とある日の不思議なお客さん

ランド犬

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とある日の不思議なお客さん

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 商店街の端っこに、看板が一枚だけぶら下がっている。

『Tanaka Grooming 予約制』

 派手な飾りも、目立つ旗もない。昼の光がガラスに当たると、店内の白いタイルが少し眩しく見えるだけだ。

 店主の田中は、カウンターの上を拭き終えてから、予約帳をぱらりと開いた。午後は一件だけ。小型犬のシャンプーと足回りのカット。まだ時間はある。
 そのときだ。

 ドンドンドン!ドンドンドンドンド!!

 背中に響くようなノックが、店のドアを揺らした。

「……え?」

 田中は反射的にインターホンの方を見たが、そこには何も起きていない。宅配なら、だいたいピンポンだ。ノックする人もいるが、こんな勢いでは叩かない。

 もう一度、少し控えめに。

 トン、トン!

 田中はエプロンの紐を整え、ドアに近づいた。ガラス越しに外を見ると、下の方に、小さな影がある。子ども……にしては、何かが変だ。

 鍵を外してドアを開けた瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。木の葉と土、それから、どこか燻した肉みたいな香り。

「どうも~」

 小さめサイズの女の子が、間延びした声で言った。いや、性格には女の子みたいな存在だ。頭の上に、丸っこい耳が二つポンポン。色は茶髪で、先が少し淡い。耳の縁に沿って短い毛が揃っていて、ピクピクと動いている。

 腰のあたりから、もう一つ。もふっとした尻尾が、ゆるく左右に揺れていた。毛量が多くて、丸みがある。タヌキ……耳?

 田中は、目の前の情報を脳内で整理しようとして、いったん諦めた。

「えっと……いらっしゃいませ。ご予約は……」 

「よやく? それ、おいしいの?」

 「……いえ、食べ物じゃないです」

 会話が、最初から噛み合わない。コスプレか? でも耳の付け根の皮膚の張り、毛の生え方、尻尾の動き。どれも、作り物に見えない。目の焦点も、呼吸のリズムも、あまりに自然だ。

 彼女は、田中の困惑を気にする様子もなく、靴を脱いで上がり込んできた。小さな足でぺちぺちと足音を立てる。

「……あの、こちら、トリミングサロンでして……」
 
「うん。切りにきたんだよ」

 切りにきた、らしい。散髪、という意味だろうか。田中は喉の奥で「まじか」と呟きそうになり、飲み込んだ。

「お名前、伺ってもいいですか?」

 「ルミだよー」 

「ルミさん。苗字は……」

 「なにそれ?」

 質問が届かないというより、概念が存在しない顔だ。まあ言葉が通じただけましと言うところだろうか。

 田中は、受付用紙に『ルミ』だけ書いた。住所欄は空白、電話番号も空白。

「どちらから来られました?」

 「山のほうの村!」 

「……ええと、ここまで、どうやって」

 「歩いて。あと、跳んで。あと、ちょっとだけ走った!」

 商店街の端といってもここは、そこそこの都会だ。山なんて歩いて行ける距離にはない。地図アプリを開く気も起きない。田中は現実的なところに戻ることにした。目の前の客が何者かはさておき、今は「切ってほしい」という要望がある。刃物を扱う仕事だ。落ち着いて、できることをする。動物専門で行ってきたが、果たしてこの子は動物と言いきったも良いのかが疑問に思うが……

「では、こちらへ。椅子に座れますか?」 

「うん!」

 ルミは元気よく返事をして、トリミング用の椅子の前に立った。だが、背が低い。座っても、頭が作業しやすい高さまで来ない。田中はクッションを棚から取り出し、座面に一枚置いた。

