ないものねだり

をかや れいと

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書くことの日常化

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昔は、ちりめんじゃこなんて絶対食べてやらないって思ってました。
しらすは好きだけど、ちりめんじゃこは嫌。

晩ご飯に何回出されても、絶対食べなかった。

そんな私が、今ちりめんじゃこを食べてます。
厚揚げと水菜と一緒にサラダの中に入ったちりめんじゃこ。

カリカリしてて美味しかった。



大人になったかどうかは自分ではわからないけれど
きっと世間から子どもだと認知されていた頃よりも
受容出来る幅は広まったと思う。

そして、諦められる範囲も広がった。
し、挑戦出来る領域は狭まったよ。

やる前からなんとなぁく、だけど
やれるかやれないか
もしやれるならどのくらいやれて
もしやれないならどのくらいやれないか

わかっちゃうようになってしまった。

嫌だ嫌だ
こうゆう大人になりたくなかった。


けれど、きっと今目の前に8段の跳び箱用意されたら
やる前からはっきりと言うだろう。
飛べないって。
大人だから、建前上飛ぶフリしてみるけど
どうせ飛べない、絶対飛べっこないって思いながら走る。

だからきっと、飛べない。

自分の力量がわかるようになったのはいつからですか?

書くことに関しては、はっきりと言う。
大学生の頃。
長編の作品は年に2本、これが限界だと思った。

それ以上の本数を書くと、書いている作品が乱れる。

もうこう思ってしまっているから
今やもう何も書けなくなってしまったんですよね。

昔とは違う。
生活をしていくことや、生きていくことなんて
何にも考えなくてもよかったあの頃と
今は違うから。

だから、前みたいには絶対書けない。

ちりめんじゃこ食べないのと同じように
跳び箱飛べないって思いながら走るみたいに

言い訳を探して、逃げていました。


そしてそもそもね、仕事をするようになって
何に対してもニーズというものを考えてしまうようになりました。

誰が求めているんだろう?とかね。

洗い物をする、洗濯物をする
これは自身の生活に対するニーズだ。
ご飯を作る(例えば彼に)
これは彼が食事を求めているから、作る。

とか。

そういう自分が行う行為全てに
答えがないと嫌だ。行動したくない。という
自分になっていました。

そう考えた時にね
私が書くことって別に誰も望んじゃいないし
書かなくてもいいじゃないと思ってた。

きっとこれも逃げたい言い訳です。

で、巡り巡って
そもそもなんで今まで書き手として
いたんだろうって考えるようになりました。

損得勘定とかは抜きで
自分はどうして書いてきたんだろうと
考えた時に答えがね、パッと出ました。

書いてないと、自分じゃなくなってしまうからだった。

好きとか嫌いとか
できるとかできないとかじゃなくて
求められているかとかどうとかでなくて

書いてなきゃ、私、私でいられないんだった。

だから、今更悪あがきもいいところ。
このサイトを作ったんだった。
をかやれいととして書こうって思ったんだった。

だから、毎日書くよ。
私が私でいるために。

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