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7月と白い林檎
7月と白い林檎 8
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そして日曜日、わたしはヴェルナーさんの家――正確にいえばかつて彼の家だった建物を訪れた。
そこで持ってきた一枚の絵画を、建物の壁に立てかける。ぶどうや桃の入った果物籠の描かれた絵だ、それをちらりと確認すると、家の中へと入る。
主のいなくなったアトリエは、荷物が全て持ち出され、家具もなにもない。あれほど荒らされていたのも嘘のように、寒々しい家の中はしんと静まり返っている。
そこでわたしはじっと待った。ドアを正面に見るように、壁に背中をぴったりとくっつけて。
どれくらいそうしていただろう。やがて、正面のドアがゆっくりと開いていく。差し込んでくる光を受けて、浮かび上がったのは、ディルクの姿だった。
彼は部屋の中を見回し、わたししかいない事を確認すると、ニ、三歩室内に踏み込み、ドアを閉めた。その手には、わたしが先ほど外に立てかけておいた絵を抱えている。
「こんにちは、ディルクさん。こうして顔を合わせるもの久しぶりですね。失礼ですが、すこし痩せましたか?」
わたしの挨拶を無視するように、ディルクが鋭い声を上げる。
「一体どういうつもりだ? この絵は」
そして彼は抱えていた絵を見せるようにこちらへ向ける。
「こうでもしないとあなたと話が出来ないと思って。何も言えないまま闇討ちされるのは嫌ですからね。その絵、見覚えがあるでしょう? かつてあなた自身が描いた絵です。タイトルは『果物籠』でしたっけ? 自分の罪を知っている人物が、何故か自分の描いた絵を持っている。それを見せつけるように壁に立てかけて。そんな事をされたら気になりますよね。特にあなたは激昂しやすい性格のようですから、すぐにでもその行動の真意を問いただすために、わたしに接触を図るはずだと思いました。ひとけのないこの部屋はそれにうってつけの場所です」
わたしはディルクの持っている絵を指差す。
「その絵を探すのは苦労したそうです。なにしろあなたの描いた絵はなかなか出回ってなかったそうですから。さらに、別人の絵にあなたのサインが入っているものまであるし、本物を見つけるために、ずいぶん骨を折ったとか」
「……何が目的なんだ?」
「いえ、ちょっとした感想をお伝えしたくて。改めて拝見させて頂きましたけど、素人のわたしにもわかるほど、あなたの絵には魅力がありません。ヴェルナーさんのデッサン以下です。あなた自身、それがわかっていたんじゃありませんか? だから他人が描いた素晴らしい絵を自作だと偽ったり、自分より優れている画家を排除しようとした。でも、そんな事をしても、あなたが賞賛されることはありませんよ」
それを聞いた途端、ディルクは顔色を変えてまくし立てる。
「うるせえ! 知った風な口聞きやがって! どいつもこいつも俺の絵を全然理解しやがらねえ! 時代や場所が違えば俺の絵だって……!」
「さあ、それはどうでしょうか」
「お前みたいなガキに何が判るっていうんだ!」
「ええ、わかりません。わたしは絵について素人同然ですからね。だから試してみたんです」
わたしは頷きながら話を続ける。
「以前、こんな話を聞いた事があります。とある画家が果物の絵を描いたところ、それを本物と間違えた小鳥が絵の中の果物をついばみに来たって。あなたがいくら無名とはいえ、優れた絵を描く画家なら、その逸話と同じように『果物籠』に描かれた果物を小鳥がついばみに来るんじゃないかと思って。だから外の壁にその絵を立てかけておいたんですが……結果はあなたが良くご存知でしょう? この家の様子をずっと外から窺っていたんでしょうから。あなたの絵には小鳥はおろか、人間さえも興味を示さなかったみたいですね」
そう言うと、わたしは目を細め、唇の端を持ち上げる。今の自分はきっと、底意地の悪そうな顔をしているんだろう。