「これに座ってください」 

「わー、ふわふわだー!」

 ルミが座るが、沈む。まだ低い。田中はもう一枚、さらにもう一枚。三枚目を置いたところで、ようやく目線がちょうど良い位置に来た。

「高くなった!」 

「動くと危ないので、できるだけじっとしていてくださいね」 

「じっと……うーん……がんばる!」

 田中はケープをかける。首回りを軽く締め、毛が入り込まないように整えた。ルミの耳が、ケープの縁に触れてぴくりと跳ねる。

「くすぐったい?」 

「ちょっと。でもへーきだよ」

 髪の毛――というより、体毛に近い柔らかさのある毛が、頭から肩にかけてふんわり広がっている。湿気を含んだような、しっとりした手触り。田中はスプレーで軽く霧を吹き、コームで丁寧に梳いた。

 シャッ、シャッ、とコームが毛を整える音。刃物の音の前に、毛流れを整えるのがいつも大事だ。ルミの前髪は目にかかり、頬のあたりでふわっと膨らんでいる。丸いシルエットが似合うタイプだ。

「今日はどんな感じにします? 短く? 揃えるくらい?」

 「ふわふわがいい。あと、視界をひろくしたい」 

「なるほど。目の前はすっきりさせて、全体は丸みを残して可愛くしましょう」

 田中はハサミを持ち替え、前髪から入った。コームで持ち上げ、目にかからない長さを見極める。切りすぎると幼く見えるし、残しすぎると邪魔になる。
 
チョキ、チョキ

 小さく刻むように切り、毛先を馴染ませる。ルミの目が、切られる毛を追いかけるようにきょろきょろ動く。

「落ちてるの、もったいないね」

 「切った毛は戻せないんです。代わりに、仕上げを良くしますから」

 「うん。じゃあ、もったいない分、きれいに」

 田中は横の毛も整える。耳の付け根に向かって毛流れが少し変わる。人間の耳の位置とは違い、頭の上に耳があるせいで、そこに向かって毛が集まっている感じがある。コームの角度を変え、耳周りの厚みを調整する。

 問題は、その耳だ。

 ルミのタヌキ耳は、小ぶりで丸い。外側の毛が少し伸びて、縁がぼさっとしている。田中は「触りますね」と声をかけた。

「耳、触ります。怖かったら言ってください」 

「こわくないよー。むしろ、耳は好き」

 好きという割に、耳はぴくぴく動く。田中が耳の根元に指を添えると、くすぐったいのか、ルミは肩をすくめた。

「お、動きますね」

 「勝手に動くの。うれしいときも、びっくりのときも」 

「じゃあ、今は……?」

 「ちょっと、どきどき」

 田中は耳を強く押さえない。指を軽く添え、耳のカーブに沿ってハサミを入れる。半円の形を意識し、先端は少しだけ軽く。毛量が多いところは、梳きバサミで控えめに。

 チョキ、チョキ
 シャキ、シャキ

 切った毛がふわりと舞い、ケープの上に落ちていく。ルミはじっとしているつもりなのだろうが、耳だけが自分の意志と別に動く。

「……ぴくっ」

 「今ので切っちゃうと危ないので、少し止めますね」 

「ごめんね」

 田中は呼吸を合わせた。動いた直後は、次の動きまで一拍ある。その一拍で整える。耳の縁が揃っていくと、丸っこさが際立って、タヌキらしい愛嬌が出る。

「お、いい感じです」 

「ほんと? 見たい」

 「最後に鏡で確認しましょう」

 頭髪のシルエットも整える。全体は短くしすぎず、輪郭に沿って丸みを出す。頬のあたりは少し軽くして、首元の重さを抜く。後頭部はふわっと、でも膨らみすぎないように。田中の手は、いつものリズムに戻っていた。

