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第二十六話 さよならの準備
しおりを挟む蒼鳥亭にはいつも通りの常連が昼間から集っていた。ヘルベルトも当然のようにいたので、彼の隣に腰を下ろす。
「おお、セレナか。今度ヒュドラの狩りに行かねえか。体を動かすには丁度いい相手だろ」
「悪いけど、私は行かない」
「何か用事でもあるのか?」
「アリストラ国に戻ろうと思って」
湿っぽい雰囲気は嫌いだから、なるべく普通に聞こえるように言ったが大して効果はなかった。
「……は?」
言った瞬間、ヘルベルトの時間が止まる。目を大きく見開く彼を見て、どれだけ私が彼に馴染んだかを実感した。
「聞いてねぇぞ」
ヘルベルトは責めるような口調で、眉間に皺を寄せた。
「今初めて言った」
「あっちの国に何か用事でもあるのか?」
「そんな所だ。カシュパルも、もう私がいなくても十分やっていけるだろうから」
「どうだろうな。もうアイツには言ったのか」
「ああ」
信じられない表情で疑うように彼は片眉を上げる。そしてこんな話には酒が必要だと思ったようで、酒を追加で注文した。
「セレナ。お前の事は十分仲間達も認めてる。人間だが、もう文句をいう奴はいねぇ。此処にいればいいだろ」
「ヘルベルトのお陰だ。岳牙は随分居心地が良かったよ。危険な目にもあったけれど、こうして生きているし。ヘルベルトがリーダーでなければ今頃腕の一本ぐらいは欠けていた」
「よせって。なら、此処が嫌で行くんじゃねぇのか」
「当たり前だ」
言った言葉に嘘はない。彼が助けてくれなかったら今の自分はいないだろう。
報奨金を分ける時だって、不満そうな仲間を抑えてきっちりと公平に渡してくれた。お陰でどうにか二人分の生活費を得る事が出来た。
厄介な人間の女だからと、囮や捨て駒にされる事もなかった。馬鹿にされれば仲間だと正面から庇ってくれた。
彼の事を本当の友人として大事に思うようになるまで、そう時間はかからなかった。
段々と私の別れをしっかりと認識してきたようで、ヘルベルトの顔に明らかな寂しさが浮かぶ。惜しんでくれるのを嬉しく思った。
「此処に腰を落ち着けるのかと思ってたよ」
「すまない。……どうしても行かないとならなくて」
「理由は?」
「言えない。事情があるんだ」
彼は大きく溜息を吐いて杯を大きく煽った。次いで荒々しく串に刺さった肉を齧り切り、食べながら口を開いた。
「考えてみれば、変わった女だよなぁ。血縁とはいえ、自分の子供でもない竜人と人間の混血児を育てる為に態々国を跨いで来たんだから」
「どうしても真っすぐに育つようにしてやりたかったんだ。アリストラ国では無理だった」
「それだけ大切にしているのに、カシュパルを連れて行かないんだな」
「ああ。一緒には行けない。悪いけど、後を頼む」
「……荒れるぞ。アイツ」
「だろうな」
面倒を押し付けてしまうのを承知で言った。ヘルベルトは善人だから断れず、未来の自分の苦労を思って渋い顔をする。
「結婚でもして、普通の女として生きていく道もあるだろ」
その声色に本気が滲んでいるのに気がつかず、私はあっさりと首を横に振って却下した。
「ないんだ。私にしか出来ない事で、それを捨てられもしないから」
結婚相手がいないとか、そういう話以前の問題だった。
「ああそうかい」
ぶっきらぼうにそう言って、ヘルベルトは眉間に皺を深くした。それから諦めたような溜息を吐いて、私に酒を奢ってくれる。
「あっちとこっちが、もっと近くなればいいのにな。俺が時々そっちの国で狩りをしてさぁ。気が向いたらお前にも会いに行ったりして」
「そうだな」
「人間も獣人も大して中身は変わらねぇって思えたのはお前のお陰だよ」
そう言ってヘルベルトは柔らかく笑った。優しい彼との別れを惜しみながら暫く会話を楽しむ。