「動物にもわかるんですね。あなたの絵が出来損ないだって」
言い終えた瞬間、ディルクが絵を放り投げてわたしに掴みかかろうとする。
だが、同時に部屋に通じる全てのドアが勢い良く開かれ、幾人もの男たちが躍り出た。男たちはディルクに襲い掛かると、瞬時にしてうつぶせに引き倒し、後ろ手にねじり上げる。
あっという間に猿ぐつわを噛まされ、両腕を男達に挟まれるように掴まれたディルクは、膝立ちにされ、わたしの前に引きずり出される。
突然のことに何が起こったのか理解できない様子で、ディルクは目を見開いて周りを見回す。が、男達の一人に髪を掴まれ正面を向かされる。
「ディルクさん、あなた、ヴェルナーさんだけでなく、わたしにも報復しようとしてたんじゃありませんか? あのルクレティアの肖像画の秘密を暴いた張本人ですからね。現に今日もわたしの後をつけてきて、建物の外から様子を伺っていたようですし。でも痛いのは嫌いなので、わたしのほうでも対応させてもらうことにしたんです」
わたしは首を傾げる。
「さあ、これからどうしましょう。二度と絵が描けなくなるように、利き手の指を一本一本折ってしまいましょうか。それとも、目を潰したほうが確実かな。絵を描く事も付きまとう事もできなくなるだろうし」
わたしがディルクのまぶたに軽く指で触れると、彼の喉の奥から笛が鳴るような鋭く短い叫び声が漏れた。
それを聞きながらわたしは続ける。
「どうしてわたしがあなたの絵を探し出せたんだと思います? どうしてこんな風にあなたを捕縛することが出来たと思います? わたしのこと、ただの非力なこどもだと思っていました? まがりなりにもクラウス学園の生徒なんですよ? これくらいのこと簡単にできるんです。知りませんでした? もちろん、今ここで起こっていることを秘匿することだって……」
わたしは腰を落としてはディルクの瞳を覗き込む。彼は、恐怖のためか焦点の定まらない様子で、その瞳を小刻みに揺らす。
「でも、わたしにはそんな趣味はありませんからね。約束してください。もう二度とヴェルナーさんやわたしに纏わり付くのはやめるって。そうすればあなたを警察に引き渡すだけで済ませましょう。それが嫌なら……仕方ないですけど、やっぱり目を潰すのが一番手っ取り早い――」
途端にディルクがくぐもった声を上げる。
「目潰しは嫌ですか? 牢獄に行くほうを望むと」
問うと、ディルクは狂ったように首を上下に揺らした。
わたしはディルクを見下ろしながら言い放つ。
「わかりました。それで手を打ちましょう。いいですか? 約束を反故にするようなことがあれば、今度こそどうなるか保障できませんよ。あなたがどこにいたって見つけ出して、それ相応の制裁を受けてもらいますからね」
ディルクは諦めたように、がくりと肩を落としてうなだれた。
「お前、煽りすぎだ。あいつがもう少し近い位置にいたら、怪我してたかもしれないんだぞ」
歩きながら、隣のクルトが声を上げる。
ディルクの事は先ほどの男達に任せて、わたしたちはあの家を後にした。あの男達は、クルトの家に仕えていて、ロザリンデさんの【お願い】を叶える時に色々と手を貸してもらっていたらしい。
わたしはクルトを通じて彼らに力を貸してもらうという、いわば虎の威を借る狐のような状態だったのだが、ディルクにはそんな事わかろうはずもない。わたしの家柄を偽装する為に協力してもらったのだ。
「すみません……でも、うまくいきましたよね? 暫くあの人は牢獄暮らしでしょうし、街へ出てきても、もう報復しようなんて気も起こらないんじゃないでしょうか」
「そう願ってるよ」
どうしてもっと早くこうしなかったんだろう。もっと早くにクルトに全てを打ち明けていれば、ヴェルナーさんがこの街を去る事もなかったかもしれないのに。
「ねえクルト」
「うん?」
「どうしてヴェルナーさんは、何も言わずに行っちゃったんだろう……」
「それは……」
クルトは腕組みして考え込む素振りを見せる。