 次に、ドライヤーだ。

「乾かしますね。熱かったら言ってください」 

「うん!」

 ドライヤーのスイッチを入れると、ぶわあああ、と風が音を立てた。ルミの耳の毛が揺れ、尻尾がふわっと膨らむ。ルミはその風に向かって何か言い始めた。

「ねえねえ、さっきさ――」

 「え?」

 「だからね――○※△◇□」 

「ごめん、全然聞こえない。いったん止めますね」

 田中がスイッチを切ると、急に静かになる。

「今、何て?」

 「えっとね……」

 ルミは少し考えた顔をして、首を傾げた。
「……あれ?わすれたぁ!」

 「あるあるですね」

 「あるあるってなに?」

 「よくある、って意味です」

 「ふーん。じゃあ、わたしがよく忘れるのもあるあるだね」

 田中は笑いそうになり、口元だけで堪えた。仕事中に笑うと手元がぶれる。ドライヤーを再開し、根元から乾かしていく。耳の周りは温度を下げ、風量を弱める。獣の耳は、人の耳より敏感かもしれない。

 乾ききったところで、尻尾を見た。
 タヌキの尻尾。丸くて、もふっとしている。毛量が多く、触ると弾力がある。梳きすぎると貧相になるし、重すぎると形が崩れる。理想は、丸いポンポン。触ったときに、ふわっと戻る丸み。

「尻尾も、整えますか?」

 「うん。しっぽもお願い」

 髪は少し専門外だったが、尻尾に関しては得意分野だ。田中は尻尾の根元に手を添え、毛流れを確認した。ところが尻尾は、左右に、ゆらゆらではなく、ぶんぶん揺れる。

「止まってくださいね」

 「むりぃー」

 ルミが笑う。尻尾がさらに揺れる。

「ちょっとだけ押さえますよ」

 「くすぐったいっ!」

 声を上げた瞬間、尻尾がぶらぶらと暴れた。田中は手を離す。

「無理に固定すると危ないですね」

 「ごめん、しっぽ、いうこときかないの」

 「じゃあ、揺れるリズムに合わせてやります」

 田中は尻尾の動きに目を凝らした。右、左、右、左。揺れが戻る瞬間、ほんのわずか止まる。その瞬間に毛先を少しずつ整える。

 チョキ
 チョキ

 チョキ

 揺れが来たら止める。戻ったら切る。梳きバサミは使いすぎない。丸みを残すために、外側の毛は削りすぎない。毛先だけ軽く。表面は揃えて、ふわっとした輪郭を作る。

「……だんだん、丸くなってきた」 

「いいですね。今、毛がまとまってきています」

 ルミの尻尾が揺れるたび、仕上がりが揺れて確認できる。丸い。丸いまま戻る。田中は最後に、表面をコームで軽く整え、毛先を最小限だけ切った。触ったときにちくちくしないように、角を作らない。

「はい、尻尾、終わりです」 

「わーい」

 ルミは尻尾をぶんっと振って、自分の背中側を見ようとする。見えない。だが、尻尾の跳ね返りがいつもより軽いのが分かるのだろう。

「もふってしてる! 丸い!」

 「丸みを残してポンポンに整えました。タヌキ耳も、きれいに揃ってますよ」

 田中は鏡を手に取り、ルミの顔の横に見せた。ルミは目をぱちぱちさせ、耳をじっと見た。耳の縁が揃って、丸っこく、ふっくら。頭髪も輪郭が整って、全体がやわらかい印象になっている。

