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とある日の不思議なお客さん
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商店街の端っこに、看板が一枚だけぶら下がっている。
『Tanaka Grooming 予約制』
派手な飾りも、目立つ旗もない。昼の光がガラスに当たると、店内の白いタイルが少し眩しく見えるだけだ。
店主の田中は、カウンターの上を拭き終えてから、予約帳をぱらりと開いた。午後は一件だけ。小型犬のシャンプーと足回りのカット。まだ時間はある。
そのときだ。
ドンドンドン!ドンドンドンドンド!!
背中に響くようなノックが、店のドアを揺らした。
「……え?」
田中は反射的にインターホンの方を見たが、そこには何も起きていない。宅配なら、だいたいピンポンだ。ノックする人もいるが、こんな勢いでは叩かない。
もう一度、少し控えめに。
トン、トン!
田中はエプロンの紐を整え、ドアに近づいた。ガラス越しに外を見ると、下の方に、小さな影がある。子ども……にしては、何かが変だ。
鍵を外してドアを開けた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。木の葉と土、それから、どこか燻した肉みたいな香り。
「どうも~」
小さめサイズの女の子が、間延びした声で言った。いや、性格には女の子みたいな存在だ。頭の上に、丸っこい耳が二つポンポン。色は茶髪で、先が少し淡い。耳の縁に沿って短い毛が揃っていて、ピクピクと動いている。
腰のあたりから、もう一つ。もふっとした尻尾が、ゆるく左右に揺れていた。毛量が多くて、丸みがある。タヌキ……耳?
田中は、目の前の情報を脳内で整理しようとして、いったん諦めた。
「えっと……いらっしゃいませ。ご予約は……」
「よやく? それ、おいしいの?」
「……いえ、食べ物じゃないです」
会話が、最初から噛み合わない。コスプレか? でも耳の付け根の皮膚の張り、毛の生え方、尻尾の動き。どれも、作り物に見えない。目の焦点も、呼吸のリズムも、あまりに自然だ。
彼女は、田中の困惑を気にする様子もなく、靴を脱いで上がり込んできた。小さな足でぺちぺちと足音を立てる。
「……あの、こちら、トリミングサロンでして……」
「うん。切りにきたんだよ」
切りにきた、らしい。散髪、という意味だろうか。田中は喉の奥で「まじか」と呟きそうになり、飲み込んだ。
「お名前、伺ってもいいですか?」
「ルミだよー」
「ルミさん。苗字は……」
「なにそれ?」
質問が届かないというより、概念が存在しない顔だ。まあ言葉が通じただけましと言うところだろうか。
田中は、受付用紙に『ルミ』だけ書いた。住所欄は空白、電話番号も空白。
「どちらから来られました?」
「山のほうの村!」
「……ええと、ここまで、どうやって」
「歩いて。あと、跳んで。あと、ちょっとだけ走った!」
商店街の端といってもここは、そこそこの都会だ。山なんて歩いて行ける距離にはない。地図アプリを開く気も起きない。田中は現実的なところに戻ることにした。目の前の客が何者かはさておき、今は「切ってほしい」という要望がある。刃物を扱う仕事だ。落ち着いて、できることをする。動物専門で行ってきたが、果たしてこの子は動物と言いきったも良いのかが疑問に思うが……
「では、こちらへ。椅子に座れますか?」
「うん!」
ルミは元気よく返事をして、トリミング用の椅子の前に立った。だが、背が低い。座っても、頭が作業しやすい高さまで来ない。田中はクッションを棚から取り出し、座面に一枚置いた。
「これに座ってください」
「わー、ふわふわだー!」
ルミが座るが、沈む。まだ低い。田中はもう一枚、さらにもう一枚。三枚目を置いたところで、ようやく目線がちょうど良い位置に来た。
「高くなった!」
「動くと危ないので、できるだけじっとしていてくださいね」