「普通に考えれば、お前を巻き込みたくなかったんだろう。何か言えば、お前は絶対首を突っ込んでくるだろうし。そうなる前に離れることで、お前をあのディルクってやつから遠ざけようとしたんじゃないか?」
「そんな……」
「それに、以前に俺があの人に謝るためにアトリエを訪ねた事があっただろう? それでふたりきりで話をして……実はあの時、妙な事を言われたんだ」
「妙な事?」
問うとクルトは頷く。
「お前の事を『気にかけてやってくれないか』って。その時は、お前が危なっかしいから、その事について言ってるんだと思ったんだが……今思えば、ヴェルナーさんはどこかで今回の事を予見していたんじゃないだろうか。自分がいつかあのアトリエを去る事を見越して、それで、そんな事を言ったのかもしれない」
それじゃあヴェルナーさんは、以前からわたしの身を案じていてくれたのだろうか。
それも知らずに自分はなんて能天気だったんだろう。こんな事が起こるなんて予想もせず、いつまでも彼の傍で絵を描く生活が続くと思い込んでいた。
黙りこくったまま歩いていると、広場に差し掛かった。中央にある噴水が、今日も勢い良く水を噴き上げている。それを見て、わたしは不意に思い出した。
「クルトはこの噴水の言い伝えって覚えてますか? 後ろ向きにコインを投げ入れて、水の中に入れることが出来たら願いが叶うっていう……」
「もちろん覚えてる。前に一緒にコインを投げ入れたからな。それがどうかしたのか?」
「わたし、今から噴水に向かって後ろ向きでコインを一枚投げるので、それがちゃんと水の中に入るかどうか見ていて欲しいんです」
わたしは噴水から少し離れたところで背を向ける。
自分には願うことしかできないが、せめてそれだけでも……
――どうか、これからのヴェルナーさんの人生が、誰にも邪魔されることなく、穏やかで幸せなものでありますように――
そう心の中で呟き、コインを投げる。
水が噴き上がる音にかき消されて、コインが噴水内に落ちたかどうかはわからなかったが、振り向いてクルトの顔を見ると、彼は微かに笑みを浮かべて頷いた。
(7月と白い林檎 完)
そこで持ってきた一枚の絵画を、建物の壁に立てかける。ぶどうや桃の入った果物籠の描かれた絵だ、それをちらりと確認すると、家の中へと入る。
主のいなくなったアトリエは、荷物が全て持ち出され、家具もなにもない。あれほど荒らされていたのも嘘のように、寒々しい家の中はしんと静まり返っている。
そこでわたしはじっと待った。ドアを正面に見るように、壁に背中をぴったりとくっつけて。
どれくらいそうしていただろう。やがて、正面のドアがゆっくりと開いていく。差し込んでくる光を受けて、浮かび上がったのは、ディルクの姿だった。
彼は部屋の中を見回し、わたししかいない事を確認すると、ニ、三歩室内に踏み込み、ドアを閉めた。その手には、わたしが先ほど外に立てかけておいた絵を抱えている。
「こんにちは、ディルクさん。こうして顔を合わせるもの久しぶりですね。失礼ですが、すこし痩せましたか?」
わたしの挨拶を無視するように、ディルクが鋭い声を上げる。
「一体どういうつもりだ? この絵は」
そして彼は抱えていた絵を見せるようにこちらへ向ける。
「こうでもしないとあなたと話が出来ないと思って。何も言えないまま闇討ちされるのは嫌ですからね。その絵、見覚えがあるでしょう? かつてあなた自身が描いた絵です。タイトルは『果物籠』でしたっけ? 自分の罪を知っている人物が、何故か自分の描いた絵を持っている。それを見せつけるように壁に立てかけて。そんな事をされたら気になりますよね。特にあなたは激昂しやすい性格のようですから、すぐにでもその行動の真意を問いただすために、わたしに接触を図るはずだと思いました。ひとけのないこの部屋はそれにうってつけの場所です」
わたしはディルクの持っている絵を指差す。
