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第5章
狐
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「お前たちは、飛蝶の何だ?」
老人は二人に尋ねた。
「――俺たちは、彼女の“手下”だ」
黒豹は雪豹が答えるのをただ黙って見守っていた。
「彼女は女狐と名乗って、義賊団を率いていた。俺たちはその一員」
「義賊団か、それは良い!」
老人は手を叩いて笑った。
「あの小娘らしい」
女狐の親分を“小娘”呼ばわりするとは――この老人こそ間違いなく北の狼だ。
「で、飛蝶は今、どうしている?」
「親分は、寿命が来たと言って天山の山中に隠居した。つい先月のことだ」
「では、今は――」
「生死は解らない。ただ、長くはもう……」
「そうか」
老人はトン、と杖をつくと天を仰いだ。
「結局、二十年は保たなかったのか――儚いことだ」
「別れ際、あなたに伝えて欲しいことがあると」
「何だ」
「――ありがとう、と」
老人は、少しの間黙って二人の顔を見ていた。それからまた、トンと杖をついた。
「成る程。あの小娘らしい生き様を全うしたのか」
老人は静かにそう言った。
それからまた少し間を置いて、老人は二人を見た。
「飛蝶がお前たちを選んだのには、それなりに理由があるようだな。では彼女から預かっている物は、お前たちに返すとしよう。来るが良い」
そう言って老人は、二人を神殿の中に招き入れようとした。
「ちょっと待て」
黒豹は神殿へ入ろうとする雪豹を止めた。
「アイツら、まだ追いついてないぞ」
「……あ、そうだ」
「俺はどうせ、小難しい話されても解りゃしない。ここでアイツらを待ってる」
「――もう、ここには誰も来ないぞ」
老人は二人の会話に口を挟んだ。
「ここはアセナの神殿。選ばれた者しか訪れることはできない。お前たちは飛蝶に選ばれたからここにいる。それ以外の者は足を踏み入れることはできない」
「何だと?」
その言葉に、黒豹の顔色が変わった。
「じじい、アイツらはどこへ行った?」
「来るべきでない者は、ここではない所へ飛ばされる」
黒豹は雪豹の顔を見た。
「雪、アイツらの所へ行ってくる」
黒豹は環首刀を手に取りいつでも抜けるように持ち直した。
「お前が何か隠している以上、どんな話も意味解らん。戻ったらきっちり説明しろよな。隠してることも含めて全部」
雪豹は黒豹の目を見ると、黙って頷いた。
「おい、じじい」
黒豹は老人に向かって言った。
「俺は選ばれるの止めた。だから、アイツら所へ連れてけ」
「わしにはできないな」
「――なっ」
「狼は狐と違う。妖力はたいしたことない。ここで起こっていることはすべて金山の君の力だ」
それから老人は彼らが来た方を指し示した。
「本来、ここへ招かれた者は、神殿に入ってから外へ行く。もしかすると逆に道を進めば、行けるかもしれぬな」
「解った。ここでじっとしていても埒があかない。行くだけ行ってみる」
そう言うと、彼は今来た道へ迷わず走り出した。
「……面白い奴だな」
老人の言葉に雪豹は苦笑いを浮かべた。
「では、こちらに来るが良い。――ようこそ、アセナの神殿へ」
雪豹は老人の後に続き、ゆっくりと神殿の中に入っていった。
赤い実を一つ二つと摘むと、それを胡仂の掌にのせて少女は食べてみるように促した。
「ありがとう」
胡仂は礼を言うと、実桜の一種とおぼしきその実を口に入れた。口の中に甘酸っぱい果汁が広がった。
高いところになっている実を、胡仂が手を伸ばして取ると、少女は嬉しそうに笑った。
「おーい」
向こうから紅雨が戻ってくるのが見えたので、彼は大きく手を振って合図をした。紅雨の周りにはルーやフーを始め何人かの子供達の姿があった。
「どうだった?」
胡仂の問いに紅雨は首を振った。
「昨日と変化はなかった。どっちもね。それより」
紅雨は子供達を指し示してため息をついた。
「こいつらに荒らされないようにするのが大変で……」
「モテモテだね」
胡仂も紅雨にべったりの子供達を見て苦笑した。
「黒い髪で黒い目の二本足が珍しいんだろうけど、参った。こいつら半分馬だけあって力もあるし速いし。逃げるの大変だぞ」
紅雨の言葉に胡仂は思わず吹き出した。
「笑い事じゃないぞ。お前も気づいてただろ?」
「え? 何を」
「ここ、恐らく軽く二、三倍は日が経つのが早い。いや、俺の感覚だともっと早い気もする」
「そうだね、ぼくも徹夜明けの昼間って感じがしない」
「早く動かないと、また日が暮れる」
「困ったね。早く兄さんに会いたいのに……」
胡仂は、困った顔でこちらを見ているショー達に気づいた。先ほど胡仂に赤い実を上げた女の子も、紅雨の周りにいる子供達に彼から離れて実を取るように叱っているようだった。この赤い実は彼らの貴重な食料であり、実を集めることは子供達に任された大事な仕事の一つなのだ。
「ああ、でも年長の子たちは“来る者は拒まず、去る者は追わず”の流儀をわきまえてるみたい。あの子達に手伝ってもらうか」
「どうやって?」
二人でここを離れる算段を話していると、実桜の木の方から悲鳴が聞こえた。
実桜の木はそんなに高くはないのだが、その後ろに丘があり杉に似た針葉樹が生えていた。その針葉樹の影から一つ目の巨人が顔を出していた。
巨人は大きな手を伸ばすと、木から少し離れた子をむんずと掴んだ。
「危ない!」
紅雨は剣を抜いて巨人の指に斬りかかり、辛くもその子を救い出した。
巨人は斬られた指を押さえ、驚いたように紅雨を見た。それから、口を開くと大きな叫び声を上げた。
「胡仂! 子供達を集めて安全なところへ」
紅雨は巨人から目をそらさずに叫んだ。今、目をそらしたら相手が動く。
「了解!」
胡仂は落ち着いてショーと協力して子供達を集めた。
「胡仂、俺の弓持って行け」
「何で? ぼく使えないよ!?」
「いいから! ないよりましだろ。みんなが逃げ切れるまで俺がコイツ抑えてられるか、保証できないから」
「……解った」
「とりあえず、使い方だけ見ておけ」
紅雨は矢をつがえると、巨人に向かって放った。矢は何とか巨人の肩に刺さった。