直ぐに発つ訳ではないけれど、いつ仕事で町を離れるか分からないヘルベルトとはこれが最後になってもおかしくなかった。
蒼鳥亭の騒がしさに時間を忘れ、互いに満足するぐらい飲んだ所で席を立つ。
「じゃあ、世話になったよ。ヘルベルト」
「……俺の方こそ」
もう二度と会えないとしても、岳牙で過ごした経験は私の大事な宝物だった。この国に来る前、獣人を憎みさえした過去が今は遠い。
それらは全て私を支えてくれた友人達のお陰だった。
「また、いつか」
「ああ。あんまり無茶するんじゃねぇぞ」
敢えてさよならは言わずに店を出た。私が去った後で失恋を知った周囲の人からヘルベルトが酒を浴びる程奢られる事になるなど、知る由もなく。
アンスガーからフォンまでは何度も行き来した道だった。人の往来も多く、安全な街道をいつものように歩いた。
けれどずっと後を付けてくる気配に気がつき、思わず笑みが零れてしまう。灰色の尖った耳が遠くの草陰から見えた。
彼は優秀な魔物の追跡者だけれど、今回は本気の尾行ではないようだ。そして私だって隠れた魔物をずっと探してきた人間である。
「リボル、出ておいで」
名前を呼ばれて見慣れた狼獣人が姿を現す。ばつの悪そうな顔をしていたが、彼が私の後を付けていた理由は分かっているので責める気はなかった。
「カシュパルだろ」
「……うん」
彼の考えそうな事である。私が勝手に出て行ってしまうのを恐れて、嗅覚の良いリボルに私を尾行させたのだろう。
けれど別れる時は時渡りの腕輪を使って時間を超えるから無駄な抵抗でしかなかった。
諦めて私の隣に並んだリボルは、出会ってから今までカシュパルの良い友人の一人だ。そして同時に、私の友人でもあった。
「ありがとう。ずっと言わないでいてくれて」
私がカシュパルと赤の他人である事を、リボルは決してカシュパルに告げなかった。その実績が彼を信頼させる。
「別に大したことじゃない。それよりも本当にアリストラ国に行くのか?」
「ああ。寂しいけれど」
狼の耳をぺたりと伏せて、落ち込んでくれるのが嬉しかった。此処で過ごす間に随分沢山の人と縁を結んだのだと、離れる事になって気付かされる。
私は普段から自分の首に下げている四つの翼を持つ鳥のチャームを外し、リボルに手渡した。
「これを私が去った後、カシュパルに渡してくれないか?」
売っても買い手がつかないような品だが、私にとっては何より大事な物だった。
孤児院を出る際にエイダ先生から貰ったこのチャームは、どんな時でも私の傍に寄り添ってくれた。これからはカシュパルの傍で彼に幸運を齎してくれるだろう。
私からそれを受け取ったリボルは、暫くじっと手の中のそれを眺めた後に顔を上げて言った。
「もう戻って来ないつもりなんだろ」
リボルに嘘を吐く必要はなかった。彼は言わないでと頼めば聞いてくれる人だから。
「ああ」
「……少し恨むよ。セレナさん」
やはり皆、カシュパルがどうなるのか察してしまうらしい。
「面倒をかけてすまない」
「そう思うなら残ってくれ」
無理な願いをされて苦笑すれば、リボルは諦めて首を横に振った。
「カシュパルは気がついた瞬間、直ぐに後を追うと思うけど」
「痕跡は残さないように努めよう。……あの子も最後は諦めるさ」
まるで私が何も理解していなかのような目を向けられてしまうが、この地でカシュパルが手にした物の多さを考えれば不要な心配だ。
紅盾の仲間だって必死に彼を引き留めようとするに違いない。私の後を暫く追ったとしても、彼の帰る場所はそこにある。
彼と家路を共にしながら、いよいよ自分がやらなければならない事が何もなくなってしまった事に気がつく。
思ったよりも穏やかな別れが出来そうで、私は寂しさを感じながらも残り僅かとなったこの国での滞在を噛み締めるのだった。
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