした」
「いえ。任務に集中してください」
「了解!」

 そう言い残し、アンドリューはアサルトライフルを胸元で構えて走り出した。
 そして、頭を勢いよく傾げ、そのままくずおれた。

 それを見た妙見は、咄嗟に反対側の柱に向かって駆けた。

「同志妙見! 楽園の二森です! 予想より早い!」

 柱にカバーした妙見に、男が叫んだ。
 アンドリューは、横から頭を打ちぬかれたのだ。その死体を盾にして、二森は伏せているようだった。

「やられましたね。同志イルモ、バギーの少年は?」
「数発命中しています。即死には至りませんでしたが、まもなく絶命するかと思います」

 双眼鏡を覗きながら、イルモが答えた。

「上出来です。あとは、それを巽少年に知らしめ、退却するだけです」
「はい」
「ゲートを開きます。二森の頭をおさえてください」
「了解」

 二人がカバーしている大鳥居の柱が、木くずを跳ね上げた。
 アンドリューのアサルトライフルを奪い、二森が引き撃ちで後退していく。

「GO!」

 二森の射撃の合間をつき、イルモがアサルトライフルのフルオート射撃を開始した。
 同時に、妙見は御神木のほうへ駆け出す。腕の八九二を操作しながら、御神木の巨大な根の陰に入った。そして、すぐさまサブマシンガンで二森を大木に張り付ける。

「イルモ!」

 妙見の合図を受け、イルモは射撃を止めて妙見のもとへ駆け出した。
 が、イルモの表情が歪む。
 イルモの背中に、グレネードランチャーの弾頭がぶつかった。

「グレネー……ド!」

 つんのめったイルモの間近で、グレネードの信管が作動する。火薬が炸裂し、弾殻が砕け散り、イルモの体を吹き飛ばす。

 イルモが砕けたと同時に、妙見の背後にが発生した。

「お疲れ様です、同志イルモ。そして、同志アンドリュー」

 小さく呟いたあと、妙見はゲートに向かって後退していく。二森の銃撃は、巨大な根によって阻まれた。

 妙見チームの任務達成は目前であった。最後の一押し。後退の際に、妙見の視界に入った人物に向け、彼女は微笑んで見せた。
 汚されてしまった世界に生まれた不幸と、これから消えゆく世界に生きている不幸。それらに対しての、せめてもの餞のつもりであった。



 ◆



 体が燃えた。
 足の先から髪の毛の一本に至るまで火がついた。それは感情の炎だ。
 眼球が飛び出そうなほど見開いた視界に、ニヤついた女がいた。

 何日も寝ていないような光のない三白眼。乱れた黒髪。暗い相貌の女。まるで葬式に参列しているような黒尽くめの女。

 間違いない。悪戸が言っていた女だ。二森沙兎の仲間。この世界を嘘にした。信号機を狂わせた。
 その張本人たちが御神木を守っていた。真実があるという御神木。

 そして、あの顔だ。
 もやもやした透明の霧のなかに消えてしまったが、たしかに俺に向けた笑顔。頬にべっとりと泥を塗りつけられた心地だった。

 『遅かったな』

 そう聞こえてきそうだった。
 俺が勝手にそう捉えたにすぎないが、あれは嘲笑だった。俺をあざ笑っていた。大木をかき分けて、ようやく到着した俺をすぐさま見つけ、笑ってみせた。

 やめてくれ。遅かったってなんだ。俺はなにを逃した。俺の手は、なにを零したんだ。

 気が付けば、俺は駆け出していた。

「不魚住!!」

 大木の隙間から飛び出し、並木道を戻ろうと走った。
 が、横からの衝撃で俺は草むらを転がる。俺を抱え込むようにして、なにか――だれかが一緒に転がっている。

「動くな」

 うつ伏せで地面に抑え込まれた俺の頭に、銃口の気配が押し付けられた。
 ハンドガンよりも大きくて重い気がした。

「二森さん……」

 考えてみれば、そうだ。御神木を守っていた全員が引き上げるはずもない。

「動かないで」

 動いてねえよ、そう言おうとしたが、気付いた。
 砂色のタクティカルブーツ。赤いボトムス。大きくて赤いダッフルコート。白いファーが風で揺れる。
 地を這う視界に、優衣子が立っていた。

「優衣子ちゃん、銃を下ろして」
「許さないからな。狂った信号機め……」

 優衣子の顔は角度的に見えない。でも、見えなくてもわかる。はらはらと散ってくる白い花びらと、震える声。きっと、優衣子も気付いたのだ。
 遠目からでもわかる。バギーはボロボロだった。不魚住は、さすがに無傷ではいられないだろう。

