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 午前中の仕事に対する気合いの入れようと動きは、もはやいつもの俺とは言えないほどにキレッキレだった。

 ここをしくじれば、さやと夜ご飯を食べにいくという、夢でしか見ることのなかった今夜のお楽しみが夢のままとなってしまう。

 しかも俺は、非モテという自分の身分もわきまえずあれほどの美人からのお誘いを一度ドタキャン、というか、連絡もせず無視してるのだから、なおのこと今日は「命にかえても間に合わせる!」という気合に溢れていたのだった。
 
 仕事を終えて、昼の一時に家へ着き、シャワーを浴びる。

 朝からカルビ丼を食べたので、正直まだそんなに腹は減ってない。だから、帰り掛けにクリームパンを買う。
 パンを噛みながら今日着る服を選ぼうと……そう、ここが一つ目の関門だった。

 俺は、服のセンスがあんまし無いのだ。

 出かける前にはなぜか妙にカラフルなものを選んでしまい、家を出た後になって後悔することがうんざりするほど多かったりする。
 そこら辺を歩いているオシャレな奴らを観察すれば、どいつがセンスありなのかすぐさま判断できるのに、だ。

 感覚がないわけじゃないんだ、いやもう決してうぬぼれとかではなく。どうして客観的で冷静な感覚が最初から発揮できないのか不思議でならない。
 
 同じ轍を踏んではダメだ。少なくとも今日だけは!
 わかっているさ、俺は服単体の色のキレイさに惑わされるからそうなるんだ。

 見切った──!

 コーディネート。課題は色の組み合わせ! 
 全体を考えてトータルで判断する。それがファッション!

 俺がファッションを極めたかのような天啓てんけいに打たれていると、ゼウスを通じてどうやら電話がかかってきたらしい。ノアが、「新堂ミミだけど」とぶっきらぼうに言った。

「よーっ、ネムちゃん、今日、ヒマ?」

 今、一番勘付かれたくない奴からの、一番されたくないイヤな質問だった。
 
 さやと飲みに行くことは、もちろんこいつには言ってない。
 決してバレてはならない。こいつは、絶対に邪魔してくる。そして、ついてくる。なんなら、中原も召喚するだろう。 

 俺は嘘をついた。

「ちょっと用事あってな。すまん」
「そうなん。何があんの?」

 うるさいな。なんでもいいだろそんなもん! 余計なこと詮索すんじゃねえって。

「実家の法事で」

 休暇系にカテゴライズされる嘘の中でも超スタンダード、王道中の王道、「実家の法事」。
 俺は咄嗟とっさにこれを使用することにした。すると、

「法事って、午前中にするもんじゃないん?」
「えっ。えっ……と、いや、は、始まるのは午前……なんだけど、俺は昼から参加で」
「へー」

 しばしの沈黙。

 うちの実家では、お坊さんが昼前に来て、お経を読んで、だいたい昼飯をみんなで食って……
 そう、だから昼を食べるところからの参加でも全然不自然ではないっ!

 ……待てよ。今にして思うと、夕方から行う法事もあったはず。しまったぁ…… 
 だめだ、うつむくな。問題はない。自信を持てっ。隙を見せるな!

「実家、どこだっけ?」

 ……まずい。長野だ。ここは都内なのに! 遠すぎる。今からじゃ……

「あの、えっと。今日のやつは、し、親戚の家で。埼玉なんだ」
「へー」

 しばしの沈黙。

 もう勘弁してくれ。
 冷や汗がしたたって、さっきシャワーを浴びたとこだってのに俺はもう身体中がボトボト。こんな短時間なのに、ミーという強力な研石とぎいしで精神力もガリガリすり減らされてしまった。

「ネム、喪服とか持ってんの?」
「あっ……」

 俺は、つい反射的に変な声をあげてしまう。

「ほらぁ……もう。しょうがないなあ。買うの、今から一緒について行ってあげるよ」
「え? いや、そんな、悪いし……」
「遠慮せんでもええの! 家近いし。今からすぐ行くわ!」

 俺がYES・NOを回答する前にプツっ、と切れる通話。
 呆然とする俺。

 何が悪かった?
 どうすればよかった?

 全くわからない。

 一つはっきりしていることは、今からミーが俺の家に来るということだ。
 予想外の展開に、ベッドへ腰掛けながら放心していると、まだ一〇分も経っていないのに玄関のチャイムが鳴る。
 
 はっ、早っや!