「その絵を探すのは苦労したそうです。なにしろあなたの描いた絵はなかなか出回ってなかったそうですから。さらに、別人の絵にあなたのサインが入っているものまであるし、本物を見つけるために、ずいぶん骨を折ったとか」
「……何が目的なんだ?」
「いえ、ちょっとした感想をお伝えしたくて。改めて拝見させて頂きましたけど、素人のわたしにもわかるほど、あなたの絵には魅力がありません。ヴェルナーさんのデッサン以下です。あなた自身、それがわかっていたんじゃありませんか? だから他人が描いた素晴らしい絵を自作だと偽ったり、自分より優れている画家を排除しようとした。でも、そんな事をしても、あなたが賞賛されることはありませんよ」
それを聞いた途端、ディルクは顔色を変えてまくし立てる。
「うるせえ! 知った風な口聞きやがって! どいつもこいつも俺の絵を全然理解しやがらねえ! 時代や場所が違えば俺の絵だって……!」
「さあ、それはどうでしょうか」
「お前みたいなガキに何が判るっていうんだ!」
「ええ、わかりません。わたしは絵について素人同然ですからね。だから試してみたんです」
わたしは頷きながら話を続ける。
「以前、こんな話を聞いた事があります。とある画家が果物の絵を描いたところ、それを本物と間違えた小鳥が絵の中の果物をついばみに来たって。あなたがいくら無名とはいえ、優れた絵を描く画家なら、その逸話と同じように『果物籠』に描かれた果物を小鳥がついばみに来るんじゃないかと思って。だから外の壁にその絵を立てかけておいたんですが……結果はあなたが良くご存知でしょう? この家の様子をずっと外から窺っていたんでしょうから。あなたの絵には小鳥はおろか、人間さえも興味を示さなかったみたいですね」
そう言うと、わたしは目を細め、唇の端を持ち上げる。今の自分はきっと、底意地の悪そうな顔をしているんだろう。
「動物にもわかるんですね。あなたの絵が出来損ないだって」
言い終えた瞬間、ディルクが絵を放り投げてわたしに掴みかかろうとする。
だが、同時に部屋に通じる全てのドアが勢い良く開かれ、幾人もの男たちが躍り出た。男たちはディルクに襲い掛かると、瞬時にしてうつぶせに引き倒し、後ろ手にねじり上げる。
あっという間に猿ぐつわを噛まされ、両腕を男達に挟まれるように掴まれたディルクは、膝立ちにされ、わたしの前に引きずり出される。
突然のことに何が起こったのか理解できない様子で、ディルクは目を見開いて周りを見回す。が、男達の一人に髪を掴まれ正面を向かされる。
「ディルクさん、あなた、ヴェルナーさんだけでなく、わたしにも報復しようとしてたんじゃありませんか? あのルクレティアの肖像画の秘密を暴いた張本人ですからね。現に今日もわたしの後をつけてきて、建物の外から様子を伺っていたようですし。でも痛いのは嫌いなので、わたしのほうでも対応させてもらうことにしたんです」
わたしは首を傾げる。
「さあ、これからどうしましょう。二度と絵が描けなくなるように、利き手の指を一本一本折ってしまいましょうか。それとも、目を潰したほうが確実かな。絵を描く事も付きまとう事もできなくなるだろうし」
わたしがディルクのまぶたに軽く指で触れると、彼の喉の奥から笛が鳴るような鋭く短い叫び声が漏れた。
それを聞きながらわたしは続ける。
「どうしてわたしがあなたの絵を探し出せたんだと思います? どうしてこんな風にあなたを捕縛することが出来たと思います? わたしのこと、ただの非力なこどもだと思っていました? まがりなりにもクラウス学園の生徒なんですよ? これくらいのこと簡単にできるんです。知りませんでした? もちろん、今ここで起こっていることを秘匿することだって……」
わたしは腰を落としてはディルクの瞳を覗き込む。彼は、恐怖のためか焦点の定まらない様子で、その瞳を小刻みに揺らす。
「でも、わたしにはそんな趣味はありませんからね。約束してください。もう二度とヴェルナーさんやわたしに纏わり付くのはやめるって。そうすればあなたを警察に引き渡すだけで済ませましょう。それが嫌なら……仕方ないですけど、やっぱり目を潰すのが一番手っ取り早い――」
