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第三章:毒の記憶と旧友たち
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春の雨が、王都の石畳を静かに濡らしていた。
クラリス・エルステッドは、灰色のコートに身を包み、重たい扉の前で足を止める。
そこは王都の北端にある“記録の塔”。王国魔術省の研究資料を保管する、一般の貴族すら滅多に立ち入らぬ場所だった。
鉄製の扉を軽く叩くと、しばらくして軋む音とともに開いた。姿を現したのは、ボサボサの灰髪と眼鏡をかけた青年。
白衣の下には黒いシャツ、腰にはインク染みの付いたノートをぶら下げている。
「やあ、これはこれは……クラリスじゃないか」
彼の口元がゆっくりと綻ぶ。
「久しいね。まさか、君がここを訪ねてくるなんて思わなかったよ」
「……こんにちは、オズワルド。相変わらず埃っぽい場所に住んでるのね」
「君は相変わらず冷たいなぁ。もうちょっと、こう、“再会の喜び”ってものをさ……」
オズワルド・レイン。魔術省に所属する研究員で、クラリスの数少ない「かつての理解者」だった。
二人は貴族学院時代に同じ研究班で学び、「毒と魔術の交差領域」について議論を重ねた。だがクラリスが王太子との婚約によって社交界に取り込まれたことで、自然と道を違えた。
「懐かしいなあ。君が魔術室の窓辺で『毒の分子構造は香水と似ている』なんて話してた頃が」
「もう十年も前の話よ」
クラリスは鼻先で笑った。
オズワルドのいるこの塔の最奥には、禁書指定された古文書が保管されている。今回クラリスが求めていたのは、ここでしか閲覧できない情報──それも、極めて危険な毒物に関する知識だった。
「王宮で“ノクターン”が使われた。魔術探知をすり抜け、痕跡も残さない。記録の中で最も近いものを調べに来たの」
「ノクターンか……また懐かしい名前を聞いたな」
オズワルドは足音を響かせながら本棚を渡り歩き、やがて埃を被った革表紙の一冊を引き抜いた。
「これは“赤の記録”。毒と魔術の境界を記した機密資料の断片だ。閲覧は君にだけ許可するよ。僕が上司に黙っていればね」
「ありがとう、助かるわ」
「でも代わりに、今夜お茶くらい付き合ってくれないかな。あの頃みたいに──」
「……資料の読み込みが済んでからね」
クラリスはページを繰りながら、ふと遠い昔を思い出していた。
***
──母が、死んだのはクラリスが十歳の春だった。
原因は、王都では珍しくもない病気だったはずだった。けれど処方された薬に、微量の毒が混ざっていた。
その事実を知ったのは、母の死後しばらく経ってから。誰もが「偶然」だと言ったが、少女の中には疑念が残り続けた。
“知らないこと”が人を殺す。ならば、“知っていれば”救えたかもしれない──
それ以来、クラリスは独りで毒の勉強を始めた。図書館の奥、忌避される文献の山に顔を突っ込む日々。
孤独だったが、それでも進むのをやめなかった。
***
「……これだわ。“ノクターン”と、“ホロウ・ティア”。さらに次に使われるとすれば──」
クラリスは眉を寄せた。
「“白の霧”よ」
「……なんだって?」
「吸引毒。無臭で、幻覚を伴う。中毒者は他人の声に“従うように錯覚”し、最悪の場合、自ら命を絶つよう誘導される」
オズワルドの目が真剣になる。
「クラリス……その予測が正しいとすれば、“次”はもっと悪質になるぞ」
「ええ。そしてこれらの毒は、単なる連続暗殺ではない。“試している”のよ。誰かが、王宮で新しい毒の“有効性”を」
ふと、クラリスは問いかけた。
「この資料にアクセスした人物の記録、調べられる?」
「できなくはないけど……機密違反になる」