「じっと……うーん……がんばる!」
田中はケープをかける。首回りを軽く締め、毛が入り込まないように整えた。ルミの耳が、ケープの縁に触れてぴくりと跳ねる。
「くすぐったい?」
「ちょっと。でもへーきだよ」
髪の毛――というより、体毛に近い柔らかさのある毛が、頭から肩にかけてふんわり広がっている。湿気を含んだような、しっとりした手触り。田中はスプレーで軽く霧を吹き、コームで丁寧に梳いた。
シャッ、シャッ、とコームが毛を整える音。刃物の音の前に、毛流れを整えるのがいつも大事だ。ルミの前髪は目にかかり、頬のあたりでふわっと膨らんでいる。丸いシルエットが似合うタイプだ。
「今日はどんな感じにします? 短く? 揃えるくらい?」
「ふわふわがいい。あと、視界をひろくしたい」
「なるほど。目の前はすっきりさせて、全体は丸みを残して可愛くしましょう」
田中はハサミを持ち替え、前髪から入った。コームで持ち上げ、目にかからない長さを見極める。切りすぎると幼く見えるし、残しすぎると邪魔になる。
チョキ、チョキ
小さく刻むように切り、毛先を馴染ませる。ルミの目が、切られる毛を追いかけるようにきょろきょろ動く。
「落ちてるの、もったいないね」
「切った毛は戻せないんです。代わりに、仕上げを良くしますから」
「うん。じゃあ、もったいない分、きれいに」
田中は横の毛も整える。耳の付け根に向かって毛流れが少し変わる。人間の耳の位置とは違い、頭の上に耳があるせいで、そこに向かって毛が集まっている感じがある。コームの角度を変え、耳周りの厚みを調整する。
問題は、その耳だ。
ルミのタヌキ耳は、小ぶりで丸い。外側の毛が少し伸びて、縁がぼさっとしている。田中は「触りますね」と声をかけた。
「耳、触ります。怖かったら言ってください」
「こわくないよー。むしろ、耳は好き」
好きという割に、耳はぴくぴく動く。田中が耳の根元に指を添えると、くすぐったいのか、ルミは肩をすくめた。
「お、動きますね」
「勝手に動くの。うれしいときも、びっくりのときも」
「じゃあ、今は……?」
「ちょっと、どきどき」
田中は耳を強く押さえない。指を軽く添え、耳のカーブに沿ってハサミを入れる。半円の形を意識し、先端は少しだけ軽く。毛量が多いところは、梳きバサミで控えめに。
チョキ、チョキ
シャキ、シャキ
切った毛がふわりと舞い、ケープの上に落ちていく。ルミはじっとしているつもりなのだろうが、耳だけが自分の意志と別に動く。
「……ぴくっ」
「今ので切っちゃうと危ないので、少し止めますね」
「ごめんね」
田中は呼吸を合わせた。動いた直後は、次の動きまで一拍ある。その一拍で整える。耳の縁が揃っていくと、丸っこさが際立って、タヌキらしい愛嬌が出る。
「お、いい感じです」
「ほんと? 見たい」
「最後に鏡で確認しましょう」
頭髪のシルエットも整える。全体は短くしすぎず、輪郭に沿って丸みを出す。頬のあたりは少し軽くして、首元の重さを抜く。後頭部はふわっと、でも膨らみすぎないように。田中の手は、いつものリズムに戻っていた。
次に、ドライヤーだ。
「乾かしますね。熱かったら言ってください」
「うん!」
ドライヤーのスイッチを入れると、ぶわあああ、と風が音を立てた。ルミの耳の毛が揺れ、尻尾がふわっと膨らむ。ルミはその風に向かって何か言い始めた。
「ねえねえ、さっきさ――」
「え?」
「だからね――○※△◇□」
「ごめん、全然聞こえない。いったん止めますね」
田中がスイッチを切ると、急に静かになる。
「今、何て?」
「えっとね……」
ルミは少し考えた顔をして、首を傾げた。
「……あれ?わすれたぁ!」
「あるあるですね」
「あるあるってなに?」
「よくある、って意味です」
「ふーん。じゃあ、わたしがよく忘れるのもあるあるだね」
田中は笑いそうになり、口元だけで堪えた。仕事中に笑うと手元がぶれる。ドライヤーを再開し、根元から乾かしていく。耳の周りは温度を下げ、風量を弱める。獣の耳は、人の耳より敏感かもしれない。
