上 下
24 / 88

夜の闇に

しおりを挟む
「神モード」……すなわち「睡眠に浸って特殊能力を発動している状態」の俺はいつも、さやのプライベートをのぞきたい衝動が喉まで出かかっている。
 が、なんとか鉄の倫理観をもって耐えている状況だ。きっと俺ほどの聖人でなければとっくに一線を越えていただろう。

 しかしそんな俺でも限界はある。正直なところ、彼女の私生活云々はどうでもよく、なんせ裸が見たいのだ。あのスタイルを形作っている肉体が一体どれほどの……
 
 コホン。 

 とりあえず。
 いつも俺は、一瞬自分がどういう状態かわからなくなってしまう。
 それは、寝る時に意識がいったん途切れるためだろう。
 

 つまり……俺は今、神モード中。

 
 ここ最近はヒュプノスが無いと眠れなかったのに、今こうして光るアバター化しているということは、どうやら俺は眠ったのだろう。二人の女子に挟まれたあんな状態からよく眠れたなと不思議でならない。

 しかし、今いる場所についてはイマイチわからない。例の子供部屋ではないのだ。俺は、まず落ち着いて周りを観察することにした。
 
 満月がつくり出す月光があたりを照らし、様子がある程度は確認できる。街灯の灯り以外にも、月という頼りがいのある光源があるので視覚情報はまあまあ担保されている状態だ。

 ここは……倉庫街?
 遠くに高層ビル群が見えるところからして、大都会の港……のうちの一部。
 つまり、どこかの埠頭ふとうという印象。

 俺が「周辺一帯をよく見たい」と願うごとに、視点が次々と切り替わる。

 何度か切り替わりながら俺の意識に映し出されるこの映像が、一体なんの視点なのかということについては、その見え方からしておそらく倉庫外部に設置されている、もしくは何か柱のようなものに設置されている監視カメラなのだろう。

 と、考える俺の視界の端に、何か動くものがあった気がして、俺はそちらのほうを向く。
 その人物を認識し、俺は、目をこすった。

 アバター状態の俺が目をこすったところで視力的な面で何ら効果があったもんじゃないとは思うが、それでもそうするのは心理的に受けた動揺の現れといえるだろう。


 俺の視界に映っていたのは、田中さん。


 あの黒髪ショート。夜という視覚的に不利な状況下でも判別できる輪郭と、表面を形作った凹凸から想像できる可愛い顔。何よりも、今日、俺たちと飲み会をした服装そのままだ。

 でも、彼女が、なんでこんなところに?

 いや、そもそもここは本当に現実か? 俺の見ている夢じゃないと、言い切れるか?
「神の力」を使っている夢。そうだとすると、判別はかなり困難だと思った。
 だから俺は、試しにゼウスへ命令する。

「俺の身体の本体と、ミーと、さやの現在地を教えろ」

 すると、頭の中の子供部屋にいる二人の子供のうちの一人、ノアがそれに回答した。

「三つの頭部に埋め込まれたネオ・ライムチップと通信した結果、その三人は、お前の家の中にいる」

 ああ、たぶん夢じゃないんだろうな、と俺は思った。
 では、次は……

 と、俺が田中さんのことをゼウスに問いかけようとしたその時、倉庫の影、闇の中からもう一人の人影が現れる。
 
 ……女。

 長髪の男だという可能性は否定できない……と最初思ったがすぐにその考えは否定した。
 身体のラインが美しい丸みを帯びている。さやと甲乙付け難いほど、きっとスタイル抜群だろう。

 ったく。アバターのくせにムラムラするなんて! いや、俺の本体、眠っている肉体のほうがムラムラしてやがんのか?

 だがその欲情も、この場において最も目立つ一つの情報が台無しにしていた。

 俺を動揺させたのは、瞳の色。
 暗闇の中で一際明るい真紅に染まるその瞳は、まさしくゼウスにログインしている者の象徴だ。田中さんと謎の女、二人ともがそうだった。

 立ち尽くす俺の目前で、二人の女性の声が、静寂に溶け込むように流される。

「そろそろだろう。もう鍛錬は必要ないと思うがな、イグナイターよ」
「……ええ。そうですね」

 イグナイター? 田中さんだろ? 

 自分の目──目というのは俺の光るアバターの目ということだが──で見た限り、俺の身体は明るく光っているが、どうやら例の如く、その場にいる人物たちには全く見えていないらしい。
 二人の人物は俺に気付くこともなく、その口ぶりからして、恐らく誰も聞いていないことを前提とした話をしているのだろう……と俺に思わせた。

 情報を聞き出そうと俺が様子をうかがっていると──


 ファサっ


 田中さんではない、謎の女の背中から、二つの翼が現れる。

 動作を確かめるように翼を羽ばたかせるたび、光り輝く粉が舞い散り、光粉が女の周囲を包む。やがてそれらは僅かな風に乗って、女を中心として旋回しながら月へと向かって上空高く舞い上がった。

「用心しろ。お前は、絶対に死んではならんのだからな」
「承知しております」

 女は二つの翼を優雅に、かつ、力強く動かし、羽の動きにあわせて多少の重力感を感じさせたまま浮かび上がる。

 俺は、ただちにゼウスへ命令した。

 ……この二人の正体を、教えろ!
 
 赤く光り輝く仮想空間上の子供部屋で、静かに立つ二人の子供。そのうち、ルナが真っ直ぐに俺を見据えて回答する。

「教えられない」

 これがどういうことを意味しているか、もちろん、俺にはすぐにわかった。普通の一般人の情報など、神モードの俺は軽く看破できるからだ。

 女の姿は、頭上にリングが浮かんでいないことを除けばまさに「天使」だった。満月を背に浮かぶ姿は、仮に一般人が目撃しても単なる鳥のように見えたかもしれない。ただ一つ、不気味に光る両の赤眼に気が付かなければの話だが。

 俺が夜空に気を取られているうちに、地上にいた田中さんは姿を消していた。再び空に目を移した時には、上空の天使も同様に。
 
 無音の倉庫街に生ぬるい風が吹く。
 嫌な予感が、風とともに俺の身体と心にまとわりつく。
 俺は、早口でゼウスへ質問した。

「ノア、ルナ! 『イグナイター』とは何か、教えろ!」
「内燃機関の点火装置だよ」
「ない……何? もっとわかりやすく言え」
「つまり、エンジンなんかを始動させるための、『点火装置』だね」

 全くもってヒントにもならない情報だ。エンジンの点火装置? それがアーティファクトとしての能力だってのか?

 詳しいことは全くもってわからない。だが、最も大事なことだけはわかった。


 田中さんはアーティファクト。


 それも、彼女は俺たちの命を狙う「グリムリーパー」に属するアーティファクトの一員だ、ということだった。
しおりを挟む

処理中です...