7月は男子校の探偵少女

金時るるの

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7月とクリスマス

7月とクリスマス 8

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「これって、まさか……血……?」


 思わず傍にいたクルトの腕にしがみつくと、彼は冷静に床を指差す。


「よく見ろ、これはペンキだ」


 クルトの指し示す先には蓋の開いたペンキの缶が転がっており、その口からは赤い液体が滴り落ちていた。
 この床に広がったペンキのせいで他の生徒達は教室に入ることができないでいたのだ。
 落ち着いて床を見回すと、わたしの衣装がペンキの水たまりのそばに落ちていた。一瞬焦るが、よく見ればそんなに汚れているようにはみえない。
 よかった。これなら本番までに汚れを落とせばなんとかなるかも……
 そう思って衣装を持ち上げると、予想外にずしりとしていて、思わず取り落としてしまう。
 床に落ちた衣装はびしゃりと濡れたような嫌な音を立てた。


「あれ? この衣装、裏返しになってる……?」 


 わたしが呟いたとおり、衣装は裏返しになっており、内側――すなわち本来ならば表側に当たる部分にペンキがべったりと塗りつけられていた。まだ乾き切っていないのか、落とした衝撃で血のような色の液体が床に流れ出る。


「な、なにこれ……」


 呆然とするわたしにマリウスが告げる。 


「ひどいだろ? 僕も手にとってみるまでわからなかったよ。それに、ここを見て」


 マリウスは衣装をそっとひっくり返す、すると胸にあたる部分に大きく切り取られたような穴があいていた。


「こんな穴まであけて、ユーリに何か怨みでもあるのかな? それともうちのクラス全体に対する嫌がらせ?」

「まさか。俺たちが一体何をしたっていうんだ」


 横にいたクルトが口を挟むと、マリウスも「だよねえ」と頷く。 


「僕が教室に来たときには、既にこの惨状だったんだ。ともかく、ユーリには早く知らせとこうと思って探してたんだよ。どうしようか、この衣装……」

「うーん……この衣装はもう使えそうにないし、この際本番ではカーテンをスカート代わりに身体に巻きつけて演技するしかないかも……」


 窓のほうに目をやると、風にあおられてカーテンが翻る。それを見て思い出したようにマリウスが口を開く。


「そういえば、僕が一番最初に教室に来たんだけど、その時、この窓は既に開いてたんだよな」

「昨日から開いてたって事ですか?」
「それが……昨日の放課後に最後まで残って作業した後には、ちゃんと閉めて帰ったはずなんだ。もしかして夜の間に衣装を台無しにした犯人が開け放したのかな」

「何のために?」


 クルトが問うと、マリウスが少し考え込む素振りを見せる。


「換気のため……とか。犯人の目的はあくまで僕たちを精神的に痛めつけることであって、病人を出すつもりはなかった。だからペンキの臭いを散らすために窓を開けたんだ」

「そんな事を気にするくらいなら、別の嫌がらせをすればいいはずだ。それこそ、ペンキなんか撒かずに衣装を台無しにするだけで十分効果的だと思うが」


 二人の会話を聞きながら、わたしは衣装を観察する。
 胸に当たる部分には刃物で切り取られたように大きく穴が開き、そこからは内側に塗りつけられたペンキの赤い色が覗いている。それさえなければ裏地には他に目立つペンキの汚れは見当たらなかった。
 その事に違和感を覚えた。なんだろう。この感じ……

 わたしは考えるときの癖で、左目の下に指を当てる。
 どうしてわざわざこんな事をしたんだろう? 嫌がらせが目的ならクルトの言うとおり、もっと簡単で効果的な方法があるはずだ。
 それなのに、わざわざ衣装に穴を開けてペンキを撒いた。何か意味があったんだろうか?


「あれ?」

 
 その時、衣装の袖口に目が留まった。なんだか黒っぽくなっている。まるで、焦げているみたいな……


「おい、大丈夫か?」


 その言葉にはっとする。いつのまにかクルトがわたしの顔を覗き込んでいた。
 滅茶苦茶にされた衣装を見てショックを受けていると思われたらしい。


「いえ、あの、ちょっと気になる事があって……」

「気になる事? なになに?」


 マリウスも傍にやってきた。
 わたしは二人を交互に見ながら床に落ちた衣装を指差す。


「この汚れの状態、少しおかしいと思いませんか? 穴を空けてからペンキを掛けたのなら、服の裏地にも穴の形にペンキの跡が付いているはずです。でも、このドレスの裏地を見てください。多少の汚れはあるものの、穴と同じ形のペンキ跡はありません」

「つまり、順番が逆だったってこと? ペンキを掛けてから刃物で穴を空けた?」


 マリウスの言葉にわたしは頷く。


「正確には、ペンキをかけてから衣装を裏返して、その後で布地を刃物で切り取った……でしょうか。ペンキが付いたまま切り取ろうとすれば、当然ペンキで手が汚れてしまいます。でも、裏返してからペンキの付いてない生地を掴んで切れば、ほとんど手を汚さずに済みますよね。それに、力任せに手で破いてもペンキが飛び散るおそれがあります。だから刃物を使って切り取ったんです」

「なんでそんな面倒くさいこと……」

「それはたぶん、この一連の出来事が故意ではなく、突発的な出来事により、そうなってしまったからだと思うんです」

「どういうこと?」


 マリウスが首を傾げる。


「ええと、あくまでわたしの予想ですが、犯人は最初から衣装を滅茶苦茶にするつもりはなかったと思います。別の目的でこの教室にいたんでしょう」

「目的って、どんな?」

「それは、なんていうか……一種のパーティみたいなもの、じゃないかなと」

「パーティ?」


 クルトとマリウスが顔を見合わせた。わたしは説明を続ける。


「ほら、みんなが寝静まった後に子供だけで集まって、隠しておいたお菓子だとかを食べたりした経験はありませんか? 不思議なことに、夜中に大人の目を盗んで食べるお菓子は格別なんですよねえ」

「ここでもそんなパーティをしてたって言うの? 子どもならともかく、この学校の生徒がわざわざそんなことするかなあ?」

「ええ、それに関してはわたしも同じ意見です。それに、それくらいなら自室で十分ですからね」


 マリウスがぱちぱちと瞬きする。  


「ええと……わけがわからないな」

「わたし達くらいの年齢の男子だったら、お菓子よりも興味を惹かれるものがあると思いませんか?」

「うーん? ……異性とか?」

「え?」


 異性って……そんなこと思いつきもしなかった。でも、そうか。そういう意見もあるのか。そしてマリウスは女の子に興味があると。なるほど。ほほう。


「……今の反応で僕の予測が間違ってたってわかったからさ、いい加減君の意見を聞かせてよ」


 マリウスはばつが悪そうに顔を赤らめる。


「まさか」


 隣で腕組みしていたクルトが声を上げる。どうやら気づいたみたいだ。


「……煙草か?」
 

 わたしは頷く。


「ええ。たぶん葉巻。それとお酒。犯人はここで、こっそりと飲酒や喫煙行為に及んでいたんです」

「それって校則違反だ。下手したら退学だよ」


 マリウスが眉を顰める。
 

「だからこそですよ。さっきも言ったとおり、隠れてこっそり楽しむのは格別ですからね。おそらく、犯人たちは寮から離れたこの教室で、夜中に何度もそういう行為に及んでいたんでしょう。でも、あまり騒いでは誰かに見つかってしまうし、いつもはおとなしく葉巻を吸ってお酒を飲むだけに留まっていた。ただ、昨夜は教室の様子がいつもと違いました。発表会のための衣装だとか小道具だとかが一度に集められていたんです。そんなものがあったら、つい手にとってみたくなると思いませんか? 普段身につけない女物の衣装なんて特に。お酒の勢いも手伝って気が大きくなっていた犯人たちは、ヒロインの衣装を引っ張り出したんでしょう。でも、そのときに衣装にうっかりお酒を掛けてしまったんです」

「ちょっと待って」


 マリウスが口を挟む。


「犯人『たち』って……これは複数犯の仕業だって言い切れる?」


 その言葉にわたしは少し言葉に詰まる。


「ええと、これはあくまでわたしの経験ですが……服を試着するときって、まずは自分の身体の前面に当てて合わせてみたりしませんか?」

「まあ、覚えはあるけど……この犯人もそれをしたって事? 君の衣装で?」

「もちろんふざけ半分だとは思いますけど。男子が女性ものの衣装でひとりでそんな事してたら変な人ですから。でも、洗面所まで行かないと鏡はないし、似合ってるかどうか自分で確かめる事もできない。だから、その姿を見せるような相手がいたんじゃないかと思うんです」

