隠しごと

さるびあ

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世界は水の中にあるみたいに

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「あー、脚パンパン」

 包み込むような残暑が漂う駅のホーム。ペットボトル片手にベンチへ横柄に座る女子高生。私はそんな的場沙耶香まとばさやかの隣に座り、眉間に皺を寄せた彼女の顔を見て同じ様に険しい表情をした。

「脚太くなったらやだね」
「それ。てか確実に太くなってるわ、マジ最悪」
「マジ?」
「マジ」
 
 ふと沙耶香が漏らした部活辞めてー、という軽率な発言に私はギョッとして閑散としてホームの中をキョロキョロと見回す。見知った先輩の姿は見られない。私は安堵して、太腿を軽く叩いて解す彼女に向き直った。

「いや、マジで間宮ムカつくわぁ」
「まぁまぁ」
「だって、昨日よりタイムが落ちたから走り込み十本追加とか意味わからんくね? タイムなんて落ちる時くらいあんだろが。しかもアイツ、ワザと女子のタイムだけ測りにきてやがんの。ホントクソ」
「まぁまぁまぁ」

 愚痴を否定しきれず苦笑する。間宮とは陸部に所属する二年生の間宮博臣まみやひろおみ先輩のことだ。
 私達が所属しているS高陸上部は女子と男子が合同で練習することもあり、基本女子部員の会話は男子の話題で持ちきりだ。
 中でも女子に何かと当たりが強い間宮先輩は女子部員に大変嫌われている。間宮先輩もそれに何となく気付いているのか女子に対してより当たりが強くなり、そして女子の恨みが募り、というイタチごっこを日々繰り返して既に五ヶ月以上が経過していた。
 なんとなく間宮先輩の気持ちも分かるし、女子達の気持ちも分かる私は、既に五ヶ月間を板挟みの中で過ごしており、それが今後も改善しそうにない状況に何とも言えない気分なのだけど。

「男子は石倉さんだけが救いだよねー。イケメンだし、頭良いし、足速いし、優しいし。石倉さんしか勝たん!」
「まぁ~」

 石倉敬太いしくらけいた先輩は陸上部の──誰もが認めるエースで、部活動中でも部活動外でも先輩後輩や男女限らず信頼を置かれているのが遠目に見てもよく分かる──非常に人気が高い二年生の先輩。女子部員の中での扱いは正に間宮先輩とは天と地、鯨と鰯、月とスッポン、雲泥の差だ。特に彼にゾッコンな沙耶香曰く「顔が良い」とのことで、私にはよく分からないがミーハー気味の彼女が言うんだからそうなんだろうな、と自分を納得させている──というか女子部員でこの話に同意出来ないのが私くらいなので、ここでもまた肩身の狭い思いをしているのだ。
 私はスマホを弄る彼女を横目に見ながら物思いに耽り電車を待った。焼けたゴムのような臭いに心が一瞬軽くなる。二十五分おきに訪れることを知らせる電光掲示板のうざったさが妙に心地良い。

朱莉あかり~」
「ん?」
「暇」

 沙耶香に限ったことではないが、その言葉に何の意味があるのか。かと言ってそれを口にしたり、無視したりするのはということくらいは分かる。だから私は毎度悩まされてるのだ。
 沙耶香の顔を横目に見た。彼女は私の方を見ていない。ただ、返事を待ってるだろうことは分かる。

「んー」

 私はいつも通りに適当な相槌を打った。いや、これが正しく適当なのだ。他人から見たらいい加減に話を聞いてる人にしか見えないだろうが、これでも精一杯だった。
 私はなるべく周りの人とは仲良くしたい。でも別に面白い人とか気の利いた人になりたいわけじゃ無い。
 そう、ありきたりでいいのだ。

「朱莉また聞いてない」
「聞いてる聞いてる」
「暇暇暇暇構って構って構って構って! 我関せずみたいな態度やだー!」

 めんどくせーと思いつつ、彼女は毎度毎度こんなもんだと自分を説得する。私はそんなにも無関心に見えるだろうか。いや、私には分からないが、もしかしたら彼女達からしたら無関心なのかもしれない。

(じゃあ関心があるならそっちから話題振れよ)

 そんな言葉を飲み込む。こんなことを彼女に言ったところで何になるのか。
 私は別に不和を生みたい訳じゃない。

「でも暇って言われると返答に困んない?」
「えー? んー、ぉあー……確かにムズイかも」
「しょ?」
「じゃあ好きなタイプは」
「えー」

 死ぬほどどうでもいい、なんて答えたいところだけど、困った。無関心な事柄について考える機会は多々あるが、毎度心労が絶えない。さて、この場合なんて答えるのがなんだろうか。
 私は下を向きなるべく彼女と視線を合わせないようにして思考を巡らす。
 これは好みの見た目を訊いてるのか、それとも性格なのか。有名人を例えに出すのが良さそうには思える。とりあえずみんながよく名前を上げている俳優とかアイドルを挙げれば丸く収まりそう。
 ただ、次に飛んでくる問いは確実に私の頸動脈を掻き切るだろう。だって知らないもの。興味ないもの。

「石倉先輩かな」

 ここは確実に伝わる答えで尚且つ違和感の無いものを。

「マジ!? 意外すぎ!」
「え」

 と思ったが私の予想と反した答えが返ってきた。沙耶香のことだから「わかるー」とか返ってくるかと思ってたのに。沙耶香は至って真面目な顔で私の表情から誤った感情を汲み取った。

「だって全然興味なさそうじゃん。てか、みんなそう思ってるよ」
「えー」

 惚けてみたが図星だから何とも言えない。変な脂汗が背中を伝う。段々と冷えるホームの湿度が急に上がったように感じる。残暑は猛暑となって私を襲った。
 しかし、私の心配とは裏腹に、沙耶香は心なしか晴れ晴れとした表情を浮かべた。

「いやーでも嬉しいわー。朱莉ってなんか雰囲気独特で時々怖い時あったからさー。共通の話題? 出来たのホッとした」
「そう?」
「いや、マジ。正直帰る方向同じじゃ無かったら話してなかったと思う」
「え」

 途端に呼吸が苦しくなった。何かつっかえたみたいに喉が気持ち悪い。唾を飲み込むとそれがより一層感じられて吐き気がした。

「マジで」

 シビアな表情で私を真っ直ぐ見つめた。恐怖にゾクリと背筋が凍る。

「そっか……」
「ウソウソ冗談じゃん! そんな落ち込むなって!」

 沙耶香はパッと表情を明るくしてケタケタと笑った。馬鹿にされているような気がして、沸々と怒りが湧いてくる。
 いや、分かっている。
 ただの被害妄想だ。
 冗談とかそういうのが分からない私がおかしいのだ。人を不安にさせる冗談で周りの人達はみんな笑う。それが心底おかしいらしい。私にはわからない。

(私が悪い)

 私は鼻から大きく息を吸って、それからため息を吐くように身体の熱を吐き出した。それから胸に手を当てて安堵したような表情を作る。

「ビビったわ」
「今の顔マジウケたわー」

 声を上げて笑う彼女の声が電車の音でかき消される。私は冷静になった頭の中で「大丈夫」と言い聞かせるように繰り返した。だが言葉とは裏腹に、行動はより性質を鋭敏にした。
 心の内に居る私の声になるべく耳を貸さないようにして、平静を保つ為に気を張る。さもなくば妄想は現実となるだろう。世界は私の敵となるだろう。
 電車の中の人達が私を見て笑っている気がして身体が震えた。冷えているのに汗が滲む。全身が痒い。

「どしたん? 乗り遅れるよ?」
「っ! うん!」
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「ううん、なんでもない」

 電車に足速に、尚且つ慎重に乗り込む。なるべく目立たない様に小さくなってドアの端っこに寄りかかった。俯いていても全身がチクチクとする。それが周りの視線のような気がしてならない。車内の空調の音が心を掻き乱す。電車が走り出す高いヒューという歩みがもどかしくて、早く進めと苛立つ。