巨人は不思議そうに肩に刺さった矢を見た。
「今のうちに、早く行け」
紅雨はそう言って胡仂に弓矢を押しつけた。
「さっさとここから離れてくれよ。俺、兄貴と違ってそんなに時間稼げないから」
胡仂は頷くと、ショーの背に乗って子供達を宥めながら走り出した。
巨人は反射的に動く方へと手を伸ばした。紅雨はすかさずその掌に向かって斬り付けた。
怒った巨人は反対の手で紅雨を掴もうとした。紅雨はギリギリのところで身をかがめて躱すと、巨人はすぐ側にあった実桜を間違ってもぎ取って口に入れた。
口に入れて初めて、それが肉ではないことに気づいた巨人は、木の幹をペッと吐き出した。
(やっぱり、目的は喰らうことか)
巨人は、もう一度紅雨に手を伸ばした。紅雨は指の一本か二本を切り落としてやろうと剣を構え直した。
その時、ヒュッという音とともに矢が放たれ、巨人の顔に突き刺さった。巨人は驚き、顔を手で覆って大声を出した。
「胡仂!?」
紅雨は慌てて振り返った。
「……ルー!!」
矢を放ったのはルーだった。ルーは、もう一本狙いを定めて矢を引き絞った。
ルーの放った矢は、また巨人の顔に命中した。
(すごい、筋が良い。俺より上手い)
「――って、感心してる場合じゃない! ルー!!」
さすがに二度目は巨人に効かなかったようだ。巨人はルーへ手を伸ばした。
紅雨は間一髪でルーを抱え込むと、針葉樹の幹に隠れた。
「チーナ」
ルーは紅雨の顔を見てニコニコ笑ったが、彼が怒っていることに気づいてすぐに表情を曇らせた。
胡仂達は大分先に行っているが、少し離れた所でフーが困ったように立ち止まっていた。このままでは、ルーどころかフーも狙われる。
「ルー、何で戻ってきた!?」
紅雨の怒声に、ルーは涙目になって弓を握りしめ、顔を震わせた。その様子を見て、紅雨は大きく息をついて、気持ちを落ち着かせた。
それから、胸に掛けていた護符を外すと、ルーに渡した。それは、遠征軍に加わるときに師父からもらったものだった。
「ルー、これは俺の大事なもの」
一か八かで、似ていると思った阿耆尼の言葉で話しかけてみた。
「急いで胡仂に持って行って。頼む」
「コロク?」
「そう、急いで、今すぐ」
紅雨は微笑みながら、ルーの柔らかい髪をクシャクシャと撫でた。
ルーは、半べそをかきながら頷いた。
「ほら、フーが待ってるよ」
紅雨はルーの背中をポンと押した。それからフーに気がついてそちらに向かおうとしていた巨人の足へ向かって渾身の一撃を喰らわせた。
毛が一本もない上半身に比べて、毛が密集している下半身はやけに硬かった。
(ヤバイ、刃こぼれした)
幸いこの巨人、移動する時は長い両腕を支えにして四つ脚のように進むので、腕を狙えば歩みを止められる。
「あっちの方が美味しそうだとは思うけど」
走り去っていくルーとフーを確認しながら紅雨は言った。
「食べるのは、こっちを先にしてくれないかな」
もう一度紅雨は巨人の腕に向かって一撃を喰らわせた。
神殿の奥は、さらに明るい光に照らされていた。
「すごいな……」
雪豹はその荘厳な様に息を飲んだ。
「我が姉アセナに捧げられた祈りが集まり、このような光を放つのだよ」
ゆっくりと歩きながら老人は言った。
「姉――?」
「ああ、これが我が姉だ」
老人は祭壇を指し示した。そこには玻璃の棺があり、その中にはひとりの女性が静かに横たわっていた。
口元には笑みをたたえ、うっすらと開けられた瞳がこちらをじっと見ていた。
「これが突厥の始祖アセナ……生きているのか?」
「生きておらず、死んでもいない。始祖への祈りが途絶えぬ限り。ここでこうして己の血の行く末を見守り続けている。それが金山の君と交わした約束なのだ」
「さっきも言っていたけど、誰なんだ? その金山の君とは」
「女神と呼ぶ者もいるが、神々とも違う」
「どういうことだ?」
「さてな。狼はお前たちと違って賢くもない。ただ、知っていることはある。この世において、神々が力を得るには人々の祈りがいる。祈りがなければ力を失い、忘れ去られる。新たな神が生まれる一方で、太古より多くの神々が忘れ去られていった。
だが金山の君はそう言う神々とは違い、人々の祈りは必要ない。彼女は遙か昔よりここに在って、恐らくこの先もずっと在られる。そう言う方だ」
仙人のような者なのだろうかと雪豹は思った。
老人は祭壇の奥から、一本の巻物を取り出すと雪豹に渡した。
「これが飛蝶からの預かり物だ」
「――これは?」
雪豹は巻物をまじまじと見つめた。帯封がしてあり、その文字には見覚えがあった。
「飛蝶の妖狐としての力だ」
「何?」
老人は、祭壇前に敷いてある毛氈の上に腰を下ろすと、雪豹にもそこに座るように促した。
「若者よ。飛蝶の弔いに付き合って昔話を聞いてもらえぬか。それともお仲間が気になるかな」
「いや、大丈夫。アイツら、そんなにヤワじゃないし」
そう言って雪豹は老人の対面に座った。
「それより教えて欲しい。十七年前、親分に何があったんだ」
「ほう」
老人は笑った。
「もう十七年になるのか。あの小娘がここに来て」
それから老人は十七年前のことを語り出した。
「ここは、金山の君に選ばれた者が訪れ、突厥の秘密を得て去って行く場所。普段は訪れる者もなくひっそりとしている。わしは姉が寂しくないようにここにいるが、時たま外へ出て狩りなどをすることもあった。喰わねば生きていけぬからな。今から十七年前、その日も草原に出て獲物を探していた」
寒風吹く冬空の中、それは流星のように素早く天を横切っていった。
全部で五つ。先頭の一つを、後の四つが追っているようであった。
(ほう、珍しい)
狼は一目見てそれが何であるか解った。彼は獣型になると急いでそれを追った。
“五つの星”は空中で激しくぶつかると、その一つが狼の方へ勢いよく落ちてきた。それは必死に受け身を取ろうとしたが、うまく体勢を立て直せないまま地面に激突した。
狼は慌てて人型に戻ると、それを追って降りてきた四人の前に立ちはだかった。
四人は、唐兵の武将に似た姿をしており、黙って静かに狼の前に並んだ。
「――狐たちよ、わしらの領地であまり勝手なことをされては困るな」