「お願い、オズ。私はこの王国が好きなの。だから、誰かの毒で壊されるのは、もう見ていられない」
オズワルドはしばらく無言だったが、やがて肩をすくめた。
「……分かったよ。やれやれ。クラリスが本気になると、いつも僕は負ける」
***
その夜、クラリスは王宮へ戻り、王太子アルヴィンの執務室を訪れた。
「クラリス……来てくれて、ありがとう」
どこか疲れた顔で出迎えた王太子に、クラリスは淡々と報告を始めた。
「アルヴィン様。“ノクターン”や“ホロウ・ティア”に続き、次は“白の霧”が使われる可能性があります」
「“白の霧”……? それは、何だ?」
「言葉で人の判断を狂わせる吸引毒。しかも、発症者は周囲の者に操られていることにすら気づかない。……最悪の場合、暴動や自傷行為に発展する」
アルヴィンは思わず拳を握った。
「それを王宮で、誰かが……?」
「“試している”のです、殿下。誰が、何のためにかは、まだ掴めていません」
「……私は、君の知識と判断力を信じる。だが……私は、一度君を傷つけてしまった。その償いを……」
「殿下、もう“あの時”のことを悔やまないで」
クラリスは静かに首を振った。
「私は、今この瞬間に生きています。誰かに信じられることで、私はまだ“毒婦”ではなく“私自身”でいられる。だから──今はそれだけで十分です」
***
執務室を出たクラリスを、廊下の端で待っていた人物がいた。
ルーク・ヴァルハルト。
無言で書類を差し出す彼に、クラリスは不意に微笑んだ。
「どうしたの?」
「これは、王宮内で次に狙われる可能性のある部屋の配置と、通気口の分布だ。白の霧が使われるなら、空気の流れも考慮すべきだろうと思って」
クラリスは数秒沈黙し、ふっと息を漏らした。
「本当に……貴方って、騎士にしては観察眼が鋭いのね」
「あなたほどじゃないさ」
「いいえ。あなたは、私が“ひとりきりじゃない”って、思わせてくれる人よ」
ルークは少しだけ驚いたように目を見開き──それから、何も言わずに微笑んだ。
クラリス・エルステッドは、灰色のコートに身を包み、重たい扉の前で足を止める。
そこは王都の北端にある“記録の塔”。王国魔術省の研究資料を保管する、一般の貴族すら滅多に立ち入らぬ場所だった。
鉄製の扉を軽く叩くと、しばらくして軋む音とともに開いた。姿を現したのは、ボサボサの灰髪と眼鏡をかけた青年。
白衣の下には黒いシャツ、腰にはインク染みの付いたノートをぶら下げている。
「やあ、これはこれは……クラリスじゃないか」
彼の口元がゆっくりと綻ぶ。
「久しいね。まさか、君がここを訪ねてくるなんて思わなかったよ」
「……こんにちは、オズワルド。相変わらず埃っぽい場所に住んでるのね」
「君は相変わらず冷たいなぁ。もうちょっと、こう、“再会の喜び”ってものをさ……」
オズワルド・レイン。魔術省に所属する研究員で、クラリスの数少ない「かつての理解者」だった。
二人は貴族学院時代に同じ研究班で学び、「毒と魔術の交差領域」について議論を重ねた。だがクラリスが王太子との婚約によって社交界に取り込まれたことで、自然と道を違えた。
「懐かしいなあ。君が魔術室の窓辺で『毒の分子構造は香水と似ている』なんて話してた頃が」
「もう十年も前の話よ」
クラリスは鼻先で笑った。
オズワルドのいるこの塔の最奥には、禁書指定された古文書が保管されている。今回クラリスが求めていたのは、ここでしか閲覧できない情報──それも、極めて危険な毒物に関する知識だった。
「王宮で“ノクターン”が使われた。魔術探知をすり抜け、痕跡も残さない。記録の中で最も近いものを調べに来たの」
「ノクターンか……また懐かしい名前を聞いたな」
オズワルドは足音を響かせながら本棚を渡り歩き、やがて埃を被った革表紙の一冊を引き抜いた。
