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7月と赤い果実
7月と赤い果実 7
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ひとけの無い洗面所に連れて行かれ、クルトに促されるまま、ジャムでべたべたになった手を洗う。冷たい水で汚れを洗い流しているうちに、徐々に頭も冷えてきた。
鏡を見ると、イザークに踏まれたあたりにじわりと染みができていた。
「まさか……」
慌ててマフラーを外すと隅々まで調べる。
よかった。こっちは汚れていないみたいだ。
安堵していると、その様子を見ていたクルトが口を開く。
「おい、あの二年生と一体何があったんだ?」
「ええと、イザークにジャムをすり替えられて、それを問い詰めたらあんな事に……」
簡単に事情を話すと、クルトが眉を吊り上げた。
「はあ? そんなくだらない事で、あんな大騒ぎしたのか?」
わたしが頷くのを見て、クルトは呆れたように天を仰ぐ。
「信じられない……たかがジャムが原因で取っ組み合いにまで発展するなんて、まるで子供の喧嘩……いや、実際お前は子供だから仕方ないのかもしれないが」
「『たかが』じゃありません! わたしにとっては大問題です!」
わたしはヴェルナーさんにもジャムを食べさせてしまった事を説明する。
「おかげでヴェルナーさんのわたしに対する信頼は地に落ちたも同然ですよ」
「大袈裟すぎる……」
「それじゃあ、考えてみてください。もしクルトがわたしと同じような状況にあったとして、知らなかったとはいえ、ロザリンデさんにとんでもなくまずいものを食べさせてしまったとしたら?」
「決して許されないな」
「そうでしょう!? これは非常に忌むべき罪ですよ! いつか、イザークの部屋のドアノブにジャムを塗りたくって、べったべたにしてやります!」
「よくもそんな地味に気持ちの悪い嫌がらせを思いつけるな……くれぐれも俺にはするなよ」
気味悪そうに口元を手で覆うクルトを尻目に、わたしは先ほど思った疑問を口にする。
「でも、さっきはどうしてアルベルトが丁度よくあそこにいたのかな……」
「俺が呼んだ。お前があの二年生と揉めてるって聞いたから」
「クルトが?」
「二年生が相手じゃ、一年の俺が何か言っても相手にされないかもしれないだろう? だから、あの三年生になんとかしてもらおうと思って。年長者の彼は自分の「家族】を監督する役割もあるだろうし、こういう時に出てきてもらわないとな」
そうだったのか。
そういえば人も集まっていたけれど、そんなに騒がしかったのかな……
「けれど、お前たちみたいなのが【家族】だなんて、あの三年生も災難だな。こんな騒ぎを起こされて、堪ったもんじゃないだろう」
クルトがやれやれといった様子で肩をすくめたので、わたしは口を尖らせる。
「元はといえばイザークが悪いんですよ。あの人があんな事しなければ、わたしだって……」
先ほどの事を思い返すと腹立たしい。
でも、どうしてあの人はあんな嫌がらせをするんだろう。
まさか、本当にさっき言ってたように、生意気だからだとか、そんな理由で?
「ともかく」
周囲に誰もいないことを確認した上で、クルトが声を落とす。
「お前も無茶するなよ。年上の男に腕力で敵うわけがないんだ。さっきだって、下手をすれば怪我してたかもしれないんだぞ」
「え、ええと……ごめんなさい」
謝りながらも、イザークに掴みかかられたときの感覚を思い出して、つい口を開く。
「でも、あの人、案外非力でしたよ。わたしも家にいた頃は、きょうだいと喧嘩することもありましたけど、あの人は弟と同じくらいの強さですね。やっぱり、温室育ちのお坊ちゃんは鍛えられてないのかな」
「何をのんきなことを……お前、全然懲りてないな。相手が咄嗟に力を抜いていた可能性だってあるだろう? お前は小柄だし、本気を出したらまずいと思ったのかもしれない。校内で傷害事件を起こせば問題になるだろうからな」
そうなのかな……
でも、確かに、わたしだってイザークに掴みかかられながらも、頭の片隅では彼の力を推し量っていたのだ。
クルトの言うとおり、イザークだってあの激昂状態にありながら、どこかで理性が働いて無意識に手加減していたのかもしれない。だとしたら、怪我をせずに済んだのは運がよかったのだろうか。
そんな事を考えながら、首にマフラーを巻きなおした。
それはそれとして――
鏡の中の自分とにらめっこしながら、先ほどのクルトの言葉を思い出し、少し考え込んでしまう。
「小柄」って、やっぱり「貧相」って事なんだろうか……
一日経って、腹立たしさの収まったわたしは、アルベルトの部屋を訪ねた。
「あの、昨日はすみませんでした。あんな騒ぎを起こすつもりはなかったんですけど……」
おずおずと謝ると、アルベルトは首を振る。
「いや、大事にならなくてよかったよ。床はひどい事になってたけど」
そう言ってはくれるが、その顔は少し疲れているようにも見えた。
「それよりも、なんであんな事になったのか教えてくれないかな? なにしろ、あの後イザークのやつに話を聞こうとしたら、彼、何も言わずに部屋に閉じこもってしまってね」
「ええと、それは……」
自分の持ってきたジャムがあの騒ぎの原因の一端だとわかれば、多少なりともアルベルトは気にしてしまうのではないだろうか。
そう考えて口ごもっていると、アルベルトは眉をひそめる。
「もしかして、人に話せないような事だったりする? それならオレも無理には聞かないけど……」
「い、いえ、違うんです」
変に誤解されるよりは、素直に話したほうがいいのかもしれない。そう考えて姿勢を正す。
「実は――」
わたしが事の次第を説明すると、話を聞き終わったアルベルトは、なんだか困ったように頭をかく。
「ええと、こう言っちゃなんだけど……そんなことで?」
「……クルトにも言われました。子供の喧嘩みたいだって」
「あ、いや、君の気持ちもわかるけど……オレはてっきり、もっと深刻なものかと……」
クルトも呆れていたけれど、他人からするとくだらない事なんだろうか。
それで怒る自分は、もしかして心が狭いのかな……?
