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プロローグ
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「すみません、遅くなりました!」
青山は白い息を弾ませながら、厳重に張り巡らされたテープを潜り抜けた。邪魔なマスコミを掻き分けてきたせいで、ネクタイは情けなく曲がり、真新しいスーツもよれてしまっている。色濃い血の匂いが残る現場では、腕章を付けた警察関係者らが忙しなく動き回っていた。足元には鑑識が敷いたブルーシートが広がり、番号札や薬莢、刃物等が点々と並んでいる。青山は手袋を深くはめ込むと、庭先で手帳をめくる壮年の男──須東へと駆け寄った。須東は切れ長の瞳で青山を一瞥し、ぱたりと静かに手帳を閉じる。
「おせぇぞ、コラ」
「すみません!」
青山は言い訳するでもなく、短い叱責にまっすぐ背筋を伸ばす。青山が交番勤務から念願の刑事課に移動してきたのは、今から一年ほど前のことだ。事件と向き合うのはこれが初めてではないが、現場の緊張感にはいまだ慣れそうにない。
「ええと、状況はどうなんです?」
「見ての通り死体の山だ。芙蓉会幹部の主要メンバーがほぼ全滅ってとこだな」
須東が近くの鑑識員に声をかけ、立ち入りの許可を取りつける。須東は元々、警視庁本部の組織犯罪対策課──いわゆる『暴対』に籍を置いていたベテランの刑事だ。暴力団絡みの事件と聞いて身構えていた青山だが、須東の慣れた態度を見ると、頼もしさと同時に少しの畏怖も感じてしまう。ともかくは足を引っ張らないようにしなければならないと、意気込むように自分の頬を軽く叩いた。
須東と共に血痕の残る広縁から上がり込み、障子の倒れた一室へと足を踏み入れる。畳の上には苦悶の表情を浮かべる遺体がいくつも転がっていた。障子や柱には激しい交戦の傷痕が残り、血が広範囲に飛び散っている。青山は思わず小さく息を呑んだあと、遺体に向かってそっと手を合わせた。
「犠牲になったのは……?」
「芙蓉会の連中がざっと十人ってとこだな。会長のほか、幹部六人、幹部補佐一人、下っ端二人。ちなみに店の従業員は全員無傷だ」
須東の返答を聞きながら、青山は現場を見渡した。ここは閑静な住宅街に佇む老舗料亭だが、その温もりある姿は今や見る影もない。破れた障子はおびただしい量の血しぶきで染め上げられ、歴史を感じる広い廊下の向こうには、まだ乾ききらない赤黒い跡が続いていた。
今回殺害されたのは、江東区に本部を置く指定暴力団・関東芙蓉会の主力メンバーだ。昨晩九時ごろ、料亭・菊花にて幹部らの宴会が行われていたところ、何者かによる襲撃を受けた。その日現場には芙蓉会を担う中心人物のほぼ全員が参加しており、芙蓉会は一夜にして組の支柱を失ったことになる。その衝撃のニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り、今や店の前にはスクープを狙うマスコミが一挙に押し寄せひしめき合っていた。
「カチコミでしょうか? たしか最近、神楽会との対立が深まってましたよね」
「だとしたら神楽会側の死体が上がってねぇのはおかしいだろ」
「あっ、たしかに……」
現場に残された遺体はどれも芙蓉会メンバーのもので、外部の人間と思われるものは見つかっていない。派手に争っている以上、犯人の痕跡が残されていてもおかしくないが、現状ではそれすら出ていなかった。唯一の手がかりは現場にいた従業員の証言だが、彼らも犯人の姿は見ていないという。
「この離れでやくざの宴会がある時は、酒や料理は渡り廊下に置いて鈴を鳴らし、それを下っ端が取りに行くって決まりだ。最後の酒が運ばれたのは午後九時十五分頃。そこではまだ宴会の騒がしさを従業員が聞き届けてる。次に従業員がコースの料理を運んできたのは九時三十分頃。そんときゃもう渡り廊下にまで血だまりが広がっていて、ここにいた全員お陀仏だった」
「少なくとも十五分のうちに犯人はこの人数を殺害したわけですね。もしかしたらもっと早いかもしれない……となると複数犯でしょうか?」
「いや、単独犯だな。殺し方がみんな一緒だ」
須東はそう言うと、転がる遺体を顎でしゃくる。
「よく見てみろ。ぜんぶ見事にヘッドショット一発だ」
「えっ……」
にわかには信じがたいような事実を告げられ、青山はしばし言葉を失う。たとえ訓練を積んだ軍人であっても、これだけの人数との乱戦の中、一発も外すことなく頭だけを撃ち抜くことは不可能だ。それどころか、遺体には犯人と接触した痕跡さえもないとのことだった。普通であれば犯人の返り血であったり掴んだ髪であったり、何かしら残されていてもおかしくないはずだ。
「不気味ですね……」
青山がついそう洩らした途端、頭上を夥しい数のカラスが飛び立っていった。青空を一瞬だけ黒い影が覆い隠し、やがて散り散りになって消えていく。死体を狙って待ち構えていたが、一向にチャンスが来ず諦めたのだろう。青山が飛び立つカラスを唖然と見送っていると、須東が静かに声をかけた。
「青山、お前、『カラス』って知ってるか」
「え? そりゃ、まあ……今飛んでいきましたけど……」
「そのカラスじゃねえよ」
須東はしゃがみ込み、青山によく見るよう声をかける。言われた通り遺体を見つめる青山の隣で、須東は懐からボールペンを取り出し、遺体の眉間をそっと指した。
「撃ち抜かれた角度がみんな同じだ。ほら見ろ、全部真正面から一直線。射角のズレが一つもねぇ。銃口の高さもほぼ一定だ。動いてる相手をこれだけ正確に仕留められるやつなんざそうそういねぇよ」
息を呑む青山の前で、須東がゆっくりと立ち上がる。須東はポケットから煙草を取り出すと、火は点けないまま指で転がした。まるで考えをまとめるように、くるり、くるりと細長い筒を弄ぶ。そんな須東の冷めた視線が、現場全体を俯瞰するように走った。
「こいつは、プロの仕事だ」
短く告げられた須東の一言に、青山は知らずのうち生唾を呑み込んでいた。
青山は白い息を弾ませながら、厳重に張り巡らされたテープを潜り抜けた。邪魔なマスコミを掻き分けてきたせいで、ネクタイは情けなく曲がり、真新しいスーツもよれてしまっている。色濃い血の匂いが残る現場では、腕章を付けた警察関係者らが忙しなく動き回っていた。足元には鑑識が敷いたブルーシートが広がり、番号札や薬莢、刃物等が点々と並んでいる。青山は手袋を深くはめ込むと、庭先で手帳をめくる壮年の男──須東へと駆け寄った。須東は切れ長の瞳で青山を一瞥し、ぱたりと静かに手帳を閉じる。
「おせぇぞ、コラ」
「すみません!」
青山は言い訳するでもなく、短い叱責にまっすぐ背筋を伸ばす。青山が交番勤務から念願の刑事課に移動してきたのは、今から一年ほど前のことだ。事件と向き合うのはこれが初めてではないが、現場の緊張感にはいまだ慣れそうにない。
「ええと、状況はどうなんです?」
「見ての通り死体の山だ。芙蓉会幹部の主要メンバーがほぼ全滅ってとこだな」
須東が近くの鑑識員に声をかけ、立ち入りの許可を取りつける。須東は元々、警視庁本部の組織犯罪対策課──いわゆる『暴対』に籍を置いていたベテランの刑事だ。暴力団絡みの事件と聞いて身構えていた青山だが、須東の慣れた態度を見ると、頼もしさと同時に少しの畏怖も感じてしまう。ともかくは足を引っ張らないようにしなければならないと、意気込むように自分の頬を軽く叩いた。
須東と共に血痕の残る広縁から上がり込み、障子の倒れた一室へと足を踏み入れる。畳の上には苦悶の表情を浮かべる遺体がいくつも転がっていた。障子や柱には激しい交戦の傷痕が残り、血が広範囲に飛び散っている。青山は思わず小さく息を呑んだあと、遺体に向かってそっと手を合わせた。
「犠牲になったのは……?」
「芙蓉会の連中がざっと十人ってとこだな。会長のほか、幹部六人、幹部補佐一人、下っ端二人。ちなみに店の従業員は全員無傷だ」
須東の返答を聞きながら、青山は現場を見渡した。ここは閑静な住宅街に佇む老舗料亭だが、その温もりある姿は今や見る影もない。破れた障子はおびただしい量の血しぶきで染め上げられ、歴史を感じる広い廊下の向こうには、まだ乾ききらない赤黒い跡が続いていた。
今回殺害されたのは、江東区に本部を置く指定暴力団・関東芙蓉会の主力メンバーだ。昨晩九時ごろ、料亭・菊花にて幹部らの宴会が行われていたところ、何者かによる襲撃を受けた。その日現場には芙蓉会を担う中心人物のほぼ全員が参加しており、芙蓉会は一夜にして組の支柱を失ったことになる。その衝撃のニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り、今や店の前にはスクープを狙うマスコミが一挙に押し寄せひしめき合っていた。
「カチコミでしょうか? たしか最近、神楽会との対立が深まってましたよね」
「だとしたら神楽会側の死体が上がってねぇのはおかしいだろ」
「あっ、たしかに……」
現場に残された遺体はどれも芙蓉会メンバーのもので、外部の人間と思われるものは見つかっていない。派手に争っている以上、犯人の痕跡が残されていてもおかしくないが、現状ではそれすら出ていなかった。唯一の手がかりは現場にいた従業員の証言だが、彼らも犯人の姿は見ていないという。
「この離れでやくざの宴会がある時は、酒や料理は渡り廊下に置いて鈴を鳴らし、それを下っ端が取りに行くって決まりだ。最後の酒が運ばれたのは午後九時十五分頃。そこではまだ宴会の騒がしさを従業員が聞き届けてる。次に従業員がコースの料理を運んできたのは九時三十分頃。そんときゃもう渡り廊下にまで血だまりが広がっていて、ここにいた全員お陀仏だった」
「少なくとも十五分のうちに犯人はこの人数を殺害したわけですね。もしかしたらもっと早いかもしれない……となると複数犯でしょうか?」
「いや、単独犯だな。殺し方がみんな一緒だ」
須東はそう言うと、転がる遺体を顎でしゃくる。
「よく見てみろ。ぜんぶ見事にヘッドショット一発だ」
「えっ……」
にわかには信じがたいような事実を告げられ、青山はしばし言葉を失う。たとえ訓練を積んだ軍人であっても、これだけの人数との乱戦の中、一発も外すことなく頭だけを撃ち抜くことは不可能だ。それどころか、遺体には犯人と接触した痕跡さえもないとのことだった。普通であれば犯人の返り血であったり掴んだ髪であったり、何かしら残されていてもおかしくないはずだ。
「不気味ですね……」
青山がついそう洩らした途端、頭上を夥しい数のカラスが飛び立っていった。青空を一瞬だけ黒い影が覆い隠し、やがて散り散りになって消えていく。死体を狙って待ち構えていたが、一向にチャンスが来ず諦めたのだろう。青山が飛び立つカラスを唖然と見送っていると、須東が静かに声をかけた。
「青山、お前、『カラス』って知ってるか」
「え? そりゃ、まあ……今飛んでいきましたけど……」
「そのカラスじゃねえよ」
須東はしゃがみ込み、青山によく見るよう声をかける。言われた通り遺体を見つめる青山の隣で、須東は懐からボールペンを取り出し、遺体の眉間をそっと指した。
「撃ち抜かれた角度がみんな同じだ。ほら見ろ、全部真正面から一直線。射角のズレが一つもねぇ。銃口の高さもほぼ一定だ。動いてる相手をこれだけ正確に仕留められるやつなんざそうそういねぇよ」
息を呑む青山の前で、須東がゆっくりと立ち上がる。須東はポケットから煙草を取り出すと、火は点けないまま指で転がした。まるで考えをまとめるように、くるり、くるりと細長い筒を弄ぶ。そんな須東の冷めた視線が、現場全体を俯瞰するように走った。
「こいつは、プロの仕事だ」
短く告げられた須東の一言に、青山は知らずのうち生唾を呑み込んでいた。
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