「これは“赤の記録”。毒と魔術の境界を記した機密資料の断片だ。閲覧は君にだけ許可するよ。僕が上司に黙っていればね」
「ありがとう、助かるわ」
「でも代わりに、今夜お茶くらい付き合ってくれないかな。あの頃みたいに──」
「……資料の読み込みが済んでからね」
クラリスはページを繰りながら、ふと遠い昔を思い出していた。
***
──母が、死んだのはクラリスが十歳の春だった。
原因は、王都では珍しくもない病気だったはずだった。けれど処方された薬に、微量の毒が混ざっていた。
その事実を知ったのは、母の死後しばらく経ってから。誰もが「偶然」だと言ったが、少女の中には疑念が残り続けた。
“知らないこと”が人を殺す。ならば、“知っていれば”救えたかもしれない──
それ以来、クラリスは独りで毒の勉強を始めた。図書館の奥、忌避される文献の山に顔を突っ込む日々。
孤独だったが、それでも進むのをやめなかった。
***
「……これだわ。“ノクターン”と、“ホロウ・ティア”。さらに次に使われるとすれば──」
クラリスは眉を寄せた。
「“白の霧”よ」
「……なんだって?」
「吸引毒。無臭で、幻覚を伴う。中毒者は他人の声に“従うように錯覚”し、最悪の場合、自ら命を絶つよう誘導される」
オズワルドの目が真剣になる。
「クラリス……その予測が正しいとすれば、“次”はもっと悪質になるぞ」
「ええ。そしてこれらの毒は、単なる連続暗殺ではない。“試している”のよ。誰かが、王宮で新しい毒の“有効性”を」
ふと、クラリスは問いかけた。
「この資料にアクセスした人物の記録、調べられる?」
「できなくはないけど……機密違反になる」
「お願い、オズ。私はこの王国が好きなの。だから、誰かの毒で壊されるのは、もう見ていられない」
オズワルドはしばらく無言だったが、やがて肩をすくめた。
「……分かったよ。やれやれ。クラリスが本気になると、いつも僕は負ける」
***
その夜、クラリスは王宮へ戻り、王太子アルヴィンの執務室を訪れた。
「クラリス……来てくれて、ありがとう」
どこか疲れた顔で出迎えた王太子に、クラリスは淡々と報告を始めた。
「アルヴィン様。“ノクターン”や“ホロウ・ティア”に続き、次は“白の霧”が使われる可能性があります」
「“白の霧”……? それは、何だ?」
「言葉で人の判断を狂わせる吸引毒。しかも、発症者は周囲の者に操られていることにすら気づかない。……最悪の場合、暴動や自傷行為に発展する」
アルヴィンは思わず拳を握った。
「それを王宮で、誰かが……?」
「“試している”のです、殿下。誰が、何のためにかは、まだ掴めていません」
「……私は、君の知識と判断力を信じる。だが……私は、一度君を傷つけてしまった。その償いを……」
「殿下、もう“あの時”のことを悔やまないで」
クラリスは静かに首を振った。
「私は、今この瞬間に生きています。誰かに信じられることで、私はまだ“毒婦”ではなく“私自身”でいられる。だから──今はそれだけで十分です」
***
執務室を出たクラリスを、廊下の端で待っていた人物がいた。
ルーク・ヴァルハルト。
無言で書類を差し出す彼に、クラリスは不意に微笑んだ。
「どうしたの?」
「これは、王宮内で次に狙われる可能性のある部屋の配置と、通気口の分布だ。白の霧が使われるなら、空気の流れも考慮すべきだろうと思って」
クラリスは数秒沈黙し、ふっと息を漏らした。
「本当に……貴方って、騎士にしては観察眼が鋭いのね」
「あなたほどじゃないさ」
「いいえ。あなたは、私が“ひとりきりじゃない”って、思わせてくれる人よ」
ルークは少しだけ驚いたように目を見開き──それから、何も言わずに微笑んだ。
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