先に口を開いたのは狼だった。足元には先ほど落ちてきた者が、うら若き男装の乙女となってうずくまっていた。豊かな黒い髪と切れ長の黒い瞳が印象的な娘だった。血の気のない白い肌に、血と汗と汚れがこびりついていた。
「わしには、お前たちのような妖力はないが、これでも金山の君に仕える身。君の名のもと、多少は遠慮してもらいたいな」
彼の言葉を聞いて、四人の男は慌てて彼に礼を取った。
「老狼よ、大変失礼つかまつった」
彼ら四人は、天狐と呼ばれる取り分け妖力の強い狐たちであった。その力で天界との行き来を許されたおり、故に天狐と呼ばれていた。
「しかし、小娘一人の相手に大の男四人とは感心しないな」
「いや、老狼よ、この娘はそうするだけの理由があるのです」
「この飛蝶は、妖狐の頭領たちに逆らい、挙げ句の果て彼らを弑するという暴挙に及んだのです」
「我々は天帝の命を受け、この娘を誅するために、この地まで追って参りました」
「この娘、このような大罪を犯さなければ、我々と同じように天狐となるほどの力を持っております。それゆえ、恥ずかしながら四人がかりで」
天狐達が口々に言うのを黙って聞いていた狼は、まじまじと娘の顔を見た。彼女はうつむき、諦めの色をその顔に浮かべていた。
「ふむ……この娘、見かけによらすなかなかのタマであるようだな」
狼はそう言うと、四人の天狐に向かって言った。
「だが、いくら罪人とは言え金山の君が統べる地で同族の血を流すのは感心できない。あの方は同族の血が流れるのを嫌うのでな」
「しかし……」
反論しようとした天狐を、狼は静かに制した。
「狐たちよ、我が君はこの小娘より力ないと思うておるのか?」
天狐達は、静かに語る狼の言葉に威厳と恐怖を感じた。
「まあ、お前たちにも事情はあるのも解る。だがここは引いてはくれぬか?」
狼の言葉に、飛蝶は驚いて顔を上げた。深く刻まれたしわの間から覗く瞳は、四人の天狐達をしっかりと見据えていた。
「この小娘が、金山の君の許を離れたらお前たちの好きにするが良い。それまでは、こちらの好きにさせてもらおう」
相手には妖力が無い。天狐達は力ずくで飛蝶を奪うこともできた。だが、有無を言わせぬ老狼の迫力に気圧されていた。
「――ここは金山の君の顔を立てておとなしく引くことにするが」
中原へ去り際、天狐達は飛蝶に告げた。
「我らがお前を待ち構えていることを忘れるな。この草原の地を出たら最後、貴様を八つ裂きにし、その血肉をお前が殺めた頭領達の妻子に届けてやるからな」
そう言い捨てると、天狐達は空へと消えていった。
「……まったく、東の狐達は血の気が多い」
老狼は彼らを見送りながら、呆れた様に言った。それから、飛蝶の方を見た。彼女は老狼の考えが読めず、剣を握りしめて身構えた。
「お前……飛蝶という名だったかな」
「ああ、そうだけど」
「そうか」
老狼は静かに笑った。
「では、飛蝶よ。お前は狩りができるか?」
「は!?」
老狼の言葉に、飛蝶は耳を疑った。
「いやな。食い物を手に入れようと老体に鞭打ってわざわざ穴倉から出てきたは良いものの、血気盛んな連中の相手に疲れてしまってな。かといって飢え死にするわけにもいかん。お前が変わりに何か獲ってきてくれないか」
飛蝶はただびっくりして何も言えなかった。
「おや、その顔。なんだ東の連中はわしら狼と違って、狩りのような野蛮なことはしないと」
嘲るような老狼の言葉に、飛蝶は我に返った。
「馬鹿にしないで。舐めてもらっちゃ困る。いいよ、おじいさん待ってて」
言うやいなや、飛蝶はぽんと大地を蹴り、跳ねるように草原へ飛び出していった。老狼は微笑ましげにその様を見守っていた。
少し行ったところで飛蝶はさっと身を翻した。そしてその手に地栗鼠を掴むと颯爽と舞い戻った。そしてその地栗鼠を老狼へ投げつけながら彼女は言った。
「これで足りるかい?」
「 ああ、わしは良いが、お前さんの分は?」
「必要ない」
そう言うと彼女は老狼の傍らに座ると、息を深く吸って目を瞑った。
「何をしている?」
彼女の様子を見て、不思議そうに老狼は訊いた。
「調息……こうやって息を整え、天と地を巡る気を体に取り入れてるの。こうすることで、誰かの精気を奪って生きなくても良くなる」
「……ほう」
老狼は地栗鼠の血で汚れた口を拭いながら言った。
「お前たち妖狐というのは、そんなすごい芸当ができるのか」
「いや、出来ないよ。私はコレができるから、あの天狐達とも互角に戦えるようになった」
飛蝶は調息を止めると、老狼の問いに答えた。
「私ら妖狐は、人の精気を吸って生きている。そのために妖術で人々を惑わし、場合によっちゃ、そのまま命を奪うこともある。だから、天帝に厭われ、生きていても死んでいても決して救われぬ存在。
私はそれがどうしても納得できなかった。それで天帝や人の長である帝に楯突いてみようとしたんだけど、ある道士に止められてね。
彼曰く、“理は変えられない。だけど変えられるものはある”ってね。それで教わったのがコレ」
飛蝶は寂しそうに笑った。
「だけど、命運尽きた今となってはもったいないことだったね」
「何故、命運尽きたと?」
「何故って? 分かるだろうに」
老狼の問いに、不思議そうに飛蝶に言った。
「天狐達の中でも、腕利きの四人に追われてるんだ。命運が尽きていないとどうして言える?」
「成る程。ではどうしてその天狐達に追われているのだ?」
「……ああ、そうだね。それなりの理由があるのさ」
飛蝶は自嘲の笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「そもそもの発端は、私が縁談を断ったこと。狼さん達と違って、私ら妖狐はいろいろ厄介な付き合いやら決めごとやら多くてね。
この間、ある頭目の嫁になれって上の連中に命令されたんだ。私もいい年だからね。でも、せっかく“力”を手に入れたのにどっかに収まるのももったいないじゃない。 だけど断ったら上の連中の面目丸つぶれだ、この先、妖狐として生きるのは難しくなる。だから中原――妖狐の世界を離れて漠北か西域に行くことに決めたんだ」
「縁談を断っただけで、天狐に命が狙われるのか? 妖狐というものは……」
「まさか! まだこの話には続きがあるんだよ」
飛蝶はせっかちな老狼を制して話を続けた。
