5 / 12
第四章:夜に浮かぶ誓い
しおりを挟む
それは、あまりに静かな夜だった。
風ひとつ吹かぬ王宮の廊下。月明かりが石造りの床に淡く差し込む。白昼の喧噪は嘘のように消え、空気は凪いでいた。
その静寂を破ったのは、一つの鈍い音──
「う……っ」
控えの間から崩れ落ちるような物音。警備中の騎士たちが駆け寄るよりも早く、クラリスはその場にいた。
彼女は、ほぼ本能的に“嫌なにおい”を感じ取っていたのだ。
「……まさか、もう?」
開け放たれた扉の奥、倒れていたのは――ルーク・ヴァルハルトだった。
「ルークッ!」
クラリスは叫びながら駆け寄り、彼の体を抱き上げた。頬は蒼白、唇は乾き、呼吸が不安定に波打っている。そして、何より──彼の瞳は、焦点を結んでいなかった。
「……ああ、クラリス。君が、君が“あの時の”女だったんだね……ようやく……見つけた」
ルークは、現実には存在しない何かを見つめていた。
幻覚。記憶の反転。混濁する意識。
(白の霧……! まさか、空調経由で!)
「衛兵、すぐにこの部屋を封鎖して! 誰も出入りさせないで!」
叫びながら、クラリスは手早く香水瓶を取り出す。
中身は“醒香草(せいこうそう)”を抽出した霧状の薬液。呼吸器系を一時的に刺激し、毒の吸収を抑制する。
「ルーク……私の声が聞こえる?」
「……君は……母さん? クラリスは、どこに……」
「私がここよ。私は、あなたを見てる。嘘の声じゃない。幻なんかじゃないわ」
震える声でクラリスは言う。その言葉は、自分自身にも言い聞かせていた。
「どうして、貴方が……。私の代わりに、どうして……!」
手を震わせながら、彼の胸に耳を当てる。心音はまだある。けれど、確実に浅く、弱っていた。
(ここで、彼を失いたくない)
恐怖が喉元まで込み上げる。こんなにも、誰かの命が重く感じられるのは、初めてだった。
* * *
──二時間後、応急処置の甲斐あってルークはようやく意識を取り戻した。
王宮の医務室。月光の差し込む小部屋で、クラリスは椅子の背に額をつけたまま、ほとんど眠らぬまま夜を明かしていた。
「……クラリス?」
かすかな声に、彼女は顔を上げる。
「ルーク……!」
「大丈夫……だ。なんとか、生きてる」
彼はいつも通りの穏やかな声でそう言ったが、その瞳には疲労と、ほんの少しの恐れが滲んでいた。
「私……貴方を守れなかった」
「そんなことはない。あれだけ早く気づけたのは君だけだ。……助けてくれて、ありがとう」
言いながら、彼はそっとクラリスの手を取る。その手があまりに熱く、そして震えていて、クラリスの心が軋んだ。
「もう二度と、こんなことがあってはならないわ。次は、もっと残酷な毒かもしれない」
「でも……君がいるなら、俺は恐れない」
その一言に、クラリスは瞳を見開く。
「……ルーク?」
「君は、ただの“毒婦”なんかじゃない。君は、誰よりも人を救おうとしている」
ルークは、重たい身体を起こしながら、ゆっくりと、確かな声音で言った。
「俺は誓う。君を信じ続ける。どんな毒よりも深く、どんな仮面よりも真実を持った君を、守りたいと思う」
その言葉が、クラリスの心を激しく揺さぶる。誰もが恐れて、誰もが遠ざけた“毒”の知識。その知識の重さに、誰かがそっと寄り添ってくれるなど、思いもしなかった。
「……ルーク、私……あなたが」
言いかけて、言葉が喉で詰まる。涙が頬を伝い、熱く溢れ出す。けれどルークは、何も言わず、ただ彼女の手を強く握った。
* * *
夜が明ける。
白の霧が王宮を襲った夜は、誰にも知られず、静かに過ぎていった。だがこの夜、クラリスとルークの間にひとつの“誓い”が交わされた。
毒と仮面に満ちた王宮のなかで、ただ一つ、真実だけを信じようとする二人の絆が、生まれた夜だった。
風ひとつ吹かぬ王宮の廊下。月明かりが石造りの床に淡く差し込む。白昼の喧噪は嘘のように消え、空気は凪いでいた。
その静寂を破ったのは、一つの鈍い音──
「う……っ」
控えの間から崩れ落ちるような物音。警備中の騎士たちが駆け寄るよりも早く、クラリスはその場にいた。
彼女は、ほぼ本能的に“嫌なにおい”を感じ取っていたのだ。
「……まさか、もう?」
開け放たれた扉の奥、倒れていたのは――ルーク・ヴァルハルトだった。
「ルークッ!」
クラリスは叫びながら駆け寄り、彼の体を抱き上げた。頬は蒼白、唇は乾き、呼吸が不安定に波打っている。そして、何より──彼の瞳は、焦点を結んでいなかった。
「……ああ、クラリス。君が、君が“あの時の”女だったんだね……ようやく……見つけた」
ルークは、現実には存在しない何かを見つめていた。
幻覚。記憶の反転。混濁する意識。
(白の霧……! まさか、空調経由で!)