「それが共犯者ってわけか」


 マリウスはとりあえず納得したみたいだ。わたしは続ける。


「衣装を汚してしまったのではと焦った犯人たちは、お酒をこぼした箇所をよく見ようと灯りを近づけたんです。おそらく、葉巻に火を付けるために持っていたマッチの炎を」

「でも、そんなことしたら……」

「当然アルコールに引火してしまいます。酔っていて判断力が鈍っていたんでしょう。その結果、衣装は勢いよく燃え上がり――衣装の袖口が少し焦げていたのもそのせいだと思います。普通だったら靴で炎を踏み消したりしますが、彼らにはそれが出来なかったんです。だって靴を履いていなかったんですから。おそらく、足音を立てないようにと裸足だったんでしょう」

「もしかして……この前書き割りに付いてたあの足跡って……」


 マリウスの言葉にわたしは頷く。


「ええ。たぶん同一人物の仕業です。あの時は暗い教室で書き割りの存在に気づかなかったか、はたまたペンキが生乾きだとは思わなかったのか、とにかくうっかり踏んでしまったんでしょう。あの足跡も指の一本一本まで判別できるような素足の跡でした。もしかすると、幽霊が出るという噂自体、その犯人達が広めたのかもしれませんね。教室に誰も近づかないようにするために。とにかく、犯人たちはどうにかして火を消そうとして、咄嗟に近くにあったペンキの缶を手に取り――」


 クルトがわたしの言葉を引き継ぐ。


「中身を衣装にぶちまけたってわけか」

「ええ。犯人たちも焦ったでしょうね。校則違反のみならず、小火を起こしたなんて知られたら退学になってしまうかもしれませんから。だから証拠を隠すため、燃え跡とわかる部分を切り取ろうとしたんです。ペンキで手が汚れないよう衣装を裏返して。汚れた衣装ごと持ち運べば、途中でペンキが床に垂れてしまうおそれがあるし、なにより目立ちます。だから焼け焦げた部分だけ持ち去ろうとしたんでしょう。袖の部分は焦げた面積が小さかったので見落としてしまったんです」

「切り取るって言ったって……この教室にもお芝居の小道具を作るときに使ったハサミはあるけど、暗がりの中で探すのは難しいはずだよ。ましてや突発的な出来事なら、ハサミを見つけ出すのも一苦労だったと思うけど」


 マリウスが疑問を口にする。


「犯人は最初からナイフを持っていたんじゃないでしょうか」

「そんなに都合よく持ち歩いているもの?」

「それも、犯人が葉巻を吸っていたんじゃないかと思った根拠のひとつです。葉巻って、吸う前に刃物で吸い口を切るでしょう? そのためのナイフなら持ち歩いていてもおかしくありません。それに、教室の窓が開けっ放しになっていたので……」

「窓?」


 マリウスの問いにわたしは頷く。


「おそらく、犯人達は葉巻の煙や臭いを消すため、窓を開けて喫煙していたんです。もちろん、いつもは教室を使った後に閉めていたんでしょうけれど。でも、昨日は予想外の出来事で犯人達は慌てていました。だから窓を閉め忘れてしまったんです」

「なるほどね。それで犯人達が葉巻を吸っていたって結論を導き出したのか……」

「……葉巻の件はわかったが」 


 腕組みしていたクルトが口を開く。


「飲酒をしていたとは限らないんじゃないのか? 衣装はマッチの炎で燃えたのかもしれない。衣装をよく見ようと近づけた結果、引火した可能性だってあるだろう」

「あの切り取られた部分の大きさからして、結構な勢いで衣装が燃えたんだと予想したんですが……マッチを近づけただけでは、あそこまで燃える事はないと思うんですよね。葉巻の灰を落としたって、せいぜい少し焦げるくらいだろうし。短時間で燃え広がるには何か触媒が必要だったんじゃないかって」

