隠しごと

さるびあ

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鏡すら真実を写していない

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 段々と涼しくなってきて外に出るのも億劫に感じてくる頃。私は岐路に立たされていた。

「いいよね?」

 そう聞くのは体育祭実行委員の福田さん(福山さんだったかも)。なんでもリレーの面子が一人足りないんだそう。そんな時、特に参加する意欲のなさそうな陸部の私に声が掛かったという訳だ。
 彼女とその集まりは「折角の体育祭なんだからさ。協力しようよ」と大分不機嫌そうに語っていた。確かに正論ではあるけど、意欲的でない人間からしたらそれは拳銃に勝るとも劣らない凶器でしかない。強者の基準に則った協調性に従わなければ確実な死が待っている、ということか。
 正直なところ、私は断りたくて仕方が無かった。弱者は悪のように扱われる運命なのが、甚だ納得がいかないからだ。

(てかいいよね、ってなんだよ。脅迫かよ)

 私は目の前の女に心底腹が立っていた。心情は喚きだして聞かなかった。

(まあ落ち着け)

 咳払いをして思考を落ち着かせると水を打った様に心情は静まった。
 ここで断れば不和を生むだろう。私が穏便に形成してきたソーシャリティに亀裂が入りかねない事態は避けたい。
 しかし、この黒く放射線状に反射する心の声に従いたい気持ちもある。

(こいつが陸部の面子だったら、私が辞退したところで軽く流してくれてたんだろうになぁ)

 これにはかなりの自信がある。何故なら、私は足が早くないからだ。どころかめちゃくちゃ遅い部類に入るだろう。それは春の身体測定の結果を見れば火を見るよりも明らかだった。
 そもそも、少しでも遅く帰りたかったから運動部に入ったのだ。陸部に入ったのも球技や武道はからっきしなので消去法で残ったのが陸部だったからにすぎない。もっと言えば、身体を動かすこと自体がとんと得意でない。陸部の練習もメニューをこなすだけで特に真剣に取り組むでもなく。なんならサボらないのは内申点が貰えるからという不純な動機からだ。
 当然、それを口にはしないが。

「うん、大丈夫」

 私は口にした次の瞬間に後悔した。これでアンカーになって牛蒡抜きにでもされてみなさい。とんでもない恥を欠くことは間違いないだろう。今から陸上部に顔を出すのが怖くなってきた。体育祭が終わった時にはどうなっていることやら。

「あの」

 私は福田さん(後で名簿を確認しておこう)を引き止める。
「ん?」と彼女が屈託のない笑みで振り返った。非常に断り辛いけど、ここで断らなければ後々大変なことになる。

(踏み出せ私、「私足遅いからやっぱり辞退したい」これでいいんだ。何も難しいことはない。さあ)

 ごくりと喉を鳴らす。

「その……他に人数足りないのなに?」
(馬鹿が!)

 バッドを超えてワーストな対応に、内心頭を抱えた。これではまるで体育祭に参加する意欲があるみたいじゃないか。
 見てみなさい、福田さん(とりあえず確認が取れるまではこれで突き通す)の晴れやかな顔を。その幸福感に満ちた笑みに思わずこちらも絶望感に満ちた笑みを浮かべてしまう。

「実はね高跳びが他のクラスにもやりたい人居ないらしくって」
「高跳び……」

 よりにもよって陸上競技というのが非常に都合が良すぎて悪い。他のクラスということはクラス対抗ではないということか。おい、他の運動部の面子は何してんだ。
 福田さん(仮)の期待に溢れた目線が刺さって痛い。私にやれと言わんばかりの様子だ。

「朱莉ばっかり可哀想じゃね? 足りないならウチやるよ」

 私の後ろから助け舟を出してくれたのは唯一クラスで付き合いのある二見芳乃ふたみよしのさんだった。福田さん(仮)はビクッと肩を揺らして驚いた。
 二見さんは一部生徒から一目置かれるお洒落ギャルだ。しかし同時に、授業中にとる不遜な態度だったり、人とのコミュニケーションを極端に避けたりする様子から少し浮いた存在でもある。特に、体育祭などの学校行事に積極的に参加するなんていうのは、普段の姿からはまるで想像出来ない行為で、福田さん(仮)が驚くのも無理はなかった。

「えーっと、じゃあ後日段取りの説明があるので……」
「そん時また言って」

 二見さんは華麗に彼女の視線を回避してスマホを触り出し、シャットアウトモードに入る。福田さん(仮)も察してそれ以上は言葉にせず口をつぐんだ。
 なんて洗礼された無駄のない対応なのだろうか。その排他的雰囲気を作る手腕は最早特殊能力の域に達していた。
 余りの感心に我を忘れて彼女の顔を見ていると、こちらの視線に気付いたのか目線だけがこちらを向いた。私はドキッとして思わず目線を逸らしてしまう。

