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第二十二話 運命が変わった日②
しおりを挟むテーブルの上に並べられた沢山の料理はいつの間にか二人で食べつくし、けれど特別なこの時間を直ぐには終わらせたくなかった。
酔いで重くなった頭を肘をついて支え、行儀悪く振舞うが咎める者は誰もいない。皿は重ねて移動させたので、突っ伏しても大丈夫なぐらいだ。
酒場と家での最大の違いは思う存分酔える事だろう。眠くなったら直ぐに寝室に移動すれば良い。
「ああ……こんなに飲んだのは久しぶりだ」
カシュパルとの仲も修復したし、鼻歌でも歌いそうなぐらいに気分が良かった。
「顔も赤くなってる」
「そうか?」
私が機嫌よくしていると、カシュパルも機嫌がいいようだった。珍しく着飾った彼を存分に楽しもうと手を伸ばす。
柔らかい黒髪に自分の指が沈んだ。撫でてやるついでに角も触りたくなり、硬質なその感触を楽しむ。
そのまま耳から頬に手を滑らせれば、きめ細かく整った肌が掌に当たった。なんて羨ましい。
蝋燭は過ごすうちに短くなって、大きく炎を揺らす。それに照らされた陰影のある顔は、日も落ちて暗くなった室内でも分かる程に色づいていた。
「あは。顔が赤い。……お前も飲んだのか?」
カシュパルは珍しく狼狽したような様子だった。そう言えば頭を撫でたのはいつ以来だっただろう。
「どうかな」
照れているのが可愛くて微笑ましい。笑いながら手を放せば、敵わないというようにカシュパルも笑った。
雰囲気はこれ以上ないぐらいに良い。彼の用意した全ては私を満足させてくれた。カシュパルの成長ぶりを思い口元を緩ませていると、彼が立ち上がり私に言った。
「少し待ってて。渡したいものがある」
一旦自室に戻った彼が持ってきたのは見覚えのない剣だった。彼は椅子に座るままの私の横に跪き、恭しく両手で剣を差し出した。
「使って」
今日は一体何処までするつもりなのだろう。緻密に計算された完璧な時間だった。生まれてこの方、こんなにも心の籠った接待を受けた事がない。
掘り出されたばかりの紫水晶のような濃い瞳が、ただ従順に私を待っていたから受け取らない訳にはいかなかった。
持った剣は見た目以上に軽い。鞘を抜いてみて、現れた美しい刀身に息を飲んだ。驚くほどに手に馴染む。
戦う者の性分で、立ち上がり剣を構えてみた。鋭い剣先が今までの相棒以上に敵を倒すのが、容易く想像出来た。
間違いなく私の為に誂えた剣である。この軽さ、どれだけの値段だったかと思うと素直に受け取るには大きすぎる贈り物だった。
けれどそれを考えたくない程に剣に見入ってしまう。
やり過ぎだといつものように突き返せない。私の心は完全に剣に奪われていた。
「……本当に、良いのか?」
尋ねながらも拒否の言葉は聞きたくなかった。いつだって私の思う通りにしてくれるカシュパルは、今回も望みを叶えてくれる。
「勿論」
「ありがとう!」
なんて素晴らしい。最高の贈り物だった。刀身を鞘に納めて思わず子供の様に抱きしめれば、視線がある事に気がつく。
カシュパルはまるで春の木漏れ日の様に、優しく私を見守っていた。自分だけの宝物を見る様な感情溢れる表情をして。
ふと、隠された素顔を見ようと悪戦苦闘していたカシュパルの全てが、そこに存在している事に気がついた。
形のいい唇が開く。これ以上は堪えきれないというように、彼はずっと私が知りたかった事を教えてくれた。
「愛してる」
思わず息を呑んだ。
この子が、私を?
あの時は言いたくないと拒否したのに!
