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第3節:蚕糸(さんし)
第14話:背中の視線
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記事が出てから二週間ほど経った頃のことだった。
最初に違和感を覚えたのは通勤中だった。地下鉄を降りて神保町の編集部に向かう道。古書店の並ぶ通りを歩いているとき、ふと背中に何かの気配を感じて振り返った。数メートル後ろに人がいた。小柄な人影、地味な上着。顔ははっきりと見えなかった。
東京では珍しくもない。他人との距離が近いのは都市生活の常だ。中澤は前を向いて歩き出した。
翌日も、同じ道を歩いていて同じ感覚があった。背中に意識が触れているような。振り返ると、やはり何人かの人が歩いていた。特定の誰かがこちらを見ているわけではない。だが通行人の中に、前日にも見たような体格の人影が一瞬だけ視界をよぎった気がした。小柄、地味な服。
中澤は自分を笑った。カルトの話を聞きすぎて感化されている。取材対象に感情移入して、自分が追われているような気になる。職業病だ。何年か前に詐欺師の取材をしたときも、しばらく周囲の人間が全員嘘をついているように感じた時期があった。没入と離脱の繰り返し。慣れた症状だ。
---------------------------------------------------------------
だが症状は消えなかった。
九月に入った。残暑が続いていた。
編集部を出た夜のことだった。九時を回っていて神保町の通りは人がまばらだった。靖国通りの信号待ちで立ち止まると横に人が並んだ。小柄な人影。視界の隅でその人影がこちらの方向を見ているような気がした。中澤がちらりと顔を確認しようとした瞬間、信号が変わる前にその人影はすっと角を曲がって消えた。
見えたのは後ろ姿だけだった。小柄。灰色っぽい上着。年齢も性別も判然としなかった。
翌日の昼、編集部の近くのコンビニでコーヒーを買って店を出た。ガラスのドア越しに通りの向かい側に人影が立っているのが見えた。小柄、こちらを見ている。中澤はコーヒーの蓋を押さえたまま通りを渡ろうとした。横断歩道に足を踏み出した瞬間、人影は歩き出して古書店の角を曲がった。中澤が角まで行ったとき、そこには誰もいなかった。路地は行き止まりではなくその先の通りに抜けられる。追いかけるほどのことではなかった。
追いかけるほどのことではない。そう自分に言い聞かせた。
黒田に相談しようかと思った。何を言えばいい。「小柄な人に尾行されている気がする」。顔も見ていない。同一人物かどうかもわからない。そもそも本当に自分を見ていたのかすら確認できていない。東京の路上で人が歩いている。それだけのことだ。
言わなかった。
九月の半ば。夜、自宅のマンションに帰った。築三十年の単身者向けワンルームが並ぶ五階建て。エレベーターで五階に上がり、廊下を歩いた。蛍光灯が一本切れていて、廊下の奥――非常階段に繋がる角のあたりが薄暗かった。
中澤は自室のドアの前で鍵を探した。ポケットの中で鍵がなかなか見つからない。指先で探りながらふと顔を上げた。
廊下の奥、非常階段への角。
そこに人影が立っているような気がした。
薄暗がりの中で輪郭が曖昧だった。立っているのか、影がそう見えるだけなのか。中澤は目を凝らした。
誰もいなかった。
ただ、非常階段のドアがかすかに揺れていた。閉まりかけている途中だった。風で動いたのかもしれない。五階の非常階段のドアが風で動くことがあるのかどうか、中澤は考えたが、結論は出なかった。
部屋に入り、鍵をかけ、チェーンも掛けた。普段はチェーンまではかけない。今日はかけた。
靴を脱ぎ、スーツのまま椅子に座った。デスクの上のパソコンを開いた。メールの受信箱に新着が一件あった。
差出人は長谷川邦彦。件名はなかった。本文は一行だけだった。