乾ききったところで、尻尾を見た。
タヌキの尻尾。丸くて、もふっとしている。毛量が多く、触ると弾力がある。梳きすぎると貧相になるし、重すぎると形が崩れる。理想は、丸いポンポン。触ったときに、ふわっと戻る丸み。
「尻尾も、整えますか?」
「うん。しっぽもお願い」
髪は少し専門外だったが、尻尾に関しては得意分野だ。田中は尻尾の根元に手を添え、毛流れを確認した。ところが尻尾は、左右に、ゆらゆらではなく、ぶんぶん揺れる。
「止まってくださいね」
「むりぃー」
ルミが笑う。尻尾がさらに揺れる。
「ちょっとだけ押さえますよ」
「くすぐったいっ!」
声を上げた瞬間、尻尾がぶらぶらと暴れた。田中は手を離す。
「無理に固定すると危ないですね」
「ごめん、しっぽ、いうこときかないの」
「じゃあ、揺れるリズムに合わせてやります」
田中は尻尾の動きに目を凝らした。右、左、右、左。揺れが戻る瞬間、ほんのわずか止まる。その瞬間に毛先を少しずつ整える。
チョキ
チョキ
チョキ
揺れが来たら止める。戻ったら切る。梳きバサミは使いすぎない。丸みを残すために、外側の毛は削りすぎない。毛先だけ軽く。表面は揃えて、ふわっとした輪郭を作る。
「……だんだん、丸くなってきた」
「いいですね。今、毛がまとまってきています」
ルミの尻尾が揺れるたび、仕上がりが揺れて確認できる。丸い。丸いまま戻る。田中は最後に、表面をコームで軽く整え、毛先を最小限だけ切った。触ったときにちくちくしないように、角を作らない。
「はい、尻尾、終わりです」
「わーい」
ルミは尻尾をぶんっと振って、自分の背中側を見ようとする。見えない。だが、尻尾の跳ね返りがいつもより軽いのが分かるのだろう。
「もふってしてる! 丸い!」
「丸みを残してポンポンに整えました。タヌキ耳も、きれいに揃ってますよ」
田中は鏡を手に取り、ルミの顔の横に見せた。ルミは目をぱちぱちさせ、耳をじっと見た。耳の縁が揃って、丸っこく、ふっくら。頭髪も輪郭が整って、全体がやわらかい印象になっている。
「……すごい。耳、すごくいい」
「良かったです」
仕上げに、田中はいつもの流れで耳の掃除を提案した。犬猫なら、軽く外側を拭き、必要なら耳の中も少しだけ。ただし、無理はしない。
「耳の中、少しだけ拭いてもいいですか? 嫌ならやめます」
「いいよー。耳、好きだし」
田中は綿棒を取り出し、先端を見せてから、そっと近づけた。
その瞬間。
「ギャッ!」
ルミの身体が跳ねた。椅子からずるん、と降りて、店の隅まで走る。尻尾がぶわっと膨らみ、耳がぺたんと伏せられた。
「ご、ごめん! やめます、やめます!」
「それはだめ! 中はやだ!」
田中は綿棒をすぐにしまい、両手を見せた。攻撃する気はない、というサイン。ルミは壁際からこちらを見て、少しずつ息を整える。
「……ここは苦手なんですね」
「うん。耳の中、さわられると、びりびりする」
「分かりました。外側だけにしましょう。今日はもう、十分きれいですよ」
ルミはそろそろと戻り、椅子の前に立った。田中はケープを外し、首回りの毛を払い落とした。床に落ちた毛をまとめ、最後に軽く服を整える。
「お疲れさまでした。すごく良い仕上がりです」
「うん。わたしも満足」
満足、という言葉の出し方が妙に堂々としていて、田中は肩の力が抜けた。ここまで来ると、驚くより、ただ仕事をした感覚の方が強い。
そして、現実的な問題が残っている。
お会計だ。
「ええと、本日のお会計なんですが……」
「おかい、けい?」
ルミは知らない単語を聞いたみたいに首を傾げた。田中は、やはり、と思う。お金の概念がなかったらどうする。施術は施術だ。受け取るべき対価はある。しかし、目の前の相手に「三千円です」と言って通じる気がしない。
「えっと……代金、というか……このサービスの……」
「これ?」
ルミはポケットをごそごそ探り、何かを取り出した。包み紙もない。赤身と脂身がきれいに層になった、薄い肉の塊。生ハムだ。香りがふわっと広がり、さっきドアを開けたときの匂いの正体に気づく。