「それがアルコールだったと?」

「ええ。それに、校内で喫煙するような不良少年が葉巻だけで満足できるとは思えません。当然のようにお酒にも手を出していたんじゃないかと。葉巻とお酒っていう組み合わせは、やっぱり定番ですからね」

「それで、犯人は一体誰なの?」


 マリウスが身を乗り出すように尋ねてくる。 


「それは、わかりません」


 わたしは首を振る。


「これだけで個人まで特定するのは無理です。わたしの推測により導き出されたのは、これは計画的な嫌がらせではなく、突発的な出来事により引き起こされたものだという事です。もちろん、今わたしが言った内容だって全て間違っているかもしれませんけど……」


 わたしは二年生のイザークとは仲が良くないし、三年生のアルベルトから最近聞いた噂と言えば、あの白猫に関するものくらいしか思い当たらない。だから、噂の発端とこの件の犯人は二年生なのかもしれない。


「いや、きっとユーリの言うとおりだと思う。少なくとも僕は支持するな。すごいよ君、よくそんな事考え付くね……そういえば前にクラスの誰かのデッサンが行方不明になったことがあったよね。確かあれも君が解決したんだっけ。もしかすると君って意外な才能があるのかもね」


 マリウスはなんだか感心している。


「ミエット先生には僕から説明しておくよ。犯人がわからないのは心残りだけど、その後の判断は先生に任せよう。僕たちはとりあえずこの惨状をなんとか回復させなきゃならない」

「そうですね。代わりの衣装もなんとかしましょう」


 わたしは窓辺に近寄るとカーテンを引っ張る。
 それを見たマリウスが声を上げる。


「まさか本気でカーテンを使う気?」

「駄目ですか?」

「い、いや、駄目ってわけじゃ……」

「それじゃあ、食堂のテーブルクロスでも借りて――」


 と、踵を返そうとした瞬間、わたしは生乾きのペンキを踏んづけてしまった。
 次の瞬間、目の前の景色が回転したかと思ったら、気が付くと盛大に尻餅をついていた。


「いたた……」

「大丈夫?」


 マリウスが手を差し伸べてくれたので、それに捕まり立ち上がろうとしたのだが、その途端足首に痛みが走った。

「いたっ……!」

「どうしたの? どこか傷めた?」

「ええと……どうも足を挫いたみたいで……」

「そりゃ大変だ。すぐに保健室に行かないと。ほら、僕の肩に捕まって」


 マリウスがわたしの傍にしゃがみ込んだので、ありがたくその肩を借りようとしたのだが


「いや、彼は俺が連れて行く」


 クルトが割って入ってきたかと思うと、強引にわたしの腕を取る。


「マリウスは教室に残ったほうがいい。先生に説明もしなければならないだろう? 級長なんだし」

「……そうか。そうだね。皆に掃除するよう指示もしないと。それじゃあ悪いけどユーリの事はクルトに任せるよ」


 クルトは「ああ」と返事すると、わたしの傍らにしゃがみ込み、他の人には聞こえないような声で囁いた。


「おい、わかってるのか!? 身体を触られたら女だって事がばれるかもしれないんだぞ!?」

「あ……す、すみません……」


 言われてみればその通りだ。特に何も考えず軽率な行動を取るところだった。


「お前、見た目には変に気を遣うくせに、こういうところは無頓着なんだな」


 返す言葉も無い。思い起こせばクルトに性別がばれたきっかけだって、肩車をしたことだったのだ。


「それにしても困ったな」
 

 マリウスが頭をくしゃくしゃと掻いた。


「足を挫いたんじゃ舞台に上がるのは無理だ。ヒロインが不在じゃまともに上演できないよ。発表会はうちのクラスだけ見学かな」


 その言葉にクラス中がざわめいた。皆この日の為に準備してきたのだ。残念がる声も聞こえる。


「それなら、心配ありませんよ」


 クルトの肩に捕まりながらわたしが答える。


「我がクラスには優秀なプロンプターがいるじゃありませんか。台詞も仕草も完璧に覚えている彼なら、きっとわたしの代役も立派に務めてくれるはずです」


 その途端、教室中の視線がクルトに集まる。


「え? は……? え?」


 立ち上がろうとした体制のまま、クルトは石のように固まった。

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