「衛兵、すぐにこの部屋を封鎖して! 誰も出入りさせないで!」
叫びながら、クラリスは手早く香水瓶を取り出す。
中身は“醒香草(せいこうそう)”を抽出した霧状の薬液。呼吸器系を一時的に刺激し、毒の吸収を抑制する。
「ルーク……私の声が聞こえる?」
「……君は……母さん? クラリスは、どこに……」
「私がここよ。私は、あなたを見てる。嘘の声じゃない。幻なんかじゃないわ」
震える声でクラリスは言う。その言葉は、自分自身にも言い聞かせていた。
「どうして、貴方が……。私の代わりに、どうして……!」
手を震わせながら、彼の胸に耳を当てる。心音はまだある。けれど、確実に浅く、弱っていた。
(ここで、彼を失いたくない)
恐怖が喉元まで込み上げる。こんなにも、誰かの命が重く感じられるのは、初めてだった。
* * *
──二時間後、応急処置の甲斐あってルークはようやく意識を取り戻した。
王宮の医務室。月光の差し込む小部屋で、クラリスは椅子の背に額をつけたまま、ほとんど眠らぬまま夜を明かしていた。
「……クラリス?」
かすかな声に、彼女は顔を上げる。
「ルーク……!」
「大丈夫……だ。なんとか、生きてる」
彼はいつも通りの穏やかな声でそう言ったが、その瞳には疲労と、ほんの少しの恐れが滲んでいた。
「私……貴方を守れなかった」
「そんなことはない。あれだけ早く気づけたのは君だけだ。……助けてくれて、ありがとう」
言いながら、彼はそっとクラリスの手を取る。その手があまりに熱く、そして震えていて、クラリスの心が軋んだ。
「もう二度と、こんなことがあってはならないわ。次は、もっと残酷な毒かもしれない」
「でも……君がいるなら、俺は恐れない」
その一言に、クラリスは瞳を見開く。
「……ルーク?」
「君は、ただの“毒婦”なんかじゃない。君は、誰よりも人を救おうとしている」
ルークは、重たい身体を起こしながら、ゆっくりと、確かな声音で言った。
「俺は誓う。君を信じ続ける。どんな毒よりも深く、どんな仮面よりも真実を持った君を、守りたいと思う」
その言葉が、クラリスの心を激しく揺さぶる。誰もが恐れて、誰もが遠ざけた“毒”の知識。その知識の重さに、誰かがそっと寄り添ってくれるなど、思いもしなかった。
「……ルーク、私……あなたが」
言いかけて、言葉が喉で詰まる。涙が頬を伝い、熱く溢れ出す。けれどルークは、何も言わず、ただ彼女の手を強く握った。
* * *
夜が明ける。
白の霧が王宮を襲った夜は、誰にも知られず、静かに過ぎていった。だがこの夜、クラリスとルークの間にひとつの“誓い”が交わされた。
毒と仮面に満ちた王宮のなかで、ただ一つ、真実だけを信じようとする二人の絆が、生まれた夜だった。
2
あなたにおすすめの小説
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
『婚約破棄されたので北の港を発展させたら
ふわふわ
恋愛
王立学園の卒業舞踏会。
公爵令嬢アリアベルは、王太子カルディオンから突然の婚約破棄を告げられる。
「真実の愛を見つけた」
そう言って王太子が選んだのは、涙を流す義妹ヴィオレッタだった。
王都から追い出され、すべてを失った――
はずだった。
アリアベルが向かったのは、王国の北にある小さな港町。
しかし彼女の手腕によって港は急速に発展し、やがて王国最大の交易港へと変わっていく。