「マジで大丈夫? 薬あるけど」
「大丈夫、ちょっと立ちくらみしただけ」

 沙耶香は執拗に私の顔を覗き込んだ。それは確かな優しさに思えた。私はそれが心地よくて、怒りで泣きたくなった。私はこんな形でしか人の温もりを感じることが出来ない。

(卑怯者。自分で自分の責任も取れない屑野郎。自分が悪いのに相手に責任を押し付けて。気色悪い。最低。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね。私なんか死んじまえ)

 身体が鉛の様に重く冷たくなっていく。頭のてっぺんから冷たいドロリとした液体が身体に浸透して足裏までジンワリとした感覚で満たす。鼻頭が痛い。空気が凍っている。
 ふと窓に映った私の顔を見た。
 その顔はこの世で最も不細工で最低で穢れていて薄汚くて卑怯で、今にも誰かを殺してしまいそうな狂気を秘めていた。


×××


 扉を静かに閉める。玄関の電気を点けずに真っ暗な部屋の中をスマホのライトを頼りに歩く。冷蔵庫の音だけが不気味に鳴り響く部屋。小さな黒いメラミン樹脂のテーブルの上に食べかけのコンビニ弁当が置いてあった。私は背もたれの低い丸椅子に腰掛け、乱雑に放り出された割り箸で冷たくなった弁当の残りを食べる。
 ゴミを片付けた後、私はなるべく音を立てない様にそっと寝室に入り、制服を脱いでハンガーに掛けて下着を適当に放る。それからベッドの上に放置された部屋着に袖を通すとそのまま掛け布団の上に寝転がった。
 明日もまた学校がある。
 今テレビでは何をやってるんだろうか。
 SNSでは何が話題なんだろうか。
 そんなことを考えながら無気力に、お風呂は朝入ろうなんて考えながらため息をついた。
 それから暫くジッとした後に、駅でことを思い出した。すると閉じ込めていた怒りが勢いよく燃え上がり、カーッと顔が熱くなって歯を食い縛る。腹の奥から獣のような衝動が湧き上がり、全身の筋肉を震わせた。勢いよく喉から空気が抜け、細く高い音を立てた。
 前髪を引きちぎらんばかりに引っ張る。胸を何度も何度も殴りつける。首を両手で掴んで思い切り締め上げる。

(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いキモイキモイキモイキモイ! 死ね! 死ね!)

 自傷行為は三十分程で済んだ。気付けば私の目の端からこめかみにかけてまでが濡れていた。耳に水が溜まっていて不快だ。
 スッと瞼を閉じた。眼球が熱くなる。呼吸がうまく出来ない。嗚咽が聞こえる。私の喉からだ。

「ぅぅ……」

 なんで私は普通じゃないんだろうか。
 みんなみたいに出来ないんだろうか。
 ありきたりでいいのに。
 特別な幸せなんて要らないのに。
 人はすべからく平等なのに、私は変だ。普通じゃない。おかしい。それが、心底気持ち悪い。
 誰かに優しくされる度、私は自分自身のどうしようもなさを自覚する。私の中には、脆い殻の中に矮小な身体を丸めた自尊心ばかりがある。他人と比較することで浮き彫りになるその醜さに酷く憤りを感じる。
 私は隣の部屋で寝ているであろうお母さんの顔を思い浮かべた。もう一年近く顔を見てないからか、少しぼやけていた。ふとお父さんの顔が思い浮かんだ。
 最低だ。嫌いだ。
 周りの人の不幸は私の所為に違いないのに。私が死ねばみんな幸せになれるのに。死んで逃げたいだけだって咎める私がそうさせてくれない。
 私が居なくなったところで誰も悲しまない。誰も不幸にならない。良いことしかないのに。私は今日まで死ねなかった。
 目を開けた。
 何も見えなかった。

「……惨めだ」

 言葉は暗闇に吸い込まれた。
 心臓は痛いくらいに鼓動を刻んでいて、まるで息を止めているみたいだった。死を意識すればするほど心の奥の恐怖が加速度的に這い上がってきて頭がおかしくなりそうだ。
 なんでこんなに苦しいんだろうか。
 再び瞼を閉じると世界は水の中にあるみたいに、私から体温と酸素を奪っていった。
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