「あの記事の後、私も同じことを感じています。お気をつけて」
中澤はその一行を見つめた。
『同じこと』
長谷川もまた、何かの視線を感じている。あの記事の後「名前のない勧誘」のコラムを載せた後から。四谷の事務所の窓から通りを見ていた長谷川の横顔が浮かんだ。あのとき長谷川は外を見ていたのではなく、外にいる何かを確認していたのかもしれない。
返信を書こうとして指が止まった。何と書けばいい。「私もです」か。それを書いたとき、ここまで「気のせいかもしれない」で留めていたものが確定してしまう。
中澤はメールを閉じた。パソコンを閉じた。部屋の電気を消してベッドに横になった。
眠れなかった。
天井を見つめていた。窓の外は東京の夜のはずだが、妙に静かだった。この部屋に五年住んでいるがこんなに静かだったことがあっただろうか。環八の車の音も、隣の部屋のテレビの音も、何も聞こえない。耳鳴りすらしない。
目を閉じた。
橋本カウンセラーの言葉が浮かんだ。あの新宿のファミリーレストランで穏やかな声で語った言葉。
「一番巧妙な団体は自分たちの名前を知られない。名前がなければ対策のしようがないでしょう?」
目を開けた。天井に染みがあった。入居したときからある水漏れの痕だ。暗がりの中で、その染みが何か別のものに見えた。人の顔か、手のひらか。あるいはもっと別の何か。
見えただけだ。
中澤は寝返りを打って、壁のほうを向いた。壁は白かった。白い壁を見つめているうちに、長谷川の最後の言葉がもう一度浮かんできた。
『北の山のほうへ行った気がする』
根拠はないのに確信だけがある。あの言葉を聞いたとき、中澤は何かに似ていると感じた。何に似ているのか、あのときはわからなかった。
今、暗い部屋の中で白い壁を見つめていてわかった気がした。
夢だ。
見たことのない場所なのに知っている気がする。行ったことがないのに帰りたい気がする。そういう夢。そういう感覚に似ていた。
中澤は目を閉じた。今夜は夢を見るだろうか。見るとしたらどんな夢を。
窓の外の静寂が少しだけ深くなったような気がした。
最初に違和感を覚えたのは通勤中だった。地下鉄を降りて神保町の編集部に向かう道。古書店の並ぶ通りを歩いているとき、ふと背中に何かの気配を感じて振り返った。数メートル後ろに人がいた。小柄な人影、地味な上着。顔ははっきりと見えなかった。
東京では珍しくもない。他人との距離が近いのは都市生活の常だ。中澤は前を向いて歩き出した。
翌日も、同じ道を歩いていて同じ感覚があった。背中に意識が触れているような。振り返ると、やはり何人かの人が歩いていた。特定の誰かがこちらを見ているわけではない。だが通行人の中に、前日にも見たような体格の人影が一瞬だけ視界をよぎった気がした。小柄、地味な服。
中澤は自分を笑った。カルトの話を聞きすぎて感化されている。取材対象に感情移入して、自分が追われているような気になる。職業病だ。何年か前に詐欺師の取材をしたときも、しばらく周囲の人間が全員嘘をついているように感じた時期があった。没入と離脱の繰り返し。慣れた症状だ。
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だが症状は消えなかった。
九月に入った。残暑が続いていた。
編集部を出た夜のことだった。九時を回っていて神保町の通りは人がまばらだった。靖国通りの信号待ちで立ち止まると横に人が並んだ。小柄な人影。視界の隅でその人影がこちらの方向を見ているような気がした。中澤がちらりと顔を確認しようとした瞬間、信号が変わる前にその人影はすっと角を曲がって消えた。
見えたのは後ろ姿だけだった。小柄。灰色っぽい上着。年齢も性別も判然としなかった。
翌日の昼、編集部の近くのコンビニでコーヒーを買って店を出た。ガラスのドア越しに通りの向かい側に人影が立っているのが見えた。小柄、こちらを見ている。中澤はコーヒーの蓋を押さえたまま通りを渡ろうとした。横断歩道に足を踏み出した瞬間、人影は歩き出して古書店の角を曲がった。中澤が角まで行ったとき、そこには誰もいなかった。路地は行き止まりではなくその先の通りに抜けられる。追いかけるほどのことではなかった。
追いかけるほどのことではない。そう自分に言い聞かせた。
黒田に相談しようかと思った。何を言えばいい。「小柄な人に尾行されている気がする」。顔も見ていない。同一人物かどうかもわからない。そもそも本当に自分を見ていたのかすら確認できていない。東京の路上で人が歩いている。それだけのことだ。
言わなかった。
九月の半ば。夜、自宅のマンションに帰った。築三十年の単身者向けワンルームが並ぶ五階建て。エレベーターで五階に上がり、廊下を歩いた。蛍光灯が一本切れていて、廊下の奥――非常階段に繋がる角のあたりが薄暗かった。
中澤は自室のドアの前で鍵を探した。ポケットの中で鍵がなかなか見つからない。指先で探りながらふと顔を上げた。
廊下の奥、非常階段への角。
そこに人影が立っているような気がした。
薄暗がりの中で輪郭が曖昧だった。立っているのか、影がそう見えるだけなのか。中澤は目を凝らした。
誰もいなかった。
ただ、非常階段のドアがかすかに揺れていた。閉まりかけている途中だった。風で動いたのかもしれない。五階の非常階段のドアが風で動くことがあるのかどうか、中澤は考えたが、結論は出なかった。
部屋に入り、鍵をかけ、チェーンも掛けた。普段はチェーンまではかけない。今日はかけた。
靴を脱ぎ、スーツのまま椅子に座った。デスクの上のパソコンを開いた。メールの受信箱に新着が一件あった。
差出人は長谷川邦彦。件名はなかった。本文は一行だけだった。
「あの記事の後、私も同じことを感じています。お気をつけて」
中澤はその一行を見つめた。
『同じこと』
長谷川もまた、何かの視線を感じている。あの記事の後「名前のない勧誘」のコラムを載せた後から。四谷の事務所の窓から通りを見ていた長谷川の横顔が浮かんだ。あのとき長谷川は外を見ていたのではなく、外にいる何かを確認していたのかもしれない。
返信を書こうとして指が止まった。何と書けばいい。「私もです」か。それを書いたとき、ここまで「気のせいかもしれない」で留めていたものが確定してしまう。
中澤はメールを閉じた。パソコンを閉じた。部屋の電気を消してベッドに横になった。
眠れなかった。
天井を見つめていた。窓の外は東京の夜のはずだが、妙に静かだった。この部屋に五年住んでいるがこんなに静かだったことがあっただろうか。環八の車の音も、隣の部屋のテレビの音も、何も聞こえない。耳鳴りすらしない。
目を閉じた。
橋本カウンセラーの言葉が浮かんだ。あの新宿のファミリーレストランで穏やかな声で語った言葉。
「一番巧妙な団体は自分たちの名前を知られない。名前がなければ対策のしようがないでしょう?」
目を開けた。天井に染みがあった。入居したときからある水漏れの痕だ。暗がりの中で、その染みが何か別のものに見えた。人の顔か、手のひらか。あるいはもっと別の何か。
見えただけだ。
中澤は寝返りを打って、壁のほうを向いた。壁は白かった。白い壁を見つめているうちに、長谷川の最後の言葉がもう一度浮かんできた。
『北の山のほうへ行った気がする』
根拠はないのに確信だけがある。あの言葉を聞いたとき、中澤は何かに似ていると感じた。何に似ているのか、あのときはわからなかった。
今、暗い部屋の中で白い壁を見つめていてわかった気がした。
夢だ。
見たことのない場所なのに知っている気がする。行ったことがないのに帰りたい気がする。そういう夢。そういう感覚に似ていた。
中澤は目を閉じた。今夜は夢を見るだろうか。見るとしたらどんな夢を。
窓の外の静寂が少しだけ深くなったような気がした。
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