「これあげる!」
田中は一秒、固まった。
「……生ハムで?会計?」
「うん。おいしいよ」
冗談を言っている顔でもない。田中は、いろいろな損得計算をしようとして、その前に、仕事の後の空腹が先に勝った。
「分かりました。気持ちとして、ありがたく受け取ります」
「やった」
ルミはにこっと笑って、当たり前みたいに頷いた。田中は生ハムを冷蔵庫に入れるべきか迷い、ひとまず清潔な紙皿に乗せた。ほんの少し、端を切って口に入れる。
噛んだ瞬間、旨味が押し寄せた。塩気が強すぎず、脂がとろけて、香りが鼻に抜ける。肉の質が違う。田中は思わず、言葉を漏らした。
「……う、うまい」
ルミは、その反応を聞いて満足そうに胸を張った。
「でしょ。山のほうのいいやつなんだ!」
「山のほうって……あなた、本当にどこから」
「山のほう!」
またそこに戻る。田中は、これ以上追及しても仕方がないと悟る。ルミは、ドアの方へ小走りに向かった。尻尾が、丸く整えられたまま、もふっと揺れる。耳も、丸っこく、きれいに揃っている。
「また、来てもいい?」
「……予約、できるなら」
「よやく、頑張って覚える」
ルミはそう言って、ドアを開けた。外の光が差し込み、毛先が少し透けて見える。田中が「気をつけて」と言いかけたとき、ルミはもう外に出ていた。
足音が、軽く遠ざかる。商店街のざわめきに混ざって、すぐに分からなくなった。
田中はしばらく開いたままのドアを見ていた。現実感が遅れて追いついてくる。今、何が起きた?と自分に問うたところで、答えは出ない。
ドアを閉め、鍵をかける。床に落ちた毛を掃除し、器具を片付ける。ルーティンが、心を落ち着かせる。
カウンターに戻り、予約帳を開く。今日の欄は空白のままだ。そこに、さっき書いた『ルミ』の字が小さく残っている。
田中は冷蔵庫を開け、生ハムの皿を見た。香りがまだ残っている。もう一口だけ、と手が伸びる。
口に入れた瞬間、また旨味が広がった。田中は、笑うでもなく、困るでもなく、ただ息を吐いた。
「……また来るのか、あれは」
返事はない。店の中は静かで、外の商店街だけがいつもの音を立てている。
田中は皿にラップをかけ、冷蔵庫にしまった。次に来たら、今度こそ「予約」という言葉を説明しよう。生ハムがまた来るかもしれない。その前に、ちゃんとメニュー表も作った方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら、田中は次の予約の時間を確認した。
腕時計の針は、いつものように進んでいた。
『Tanaka Grooming 予約制』
派手な飾りも、目立つ旗もない。昼の光がガラスに当たると、店内の白いタイルが少し眩しく見えるだけだ。
店主の田中は、カウンターの上を拭き終えてから、予約帳をぱらりと開いた。午後は一件だけ。小型犬のシャンプーと足回りのカット。まだ時間はある。
そのときだ。
ドンドンドン!ドンドンドンドンド!!
背中に響くようなノックが、店のドアを揺らした。
「……え?」
田中は反射的にインターホンの方を見たが、そこには何も起きていない。宅配なら、だいたいピンポンだ。ノックする人もいるが、こんな勢いでは叩かない。
もう一度、少し控えめに。
トン、トン!
田中はエプロンの紐を整え、ドアに近づいた。ガラス越しに外を見ると、下の方に、小さな影がある。子ども……にしては、何かが変だ。
鍵を外してドアを開けた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。木の葉と土、それから、どこか燻した肉みたいな香り。
「どうも~」
小さめサイズの女の子が、間延びした声で言った。いや、性格には女の子みたいな存在だ。頭の上に、丸っこい耳が二つポンポン。色は茶髪で、先が少し淡い。耳の縁に沿って短い毛が揃っていて、ピクピクと動いている。
腰のあたりから、もう一つ。もふっとした尻尾が、ゆるく左右に揺れていた。毛量が多くて、丸みがある。タヌキ……耳?
