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105. 地下に降る星(後編)
しおりを挟む闘技場に、銃声が響いた。
ワノツキの体がのけぞる。しかしその顔に苦痛の色はなかった。
代わりに――笑っていた。口元だけを持ち上げる、静かな笑み。
「この瞬間を……ずっと、待ってたんだよ」
掠れた声が闘技場に落ちると同時に、ワノツキの左手が動いた。
その手は、グレーシャの腕をがっしりと掴んでいた。
「……っ!?」
グレーシャの無表情が、僅かに揺らいだ。
「おまえらみたいな奴は、いつも霧みてぇに消えちまう。だからよ……近付いてくるのを、ずっと待ってたんだ」
撃たれた場所から徐々に、ワノツキの体が変わり始める。
皮膚に黒いひびが走り、骨のような突起が肩から隆起する。
血が逆流するように、全身の血管が浮かび上がり、瞳はゆっくりと――黒に染まっていく。
「……ワノツキっ……!」
闘技場の外、観客だった怪物を退けた仲間たちが、その変化に気づく。
「ワノツキさん!ダメです!まだ間に合います!!」
タカチホが叫ぶ。声が震えていた。
「止まってください!薬はあります!治せますから!!」
だがその声は、金網の中の男には届かない。
「放せ……」
グレーシャが眉間に皺を寄せ低く呟き、力任せに振り払おうとする。だが、掴まれた腕は鉄の鉤のように動かない。
握られたまま、ぴくりとも。
「放さねぇよ」
ワノツキの声は、優しくさえあった。
「安心しな。……オレが一緒に、地獄に行ってやる」
――マーレ。
ワノツキが、かすかに呟く。
ワノツキがそう呟いた瞬間、大槌が光に包まれる。
形が――変わっていく。
鉄がねじれ、圧縮され、歯車のように重なっていく。
そして、それはやがて、巨大なトラバサミへと変貌する。
大きさは、闘技場の天井に届かんばかり。
その姿は、もはや“武器”ではない。
まるで――裁きの装置のように見えた。
「まて、やめろ! ワノツキ!!」
ネロの叫びが響く。
「ネロ、メリィ、タカチホ、メルル、マヌル、ズメウ……シーダ……」
ひとりひとりの名を、丁寧に口にする。
「俺は……俺はおまえらと旅ができて、心から……楽しかった。……最高の仲間だったよ」
その顔は、涙のように汗のように、黒い痕を流しながら、それでも笑っていた。
「やめろおおおおおおおおおお!!!!」
ネロの絶叫。
だがそれと同時に――
――バツン
音が鳴った。
巨大なトラバサミが、ワノツキとグレーシャを包み込むように閉じ、
その刹那、まるで星が爆ぜるような光が放たれた。
眩い閃光。
空間が一瞬だけ歪み、音が、感覚が、色彩が、すべてが白に染まった。
その光が収まった頃――
闘技場には、何も残っていなかった。
静まり返った金網の内側にあったのは、少しの黒い塵と――
一筋の赤いリボンだけ。
それは、ワノツキが妹の形見として常に巻いていたものだった。
「……っ」
誰もが、声を失った。
タカチホが、沈黙を破る。
「……持ち主と固定された錬金物は……持ち主がいなくなった時、共に砕け散ります……」
その声は、苦く、震えていた。
視線の先では、金網の隙間からリボンがふわりと風に揺れていた。
まるで――もう戻らぬ者からの、最後の手紙のように。
星の残骸のような細かな光が、静かに落ち続けていた。
それは涙の代わりのようにも見えて、誰も――誰一人として、動こうとしなかった。
闘技場での戦いから、二日が経った。
空には雲が浮かび、時折差す陽の光が、街の石畳を淡く照らしていた。
その下を、一人欠けてしまった旅の一行の影がゆっくりと歩いていく。
その足取りは、どこか重く、痛々しいほど静かだった。
双子の目は赤く腫れていた。
泣きじゃくっていた痕がまだ残る瞼は、何度も瞬きをしても視界が滲むようで、それでも――
「メルル、だいじょうぶ、です……」
「マヌル、歩けます……っ」
と、小さく言葉を交わしながら、精一杯の足取りで前へと進んでいた。
タカチホもまた、いつものような飄々とした軽口を出すことはなかった。
しばらく口をつぐんでいたが、ふと、ぽつりと呟く。
「弄る対象が……減ってしまいましたネェ……」
それは冗談のようでいて、冗談にはなっていなかった。
その顔に浮かぶ笑みは、力なく、どこか悔しげだ。
メリィは「わたしは大丈夫」と口にしてはいたが、
あの日、過呼吸に陥り、崩れるように座り込んだ姿を――
タカチホも、ネロも、忘れられずにいた。
今もなお、その表情にはうっすらと疲労の色が残り、目の奥には眠れぬ夜の名残が宿っていた。
ズメウは何も語らない。
肩に乗せた小さな竜――シーダを守るように片手で抱え、ただ道の先だけを見て歩いていた。
その背中は大きく、そしてどこか寂しさを滲ませていた。
ネロは、一行の後ろを歩きながら、ふと空を仰ぐ。
晴れているというのに、胸の中には黒い雲が残っているようで――
それでも、ひとつ、ため息と共に小さく言葉をこぼした。
「残ったのは……これだけだったんだ」
その手の中には、ひとつの赤いリボン。
くしゃくしゃになりかけていたそれを、そっと指でなぞる。
「……お前の形見ってことで、いいよな?」
リボンを胸元にしまうその仕草は、まるで何かを抱きしめるように、丁寧だった。
風が吹き抜ける。
誰もが、何も言わなかった。
ただ、その風の中に、あの男――
無骨で、ぶっきらぼうで、だけど誰より仲間思いだった戦士の気配が、まだ残っているように思えた。
そうして、一行はまた歩き出す。
旅は止まらない。
失われたものを抱えながら、それでも前へ進む。
きっと、彼が望んだように。
空の色は、季節の変わり目を知らせるように、どこか澄んでいた。
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