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第三十五話 彼女のいない時間
しおりを挟む竜人としての教育を受けた二年の間、カシュパルには惜しみない賞賛の言葉が雨の様に浴びせられた。
田舎という不利な場所で押し込められていた才能が、環境を整えられた事で華々しく開花する。
カシュパルは自分の能力が狭い地域の中だけで通用する程度ではなく、この国の中心地であっても比肩する者のいない事を自覚した。
書物を開けば一度で暗記し、魔術を語らせれば新しい発見と見識に満ち、争い事の仲裁を求められれば見事に和解させ、手合わせに至っては好戦的な獣人達が視線を逸らして逃げる程である。
当然カシュパルの周りには人が集まったが、その内の誰一人として心の線の内側に入れられた者はいなかった。
どんな賞賛の言葉もセレナ以外からであればただの雑言と変わらない。
聞き飽きた言葉にうんざりする内心を隠しながら、愚直に消えた女性を思い続けた。
一体セレナは何者なのだろうか。
首都という環境で情報量は圧倒的に増えた。カシュパルはセレナの正体を見つけ出そうと図書館に通いつめ、少しでも手がかりがないか探したが上手くはいかなかった。
突飛な発想では会った時から変わらないようにさえ見えた若い外見から、過去にユピテルの霊薬を盗んだ者を調べたがそれらしい者はいなかった。
念の為正当な所有者をかなり遡ってみもしたが、無駄な時間を使っただけに終わる。
カシュパルが有鱗守護団に行くのを嫌がっていたので、そこから彼女に繋がる何かがないか探してみたがめぼしい物はなかった。
発音の癖から地域を特定する方法も考えてみたものの、他国にいる身で出来る事は限られていた。
何処かにいる筈の彼女を思い、密かに名前を呟く事だけがその時のカシュパルに許された全てだった。
やがて成人を迎え、漸くカシュパルは自由を手にした。もう何処へ行っても追われる事はない。
破格の条件を提示し、必死にカシュパルを繋ぎとめようとする有鱗守護団や官僚達の誘いは全て振り払った。
そのような者達ばかりに囲まれて、凡人としての幸福を追求させようとしたセレナの特殊性が改めて浮き彫りになる。
それがどれだけ甘い蜜だった事か。
セレナの事は恋しくなるばかりで、薄れる事も忘れる事も出来ない。
そうしてフォンの町へと戻ったカシュパルがまず出会ったのはオレクだった。
紅盾を突然一人で背負う事になった彼を心配していたが、思った以上に上手く回してくれていた事に安堵する。
これならば自分がいなくても大丈夫だろうと言ったら随分苦い顔をされたが、付き合いが長い分セレナを追おうとするカシュパルを理解していた為に止める事はしなかった。
次に会ったのはリボルだ。尻尾を千切れるほどに振り再会を喜んでくれた彼と公園で久しぶりに話し……カシュパルの機嫌は急降下した。
彼は唯一、セレナが戻る気がない事を知っていたらしかった。
「何故、言わなかった」
ベンチに並んで座り、知ってしまった真実を責める。皆を震え上がらせる怒りの視線にも堪えた様子はなく、悪びれもせずにリボルは言った。
「あの人に頼まれて、俺が断れるかよ」
自分にも当てはまる一言だったので、カシュパルは彼に言う言葉を失った。
リボルの嗅覚を高く評価し、紅盾に誘わせたのはセレナだった。魔物狩人としては素人だった彼は入った当初さえ苦労していたが、直ぐに有能な追跡者として頭角を現した。
その恩人であるセレナをいくら友人だとしても裏切る筈がない。
「それで、どうするんだ?」
「探す」
「……あの人は、追って欲しいようには見えなかったけどな」
言われるまでもなく、そんな事は分かっていた。
けれどセレナと別れるのはカシュパルの了承を得た事ではない。だから同様にカシュパルがセレナを追う事も彼女の意思とは関係なくても構わないだろう。