田中は、目の前の情報を脳内で整理しようとして、いったん諦めた。
「えっと……いらっしゃいませ。ご予約は……」
「よやく? それ、おいしいの?」
「……いえ、食べ物じゃないです」
会話が、最初から噛み合わない。コスプレか? でも耳の付け根の皮膚の張り、毛の生え方、尻尾の動き。どれも、作り物に見えない。目の焦点も、呼吸のリズムも、あまりに自然だ。
彼女は、田中の困惑を気にする様子もなく、靴を脱いで上がり込んできた。小さな足でぺちぺちと足音を立てる。
「……あの、こちら、トリミングサロンでして……」
「うん。切りにきたんだよ」
切りにきた、らしい。散髪、という意味だろうか。田中は喉の奥で「まじか」と呟きそうになり、飲み込んだ。
「お名前、伺ってもいいですか?」
「ルミだよー」
「ルミさん。苗字は……」
「なにそれ?」
質問が届かないというより、概念が存在しない顔だ。まあ言葉が通じただけましと言うところだろうか。
田中は、受付用紙に『ルミ』だけ書いた。住所欄は空白、電話番号も空白。
「どちらから来られました?」
「山のほうの村!」
「……ええと、ここまで、どうやって」
「歩いて。あと、跳んで。あと、ちょっとだけ走った!」
商店街の端といってもここは、そこそこの都会だ。山なんて歩いて行ける距離にはない。地図アプリを開く気も起きない。田中は現実的なところに戻ることにした。目の前の客が何者かはさておき、今は「切ってほしい」という要望がある。刃物を扱う仕事だ。落ち着いて、できることをする。動物専門で行ってきたが、果たしてこの子は動物と言いきったも良いのかが疑問に思うが……
「では、こちらへ。椅子に座れますか?」
「うん!」
ルミは元気よく返事をして、トリミング用の椅子の前に立った。だが、背が低い。座っても、頭が作業しやすい高さまで来ない。田中はクッションを棚から取り出し、座面に一枚置いた。
「これに座ってください」
「わー、ふわふわだー!」
ルミが座るが、沈む。まだ低い。田中はもう一枚、さらにもう一枚。三枚目を置いたところで、ようやく目線がちょうど良い位置に来た。
「高くなった!」
「動くと危ないので、できるだけじっとしていてくださいね」
「じっと……うーん……がんばる!」
田中はケープをかける。首回りを軽く締め、毛が入り込まないように整えた。ルミの耳が、ケープの縁に触れてぴくりと跳ねる。
「くすぐったい?」
「ちょっと。でもへーきだよ」
髪の毛――というより、体毛に近い柔らかさのある毛が、頭から肩にかけてふんわり広がっている。湿気を含んだような、しっとりした手触り。田中はスプレーで軽く霧を吹き、コームで丁寧に梳いた。
シャッ、シャッ、とコームが毛を整える音。刃物の音の前に、毛流れを整えるのがいつも大事だ。ルミの前髪は目にかかり、頬のあたりでふわっと膨らんでいる。丸いシルエットが似合うタイプだ。
「今日はどんな感じにします? 短く? 揃えるくらい?」
「ふわふわがいい。あと、視界をひろくしたい」
「なるほど。目の前はすっきりさせて、全体は丸みを残して可愛くしましょう」
田中はハサミを持ち替え、前髪から入った。コームで持ち上げ、目にかからない長さを見極める。切りすぎると幼く見えるし、残しすぎると邪魔になる。
チョキ、チョキ
小さく刻むように切り、毛先を馴染ませる。ルミの目が、切られる毛を追いかけるようにきょろきょろ動く。
「落ちてるの、もったいないね」
「切った毛は戻せないんです。代わりに、仕上げを良くしますから」
「うん。じゃあ、もったいない分、きれいに」
田中は横の毛も整える。耳の付け根に向かって毛流れが少し変わる。人間の耳の位置とは違い、頭の上に耳があるせいで、そこに向かって毛が集まっている感じがある。コームの角度を変え、耳周りの厚みを調整する。
問題は、その耳だ。
ルミのタヌキ耳は、小ぶりで丸い。外側の毛が少し伸びて、縁がぼさっとしている。田中は「触りますね」と声をかけた。
「耳、触ります。怖かったら言ってください」
「こわくないよー。むしろ、耳は好き」
好きという割に、耳はぴくぴく動く。田中が耳の根元に指を添えると、くすぐったいのか、ルミは肩をすくめた。
「お、動きますね」
「勝手に動くの。うれしいときも、びっくりのときも」
「じゃあ、今は……?」
「ちょっと、どきどき」
田中は耳を強く押さえない。指を軽く添え、耳のカーブに沿ってハサミを入れる。半円の形を意識し、先端は少しだけ軽く。毛量が多いところは、梳きバサミで控えめに。
チョキ、チョキ
シャキ、シャキ
切った毛がふわりと舞い、ケープの上に落ちていく。ルミはじっとしているつもりなのだろうが、耳だけが自分の意志と別に動く。
「……ぴくっ」
「今ので切っちゃうと危ないので、少し止めますね」
「ごめんね」
田中は呼吸を合わせた。動いた直後は、次の動きまで一拍ある。その一拍で整える。耳の縁が揃っていくと、丸っこさが際立って、タヌキらしい愛嬌が出る。
「お、いい感じです」
「ほんと? 見たい」
「最後に鏡で確認しましょう」
頭髪のシルエットも整える。全体は短くしすぎず、輪郭に沿って丸みを出す。頬のあたりは少し軽くして、首元の重さを抜く。後頭部はふわっと、でも膨らみすぎないように。田中の手は、いつものリズムに戻っていた。
次に、ドライヤーだ。
「乾かしますね。熱かったら言ってください」
「うん!」
ドライヤーのスイッチを入れると、ぶわあああ、と風が音を立てた。ルミの耳の毛が揺れ、尻尾がふわっと膨らむ。ルミはその風に向かって何か言い始めた。
「ねえねえ、さっきさ――」
「え?」
「だからね――○※△◇□」
「ごめん、全然聞こえない。いったん止めますね」
田中がスイッチを切ると、急に静かになる。
「今、何て?」
「えっとね……」
ルミは少し考えた顔をして、首を傾げた。
「……あれ?わすれたぁ!」
「あるあるですね」
「あるあるってなに?」
「よくある、って意味です」
「ふーん。じゃあ、わたしがよく忘れるのもあるあるだね」
田中は笑いそうになり、口元だけで堪えた。仕事中に笑うと手元がぶれる。ドライヤーを再開し、根元から乾かしていく。耳の周りは温度を下げ、風量を弱める。獣の耳は、人の耳より敏感かもしれない。
乾ききったところで、尻尾を見た。
タヌキの尻尾。丸くて、もふっとしている。毛量が多く、触ると弾力がある。梳きすぎると貧相になるし、重すぎると形が崩れる。理想は、丸いポンポン。触ったときに、ふわっと戻る丸み。
「尻尾も、整えますか?」
「うん。しっぽもお願い」
髪は少し専門外だったが、尻尾に関しては得意分野だ。田中は尻尾の根元に手を添え、毛流れを確認した。ところが尻尾は、左右に、ゆらゆらではなく、ぶんぶん揺れる。
「止まってくださいね」
「むりぃー」
ルミが笑う。尻尾がさらに揺れる。
「ちょっとだけ押さえますよ」
「くすぐったいっ!」
声を上げた瞬間、尻尾がぶらぶらと暴れた。田中は手を離す。
「無理に固定すると危ないですね」
「ごめん、しっぽ、いうこときかないの」
「じゃあ、揺れるリズムに合わせてやります」
田中は尻尾の動きに目を凝らした。右、左、右、左。揺れが戻る瞬間、ほんのわずか止まる。その瞬間に毛先を少しずつ整える。
チョキ
チョキ
チョキ
揺れが来たら止める。戻ったら切る。梳きバサミは使いすぎない。丸みを残すために、外側の毛は削りすぎない。毛先だけ軽く。表面は揃えて、ふわっとした輪郭を作る。
「……だんだん、丸くなってきた」
「いいですね。今、毛がまとまってきています」
ルミの尻尾が揺れるたび、仕上がりが揺れて確認できる。丸い。丸いまま戻る。田中は最後に、表面をコームで軽く整え、毛先を最小限だけ切った。触ったときにちくちくしないように、角を作らない。
「はい、尻尾、終わりです」
「わーい」
ルミは尻尾をぶんっと振って、自分の背中側を見ようとする。見えない。だが、尻尾の跳ね返りがいつもより軽いのが分かるのだろう。
「もふってしてる! 丸い!」
「丸みを残してポンポンに整えました。タヌキ耳も、きれいに揃ってますよ」
田中は鏡を手に取り、ルミの顔の横に見せた。ルミは目をぱちぱちさせ、耳をじっと見た。耳の縁が揃って、丸っこく、ふっくら。頭髪も輪郭が整って、全体がやわらかい印象になっている。
「……すごい。耳、すごくいい」
「良かったです」
仕上げに、田中はいつもの流れで耳の掃除を提案した。犬猫なら、軽く外側を拭き、必要なら耳の中も少しだけ。ただし、無理はしない。
「耳の中、少しだけ拭いてもいいですか? 嫌ならやめます」
「いいよー。耳、好きだし」
田中は綿棒を取り出し、先端を見せてから、そっと近づけた。