「カリブーや皆を撃ったのは、わたしじゃない。わたしの敵」
「信用できるか。御神木に都合の悪いなにかがあるんだろ? 自分の都合で俺を殺すって言ったアンタを、信用できるわけない。現に、いまもこうして――」
「巽くん、すこし黙って」

 ぐいっと、頭に強く銃口が押し付けられ、顔が地面にこすれる。土と草の香りにむせ返った。

「さ。銃を下ろして。脅してでも頼みたいことがあるんだ」

 しんと静まり返る埋葬林。
 呼吸をゆっくりと二度。永遠にも感じるたっぷりとした静寂を破り、優衣子がマークスマンライフルを下げた。

「こっちに投げて」

 すこし躊躇したあと、優衣子は黙って二森に従った。

「ありがとう、優衣子ちゃん」
「頼みってなに?」
「うん……。あなたの墓守遺伝子が必要なんだ。人を助けるために。だから、わたしと一緒に来て」
「なにそれ。意味不明。断る」
「巽くんの命と引き換えだぜ?」
「この女……!!」
「お願い! 優衣子ちゃんが協力してくれれば、弟の命を救えるかも知れないんだ!」

 二森の懇願に、優衣子が息をのんだのがわかった。

 人と木は、昔から密接な関係にあるとされている。すべてが解明されているわけではないが、死者の木の存在が関係の親密さを裏付けていた。
 でも、人は死んでも木になんてならないという悪戸の言葉は、妙にすんなりと腑に落ちる。ならば、死者の木と密接な関係にある墓守もまた、嘘の世界の産物ではないのか。偽物なのではないのか。それを欲する意味とはなんだ。真贋など、関係ないというのだろうか。

 一瞬、またテクスチャが剥がれるように、視界のあちこちが四角く綻びた。

「時間がない。優衣子ちゃん、協力してくれるなら、ほかは好きにして良い。皆で一緒に来てくれても構わない」
「来てくれって……、どこに? 黒い女はどこに消えた? 不魚住奨はどうなる? どうして問答無用で攻撃した?」
「もう一回言うけど、攻撃したのは別のグループ。わたしの敵。カリブーも、間に合うなら助けたい。だから、協力して」

 また、静まり返る。
 暖かい五月の風が、埋葬林の木々を揺らした。

「ひとつ、聞いていいですか?」

 俺は、俺を押さえつける二森に言葉を投げた。緊張していたのか、優衣子は大きく息をついた。

「なに?」
「愛子は、俺たちのせいで世界が終ると言った」

 俺たちが御神木へ向かうことは、世界を破滅に導く行為。

「悪戸は、いまの有様は四季ノ国屋のせいだと言った」

 矛盾していると、最初は思った。
 世界が終わりに向かっているのが本当だと仮定して、世界の終焉を引き起こしているのが、“俺たち”だと言う者と、“四季ノ国屋”だと言う者。
 両者の言い分は矛盾していると思った。
 だけど――。

「二つが矛盾しない回答があった。信号機が狂った嘘の世界にしたのがアンタたちで、それを終わりに導いているのが俺たちだ。違いますか?」

 俺の首根っこを押さえる力が増した。

「それは――」

 二森がなにか言いかけた、そのとき。
 乾いた木が割れたような、凄まじい音が響いた。

「なに!?」

 全員が、音の発生源に顔を向ける。

 岩木の大鳥居だった。
 大鳥居の巨大な二本の柱。そのうちの一本に亀裂が走っていた。根元から、視認が難しいほど上まで、真っ直ぐにひび割れていた。
 ぞっと、理屈を超えた恐怖がこみ上げる。

「なにもかも、あとで説明する。だから急いで! 優衣子ちゃん、協力すると頷いて!」
「説明を聞いて納得できなかったら、わたしはなにを仕出かすかわかんないよ?」
「構わない!」

 優衣子が、了承した証のように両手を頭の後ろで組んだ。
 それを見て、俺も観念した。俺たちは騙されていて、牢にぶち込まれたり、ひどい扱いをされたあと殺されるかも知れない。そういう恐怖や疑念は尽きない。
 でも、話を聞いてから改めて考え、抵抗したって良いかも知れない――。