そんな事を考えていると、アルベルトが溜息を漏らす。
「でも、なんでイザークも、君に対してそんな幼稚な嫌がらせをするんだろうな。確かに、世の中にはなんとなく虫が好かない相手っていうのは存在するけど、それならそれで距離を置けば良い話なのに。あ、君が彼にとってその『虫が好かない相手』かどうかはわからないけどね。たとえばの話」
「それについては、わたしも考えたんですが……」
「なにか心当たりでも?」
「前に、わたしの家はきょうだいがたくさんいたって話をしましたよね?」
頷くアルベルトを見ながらわたしは続ける。
「その中でも小さい妹や弟の話なんですが……新しいきょうだいができると、わざと騒ぎを起こしたりする子がいるんです。今までいなかった子供が新しく家族の一員に加われば、自然とみんなの関心はその子に向きますよね。それが気に食わなくて、自分に注目して欲しくて、それで騒ぎを起こすんです。わたしは、イザークもそれと似たようなものなんじゃないかって思って。【家族】にわたしという存在が加わったことで、他のメンバーの関心がわたしに移ることに我慢できなくなって、それで、あんな嫌がらせを……」
「ちょっと待って。『他のメンバー』って、オレの事?」
その問いにわたしは頷く。
「そうです。あれでいて、イザークはアルベルトのことを兄のように慕っているんじゃないかと思ったんです」
「ええ? それにしちゃ、彼のオレに対する態度は結構ひどいと思うけどなあ……」
「案外、それがあの人なりの親しみの表現なのかもしれませんよ。わたしの身近なところにも、怒ってるように見えて、実は心配してくれてたって人がいますから」
「うーん、そうかなあ……」
アルベルトはいまいち納得できない様子で首を傾げている。
「でも、仮にそうだったとしても、君だって、そんな理由で嫌がらせされるのは堪ったものじゃないだろ?」
「ええ、まあ、そうですね……」
「だよなあ……どうしたものかな」
暫く考えていた様子だったが、答えは出なかったのか、お手上げといった様子で溜息をつく。
「とりあえず、こんな事が起こった以上、ジャムをお土産にするのはやめたほうが良いかもしれないなあ。昨日みたいに瓶が割れたら危険だし」
「えっ、そんな。それじゃあ、わたしはもうアルベルト自慢のジャムを口にする事ができないんですか!? 今回は食べ損ねたから、次こそはと思っていたのに……ああ、食べられないと思ったら余計食べたくなってきました」
それを聞いたアルベルトは笑い声を洩らした。
「そんなたいしたものじゃないよ……でも、そんなに言ってくれるなら、考え直してみようかな」
「ほんとですか!?」
「うん。どうせ、次で最後になるだろうしね」
「最後?」
「ほら、オレはあと半年もすれば卒業だからさ。その間、休暇といえば春休みくらいしかないだろ?」
「あ……」
そうか。三年生のアルベルトはもうすぐこの学校から去ってしまうのだ。
なんだか寂しい……
孤児院にいた頃も、何人ものきょうだいたちが巣立っていった。その度に別れを経験したけれど、何度繰り返しても、やっぱり寂しい。
それと同じような気持ちを、アルベルトに対しても抱いているのかもしれない。
あれ、でも……と、わたしはふと気付く。
アルベルトがいなくなってしまったら、【家族】はどうなるんだろう。正直なところ、イザークとうまくやっていく自信が無い。
そう考えた途端、なんだか胃のあたりが重くなったような気がした。
せめて、次に入学してくる一年生が、いい人でありますように……
(7月と赤い果実 完)
鏡を見ると、イザークに踏まれたあたりにじわりと染みができていた。
「まさか……」
慌ててマフラーを外すと隅々まで調べる。
よかった。こっちは汚れていないみたいだ。
安堵していると、その様子を見ていたクルトが口を開く。
「おい、あの二年生と一体何があったんだ?」
「ええと、イザークにジャムをすり替えられて、それを問い詰めたらあんな事に……」
簡単に事情を話すと、クルトが眉を吊り上げた。
「はあ? そんなくだらない事で、あんな大騒ぎしたのか?」
わたしが頷くのを見て、クルトは呆れたように天を仰ぐ。
「信じられない……たかがジャムが原因で取っ組み合いにまで発展するなんて、まるで子供の喧嘩……いや、実際お前は子供だから仕方ないのかもしれないが」
「『たかが』じゃありません! わたしにとっては大問題です!」
わたしはヴェルナーさんにもジャムを食べさせてしまった事を説明する。
「おかげでヴェルナーさんのわたしに対する信頼は地に落ちたも同然ですよ」
「大袈裟すぎる……」