呆然として抱えていた剣を落とす前にテーブルに慌てて置いた。穏やかに笑うカシュパルの頭に両手を添える。
もどかしくて。信じられなくて。焦ったように私は彼に聞いた。
「もう一度言って」
「……愛してるよ、セレナ」
視線が交わる。全てを受け入れる様なその顔に疑う余地はなかった。
カシュパルは自分自身を捧げるように、私の手の上に自分の手を重ねる。それは殺される子羊よりもいたいけな存在だった。
カシュパルの今までの行動に裏付けがされていく。
何もかも叶えられる自分の命令。冷たく怒ったのも、部下のような友人を隠すのも、密かに隣人を住まわせたのも。
私を愛しているから。
誰かを思う、最上級の感情。
カシュパルという存在の全てが私の掌中にあった。私は彼を完璧に育て上げた!
私は、……私は。
……とうとうやり遂げたんだ。
「セレナ?」
熱い水滴が頬を伝う感触がした。次から次へと零れ落ちて止まらず、視界を歪ませる。
けれどそんな自分に構っている暇はなかった。
「もう一度」
「愛してる」
要求される度に叶えられる要望。私は泣きながら笑った。
こんなにも心の底から笑った事は今までなかった。暗闇が朝日に照らされて、世界が一気に覚醒するかのようだった。
もうアリストラ国は滅びない。ルドルフとテオも死なない。エイダ先生は泣かない。王都が焼かれない。大神官が悲愴な覚悟を決めなくても済む。
……そして私が、カシュパルを殺す事もない。
彼に捧げた年月、無駄にはならなかった。世界は変わった。だって彼は私を愛しているのだから!
達成感が私を満たす。運命を変えた事実が高揚させ、今ならば空さえも飛べるような気がした。
「……もう一度」
「愛してる。貴女を」
命じられるままに繰り返す彼は、囚われたようにその紫の目を私から離さない。陶酔したように。
私は頭に触れていた手を漸く放した。それでもカシュパルが動く事はなかった。
ああ、本当に。
感情的になるあまり腰が抜けた。それでも気分は良かった。カシュパルが座り込んだ私に合わせて腰を屈めたから、腕を回して大きなぬいぐるみのように自分に寄せる。
「私の可愛いカシュパル」
そう言った瞬間、少しだけ腕の中のカシュパルが身動ぎした気がした。けれどそれがどんな意味でももう構わなかった。
この目で見た、炎と黒煙のけぶる地獄の光景に何度悩まされた事だろう。何も知らず眠る幼いカシュパルの寝顔を見ながら、彼を生かした意味を自らに問い続けた。
この命、本当にそこまでの価値があるだろうかと。
しかしカシュパルは可愛くて。可哀想で。……愛おしかった。
「ふふ」
何も知らず慕って私の後をついて回るカシュパルに、幾度罪悪感を覚えただろう。
共に過ごした時間は煌めいて、殺す筈だったこの子を私の特別にしてしまった。
もう、お前を殺さなくてもいいんだ。
カシュパルは私の顔を覗き込んだ。大きく開かれた宝石のような目、引き結ばれた唇はまるで何かを耐えるかの様。
「私も愛しているよ」
私が告げる言葉の意味は、彼のものとは違うのかもしれない。しかしそれを追求する気はなかった。
大切なのは彼の特別に人間である私が成れた事だ。
二人で過ごした時間は幸せでいつまでも続けばいいとも思うけれど、それでも時の止まった私は去らなくては。
忘れてはならないやるべき事もあった。
王族殺しのヴィルヘルムス。彼の運命も変えられるだろう。カシュパルの運命を変える事が出来たのだから。
義務で押さえつけようとしても、湧き出てくる寂寥感を止める事は出来なかった。
孤児院を離れる時も、過去に遡る時も孤独だったが、カシュパルとの別れがそれ以上に辛いのはそれ程に彼を愛してしまったからに違いない。
「……寂しいなぁ」
これは彼に語り掛けたものではなく、ただの独白だった。
酔いが眠気を連れてくる。感情の起伏に疲れてしまった体は抗う術を持たない。
瞼を閉じると同時に、私は夢の中へと落ちて行った。
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