「旅立とうとした時、ちょうど件(くだん)の道士も用があって山を降りてたところだったんだ。さすがの私も道観のある山に別れの挨拶しに行くほどの分別なしじゃないからね、これ幸いと会いに行ったの。
その道士は入山したての弟弟子と一緒に、南岳衡山にいらっしゃる紫虚元君という偉い仙女様にご用があったんだって。仙界と人界は繋がっているけど、そう簡単に行き来はできない。仙女様に呼ばれてあちらに行くというのは、修行中の道士ではまずあり得ない。だけど、あの二人はそれができるだけの、素晴らしい力を持っていた。
それを妖狐連中が目を付けたね。で、私はその連中を片っ端からやっつけただけ。まあ、その中に縁談のあった頭目もいたんだけど」
「そりゃ凄い」
老狼は大声で笑った。
「全部一人でやったのか?」
「その道士達に殺生の罪を着せるわけにはいかないでしょうに。それに、私が会いに行かなければ、彼らも狙われなかったしね。まあ、弟弟子の方は、元武将だけあってそれなりのいい腕していたけど、止めは私。おかげで、天狐たちの追われることになった」
「悔いはないのか?」
「もちろん。最後まで好きに生きさせてもらったからね。あとは、あの天狐達とどう戦って、最後を締めくくるかだよ。じいさんのおかげで、少し余裕が出来た。ありがとう」
そう言って立ち上がった飛蝶を、老狼は引き止めた。
「どこへ行く?」
「――ああ、安心して。じいさんのお仕えしている方に迷惑かからないような場所でやるから」
「いや、それは困る」
「え?」
「今、ここでお前さんを放したら、金山の君に怒られるのだよ」
老狼は飛蝶を神殿へ案内した。彼からアセナの話を聞いた飛蝶は、ふぅと息を漏らすと冷たい玻璃の棺に指を伸ばした。
「――確かに、血が繋がらないとはいえ親子だった間柄での婚姻は妖狐でも罪だわ。でも、こうやって命をかけて恋して、愛した人との子を産んだ。同じ女として、こんなに羨ましいことはない」
彼女の言葉に、老狼は苦笑いを浮かべた。
「わし以外の一族すべてから疎まれた恋だった。そんな風に羨ましいなんて言われたのは初めてだ」
「そうなの? つまらない一族だね」
「ああ、だから礼を言うよ。姉に代わって」
「礼なんて、必要ないでしょ。だって彼女はとても幸せそうだもの。生きてもなく、死んでもいないなんて、普通だったら恐ろしくて耐えられない。だけど彼女は笑っている。感じているんでしょう? 愛した人の裔がこの世界に広がっていることを」
不思議な娘だと、老狼は思った。そして懐かしくも感じた。ああ、そうだ、姉に似ているんだ……と彼は気づいた。
「――お前さんだっているのでは?」
「は!?」
「あの道士とは何もなかったのか?」
「道士? 紫陽先生!? ――ないない、あの先生とは絶対ない! 欲情の仕様がないよ、どう考えたって」
ゲラゲラ笑いながら答えた。
「……まだ、驪龍先生の方が欲情できるよ。あの人は何にも興味ないなんて顔しているから、その仮面引っぺがして、雄の部分を剥き出しにしてやりたいと思うけど……紫陽先生は無理! 絶対、無理」
笑いすぎて息が苦しくなった飛蝶は、大きく深呼吸をした。
「ああ、でも、もしかして、私が妖狐じゃなくて、あの人が道士じゃなかったら、あり得るのかな……?」
彼女は少し遠い目をして考えてから、また言った。
「やっぱり無理。そうだったら、お互い興味ないだろうし。来世だって、あの人は遠からず仙籍を得るだろうし、私は近く地獄に堕ちる。つまりこの先の縁も繋がってない。そう言うことだよ、じいさん」
「何が無理なんだか、わしには解らんよ」
全力で否定する飛蝶を、老狼は微笑ましく思った。そして一本の書状を彼女に渡した。「これは?」
「金山の君から、お前さんにと預かっていた物だ。近いうちに妖狐の娘が草原に現れるから、その時に渡せとね。何でも、南岳衡山にいる紫虚元君という方からだそうだ」
「……これ、紫陽先生の字だ」
飛蝶は目に涙を浮かべながら、それを読み出した。白い肌に、紅く血の気が上がっていくのが見えた。
「いつの間に……元君に掛け合ってくれたんだ。私のこと」
涙を堪えながら、飛蝶は呟いた。
「何? どうしたのだ?」
老狼の言葉で我に返った飛蝶は、涙を拭うと笑って言った。
「天帝へ嘆願してくれたらしい。私が妖狐の力を手放せば、罪は許してくれると」
(お前の罪を帳消しにするには、私と驪龍、二人の命を助けたぐらいでは足りなかったらしい。元君も残念がっていた)
紫陽からの手紙にはそう綴られていた。
(だが、まだ手はある。お前が「妖狐の飛蝶」でなくなれば、死罪は免れる。寿命は短くなり、妖術は使えなくなるが。だが、私が教えたことがあれば、きっと大丈夫だろう)
「そう、大丈夫。まだ、できることはある」
彼の言葉を何度も繰り返しながら、飛蝶は言った。
「じいさん、私、妖狐を辞める。せっかく遙か故郷を離れてここまで来たんだ。もう少し、宿命に抗ってみるよ」
「妖狐を辞めるとは……できるのか? そんなこと」
「ああ、やり方はここに書いてある」
書状を掲げて飛蝶は言った。
「彼女は籠もる部屋が必要だというので、用意すると身を清めて数日間そこに引きこもった。清めた際に姉の服を渡すと、喜んでいたよ。そして数日経ってその巻物を手に出てきた。その巻物がそれだ」
老狼は改めて雪豹の持つ巻物を指し示した。雪豹は帯封に書かれた文字に改めて目を通した。
「巻物の封を切ると、妖狐の力は解放される。親分が生きていればその力は彼女の元に戻るが、そうじゃなければ、封を切った者がその力を手に入れるって書いてある。彼女自身の手で」
雪豹は、文字の読めない老狼のためにざっくりとその内容を読み上げた。
「ああそうだ。あの時も彼女はそう言って、これをわしに預けた。自分で持っていると危険すぎるとな。何年か経って、自分かもしくは自分が見込んだ者を寄越すから、それまで預かっていてくれと。そう言ってここを出て行った」
(何だよ、“その気があれば”なんてまどろっこしい言い方して。絶対俺らは行くって思ってたんだな)
雪豹は、女狐との別れの言葉を思い出して苦笑した。
「では、確かに返したよ。飛蝶からの預かり物は」
「ああ、確かに受け取った」
雪豹は、老狼に礼を言った。
(あとは、兄貴達か――)
彼は大きくため息をついた。
老人は二人に尋ねた。
「――俺たちは、彼女の“手下”だ」
黒豹は雪豹が答えるのをただ黙って見守っていた。
「彼女は女狐と名乗って、義賊団を率いていた。俺たちはその一員」
「義賊団か、それは良い!」
老人は手を叩いて笑った。
「あの小娘らしい」
女狐の親分を“小娘”呼ばわりするとは――この老人こそ間違いなく北の狼だ。
「で、飛蝶は今、どうしている?」
「親分は、寿命が来たと言って天山の山中に隠居した。つい先月のことだ」
「では、今は――」
「生死は解らない。ただ、長くはもう……」
「そうか」
老人はトン、と杖をつくと天を仰いだ。
「結局、二十年は保たなかったのか――儚いことだ」
「別れ際、あなたに伝えて欲しいことがあると」
「何だ」
「――ありがとう、と」
老人は、少しの間黙って二人の顔を見ていた。それからまた、トンと杖をついた。
「成る程。あの小娘らしい生き様を全うしたのか」
老人は静かにそう言った。
それからまた少し間を置いて、老人は二人を見た。
「飛蝶がお前たちを選んだのには、それなりに理由があるようだな。では彼女から預かっている物は、お前たちに返すとしよう。来るが良い」
そう言って老人は、二人を神殿の中に招き入れようとした。
「ちょっと待て」
黒豹は神殿へ入ろうとする雪豹を止めた。
「アイツら、まだ追いついてないぞ」
「……あ、そうだ」
「俺はどうせ、小難しい話されても解りゃしない。ここでアイツらを待ってる」
「――もう、ここには誰も来ないぞ」
老人は二人の会話に口を挟んだ。
「ここはアセナの神殿。選ばれた者しか訪れることはできない。お前たちは飛蝶に選ばれたからここにいる。それ以外の者は足を踏み入れることはできない」
「何だと?」
その言葉に、黒豹の顔色が変わった。
「じじい、アイツらはどこへ行った?」
「来るべきでない者は、ここではない所へ飛ばされる」
黒豹は雪豹の顔を見た。
「雪、アイツらの所へ行ってくる」
黒豹は環首刀を手に取りいつでも抜けるように持ち直した。
「お前が何か隠している以上、どんな話も意味解らん。戻ったらきっちり説明しろよな。隠してることも含めて全部」
雪豹は黒豹の目を見ると、黙って頷いた。
「おい、じじい」
黒豹は老人に向かって言った。
「俺は選ばれるの止めた。だから、アイツら所へ連れてけ」
「わしにはできないな」
「――なっ」
「狼は狐と違う。妖力はたいしたことない。ここで起こっていることはすべて金山の君の力だ」
それから老人は彼らが来た方を指し示した。
「本来、ここへ招かれた者は、神殿に入ってから外へ行く。もしかすると逆に道を進めば、行けるかもしれぬな」
「解った。ここでじっとしていても埒があかない。行くだけ行ってみる」
そう言うと、彼は今来た道へ迷わず走り出した。
「……面白い奴だな」
老人の言葉に雪豹は苦笑いを浮かべた。
「では、こちらに来るが良い。――ようこそ、アセナの神殿へ」
雪豹は老人の後に続き、ゆっくりと神殿の中に入っていった。
赤い実を一つ二つと摘むと、それを胡仂の掌にのせて少女は食べてみるように促した。
「ありがとう」
胡仂は礼を言うと、実桜の一種とおぼしきその実を口に入れた。口の中に甘酸っぱい果汁が広がった。
高いところになっている実を、胡仂が手を伸ばして取ると、少女は嬉しそうに笑った。
「おーい」
向こうから紅雨が戻ってくるのが見えたので、彼は大きく手を振って合図をした。紅雨の周りにはルーやフーを始め何人かの子供達の姿があった。
「どうだった?」
胡仂の問いに紅雨は首を振った。
「昨日と変化はなかった。どっちもね。それより」
紅雨は子供達を指し示してため息をついた。
「こいつらに荒らされないようにするのが大変で……」
「モテモテだね」
胡仂も紅雨にべったりの子供達を見て苦笑した。
「黒い髪で黒い目の二本足が珍しいんだろうけど、参った。こいつら半分馬だけあって力もあるし速いし。逃げるの大変だぞ」
紅雨の言葉に胡仂は思わず吹き出した。
「笑い事じゃないぞ。お前も気づいてただろ?」
「え? 何を」
「ここ、恐らく軽く二、三倍は日が経つのが早い。いや、俺の感覚だともっと早い気もする」
「そうだね、ぼくも徹夜明けの昼間って感じがしない」
「早く動かないと、また日が暮れる」
「困ったね。早く兄さんに会いたいのに……」
胡仂は、困った顔でこちらを見ているショー達に気づいた。先ほど胡仂に赤い実を上げた女の子も、紅雨の周りにいる子供達に彼から離れて実を取るように叱っているようだった。この赤い実は彼らの貴重な食料であり、実を集めることは子供達に任された大事な仕事の一つなのだ。
「ああ、でも年長の子たちは“来る者は拒まず、去る者は追わず”の流儀をわきまえてるみたい。あの子達に手伝ってもらうか」
「どうやって?」
二人でここを離れる算段を話していると、実桜の木の方から悲鳴が聞こえた。
実桜の木はそんなに高くはないのだが、その後ろに丘があり杉に似た針葉樹が生えていた。その針葉樹の影から一つ目の巨人が顔を出していた。
巨人は大きな手を伸ばすと、木から少し離れた子をむんずと掴んだ。
「危ない!」
紅雨は剣を抜いて巨人の指に斬りかかり、辛くもその子を救い出した。
巨人は斬られた指を押さえ、驚いたように紅雨を見た。それから、口を開くと大きな叫び声を上げた。
「胡仂! 子供達を集めて安全なところへ」
紅雨は巨人から目をそらさずに叫んだ。今、目をそらしたら相手が動く。
「了解!」
胡仂は落ち着いてショーと協力して子供達を集めた。
「胡仂、俺の弓持って行け」
「何で? ぼく使えないよ!?」
「いいから! ないよりましだろ。みんなが逃げ切れるまで俺がコイツ抑えてられるか、保証できないから」
「……解った」
「とりあえず、使い方だけ見ておけ」
紅雨は矢をつがえると、巨人に向かって放った。矢は何とか巨人の肩に刺さった。
巨人は不思議そうに肩に刺さった矢を見た。
「今のうちに、早く行け」
紅雨はそう言って胡仂に弓矢を押しつけた。
「さっさとここから離れてくれよ。俺、兄貴と違ってそんなに時間稼げないから」