「それじゃあ、考えてみてください。もしクルトがわたしと同じような状況にあったとして、知らなかったとはいえ、ロザリンデさんにとんでもなくまずいものを食べさせてしまったとしたら?」
「決して許されないな」
「そうでしょう!? これは非常に忌むべき罪ですよ! いつか、イザークの部屋のドアノブにジャムを塗りたくって、べったべたにしてやります!」
「よくもそんな地味に気持ちの悪い嫌がらせを思いつけるな……くれぐれも俺にはするなよ」
気味悪そうに口元を手で覆うクルトを尻目に、わたしは先ほど思った疑問を口にする。
「でも、さっきはどうしてアルベルトが丁度よくあそこにいたのかな……」
「俺が呼んだ。お前があの二年生と揉めてるって聞いたから」
「クルトが?」
「二年生が相手じゃ、一年の俺が何か言っても相手にされないかもしれないだろう? だから、あの三年生になんとかしてもらおうと思って。年長者の彼は自分の「家族】を監督する役割もあるだろうし、こういう時に出てきてもらわないとな」
そうだったのか。
そういえば人も集まっていたけれど、そんなに騒がしかったのかな……
「けれど、お前たちみたいなのが【家族】だなんて、あの三年生も災難だな。こんな騒ぎを起こされて、堪ったもんじゃないだろう」
クルトがやれやれといった様子で肩をすくめたので、わたしは口を尖らせる。
「元はといえばイザークが悪いんですよ。あの人があんな事しなければ、わたしだって……」
先ほどの事を思い返すと腹立たしい。
でも、どうしてあの人はあんな嫌がらせをするんだろう。
まさか、本当にさっき言ってたように、生意気だからだとか、そんな理由で?
「ともかく」
周囲に誰もいないことを確認した上で、クルトが声を落とす。
「お前も無茶するなよ。年上の男に腕力で敵うわけがないんだ。さっきだって、下手をすれば怪我してたかもしれないんだぞ」
「え、ええと……ごめんなさい」
謝りながらも、イザークに掴みかかられたときの感覚を思い出して、つい口を開く。
「でも、あの人、案外非力でしたよ。わたしも家にいた頃は、きょうだいと喧嘩することもありましたけど、あの人は弟と同じくらいの強さですね。やっぱり、温室育ちのお坊ちゃんは鍛えられてないのかな」
「何をのんきなことを……お前、全然懲りてないな。相手が咄嗟に力を抜いていた可能性だってあるだろう? お前は小柄だし、本気を出したらまずいと思ったのかもしれない。校内で傷害事件を起こせば問題になるだろうからな」
そうなのかな……
でも、確かに、わたしだってイザークに掴みかかられながらも、頭の片隅では彼の力を推し量っていたのだ。
クルトの言うとおり、イザークだってあの激昂状態にありながら、どこかで理性が働いて無意識に手加減していたのかもしれない。だとしたら、怪我をせずに済んだのは運がよかったのだろうか。
そんな事を考えながら、首にマフラーを巻きなおした。
それはそれとして――
鏡の中の自分とにらめっこしながら、先ほどのクルトの言葉を思い出し、少し考え込んでしまう。
「小柄」って、やっぱり「貧相」って事なんだろうか……
一日経って、腹立たしさの収まったわたしは、アルベルトの部屋を訪ねた。
「あの、昨日はすみませんでした。あんな騒ぎを起こすつもりはなかったんですけど……」
おずおずと謝ると、アルベルトは首を振る。
「いや、大事にならなくてよかったよ。床はひどい事になってたけど」
そう言ってはくれるが、その顔は少し疲れているようにも見えた。
「それよりも、なんであんな事になったのか教えてくれないかな? なにしろ、あの後イザークのやつに話を聞こうとしたら、彼、何も言わずに部屋に閉じこもってしまってね」
「ええと、それは……」
自分の持ってきたジャムがあの騒ぎの原因の一端だとわかれば、多少なりともアルベルトは気にしてしまうのではないだろうか。
そう考えて口ごもっていると、アルベルトは眉をひそめる。
「もしかして、人に話せないような事だったりする? それならオレも無理には聞かないけど……」
「い、いえ、違うんです」
変に誤解されるよりは、素直に話したほうがいいのかもしれない。そう考えて姿勢を正す。
「実は――」
わたしが事の次第を説明すると、話を聞き終わったアルベルトは、なんだか困ったように頭をかく。
「ええと、こう言っちゃなんだけど……そんなことで?」
「……クルトにも言われました。子供の喧嘩みたいだって」
「あ、いや、君の気持ちもわかるけど……オレはてっきり、もっと深刻なものかと……」
クルトも呆れていたけれど、他人からするとくだらない事なんだろうか。
それで怒る自分は、もしかして心が狭いのかな……?
