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56.明けぬ心の夜
しおりを挟む夜が明けた。
けれど、メリィのまぶたが開くことはなかった。
宿屋の簡素な部屋――。冷たい朝の光が薄く射し込むなか、ネロはメリィの横に膝をついたまま動かない。握る手はいつまでも頼りなく冷たい。
何度も、何度も声をかけた。耳元で名前を呼び、そっと頬に触れた。
それでも、彼女の瞼はひとつも震えなかった。
「……ネロ。お前、少し寝てこい」
低い声が背からかかった。振り返れば、扉の陰にワノツキが立っていた。腕を組み、じっとこちらを見下ろしている。
「メリィは俺が見ててやっから」
ネロは何も言わず、ただ立ち上がる。
その足取りはふらつき、魂の抜けたような顔のまま部屋の片隅、ソファに向かった。
「あぁ」
ネロがぽつりと呟く。
(……ったく。ちゃんとベッドで休めって意味だったんだけどな)
けれど無理もない、と思う。目の前で大切なもんを壊された痛みってのは…わかるつもりだ。
「……メリィが目ぇ覚まして……お前がそんなんだったら、どうすんだよ……ったく……」
ワノツキはひとりごちると、ネロの肩に上着をかけてやった。ネロは反応しない。深く、浅い眠りに堕ちていた。
ほどなくして、扉がノックされた。
入ってきたのはタカチホ。いつもの飄々とした気配はなく、慎重な目つきでメリィのそばに近づく。
「失礼します。……傷の様子を見させてもらいますね」
包帯をほどき、患部を静かに確認する。消毒し、薬を塗り直し、包帯を新しく巻く。
その手際は慎重で、丁寧だった。まるで壊れ物に触れるように。
「……呼吸も落ち着いていますし……体温も……少しずつですが、上がり始めてます」
巻き終えた包帯にそっと手を置くと、タカチホは静かに言った。
「……山場は越えたかと」
ワノツキは、ほっと息をつく。
けれど――まだ目は覚まさない。意識は、ここには戻ってこない。
「……メリィが起きたら、何て言う気だよ……」
自分で自分に問いかけるように、ワノツキはぽつりと呟いた。
***
そのころ、双子は別室にいた。
窓の下に並んで座り、メルルは顔を伏せ、マヌルは膝を抱えていた。
どちらも、泣きはらした目。けれど涙はまだ止まらない。
「……どうして……」
メルルがぽつりと呟く。
「星の巡りでは……姉さまに凶星の影なんて……なかったのに……!」
マヌルも唇を噛み、首を振る。
「……なのに、どうして……姉さまが、こんな目に……」
答えはない。けれど、二人の心に渦巻く悔しさは止めようもなく膨らんでいた。
誰かのせいにしたい。自分の力不足を責めたい。全部――どうにもできなかった。
「姉さまを……助けられなかった……」
「マヌルも……もっと……もっと強かったら……」
ぎゅっと、互いの手を握りしめる。
その手は小さく、細く、ふるえていた。
***
宿屋から少し離れた、街の外れ。
ズメウは丘の上に立っていた。冷たい朝風が黒いマントを揺らす。
眼下には静かな街並み。その向こうに広がる森と、霧のかかる山。
「……来るかもしれん」
低く呟いた。声には迷いも、怒りもない。ただ冷たい警戒心。
フィズ――魔人と化したかつての“仲間”。
昨日、自らの翼で吹き飛ばした存在。だが――吹き飛ばすだけにとどめたのは、ズメウなりの“情”だった。
メリィたちの知り合いだったから。
だからすぐに斬り捨てなかった。
だが――。
「次は……容赦せん」
金色の瞳が冷たく光る。
メリィたちを、仲間を――再び傷つけるならば。
今度こそ、その喉元を、その胸を――ズメウの爪が切り裂くだろう。
風が鳴った。草が揺れた。
けれど、敵の気配はまだない。
(……来るなら、来い)
心の中で、冷たく呟いた。丘の上の獣は、いつでも刃を振るえる姿で、静かにその時を待っていた。
***
――メリィはまだ目覚めない。
白い頬、閉じたままのまぶた。
静かに上下する胸。けれど意識はまだ、どこか遠く。
その眠りの向こう側で、何が待っているのか。
誰も、それを知る者はいなかった。
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