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2章 硝子は痛みを透過しない――居初宮乃の物語
1話 貴女の痛み、私の痛み
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ギムレットに照明が浮かんでいる。その光があまりにも儚くて、悔しい。
「酔っちゃった?」
らしくもなく感傷的になる私を、砂川さんが肘をついて眺めている。ワンレンの髪が少し乱れて片目に掛かっている。形の良いアーモンド形の目。
暗い表情を見せてしまったことを悔いる。だが幸いにも私の懊悩は気取られなかったようだ。砂川さんはいつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「いえ、ここ素敵なバーですね」
出来るだけわざとらしくないように辺りを見回すと、カウンターの向こうに海月が悠然と泳ぐ水槽が見える。ゆったりと流れるJAZZピアノと混ざり合って瀟洒な雰囲気を醸し出している。
「そうでしょ。とっておきの日にだけ来るんだ」
そんなことを言う砂川さんに、私はどんな表情をしていいのか分からなくなる。
今日は砂川さんの送別会だった。当り障りのない居酒屋で一次会をして、カラオケで二次会、そのあと二人だけで三次会をしている。会社の飲み会は不愉快で、低俗で、正直付き合いきれない。いつもだったら一次会より先には行かないけれど、明日から有給消化に入る彼女としばらく会えなくなってしまうから。
砂川さんは職場の同じ部署の先輩だ。大学の学生支援課で、一から私に仕事を教えてくれた人でもある。そのあと彼女は部署を点々とし、広報課では課長代理にまでいったことがある。代理とはいえ、うちの職場で女性が中間管理職を務めたのは彼女が初めてだった。
快活で気配り上手、メリハリがはっきりしていて本当に仕事が出来る。十年以上勤続していて、他部署のことも良く理解している。彼女が上に立ってくれれば、どれだけ仕事がしやすいか分からない。誰もが働きやすい職場を彼女は目指していた。
『総務部にハラスメント対策室を作って、そこの室長になりたいんだよね』
彼女はよくそう言っていた。うちの職場ではセクハラ・パワハラの対応を総務が片手間にやっていて、正直充分とは言い難い。過度なボディタッチ、メールで女性社員をデートに誘う、女性社員へのちゃん呼び、容姿を褒める・貶すなど、枚挙に暇がない。
それなのに、相談が寄せられても大抵メールの一斉送信による注意喚起で終わってしまう。これでは誰も期待できないし、リスクを感じて泣き寝入りするしかない。思い切って打ち明けたとしても、守ってくれる安心感がまるでないのだ。
『私がなめられるのはもう諦めてるんだけどさ、下の子たちにはのびのび仕事して欲しいんだよ。だから私はなけなしの発言力を持つために、抜群に仕事が出来る人間でいないといけない。めちゃくちゃおっさんたちに鬱陶しがられる、目の上のたんこぶになってやろうと思って』
その挑戦的な表情に私はいつも勇気づけられてきた。
彼女は仕事を教えるのが上手だったので、新人の教育を良く任されていた。
『なんでも、いつでも聞いて良い。最初は、何を聞いていいのか、一旦考えるべきなのか何も分からないものだから。そこで悩むことに時間を使っちゃ駄目だよ。最初に抱え込む癖を作ってしまったら、本当にしんどくなるからね』
初めて彼女に教わったことだ。砂川さんはどんなに仕事が忙しい時でも苛々とした様子を見せずに時間を作ってくれた。どうしてその業務はしなければならないのかから、細かく指導してくれた。彼女の仕事は合理的で、それは逆に言うと不合理な仕事は上にかけあって潰していってくれたからだ。出勤の確認のためだけの朝礼とか、何故か一人の人間だけがしているお茶くみ、ゴミ出しとか。偏った仕事の再分配、働きやすい空気作り。
そういう目立たないけど、必ず誰かの役に立つ仕事を彼女はしていたのに。
彼女があと何年キャリアを積もうが結果は見えていた。「女の子達」でまとめられ「砂川先生」とか、無駄に持ち上げられるだけ持ち上げられて、結局ガラスの天井にぶつかる。随分努力はしていたけれど、彼女が残した功績のほとんどは誰にも知られていない。
『赤ちゃん出来ちゃった』
二人で昼休憩に行ったランチでそれを聞かされた。今年で三十四歳になる砂川さんが結婚していることは周知だった。出産のリミットが近付いてきたことで旦那が避妊をしてくれないのと相談されたことが頭を過った。怒りだろうか、どす黒い情念。多分私は絶望したのだ。砂川さんが、まだ昇進を諦めていないことを知らないはずがないのに。相手に怒りをぶつけることが筋違いであることも分かっている。それでもあなたは、彼女の痛みを一番理解してあげないといけない立場の人間だろう。そう思ってしまう。
とてもじゃないがおめでとうございますとは言えなかった。魂が抜けたような顔をして、それでも微笑みを崩さない砂川さんを、見ていられなかった。砂川さんは仕事が大好きで、誰よりも熱意を持っていて、学生からも愛されていて。どうしてなんだろう。思わずグラスを持つ手に力が籠る。
『いい機会だしもう辞めちゃおうと思って』
彼女が語る展望は、どこかで聞いたような"女の幸せ"をなぞるものだった。母親として生きていくのだ。きっと砂川さんは良いお母さんになれるだろう。けれどそんなものは程度の差こそあれ、誰にでもなれる。砂川さんがなりたいものは、砂川さんにしかなれないものなのに。
『宮ちゃんも一緒に辞める?』
冗談めかして言った言葉にはかなりの本気が含まれていて、きっとこの職場には未来がないことを一番分かっていたのだろう。