「何?」
「いやその……」

 庇ってくれてありがとう、とだけ伝えようと思ったけど、彼女の顔にNOの文字が見えた気がして口をつぐんだ。

「本当はやりたかったとか?」
「ごめん、やっぱなんでもない」
「そ」

 素気ない態度で再びスマホに視線を戻す二見さんの横顔を何処か妬ましく思った。私の勝手なイメージが彼女を黒く染めて、なんとなくみんなが煙たがるのも。ドンヨリとした罪悪感は思考にかげりを落とす。
 私は一人で勝手に居た堪れない気持ちになって俯き、ジワジワと湧き上がる自分自身への怒りに身体も燃やした。
 顔を逸らして自責に追い込もうと俯くと、二見さんは私と机の間に割り込んでスマホの画面を見せてきた。

「これどう思う?」

 そこには奇抜な──私には馴染みがなさすぎて奇抜に見えるだけで多分これがお洒落ってやつなんだと思う──ファッションの女の子が映っていた。どうと言われましても美的センス皆無の私には分かりません、とは言えまい。

「なんか、お洒落だね」
「こういうの好きなん?」
「んー」

 好きではない。が、二見さんの顔色を伺って言葉を躊躇う。彼女は私の想像するギャルとは違い、表情に中々現れないのでしばらく悩む。

「二見さんは?」
「ウチ? 参考になる部分もあるけど、そこまで好きじゃないかな」
「へー」

 そのいらない情報はするりと頭から抜け落ちる。自分から聞いといてなんだが本当にどうでもいい。何の参考にするのとかもまるで興味をそそられなかった。

「あと、芳乃でいいよ」
「えー」
「そういうの気にするクチ?」
「気にしないって言ったら嘘になる」

 二見さんは「そ」と自分の席に戻っていった。なんで話しかけて来たんだと少し懐疑的になったが、まあいいかと直ぐに興味を失った。それよりも、何か大切なことを忘れてる気がする。
 なんだったか、と教壇で体育祭の話が円滑に進んでいるのをボーッと眺める。船瀬朱莉ふなせあかりの名前が黒板に書かれた辺りでようやくリレーの選手になってしまったことを思い出し、私は頭を抱えた。

 因みに福田さん(仮)の本名は福永華鈴ふくながかりんさんだった。


×××


 日曜日。恥を欠かないよう練習だけでもしておこうと河川敷に来たものの、早々に飽きがきた私は階段に座り込んでいた。川の向こう岸に見える病院をぼーっと眺めて自分の怠惰に溜息をつく。
 何故私は努力出来ないのか。私は昔から邁進しようとしても直ぐにやめてしまう癖がある。飽き性なのかサボり癖なのか分からないこの性質がコンプレックスだったので、他の人の努力が妬ましかった。だから、免責のために才能という言葉を頻繁に言い訳に使った。
 真後ろを走る私と同じくらいの年齢だろう女の子が短く整えられた黒髪を靡かせている。遠くなっていくその小さな背中を私は目で追って、胸の辺りがチクリと痛んだ。
 ここで帰ったらまた惨めな気分になるだけだ。

(もう少しやっていこう)

 立ち上がって階段を登る。屈伸をすると膝がパキパキ鳴って変な達成感を得た。急にやる気が湧いてきて、どんだけ単純なんだよ、と呆れて思わず笑えた。
 早速ウェーブランをしているとさっきの女の子が私を後ろから追い越していった。身長は私よりも大分小さいので大体一五〇くらいといったところだろうか。見た目だけなら中学生かもしれないと感じたが、妙に凛々しい横顔に寧ろ年上のような印象を受け取った。

(はっや)

 見ているだけだと実感が無かったが、一緒に走るとその早さがより顕著に分かる。
 別の高校の陸上部だろうか。それとも別の運動部だろうか。小さいからスポーツとか武道の感じしないし、吹奏楽の線も……これは偏見か。

(……やめよ)

 こんな事を考えてても何の意味も無い、と私はふと冷静になった。しかし、同時に残された疑問符に不安にもなった。
 意味があるとか無いとか、私は時折そんな事を考える。でも、確かに関心はあった筈だ。彼女がどんな人物なのか知りたくなったから考えだした。それを意味が無いと切り捨てたのは何故なのか。自分とは、何処にいるのか。
 私は足を止めて周りを見渡した。

(……何処だここ)

 ぼーっと走っていたら、本当に知らない場所に来てしまっていた。川沿いの住宅街のようだ。車が往来する道路から畑へとカラスとドバトが飛び立つ。恐らく畑の持ち主達だろう、傾斜の上の軒並みに圧倒される。
 ここまで世界が違うものかと私は少し臆病になって、ちゃんと家まで帰れるかと不安が忍び寄る。
 まあ、道なりに真っ直ぐ走っていただけなので引き返せばいいのだけど。

「あ」

 踵を返したところ、先ほどの女の子が住宅街の路地へ入っていくのが見えた。私は一つ葛藤した。何処に住んでいるんだろうという邪気な衝動。
 いや、彼女の家を知ったところでなんの得になるのか。練習の場所を変えたら二度と会うことはないだろうし、変えなくても体育祭が終わったら忘れてしまうだろう人物だ。長い付き合いになることは決してない。私が変な気を起こして話しかけたりしなければ、彼女は私の人生に於いて至極どうでもいい人間だ。
 汗で身体が冷えたのか、それとも衝動が無くなったからか、寒さは唐突に私を襲った。