 不意に、俺を押さえ付ける力が軽くなった。
 優衣子が目を剥いている。

「後ろがお留守だ、沙兎ちゃん」

 知らない男の声と、数発の銃声。転がる金髪おかっぱと、優衣子の絶叫。

「なんだ……? なにが……」

 あたりを窺う俺の背中に、温かいものが流れ落ちてくる。そして、のしかかる重さ。知っている重さ。体重。
 体を起こした俺の視界に、浅葱色の袴が飛び込んできた。

「林崎先生……」
「まったく。気を抜きすぎだよ、沙兎ちゃん。危うく後頭部をガツンだったよ。よっぽど彼らに気を許していたんだね」

 グレネードランチャーを抱え、不魚住が血まみれで寝ている。

「おい……。重てえって。不魚住、寝るなら家帰ってからにしろよ」

 ありえないくらいに疲れているのだろう。不魚住は揺すっても起きる気配がない。

「おいおい。優衣子、なにしてる?」

 爆睡している不魚住の横で、優衣子が朱色のライフルを口にくわえた。

「馬鹿!!」

 二森が優衣子を突き飛ばす。放たれた弾丸は大鳥居を削った。

「優衣子ちゃん、思い切りが良すぎる!」
「だって、わたしが生きてたら、不魚住奨が……!!」

 暴れる優衣子からライフルを奪い、二森はがっちりと後ろから優衣子を羽交い絞めにした。

「残念だけど、カリブーは不転化個体じゃない。死んだら木になってしまう。だから、優衣子ちゃんが死んでも意味がない」

 今まで見たことがない。
 あんなに取り乱し、大泣きする優衣子を、俺は初めて見た。

「優衣子、どうした? 大丈夫か? なあ、お前もいい加減、ここで寝るのやめろよ……。なんでお前を抱っこしなくちゃいけないんだよ」

 不魚住の頭を軽く小突いた。
 どろり、と胸元から血が流れ落ちた。真っ白な上着が、赤く濡れていく。

「あぁ……」

 驚くほど、静かだった。
 自分でもびっくりするほど、俺は静かに受け入れた。

「不魚住が死んだ……」

 そして、不魚住を殺した林崎と呼ばれた男は、今度は俺に銃口を向けている。

「それだけハカマモリの花を咲かせていながら、その取り乱しよう。たしかに彼女は普通の墓守ではないね。博打に勝ったというわけだ……。沙兎ちゃん。いや、“楽園”。ここは痛み分けとしよう。その子を連れだすことを僕は見逃す。だから、ここにはもう関わらないでくれ」
「……いいよ。わかった」

 そう言うと、ぐったりとした優衣子を引きずるようにして、二森は立ち去ろうとした。

「待て。どこに行く!」
「動くな、少年」

 林崎は俺に銃を向け、申し訳なさそうな顔をして見せる。

「悪いね。世界のために死んでくれ」

 どこか、ぼうっとしていた俺は動けずにいた。林崎の手にしている拳銃。その引き金が絞られる。
 そのとき、間の抜けた音が俺の腕のなかで鳴った。筒からなにかが飛び出したような、そんな音。

「嘘だろ……!」

 林崎は驚愕の表情で、後方に駆け出した。
 俺は押し倒され、強く押さえつけられた。

 轟音。びりびりと体に響く音。
 土や小石が跳ね飛び、死者の木々は枝や幹を弾けさせる。
 そして、林崎は土煙の柱と一緒に宙に舞った。

「巽、怪我はない?」

 爆発の余韻が収まると、耳鳴りに紛れて、声が聞こえた。

「不魚住?」

 俺に覆いかぶさっていたのは、不魚住だった。
 俺は慌てて自分の体を眺めたが、おかしいところは見当たらない。ただ不魚住の血にまみれているだけだった。

「大丈夫。俺は大丈夫だぞ。それよりお前だ!」
「よかった……。ちょっと至近距離すぎたよ……ね」
「不魚住……?」

 見てしまった。はっきりと。
 不魚住のすこし茶色い瞳。その真ん中にある瞳孔が、すうっと開いた瞬間を。

「あぁ……ああ!」

 林崎はボロ雑巾のようになって動かない。
 不魚住も似たような有様だった。

 こぼれてしまう。
 俺は訳もわからず、不魚住をかき抱く。こぼれ落ちないように、必死で抱きしめる。

「やだ、嫌だ! 不魚住!」

 こぼれる。
 どんどん、こぼれる。
 強く抱いても、傷口を押さえ付けても、こぼれてとまらない。
 のっぽな不魚住の体から、どんどん、こぼれて抜けていく。

 血が。力が。命が。不魚住が。
 こぼれていく。

 嘘を暴くと息巻いた。
 正しくあるために――信号機の正確性を確かめるために、いまある信号を無視した。
 その道行きの正しさを願った。

 なにも賭けずに、なにも失わずに、達成できるだなんてどうして思っていたのだろう。
 対価。代償。それらを支払うときが来たのだ。

 ――不魚住が死んだ。
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