 確かに奴の家は近いが、いくらなんでも早すぎる。俺は、選んでいた服を急いでクローゼットに押し込んで、玄関ドアを開けた。

「やっほ。行っくでー、……あ」

 ドアを開けた拍子に俺の部屋を覗いたミーは、ほとんど部屋の中へ吸い寄せられるように入っていく。

「あっ、おいちょっと……」
「部屋、きったなぁ! 相変わらずやな、ほんま……ちゃんと掃除せんと! 時間ある? ちょっと片付けたるわ」
「待って待って待って! 大丈夫! 大丈夫だから!」

 焦った俺はミーの手を引っ張って、強引に玄関へ戻した。
 ここでバランスを崩したミーの身体が、俺の胸に。俺たちは、軽く抱き合う形になってしまう。

 俺の顔を見上げながら、目を見開いて固まるミー。
 互いの吐息が聞こえる数秒間ののち、そこに割り込む自分の心音に気付いてようやく強引にミーを引き離す俺。

 意味不明に高鳴る鼓動。熱くなる顔。
 汗ばむ手は、同じく汗ばんだミーの手を、まだ握っていた。

 すぐさま手を離して目をそらす。
 静寂の中で、鼓動だけしか聞こえない時間が、過ぎていく。

「あ、あの」

 ミーは、顔を真っ赤にして口ごもる。それに対して俺は、

「時間ないし! ふく、さきに、かいにいこ……」
「ああ。う、うん。それはそうやな!」

 俺と同じく汗だくになったミーも、ようやくペースを取り戻した。
 どんどん意味のわからない方向へ事が進み、頭がクラクラしてくる。


 本当のところ今すぐには必要のない喪服を積極的に買いに行こうと提案してしまった俺は、ミーとともに出かけ、近くにある大手チェーンのスーツ店に入る。
 
 店員から「何をお求めか」と尋ねられ、意思に反して喪服が欲しいと答える俺。

 しかし、よくよく考えれば、確かに俺は喪服を持っていないので、社会人としてそろそろ買っておくべきものでもあるし、お金は無駄になるわけではない。だから良しとしよう。
 ただ問題なのは、「今日じゃなくていいのに!」という事だった。つまり、大事なのは、さやとの待ち合わせまでに、こいつを振り払うことだ!

 ミーが懇切丁寧に見てくれたおかげで、適度な価格で俺にぴったりの喪服を購入でき、二四歳にふさわしい良い買い物ができた。
 が、これから法事に向かうという設定にしていたので、

「今ここで着ていったらええやん」

 というミーの提案を断りそびれて喪服を着せられる。そして、
 
「なあ、何時頃の電車に乗るの?」

 この勢いだと、きっとこいつ電車に乗るところまでついてきそうだ。
 もうそろそろ無理矢理にでも法事設定を解除しないとまずい、という判断を下した俺は、
 
「えっと。さっきメールで連絡あったんだけど、今日、法事なくなったって」
「えっ。なくなるとかあるん」
「あるらしいよ!」
「へー」

 しばしの沈黙。

「でも、俺、喪服とか持ってなかったし。サンキューな! じゃあ、これで……」
「カフェでも行こうや! わざわざついて行ったのに、茶ゃーくらい奢れ! 法事なくなったし時間あるんやろ」
 
 もう夕方の四時を回った。

 まずい。もう、時間がない!
 しかし、あまりにも無理にこいつを追い返そうとすると、すぐさま気付かれるし……。

 ルンルンするミーとは対照的に、戦々恐々としながらカフェを探す俺。
 
 駅前にある手頃なカフェに入る。
 俺は普通にブラックをホットで注文したが、ミーは、カフェオレとは別にパフェまで頼んだ。
 そのクリームを、スプーンで食べるミー。俺がその様子を何気なく見ていると、

「食べる?」
 
 スプーンにすくったクリームを俺のほうへ差し出す。
 俺は、一瞬目が泳いでしまった。それを敏感に察知したミーは、

「あ、あのなあ。何っ……気にせんでもええやろこんなん。中学生やないんやから」
「あ、ああ……」

 なんて言ってみたものの、俺は、あーん、ってしてもらうのは人生で初めてだったのだ。
 あんなふうに言ったミーだって、結局は頬がほんのり赤い。
 思考が停止した俺は、言われるがまま口を開け、「初あーん」をミーに奪われた。

「美味しいやろ?」

 と優しく微笑むミー。
 謎に心拍が変化する俺。

「うん」

 しばらく見つめ合う。すると、

「……なあ。ほんとは、このあと、何があんの?」

 問い詰めるふうでもなく、せつなそうな顔で、か細い声で言ってくるせいで、俺は、胸が苦しくなってしまった。
 俺は何故か、こいつのこういう態度に弱い。ミーのその様子が、俺に真実の言葉を吐き出させる。

「……さやと、飲みにいく約束してて」

 俺の言葉を聞いた瞬間、ミーの目は半目になり、両の口角は不敵につり上がった。


 しまった────。


 そう気付いた時には、すでに遅し。

「へえぇ…………。あたしに嘘ついて、さやと飲みにいくつもりだったんだぁ……。じゃあ、あたしも行く」

 このミーを引き剥がすのは、天地がひっくり返っても無理だと思う。
 思えば俺は、最初から、こいつの蜘蛛の巣に引っかかっていたのだと、この時になってようやく悟った。
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