その瞬間。
「ギャッ!」
ルミの身体が跳ねた。椅子からずるん、と降りて、店の隅まで走る。尻尾がぶわっと膨らみ、耳がぺたんと伏せられた。
「ご、ごめん! やめます、やめます!」
「それはだめ! 中はやだ!」
田中は綿棒をすぐにしまい、両手を見せた。攻撃する気はない、というサイン。ルミは壁際からこちらを見て、少しずつ息を整える。
「……ここは苦手なんですね」
「うん。耳の中、さわられると、びりびりする」
「分かりました。外側だけにしましょう。今日はもう、十分きれいですよ」
ルミはそろそろと戻り、椅子の前に立った。田中はケープを外し、首回りの毛を払い落とした。床に落ちた毛をまとめ、最後に軽く服を整える。
「お疲れさまでした。すごく良い仕上がりです」
「うん。わたしも満足」
満足、という言葉の出し方が妙に堂々としていて、田中は肩の力が抜けた。ここまで来ると、驚くより、ただ仕事をした感覚の方が強い。
そして、現実的な問題が残っている。
お会計だ。
「ええと、本日のお会計なんですが……」
「おかい、けい?」
ルミは知らない単語を聞いたみたいに首を傾げた。田中は、やはり、と思う。お金の概念がなかったらどうする。施術は施術だ。受け取るべき対価はある。しかし、目の前の相手に「三千円です」と言って通じる気がしない。
「えっと……代金、というか……このサービスの……」
「これ?」
ルミはポケットをごそごそ探り、何かを取り出した。包み紙もない。赤身と脂身がきれいに層になった、薄い肉の塊。生ハムだ。香りがふわっと広がり、さっきドアを開けたときの匂いの正体に気づく。
「これあげる!」
田中は一秒、固まった。
「……生ハムで?会計?」
「うん。おいしいよ」
冗談を言っている顔でもない。田中は、いろいろな損得計算をしようとして、その前に、仕事の後の空腹が先に勝った。
「分かりました。気持ちとして、ありがたく受け取ります」
「やった」
ルミはにこっと笑って、当たり前みたいに頷いた。田中は生ハムを冷蔵庫に入れるべきか迷い、ひとまず清潔な紙皿に乗せた。ほんの少し、端を切って口に入れる。
噛んだ瞬間、旨味が押し寄せた。塩気が強すぎず、脂がとろけて、香りが鼻に抜ける。肉の質が違う。田中は思わず、言葉を漏らした。
「……う、うまい」
ルミは、その反応を聞いて満足そうに胸を張った。
「でしょ。山のほうのいいやつなんだ!」
「山のほうって……あなた、本当にどこから」
「山のほう!」
またそこに戻る。田中は、これ以上追及しても仕方がないと悟る。ルミは、ドアの方へ小走りに向かった。尻尾が、丸く整えられたまま、もふっと揺れる。耳も、丸っこく、きれいに揃っている。
「また、来てもいい?」
「……予約、できるなら」
「よやく、頑張って覚える」
ルミはそう言って、ドアを開けた。外の光が差し込み、毛先が少し透けて見える。田中が「気をつけて」と言いかけたとき、ルミはもう外に出ていた。
足音が、軽く遠ざかる。商店街のざわめきに混ざって、すぐに分からなくなった。
田中はしばらく開いたままのドアを見ていた。現実感が遅れて追いついてくる。今、何が起きた?と自分に問うたところで、答えは出ない。
ドアを閉め、鍵をかける。床に落ちた毛を掃除し、器具を片付ける。ルーティンが、心を落ち着かせる。
カウンターに戻り、予約帳を開く。今日の欄は空白のままだ。そこに、さっき書いた『ルミ』の字が小さく残っている。
田中は冷蔵庫を開け、生ハムの皿を見た。香りがまだ残っている。もう一口だけ、と手が伸びる。
口に入れた瞬間、また旨味が広がった。田中は、笑うでもなく、困るでもなく、ただ息を吐いた。
「……また来るのか、あれは」
返事はない。店の中は静かで、外の商店街だけがいつもの音を立てている。
田中は皿にラップをかけ、冷蔵庫にしまった。次に来たら、今度こそ「予約」という言葉を説明しよう。生ハムがまた来るかもしれない。その前に、ちゃんとメニュー表も作った方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら、田中は次の予約の時間を確認した。
腕時計の針は、いつものように進んでいた。
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