狂暴さを宿した暗い笑いを浮かべるカシュパルを見て、リボルは寒気を覚える。
「何考えているのか知らないけど、セレナさんを泣かせる事だけは止めろよ」
「それは……セレナ次第だな」
リボルは嫌そうな顔をして、それでも大事に守り続けてきた預かり物を首から外すとカシュパルの前にぶら下げた。
「頼むから、これを渡した事を俺に後悔させるなよ」
忘れる筈もない。セレナがいつも身に着けていた四つの翼を持つ鳥のチャームである。
カシュパルは驚いて目を大きく開き、ガラス細工に触れるかの様に恐る恐るそっとそれを手に取った。
「これは……?」
「セレナさんから預かった。カシュパルに渡してくれってさ」
セレナが大事にしていた物は二つある。質素な腕輪と、もう一つはこのチャームだ。
他の者には無価値な、ありふれたこのチャームをくれた意味がカシュパルは正確に理解出来てしまう。
久しぶりに、あの人から優しく名前を呼ばれた気がした。
『カシュパル』
胸に込み上げる感情を抑え、ただ手にある大事な物を失くさないように仕舞う。
自分は確かに、愛されている。
その事だけがセレナの居ない寂寥としたカシュパルの心を支えてくれた。
「感謝する」
リボルと別れ、カシュパルはセレナから何か過去を聞いた者がいないか探し回った。
紅盾、岳牙、近隣住民。皆に声をかけたが収獲はなく、カシュパル以上に詳しい者もいなかった。
ヨナーシュ国での情報収集を諦めて出国しようとするカシュパルを、紅盾の者達は必死に思いとどまらせようとした。
勿論それで考えを変える事はなかったが、彼等の姿が二年前の自分の姿に重なって見え、当時のセレナの気持ちが少しだけ理解出来たような気がした。しかしそれでも許す気にはならなかった。
誰よりも憎らしく、誰よりも愛おしいのがセレナだ。カシュパルの心は複雑で、自分でさえも彼女に再会した時どのような反応をするか分からない程だった。
久しぶりに足を踏み入れたアリストラ国は相変わらず獣人に差別的で、いっそ懐かしくさえ思う。
ただ昔と決定的に違うのは、カシュパルはそんなものに潰されるような柔さなど最早失っていた事である。
外野の言葉など気にせずに魔物狩人として活動していれば、竜人の間でも一目置かれるカシュパルの強さに面と向かって文句を言うものは次第に消えていった。
結局のところ、人間と獣人の間に大した違いなどなかったのだ。
嫌悪は畏怖へと変わり、孤独は孤高へと変化する。
弱ければ仲間とさえ認識しない筈の者達が、半分は人間ではないかとまるで身内のように擦り寄るのは実に滑稽だった。
その内に尊敬や憧憬の眼差しを向ける者が現れ始め、彼等を付き従えながら自らの立場を固めていく。
カシュパルはそうやって手に入れた人脈を惜しみなく使い、セレナを探し出そうとした。
アリストラ国で魔物狩人をしている獣人との混血児がいる。
物珍しさから噂されるようになり、カシュパルの実力が知れ渡ると、魔物狩人であれば一度はその名声を聞くまでに広まった。
間違いなくセレナが魔物狩人として仕事をしていれば、カシュパルの名前を聞いたに違いなかった。
けれどいつまで待っても彼女が現れる気配はなく、また同時にカシュパルがセレナを見つける事も出来なかった。
時間経過と共に不安と焦燥は増して行く。生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。いくら待っても吉報が齎される事はない。
もう忘れろとどれだけの者に言われただろう。全てを投げ打つ必死な姿に哀れみさえ向けられた。
けれどカシュパルの思いは全くぶれもせず、寧ろ歳月の分だけ堆く重なっていく。
そして気がつけば、セレナと別れてから十年という歳月が経過していた。
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