胡仂は頷くと、ショーの背に乗って子供達を宥めながら走り出した。
巨人は反射的に動く方へと手を伸ばした。紅雨はすかさずその掌に向かって斬り付けた。
怒った巨人は反対の手で紅雨を掴もうとした。紅雨はギリギリのところで身をかがめて躱すと、巨人はすぐ側にあった実桜を間違ってもぎ取って口に入れた。
口に入れて初めて、それが肉ではないことに気づいた巨人は、木の幹をペッと吐き出した。
(やっぱり、目的は喰らうことか)
巨人は、もう一度紅雨に手を伸ばした。紅雨は指の一本か二本を切り落としてやろうと剣を構え直した。
その時、ヒュッという音とともに矢が放たれ、巨人の顔に突き刺さった。巨人は驚き、顔を手で覆って大声を出した。
「胡仂!?」
紅雨は慌てて振り返った。
「……ルー!!」
矢を放ったのはルーだった。ルーは、もう一本狙いを定めて矢を引き絞った。
ルーの放った矢は、また巨人の顔に命中した。
(すごい、筋が良い。俺より上手い)
「――って、感心してる場合じゃない! ルー!!」
さすがに二度目は巨人に効かなかったようだ。巨人はルーへ手を伸ばした。
紅雨は間一髪でルーを抱え込むと、針葉樹の幹に隠れた。
「チーナ」
ルーは紅雨の顔を見てニコニコ笑ったが、彼が怒っていることに気づいてすぐに表情を曇らせた。
胡仂達は大分先に行っているが、少し離れた所でフーが困ったように立ち止まっていた。このままでは、ルーどころかフーも狙われる。
「ルー、何で戻ってきた!?」
紅雨の怒声に、ルーは涙目になって弓を握りしめ、顔を震わせた。その様子を見て、紅雨は大きく息をついて、気持ちを落ち着かせた。
それから、胸に掛けていた護符を外すと、ルーに渡した。それは、遠征軍に加わるときに師父からもらったものだった。
「ルー、これは俺の大事なもの」
一か八かで、似ていると思った阿耆尼の言葉で話しかけてみた。
「急いで胡仂に持って行って。頼む」
「コロク?」
「そう、急いで、今すぐ」
紅雨は微笑みながら、ルーの柔らかい髪をクシャクシャと撫でた。
ルーは、半べそをかきながら頷いた。
「ほら、フーが待ってるよ」
紅雨はルーの背中をポンと押した。それからフーに気がついてそちらに向かおうとしていた巨人の足へ向かって渾身の一撃を喰らわせた。
毛が一本もない上半身に比べて、毛が密集している下半身はやけに硬かった。
(ヤバイ、刃こぼれした)
幸いこの巨人、移動する時は長い両腕を支えにして四つ脚のように進むので、腕を狙えば歩みを止められる。
「あっちの方が美味しそうだとは思うけど」
走り去っていくルーとフーを確認しながら紅雨は言った。
「食べるのは、こっちを先にしてくれないかな」
もう一度紅雨は巨人の腕に向かって一撃を喰らわせた。
神殿の奥は、さらに明るい光に照らされていた。
「すごいな……」
雪豹はその荘厳な様に息を飲んだ。
「我が姉アセナに捧げられた祈りが集まり、このような光を放つのだよ」
ゆっくりと歩きながら老人は言った。
「姉――?」
「ああ、これが我が姉だ」
老人は祭壇を指し示した。そこには玻璃の棺があり、その中にはひとりの女性が静かに横たわっていた。
口元には笑みをたたえ、うっすらと開けられた瞳がこちらをじっと見ていた。
「これが突厥の始祖アセナ……生きているのか?」
「生きておらず、死んでもいない。始祖への祈りが途絶えぬ限り。ここでこうして己の血の行く末を見守り続けている。それが金山の君と交わした約束なのだ」
「さっきも言っていたけど、誰なんだ? その金山の君とは」
「女神と呼ぶ者もいるが、神々とも違う」
「どういうことだ?」
「さてな。狼はお前たちと違って賢くもない。ただ、知っていることはある。この世において、神々が力を得るには人々の祈りがいる。祈りがなければ力を失い、忘れ去られる。新たな神が生まれる一方で、太古より多くの神々が忘れ去られていった。
だが金山の君はそう言う神々とは違い、人々の祈りは必要ない。彼女は遙か昔よりここに在って、恐らくこの先もずっと在られる。そう言う方だ」
仙人のような者なのだろうかと雪豹は思った。
老人は祭壇の奥から、一本の巻物を取り出すと雪豹に渡した。
「これが飛蝶からの預かり物だ」
「――これは?」
雪豹は巻物をまじまじと見つめた。帯封がしてあり、その文字には見覚えがあった。
「飛蝶の妖狐としての力だ」
「何?」
老人は、祭壇前に敷いてある毛氈の上に腰を下ろすと、雪豹にもそこに座るように促した。
「若者よ。飛蝶の弔いに付き合って昔話を聞いてもらえぬか。それともお仲間が気になるかな」
「いや、大丈夫。アイツら、そんなにヤワじゃないし」
そう言って雪豹は老人の対面に座った。
「それより教えて欲しい。十七年前、親分に何があったんだ」
「ほう」
老人は笑った。
「もう十七年になるのか。あの小娘がここに来て」
それから老人は十七年前のことを語り出した。
「ここは、金山の君に選ばれた者が訪れ、突厥の秘密を得て去って行く場所。普段は訪れる者もなくひっそりとしている。わしは姉が寂しくないようにここにいるが、時たま外へ出て狩りなどをすることもあった。喰わねば生きていけぬからな。今から十七年前、その日も草原に出て獲物を探していた」
寒風吹く冬空の中、それは流星のように素早く天を横切っていった。
全部で五つ。先頭の一つを、後の四つが追っているようであった。
(ほう、珍しい)
狼は一目見てそれが何であるか解った。彼は獣型になると急いでそれを追った。
“五つの星”は空中で激しくぶつかると、その一つが狼の方へ勢いよく落ちてきた。それは必死に受け身を取ろうとしたが、うまく体勢を立て直せないまま地面に激突した。
狼は慌てて人型に戻ると、それを追って降りてきた四人の前に立ちはだかった。
四人は、唐兵の武将に似た姿をしており、黙って静かに狼の前に並んだ。
「――狐たちよ、わしらの領地であまり勝手なことをされては困るな」
先に口を開いたのは狼だった。足元には先ほど落ちてきた者が、うら若き男装の乙女となってうずくまっていた。豊かな黒い髪と切れ長の黒い瞳が印象的な娘だった。血の気のない白い肌に、血と汗と汚れがこびりついていた。