『それもいいですね』
失意の中、砂川さんの方もまともに見られなかった。はっきりとした答えを出せない私を、砂川さんはどんな顔で見つめていたのだろう。
「酔っちゃった?」
らしくもなく感傷的になる私を、砂川さんが肘をついて眺めている。ワンレンの髪が少し乱れて片目に掛かっている。形の良いアーモンド形の目。
暗い表情を見せてしまったことを悔いる。だが幸いにも私の懊悩は気取られなかったようだ。砂川さんはいつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「いえ、ここ素敵なバーですね」
出来るだけわざとらしくないように辺りを見回すと、カウンターの向こうに海月が悠然と泳ぐ水槽が見える。ゆったりと流れるJAZZピアノと混ざり合って瀟洒な雰囲気を醸し出している。
「そうでしょ。とっておきの日にだけ来るんだ」
そんなことを言う砂川さんに、私はどんな表情をしていいのか分からなくなる。
今日は砂川さんの送別会だった。当り障りのない居酒屋で一次会をして、カラオケで二次会、そのあと二人だけで三次会をしている。会社の飲み会は不愉快で、低俗で、正直付き合いきれない。いつもだったら一次会より先には行かないけれど、明日から有給消化に入る彼女としばらく会えなくなってしまうから。
砂川さんは職場の同じ部署の先輩だ。大学の学生支援課で、一から私に仕事を教えてくれた人でもある。そのあと彼女は部署を点々とし、広報課では課長代理にまでいったことがある。代理とはいえ、うちの職場で女性が中間管理職を務めたのは彼女が初めてだった。
快活で気配り上手、メリハリがはっきりしていて本当に仕事が出来る。十年以上勤続していて、他部署のことも良く理解している。彼女が上に立ってくれれば、どれだけ仕事がしやすいか分からない。誰もが働きやすい職場を彼女は目指していた。
『総務部にハラスメント対策室を作って、そこの室長になりたいんだよね』
彼女はよくそう言っていた。うちの職場ではセクハラ・パワハラの対応を総務が片手間にやっていて、正直充分とは言い難い。過度なボディタッチ、メールで女性社員をデートに誘う、女性社員へのちゃん呼び、容姿を褒める・貶すなど、枚挙に暇がない。
それなのに、相談が寄せられても大抵メールの一斉送信による注意喚起で終わってしまう。これでは誰も期待できないし、リスクを感じて泣き寝入りするしかない。思い切って打ち明けたとしても、守ってくれる安心感がまるでないのだ。
『私がなめられるのはもう諦めてるんだけどさ、下の子たちにはのびのび仕事して欲しいんだよ。だから私はなけなしの発言力を持つために、抜群に仕事が出来る人間でいないといけない。めちゃくちゃおっさんたちに鬱陶しがられる、目の上のたんこぶになってやろうと思って』
その挑戦的な表情に私はいつも勇気づけられてきた。
彼女は仕事を教えるのが上手だったので、新人の教育を良く任されていた。
『なんでも、いつでも聞いて良い。最初は、何を聞いていいのか、一旦考えるべきなのか何も分からないものだから。そこで悩むことに時間を使っちゃ駄目だよ。最初に抱え込む癖を作ってしまったら、本当にしんどくなるからね』
初めて彼女に教わったことだ。砂川さんはどんなに仕事が忙しい時でも苛々とした様子を見せずに時間を作ってくれた。どうしてその業務はしなければならないのかから、細かく指導してくれた。彼女の仕事は合理的で、それは逆に言うと不合理な仕事は上にかけあって潰していってくれたからだ。出勤の確認のためだけの朝礼とか、何故か一人の人間だけがしているお茶くみ、ゴミ出しとか。偏った仕事の再分配、働きやすい空気作り。
そういう目立たないけど、必ず誰かの役に立つ仕事を彼女はしていたのに。
彼女があと何年キャリアを積もうが結果は見えていた。「女の子達」でまとめられ「砂川先生」とか、無駄に持ち上げられるだけ持ち上げられて、結局ガラスの天井にぶつかる。随分努力はしていたけれど、彼女が残した功績のほとんどは誰にも知られていない。
『赤ちゃん出来ちゃった』
二人で昼休憩に行ったランチでそれを聞かされた。今年で三十四歳になる砂川さんが結婚していることは周知だった。出産のリミットが近付いてきたことで旦那が避妊をしてくれないのと相談されたことが頭を過った。怒りだろうか、どす黒い情念。多分私は絶望したのだ。砂川さんが、まだ昇進を諦めていないことを知らないはずがないのに。相手に怒りをぶつけることが筋違いであることも分かっている。それでもあなたは、彼女の痛みを一番理解してあげないといけない立場の人間だろう。そう思ってしまう。
とてもじゃないがおめでとうございますとは言えなかった。魂が抜けたような顔をして、それでも微笑みを崩さない砂川さんを、見ていられなかった。砂川さんは仕事が大好きで、誰よりも熱意を持っていて、学生からも愛されていて。どうしてなんだろう。思わずグラスを持つ手に力が籠る。
『いい機会だしもう辞めちゃおうと思って』
彼女が語る展望は、どこかで聞いたような"女の幸せ"をなぞるものだった。母親として生きていくのだ。きっと砂川さんは良いお母さんになれるだろう。けれどそんなものは程度の差こそあれ、誰にでもなれる。砂川さんがなりたいものは、砂川さんにしかなれないものなのに。
『宮ちゃんも一緒に辞める?』
冗談めかして言った言葉にはかなりの本気が含まれていて、きっとこの職場には未来がないことを一番分かっていたのだろう。
『それもいいですね』
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