(帰ろ)

 私は彼女を意図的に見ないようにして歩きだした。初めは体に纏わりつくようなピリピリとした感覚に襲われたが、距離が離れていくにつれて徐々に収まっていく。
 ふと、道をゆく一台のセドリックセダンに目が止まる。昔父方の祖父が乗っていて、私は車の中の臭いが苦手だったことを思い出した。皆は口を揃えて「運転するようになったら慣れる」と言ったが私は今でもその言葉を疑っている。
 人間とは不思議なもので、一つのものに関心を奪われるとその前のことなどすっかり忘れてしまう。私は心臓から流水が身体を抜けていくような感覚と共に、ゆっくりと彼女のことを忘れていった。


×××


 体育祭の前日。
 人間とは不思議なもので、一度忘れてしまった物事を単純な情報一つで鮮明に思い出すことがある。
 私は目の前で福山さん(仮)と会話している小さな女の子を知っている。

「ありがと~山代さ~ん。今度なんかお礼持ってくるよ~」

 福山さん(仮)は普段より猫撫で声で弱々しく笑う。もっと圧を感じさせるような雰囲気の彼女しか知らない私は、その様子が心底気持ち悪くて身体がブルリと震えた。
 一方、山代と呼ばれた女の子はどことなく倦怠感のある表情をピクリとも変えずに視線を外した。

「別にいらないから。同じ実行委員なんだからこれくらい当たり前でしょ」
「でも山代さん他の仕事も忙しそうだったし……」

 福山さん(仮)はおどおどとした態度で自分より小さな女の子の様子を窺っているようだった。

(うわ、きも)

 私はあまりの気持ち悪さに苛立ちを感じだしたので、今すぐにでもここを離れようと席を立って足速に歩きだす。

「忙しいかどうかは私が決める」

 私はピタリと足を止めて二人の方を振り返った。そこには福山さん(仮)だけが残されており、私の興味の対象は無かった。
 突然自らの過去の行いが滝の様に降り注ぎ、感情が奔流を持って私の身体を震わせた。

「どしたん? 朱莉?」

 私は二見さんの声にハッとして慌てて席に戻った。その行動に意味はなく、ただ何となくこれが普通なような気がしたから身体が勝手に動いた。いや、若しくはそこに安心感があったからかもしれない。
 兎に角、いつも通りでない。それが気持ち悪い?
 それはさっきの福山さん(仮)に感じていた気持ち悪さと似ていた。その正体に気付いた時、私は全身から力が抜けるやるせなさに襲われ、ドロドロとした熱い金属が腹の中を巡る恐怖心に震えた。

「あー……あげる。ちょっとまって」
「え?」
「ん」

 二見さんはマイペースな彼女らしくない俊敏な動きをもって私の手に錠剤を握らせた。前もこんな勘違いをさせられた気がする。彼女らの優しさは一体どんなところから来るのだろう。素直にその一端だけでも知りたいと思った。

「ほら、休み時間終わるよ」
「ありがとう」

 私は巨大な罪悪感に足取りを重くしながら教室を出る。窓から刺す陽の光がいつもより眩しくて心地よかった。
 単純な私の心は予鈴よりも無神経だろう。握りしめた錠剤のプラスチックの角が肌を刺す痛みが私を癒した。
 ふと視線を上げると例の山代さんが書類を片手に職員室から出て行くところを目撃した。先程の頼まれごとだろう。こんなギリギリまでよく熱心になれるものだ。
 彼女は礼儀正しく腰を折って「失礼します」と扉に手をかける。しかし、閉め切る直前にピタッと動きを止め、隙間から何かをジッと見た。先生の声も聞こえないし別に話しかけられている訳では無いみたいだが、何を見ているのだろうか。
 暫くして彼女は目を閉じて眉間に皺を寄せると、手首で側頭部を三回叩く。そして何事もなかったかのように扉を閉めた。
 私はその一連の流れに、出会って数時間も経っていない人間であるにも関わらず、らしくないなと思った。ふと冷静になると可笑しくて笑えるくらいに当然の事なのだが、それでもなお、彼女らしさを感じない行為だと感じる。

(思い込み激しいな、私)

 勘違い、というよりも彼女の態度や表情から想像できる勝手なイメージのレッテルを貼っているのだろう。アンコンシャスバイアスという奴──聞いたことあるだけでよく知らんけど──かも知れない。

「何?」
「え」

 気付いたら山代さんが私を凝視していた。いや、正確には私が凝視していたので不審に思ったのだろう。しかし、不快感を露わにする訳ではなく、どことなく倦怠感のある表情でコチラを見つめてくる。

「いや、ぼーっとしてただけ」
「……そ」

 彼女はまるで興味がなさそうな態度で私に背を向けた。変な衝突の仕方をしなくてよかったと安堵する。ふと、奇妙な感覚だと思った。

(別にこれから付き合いがある訳でも無いだろうに、何をそんなに気にしてるんだか)

 私は鏡に向かって嘲笑した。しかし、鏡に映る女は笑っていなかった。
 私は鏡すら真実を写していないことに恐怖した。
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