「わしには、お前たちのような妖力はないが、これでも金山の君に仕える身。君の名のもと、多少は遠慮してもらいたいな」
彼の言葉を聞いて、四人の男は慌てて彼に礼を取った。
「老狼よ、大変失礼つかまつった」
彼ら四人は、天狐と呼ばれる取り分け妖力の強い狐たちであった。その力で天界との行き来を許されたおり、故に天狐と呼ばれていた。
「しかし、小娘一人の相手に大の男四人とは感心しないな」
「いや、老狼よ、この娘はそうするだけの理由があるのです」
「この飛蝶は、妖狐の頭領たちに逆らい、挙げ句の果て彼らを弑するという暴挙に及んだのです」
「我々は天帝の命を受け、この娘を誅するために、この地まで追って参りました」
「この娘、このような大罪を犯さなければ、我々と同じように天狐となるほどの力を持っております。それゆえ、恥ずかしながら四人がかりで」
天狐達が口々に言うのを黙って聞いていた狼は、まじまじと娘の顔を見た。彼女はうつむき、諦めの色をその顔に浮かべていた。
「ふむ……この娘、見かけによらすなかなかのタマであるようだな」
狼はそう言うと、四人の天狐に向かって言った。
「だが、いくら罪人とは言え金山の君が統べる地で同族の血を流すのは感心できない。あの方は同族の血が流れるのを嫌うのでな」
「しかし……」
反論しようとした天狐を、狼は静かに制した。
「狐たちよ、我が君はこの小娘より力ないと思うておるのか?」
天狐達は、静かに語る狼の言葉に威厳と恐怖を感じた。
「まあ、お前たちにも事情はあるのも解る。だがここは引いてはくれぬか?」
狼の言葉に、飛蝶は驚いて顔を上げた。深く刻まれたしわの間から覗く瞳は、四人の天狐達をしっかりと見据えていた。
「この小娘が、金山の君の許を離れたらお前たちの好きにするが良い。それまでは、こちらの好きにさせてもらおう」
相手には妖力が無い。天狐達は力ずくで飛蝶を奪うこともできた。だが、有無を言わせぬ老狼の迫力に気圧されていた。
「――ここは金山の君の顔を立てておとなしく引くことにするが」
中原へ去り際、天狐達は飛蝶に告げた。
「我らがお前を待ち構えていることを忘れるな。この草原の地を出たら最後、貴様を八つ裂きにし、その血肉をお前が殺めた頭領達の妻子に届けてやるからな」
そう言い捨てると、天狐達は空へと消えていった。
「……まったく、東の狐達は血の気が多い」
老狼は彼らを見送りながら、呆れた様に言った。それから、飛蝶の方を見た。彼女は老狼の考えが読めず、剣を握りしめて身構えた。
「お前……飛蝶という名だったかな」
「ああ、そうだけど」
「そうか」
老狼は静かに笑った。
「では、飛蝶よ。お前は狩りができるか?」
「は!?」
老狼の言葉に、飛蝶は耳を疑った。
「いやな。食い物を手に入れようと老体に鞭打ってわざわざ穴倉から出てきたは良いものの、血気盛んな連中の相手に疲れてしまってな。かといって飢え死にするわけにもいかん。お前が変わりに何か獲ってきてくれないか」
飛蝶はただびっくりして何も言えなかった。
「おや、その顔。なんだ東の連中はわしら狼と違って、狩りのような野蛮なことはしないと」
嘲るような老狼の言葉に、飛蝶は我に返った。
「馬鹿にしないで。舐めてもらっちゃ困る。いいよ、おじいさん待ってて」
言うやいなや、飛蝶はぽんと大地を蹴り、跳ねるように草原へ飛び出していった。老狼は微笑ましげにその様を見守っていた。
少し行ったところで飛蝶はさっと身を翻した。そしてその手に地栗鼠を掴むと颯爽と舞い戻った。そしてその地栗鼠を老狼へ投げつけながら彼女は言った。
「これで足りるかい?」
「 ああ、わしは良いが、お前さんの分は?」
「必要ない」
そう言うと彼女は老狼の傍らに座ると、息を深く吸って目を瞑った。
「何をしている?」
彼女の様子を見て、不思議そうに老狼は訊いた。
「調息……こうやって息を整え、天と地を巡る気を体に取り入れてるの。こうすることで、誰かの精気を奪って生きなくても良くなる」
「……ほう」
老狼は地栗鼠の血で汚れた口を拭いながら言った。
「お前たち妖狐というのは、そんなすごい芸当ができるのか」
「いや、出来ないよ。私はコレができるから、あの天狐達とも互角に戦えるようになった」
飛蝶は調息を止めると、老狼の問いに答えた。
「私ら妖狐は、人の精気を吸って生きている。そのために妖術で人々を惑わし、場合によっちゃ、そのまま命を奪うこともある。だから、天帝に厭われ、生きていても死んでいても決して救われぬ存在。
私はそれがどうしても納得できなかった。それで天帝や人の長である帝に楯突いてみようとしたんだけど、ある道士に止められてね。
彼曰く、“理は変えられない。だけど変えられるものはある”ってね。それで教わったのがコレ」
飛蝶は寂しそうに笑った。
「だけど、命運尽きた今となってはもったいないことだったね」
「何故、命運尽きたと?」
「何故って? 分かるだろうに」
老狼の問いに、不思議そうに飛蝶に言った。
「天狐達の中でも、腕利きの四人に追われてるんだ。命運が尽きていないとどうして言える?」
「成る程。ではどうしてその天狐達に追われているのだ?」
「……ああ、そうだね。それなりの理由があるのさ」
飛蝶は自嘲の笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「そもそもの発端は、私が縁談を断ったこと。狼さん達と違って、私ら妖狐はいろいろ厄介な付き合いやら決めごとやら多くてね。
この間、ある頭目の嫁になれって上の連中に命令されたんだ。私もいい年だからね。でも、せっかく“力”を手に入れたのにどっかに収まるのももったいないじゃない。 だけど断ったら上の連中の面目丸つぶれだ、この先、妖狐として生きるのは難しくなる。だから中原――妖狐の世界を離れて漠北か西域に行くことに決めたんだ」
「縁談を断っただけで、天狐に命が狙われるのか? 妖狐というものは……」
「まさか! まだこの話には続きがあるんだよ」
飛蝶はせっかちな老狼を制して話を続けた。
「旅立とうとした時、ちょうど件(くだん)の道士も用があって山を降りてたところだったんだ。さすがの私も道観のある山に別れの挨拶しに行くほどの分別なしじゃないからね、これ幸いと会いに行ったの。