「……すごい。耳、すごくいい」 

「良かったです」

 仕上げに、田中はいつもの流れで耳の掃除を提案した。犬猫なら、軽く外側を拭き、必要なら耳の中も少しだけ。ただし、無理はしない。

「耳の中、少しだけ拭いてもいいですか? 嫌ならやめます」

 「いいよー。耳、好きだし」

 田中は綿棒を取り出し、先端を見せてから、そっと近づけた。

 その瞬間。

「ギャッ!」

 ルミの身体が跳ねた。椅子からずるん、と降りて、店の隅まで走る。尻尾がぶわっと膨らみ、耳がぺたんと伏せられた。

「ご、ごめん! やめます、やめます!」 

「それはだめ! 中はやだ!」

 田中は綿棒をすぐにしまい、両手を見せた。攻撃する気はない、というサイン。ルミは壁際からこちらを見て、少しずつ息を整える。

「……ここは苦手なんですね」 

「うん。耳の中、さわられると、びりびりする」

 「分かりました。外側だけにしましょう。今日はもう、十分きれいですよ」

 ルミはそろそろと戻り、椅子の前に立った。田中はケープを外し、首回りの毛を払い落とした。床に落ちた毛をまとめ、最後に軽く服を整える。

「お疲れさまでした。すごく良い仕上がりです」

 「うん。わたしも満足」

 満足、という言葉の出し方が妙に堂々としていて、田中は肩の力が抜けた。ここまで来ると、驚くより、ただ仕事をした感覚の方が強い。

 そして、現実的な問題が残っている。
 お会計だ。

「ええと、本日のお会計なんですが……」 

「おかい、けい?」

 ルミは知らない単語を聞いたみたいに首を傾げた。田中は、やはり、と思う。お金の概念がなかったらどうする。施術は施術だ。受け取るべき対価はある。しかし、目の前の相手に「三千円です」と言って通じる気がしない。

「えっと……代金、というか……このサービスの……」

 「これ?」

 ルミはポケットをごそごそ探り、何かを取り出した。包み紙もない。赤身と脂身がきれいに層になった、薄い肉の塊。生ハムだ。香りがふわっと広がり、さっきドアを開けたときの匂いの正体に気づく。

「これあげる!」

 田中は一秒、固まった。

「……生ハムで?会計?」

 「うん。おいしいよ」

 冗談を言っている顔でもない。田中は、いろいろな損得計算をしようとして、その前に、仕事の後の空腹が先に勝った。

「分かりました。気持ちとして、ありがたく受け取ります」

 「やった」

 ルミはにこっと笑って、当たり前みたいに頷いた。田中は生ハムを冷蔵庫に入れるべきか迷い、ひとまず清潔な紙皿に乗せた。ほんの少し、端を切って口に入れる。

 噛んだ瞬間、旨味が押し寄せた。塩気が強すぎず、脂がとろけて、香りが鼻に抜ける。肉の質が違う。田中は思わず、言葉を漏らした。

「……う、うまい」

 ルミは、その反応を聞いて満足そうに胸を張った。

「でしょ。山のほうのいいやつなんだ!」 

「山のほうって……あなた、本当にどこから」

 「山のほう!」

 またそこに戻る。田中は、これ以上追及しても仕方がないと悟る。ルミは、ドアの方へ小走りに向かった。尻尾が、丸く整えられたまま、もふっと揺れる。耳も、丸っこく、きれいに揃っている。

「また、来てもいい?」

 「……予約、できるなら」 

「よやく、頑張って覚える」

 ルミはそう言って、ドアを開けた。外の光が差し込み、毛先が少し透けて見える。田中が「気をつけて」と言いかけたとき、ルミはもう外に出ていた。

 足音が、軽く遠ざかる。商店街のざわめきに混ざって、すぐに分からなくなった。

 田中はしばらく開いたままのドアを見ていた。現実感が遅れて追いついてくる。今、何が起きた?と自分に問うたところで、答えは出ない。

 ドアを閉め、鍵をかける。床に落ちた毛を掃除し、器具を片付ける。ルーティンが、心を落ち着かせる。

 カウンターに戻り、予約帳を開く。今日の欄は空白のままだ。そこに、さっき書いた『ルミ』の字が小さく残っている。

 田中は冷蔵庫を開け、生ハムの皿を見た。香りがまだ残っている。もう一口だけ、と手が伸びる。

 口に入れた瞬間、また旨味が広がった。田中は、笑うでもなく、困るでもなく、ただ息を吐いた。

「……また来るのか、あれは」

 返事はない。店の中は静かで、外の商店街だけがいつもの音を立てている。

 田中は皿にラップをかけ、冷蔵庫にしまった。次に来たら、今度こそ「予約」という言葉を説明しよう。生ハムがまた来るかもしれない。その前に、ちゃんとメニュー表も作った方がいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、田中は次の予約の時間を確認した。

 腕時計の針は、いつものように進んでいた。
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