途端にディルクがくぐもった声を上げる。
「目潰しは嫌ですか? 牢獄に行くほうを望むと」
問うと、ディルクは狂ったように首を上下に揺らした。
わたしはディルクを見下ろしながら言い放つ。
「わかりました。それで手を打ちましょう。いいですか? 約束を反故にするようなことがあれば、今度こそどうなるか保障できませんよ。あなたがどこにいたって見つけ出して、それ相応の制裁を受けてもらいますからね」
ディルクは諦めたように、がくりと肩を落としてうなだれた。
「お前、煽りすぎだ。あいつがもう少し近い位置にいたら、怪我してたかもしれないんだぞ」
歩きながら、隣のクルトが声を上げる。
ディルクの事は先ほどの男達に任せて、わたしたちはあの家を後にした。あの男達は、クルトの家に仕えていて、ロザリンデさんの【お願い】を叶える時に色々と手を貸してもらっていたらしい。
わたしはクルトを通じて彼らに力を貸してもらうという、いわば虎の威を借る狐のような状態だったのだが、ディルクにはそんな事わかろうはずもない。わたしの家柄を偽装する為に協力してもらったのだ。
「すみません……でも、うまくいきましたよね? 暫くあの人は牢獄暮らしでしょうし、街へ出てきても、もう報復しようなんて気も起こらないんじゃないでしょうか」
「そう願ってるよ」
どうしてもっと早くこうしなかったんだろう。もっと早くにクルトに全てを打ち明けていれば、ヴェルナーさんがこの街を去る事もなかったかもしれないのに。
「ねえクルト」
「うん?」
「どうしてヴェルナーさんは、何も言わずに行っちゃったんだろう……」
「それは……」
クルトは腕組みして考え込む素振りを見せる。
「普通に考えれば、お前を巻き込みたくなかったんだろう。何か言えば、お前は絶対首を突っ込んでくるだろうし。そうなる前に離れることで、お前をあのディルクってやつから遠ざけようとしたんじゃないか?」
「そんな……」
「それに、以前に俺があの人に謝るためにアトリエを訪ねた事があっただろう? それでふたりきりで話をして……実はあの時、妙な事を言われたんだ」
「妙な事?」
問うとクルトは頷く。
「お前の事を『気にかけてやってくれないか』って。その時は、お前が危なっかしいから、その事について言ってるんだと思ったんだが……今思えば、ヴェルナーさんはどこかで今回の事を予見していたんじゃないだろうか。自分がいつかあのアトリエを去る事を見越して、それで、そんな事を言ったのかもしれない」
それじゃあヴェルナーさんは、以前からわたしの身を案じていてくれたのだろうか。
それも知らずに自分はなんて能天気だったんだろう。こんな事が起こるなんて予想もせず、いつまでも彼の傍で絵を描く生活が続くと思い込んでいた。
黙りこくったまま歩いていると、広場に差し掛かった。中央にある噴水が、今日も勢い良く水を噴き上げている。それを見て、わたしは不意に思い出した。
「クルトはこの噴水の言い伝えって覚えてますか? 後ろ向きにコインを投げ入れて、水の中に入れることが出来たら願いが叶うっていう……」
「もちろん覚えてる。前に一緒にコインを投げ入れたからな。それがどうかしたのか?」
「わたし、今から噴水に向かって後ろ向きでコインを一枚投げるので、それがちゃんと水の中に入るかどうか見ていて欲しいんです」
わたしは噴水から少し離れたところで背を向ける。
自分には願うことしかできないが、せめてそれだけでも……
――どうか、これからのヴェルナーさんの人生が、誰にも邪魔されることなく、穏やかで幸せなものでありますように――
そう心の中で呟き、コインを投げる。
水が噴き上がる音にかき消されて、コインが噴水内に落ちたかどうかはわからなかったが、振り向いてクルトの顔を見ると、彼は微かに笑みを浮かべて頷いた。
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