その道士は入山したての弟弟子と一緒に、南岳衡山にいらっしゃる紫虚元君という偉い仙女様にご用があったんだって。仙界と人界は繋がっているけど、そう簡単に行き来はできない。仙女様に呼ばれてあちらに行くというのは、修行中の道士ではまずあり得ない。だけど、あの二人はそれができるだけの、素晴らしい力を持っていた。
それを妖狐連中が目を付けたね。で、私はその連中を片っ端からやっつけただけ。まあ、その中に縁談のあった頭目もいたんだけど」
「そりゃ凄い」
老狼は大声で笑った。
「全部一人でやったのか?」
「その道士達に殺生の罪を着せるわけにはいかないでしょうに。それに、私が会いに行かなければ、彼らも狙われなかったしね。まあ、弟弟子の方は、元武将だけあってそれなりのいい腕していたけど、止めは私。おかげで、天狐たちの追われることになった」
「悔いはないのか?」
「もちろん。最後まで好きに生きさせてもらったからね。あとは、あの天狐達とどう戦って、最後を締めくくるかだよ。じいさんのおかげで、少し余裕が出来た。ありがとう」
そう言って立ち上がった飛蝶を、老狼は引き止めた。
「どこへ行く?」
「――ああ、安心して。じいさんのお仕えしている方に迷惑かからないような場所でやるから」
「いや、それは困る」
「え?」
「今、ここでお前さんを放したら、金山の君に怒られるのだよ」
老狼は飛蝶を神殿へ案内した。彼からアセナの話を聞いた飛蝶は、ふぅと息を漏らすと冷たい玻璃の棺に指を伸ばした。
「――確かに、血が繋がらないとはいえ親子だった間柄での婚姻は妖狐でも罪だわ。でも、こうやって命をかけて恋して、愛した人との子を産んだ。同じ女として、こんなに羨ましいことはない」
彼女の言葉に、老狼は苦笑いを浮かべた。
「わし以外の一族すべてから疎まれた恋だった。そんな風に羨ましいなんて言われたのは初めてだ」
「そうなの? つまらない一族だね」
「ああ、だから礼を言うよ。姉に代わって」
「礼なんて、必要ないでしょ。だって彼女はとても幸せそうだもの。生きてもなく、死んでもいないなんて、普通だったら恐ろしくて耐えられない。だけど彼女は笑っている。感じているんでしょう? 愛した人の裔がこの世界に広がっていることを」
不思議な娘だと、老狼は思った。そして懐かしくも感じた。ああ、そうだ、姉に似ているんだ……と彼は気づいた。
「――お前さんだっているのでは?」
「は!?」
「あの道士とは何もなかったのか?」
「道士? 紫陽先生!? ――ないない、あの先生とは絶対ない! 欲情の仕様がないよ、どう考えたって」
ゲラゲラ笑いながら答えた。
「……まだ、驪龍先生の方が欲情できるよ。あの人は何にも興味ないなんて顔しているから、その仮面引っぺがして、雄の部分を剥き出しにしてやりたいと思うけど……紫陽先生は無理! 絶対、無理」
笑いすぎて息が苦しくなった飛蝶は、大きく深呼吸をした。
「ああ、でも、もしかして、私が妖狐じゃなくて、あの人が道士じゃなかったら、あり得るのかな……?」
彼女は少し遠い目をして考えてから、また言った。
「やっぱり無理。そうだったら、お互い興味ないだろうし。来世だって、あの人は遠からず仙籍を得るだろうし、私は近く地獄に堕ちる。つまりこの先の縁も繋がってない。そう言うことだよ、じいさん」
「何が無理なんだか、わしには解らんよ」
全力で否定する飛蝶を、老狼は微笑ましく思った。そして一本の書状を彼女に渡した。「これは?」
「金山の君から、お前さんにと預かっていた物だ。近いうちに妖狐の娘が草原に現れるから、その時に渡せとね。何でも、南岳衡山にいる紫虚元君という方からだそうだ」
「……これ、紫陽先生の字だ」
飛蝶は目に涙を浮かべながら、それを読み出した。白い肌に、紅く血の気が上がっていくのが見えた。
「いつの間に……元君に掛け合ってくれたんだ。私のこと」
涙を堪えながら、飛蝶は呟いた。
「何? どうしたのだ?」
老狼の言葉で我に返った飛蝶は、涙を拭うと笑って言った。
「天帝へ嘆願してくれたらしい。私が妖狐の力を手放せば、罪は許してくれると」
(お前の罪を帳消しにするには、私と驪龍、二人の命を助けたぐらいでは足りなかったらしい。元君も残念がっていた)
紫陽からの手紙にはそう綴られていた。
(だが、まだ手はある。お前が「妖狐の飛蝶」でなくなれば、死罪は免れる。寿命は短くなり、妖術は使えなくなるが。だが、私が教えたことがあれば、きっと大丈夫だろう)
「そう、大丈夫。まだ、できることはある」
彼の言葉を何度も繰り返しながら、飛蝶は言った。
「じいさん、私、妖狐を辞める。せっかく遙か故郷を離れてここまで来たんだ。もう少し、宿命に抗ってみるよ」
「妖狐を辞めるとは……できるのか? そんなこと」
「ああ、やり方はここに書いてある」
書状を掲げて飛蝶は言った。
「彼女は籠もる部屋が必要だというので、用意すると身を清めて数日間そこに引きこもった。清めた際に姉の服を渡すと、喜んでいたよ。そして数日経ってその巻物を手に出てきた。その巻物がそれだ」
老狼は改めて雪豹の持つ巻物を指し示した。雪豹は帯封に書かれた文字に改めて目を通した。
「巻物の封を切ると、妖狐の力は解放される。親分が生きていればその力は彼女の元に戻るが、そうじゃなければ、封を切った者がその力を手に入れるって書いてある。彼女自身の手で」
雪豹は、文字の読めない老狼のためにざっくりとその内容を読み上げた。
「ああそうだ。あの時も彼女はそう言って、これをわしに預けた。自分で持っていると危険すぎるとな。何年か経って、自分かもしくは自分が見込んだ者を寄越すから、それまで預かっていてくれと。そう言ってここを出て行った」
(何だよ、“その気があれば”なんてまどろっこしい言い方して。絶対俺らは行くって思ってたんだな)
雪豹は、女狐との別れの言葉を思い出して苦笑した。
「では、確かに返したよ。飛蝶からの預かり物は」
「ああ、確かに受け取った」
雪豹は、老狼に礼を言った。
(あとは、兄貴達か――)
彼は大きくため息をついた。
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