そんな事を考えていると、アルベルトが溜息を漏らす。
「でも、なんでイザークも、君に対してそんな幼稚な嫌がらせをするんだろうな。確かに、世の中にはなんとなく虫が好かない相手っていうのは存在するけど、それならそれで距離を置けば良い話なのに。あ、君が彼にとってその『虫が好かない相手』かどうかはわからないけどね。たとえばの話」
「それについては、わたしも考えたんですが……」
「なにか心当たりでも?」
「前に、わたしの家はきょうだいがたくさんいたって話をしましたよね?」
頷くアルベルトを見ながらわたしは続ける。
「その中でも小さい妹や弟の話なんですが……新しいきょうだいができると、わざと騒ぎを起こしたりする子がいるんです。今までいなかった子供が新しく家族の一員に加われば、自然とみんなの関心はその子に向きますよね。それが気に食わなくて、自分に注目して欲しくて、それで騒ぎを起こすんです。わたしは、イザークもそれと似たようなものなんじゃないかって思って。【家族】にわたしという存在が加わったことで、他のメンバーの関心がわたしに移ることに我慢できなくなって、それで、あんな嫌がらせを……」
「ちょっと待って。『他のメンバー』って、オレの事?」
その問いにわたしは頷く。
「そうです。あれでいて、イザークはアルベルトのことを兄のように慕っているんじゃないかと思ったんです」
「ええ? それにしちゃ、彼のオレに対する態度は結構ひどいと思うけどなあ……」
「案外、それがあの人なりの親しみの表現なのかもしれませんよ。わたしの身近なところにも、怒ってるように見えて、実は心配してくれてたって人がいますから」
「うーん、そうかなあ……」
アルベルトはいまいち納得できない様子で首を傾げている。
「でも、仮にそうだったとしても、君だって、そんな理由で嫌がらせされるのは堪ったものじゃないだろ?」
「ええ、まあ、そうですね……」
「だよなあ……どうしたものかな」
暫く考えていた様子だったが、答えは出なかったのか、お手上げといった様子で溜息をつく。
「とりあえず、こんな事が起こった以上、ジャムをお土産にするのはやめたほうが良いかもしれないなあ。昨日みたいに瓶が割れたら危険だし」
「えっ、そんな。それじゃあ、わたしはもうアルベルト自慢のジャムを口にする事ができないんですか!? 今回は食べ損ねたから、次こそはと思っていたのに……ああ、食べられないと思ったら余計食べたくなってきました」
それを聞いたアルベルトは笑い声を洩らした。
「そんなたいしたものじゃないよ……でも、そんなに言ってくれるなら、考え直してみようかな」
「ほんとですか!?」
「うん。どうせ、次で最後になるだろうしね」
「最後?」
「ほら、オレはあと半年もすれば卒業だからさ。その間、休暇といえば春休みくらいしかないだろ?」
「あ……」
そうか。三年生のアルベルトはもうすぐこの学校から去ってしまうのだ。
なんだか寂しい……
孤児院にいた頃も、何人ものきょうだいたちが巣立っていった。その度に別れを経験したけれど、何度繰り返しても、やっぱり寂しい。
それと同じような気持ちを、アルベルトに対しても抱いているのかもしれない。
あれ、でも……と、わたしはふと気付く。
アルベルトがいなくなってしまったら、【家族】はどうなるんだろう。正直なところ、イザークとうまくやっていく自信が無い。
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