一方その頃、王太子と義妹は王都で好き勝手に振る舞っていたが――
やがてすべてが崩れ始める。
王太子は国外追放。
義妹は社交界から追放され修道院送り。
そして気づいた頃には、北の港こそが王国の中心になっていた。
「私はもう誰のものでもありません」
これは、婚約破棄された令嬢が自分の人生を取り戻し、
王国の未来を変えていく物語。
そして――
彼女の隣には、いつしか新しい王太子の姿があった。
婚約破棄から始まる、逆転ざまぁロマンス。✨
婚約者に「愛することはない」と言われたその日にたまたま出会った隣国の皇帝から溺愛されることになります。~捨てる王あれば拾う王ありですわ。
松ノ木るな
恋愛
純真無垢な侯爵令嬢レヴィーナは、国の次期王であるフィリベールと固い絆で結ばれる未来を夢みていた。しかし王太子はそのような意思を持つ彼女を生意気だと疎み、気まぐれに婚約破棄を言い渡す。
伴侶と寄り添う幸せな未来を諦めた彼女は悲観し、井戸に身を投げたのだった。
あの世だと思って辿りついた先は、小さな貴族の家の、こじんまりとした食堂。そこには呑めもしないのに酒を舐め、身分社会に恨み節を唱える美しい青年がいた。
どこの家の出の、どの立場とも知らぬふたりが、一目で恋に落ちたなら。
たまたま出会って離れていてもその存在を支えとする、そんなふたりが再会して結ばれる初恋ストーリーです。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
王子と公爵令嬢の駆け落ち
七辻ゆゆ
恋愛
「ツァンテリ、君とは結婚できない。婚約は破棄せざるをえないだろうな」
ツァンテリは唇を噛んだ。この日が来るだろうことは、彼女にもわかっていた。
「殿下のお話の通りだわ! ツァンテリ様って優秀でいらっしゃるけど、王妃って器じゃないもの」
新しく王子の婚約者に選ばれたのはサティ男爵令嬢。ツァンテリにも新しい婚約者ができた。
王家派と公爵派は、もう決して交わらない。二人の元婚約者はどこへ行くのか。
婚約破棄はあなたの意思でしたわね? ~王太子を廃嫡に追い込み、義妹を平民に落とした公爵令嬢は新時代の王妃になります~
鷹 綾
恋愛
王立学園の卒業舞踏会――
公爵令嬢ヴェルミリアは、王太子アルヴァリオから突然の婚約破棄を言い渡された。
「俺は、君の義妹セシルを愛している」
涙を浮かべる“可哀想な妹”。
それを守ると宣言する王太子。
社交界はヴェルミリアを冷酷な姉と断じた。
けれど彼女は、ただ微笑んだ。
なぜなら――
王家が回っていたのは、彼女の裏調整と資金管理のおかげだったから。
婚約破棄の翌日、王家の事業は次々と停止。
王太子の無責任な契約、義妹の盗用、不正資金の流れが暴かれていく。
守ると誓ったはずの義妹を、王太子は切り捨てる。
だがもう遅い。
王太子は廃嫡。
義妹は爵位剥奪のうえ平民落ち。
二人はすべてを失う。
そして――
「責任を共有できるなら、共に歩みましょう」
冷静沈着な第二王子との正式婚約。
王国再建の中心に立つのは、かつて捨てられたはずの公爵令嬢だった。
婚約破棄はあなたの意思でしたわね?
選んだ未来の責任を――
きちんとお取りいただきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる