俺の息子は、「感情の天気予報士」

色彩和

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第三章 外出時での「天気予報」

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    Ⅰ

    あれから数日。特に何も起こる事がないまま、悟は過ごしていた。蒼空も特に何も言わずに過ごしている。悟は正直ほっとしていた。
    ――蒼空が何も言わないってことは、恐らく力を使っていないということ。
    そう考えるだけで、安堵する。何かあったら、息子は報告してくるだろう。それがないなら、安心していいはずだ。
    少しだけ軽くなった気持ちを悟は感じているのだった。
    本日は曇りの予報で、灰色の雲が空全体を覆っている。雨は降らない、との予報から、悟は蒼空と外に遊びに行くことにした。近くの公園へ、息子と手を繋いで向かう。息子の小さなもう片方の手は、ボールを抱え込んでいた。大きめのゴムボールを、しっかりと抱えて、悟と道を歩む。
    休日は息子と遊びに行くことが多い。遊びに、と言っても、近場の公園ばかりで、遠くに行くわけではない。だが、外で遊ぶ、上空にある空の下で遊ぶことが好きな息子とよく一緒に行っては、しばらく遊んで帰ることが多い。二、三時間なんてすぐだった。あまりに帰ってこないと、優子が見に来る始末。つまり、没頭してしまうのである。
    近くの公園で遊ぶだけで、蒼空は笑顔だった。遠出をしたいとも言わずに、ただ遊ぶことが楽しいようだった。
    一度だけ、息子に聞いたことがあった。「遠出をしたくはないか」、と。あまりわがままを言わない我が子は、その問いにふるふると首を横に振った。それから、笑って告げたのである。
「おそらのしたで、パパとあそべるなら、どこでもいいよ!」
    「ママもいっしょだと、またたのしいね!」、続けてそう言った息子が可愛くて、思いっきり抱きしめたことは、記憶に新しい。息子の前で、号泣しそうになって、顔を見せられなかった。
    一般家庭で、金銭にそう余裕があるわけではない。それでも、家族を大切にしたい気持ちはあったし、多少なりとも外出はさせてやりたいと考えていた。もちろん、その時は妻の優子も一緒だ。遠出をするなら、家族全員で出かけたい。
    それでも――。
    たまには、わがままを言ってくれても、いいんだけどなあ……。
    物分りが良すぎるのか、親を気遣っているのか、はたまた本当にこれだけで満足なのか。悟が考えると、後者に該当しそうだと思ってしまう。それぐらい、蒼空はわがままを言ったことはなかった。
    そんな息子は、上空にある空を眺めて、気分は上昇中だ。楽しそうに繋いだ手を振りながら、歩いている。空の下で遊べることが嬉しいらしい。今日はどんよりと曇っているが、それでも満足なようだった。
    ふと、悟は思い出す。
    以前、まだ蒼空に力があるとは知らなかった時のことだ。青空なのに頭を抱えていたり、雨なのににこにこと笑っていたりしたことがあったのだ。
    何故だろう……。
    悟は聞こうか迷った。ただ単に後回しにすれば、忘れるだろうから、という理由であった。だが、今は公園に向かって歩いている最中だ。誰がすれ違うか分からないし、誰の耳に入るか分からなかった。
     ……家に帰ってから、聞くか。
    覚えてられるといいなあ、とぼんやり考えながら、内心不安に襲われる。だが、リスクは避けるべきだと思った。
    数分後、公園に到着した。近所の子どもたちも来ていたようで、賑やかな声が聞こえてくる。大人連れで来ている者もいれば、友人らしき子たちと来ている者もいた。
    悟の顔が緩む。こういう光景は、ついつい和んでしまう。
「蒼空、今日はどうする?」
「うーんと……、ボールする」
「分かった」
    持ってきたボールを見せて、ボール投げをすると言う。持ってきたとしても、遊ばないこともあるので、今日はどうするのか確認したが、今回は持ってきたそれで遊ぶらしい。
    蒼空が抱えているボールは、普通の大きさのゴムボールだが、妙に大きく見える。抱え込んで持っているそれを、蒼空は両手のひらで挟んだ。悟は向かい合って、少し距離をとった。
    ゴムボールは、ドッジボールなどで使用されるボールと同じ大きさで、だがとても柔らかい。早いボールはなかなか投げられないが、てんてんと弾むぐらいで今はちょうどいい。
    蒼空はスポーツには興味を持たなかった。ボール投げはしても、野球には興味を持たない。他のスポーツにも興味は持たず、砂遊びや鬼ごっこなどを好む。
    ちなみに、家の中では、悟や優子と隠れんぼをよくしている。
    友人がいないわけではないが、悟たちと遊ぶことも息子にとっては楽しいことで、大事なことのようだった。
    悟自身は、平日は仕事で家にいることが少ない。だから、蒼空が友人の家に遊びに行こうが、蒼空の友人が家に招かれてようが、話を聞くことでしか認識ができなかった。悟が休みを取って平日家にいる時は、家族全員で出かけるか、今日のように蒼空と外で遊ぶかであった。蒼空は悟が家にいる時、外で遊ぼうと声をかけてくれる。
    ――平日を友人と遊ぶからか、悟がいる時は家族と過ごすことを優先してくれているようだった。
    友人との時間を大切にしながら、家族との時間も大切にしてくれる。それが悟にとっては、何よりも嬉しいことだった。
    子どもの成長は早い。大人になった自分たちは成長しない、なんてことはないが、そのスピードは子どもに比べて衰える。だが、子どもは学ぶことも多く、できることも増えていく。そのスピードはとても早い。瞬く間に成長していくように感じてしまう。
    嬉しいような、寂しいようなそんな気持ちになってしまった。
    まだ、六つの子だというのに――。
    悟がしみじみと思っていると、蒼空がぽけっと違うところを見ていることに気がついた。ボールを抱えて、悟ではないところをじっと見つめて動かない。悟は不思議に思って、息子に近づいた。
「どうしたんだ?    蒼空」
「パパ、あれ」
    蒼空が指で差した先には、蹲っている子どもがいた。



    Ⅱ

    蒼空と同い年ぐらいだろうか。一人の少年が蹲っている。小さな泣き声も聞こえてくる。
    悟は慌てて駆け寄った。周囲には、誰もいない。この少年の親らしき者も、友人らしき者も誰もいなかった。後ろから、てててっとゆっくりと蒼空がついてくる。蒼空も近づいた後、少年を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
    悟は子どもを抱え上げた。少年は嗚咽を漏らしている。よくよく見てみれば、膝を盛大に擦りむいていた。紅が染め上げている。思わず、悟は顔を顰めた。見ているだけで、痛くなってくる。
「痛いな、これは……」
    恐らく、盛大に転んだのだろう。傷が大きかった。少年は何も言わない。泣き続ける少年の頭を撫でてから、悟はしっかりと抱えた。それから、息子をちらりと見て、声をかける。
「蒼空、ちゃんとついてくるんだぞ」
「うん」
    悟はそのまま水飲み場へと向かうことにした。まずは足を洗ったほうがいいと思ったのだ。蒼空がついてきていることをちらちらと確認しながら、目的地に着くと、そのまま蛇口を捻った。
「痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してな」
    悟の言葉に、少年はこくんと頷いた。少し落ち着いてきたらしい。涙は止まっていないが、反応を示すようになった。
    流水で洗い始めると、やはり痛かったようで、「いたい」と言葉を零した。悟は「ごめんな」と言いながら、手早く洗い続ける。
    洗った後、持ってきた小さめのタオルと、それから絆創膏を取り出す。傷に触れないように水を拭いてやり、大きめの絆創膏を貼ってやる。
    蒼空が怪我した時ように、と思って持ってきといて正解だった……。
    消毒液までは持っていなかったが、とりあえず応急処置だ。
「とりあえず、これでよし」
    悟はそう言って、少年と目を合わせた。
「頑張ったなー。今日はご両親と来ているのかい?」
    それにこくんと頷く少年を見て、「なら、大丈夫かな」と悟は返す。ただ、まずはそのご両親を探さなくてはいけない。
    ぽんと頭に手を置いて、再度悟は言った。
「よく、頑張ったな」
「……うん」
    初めて少年から声が返ってきて、悟は笑う。その後、ご両親が探しに来て、説明だけはした。疑われても困るからだ。
    少年たちと別れた後、悟は蒼空と公園を後にしたのだった。



    Ⅲ

    何となく公園を出てきてしまった。悟は蒼空を見る。蒼空はぽかんとして、ボールを抱え込んでいただけだった。まだ入口付近だから、戻れば遊ぶことはできる。
    悟は息子に話しかけた。
「蒼空、ごめんな。どうする?    戻ってパパと遊ぶか?」
「……パパ」
「うん?」
    蒼空は俯いていた。放ったらかしにしたことを、怒っているのだろうか。だが、蒼空はそんなことで怒る子ではないことを、悟は知っている。さて、どうしようかと悩み始めた悟を、蒼空は顔を上げて見つめた。
    ――その顔は、笑っていた。
「てんきさん、いらなかったね」
    こそりと話された言葉と息子の表情に、悟はほっとした。それから、こそりと返す。
「そうだな」
「パパがいってたのは、このことだったんだね」
「ああ、そうだな」
    二人は公園を後にすることにした。蒼空は「戻ろう」とは言わなかったし、これ以上この話をここでするのは良くないと判断したからだ。悟は息子の手を握った。蒼空はボールを抱えている。
    しばらく歩いていると、蒼空は突然質問してきた。
「ねえ、パパ。じぶんだけのちからでできることってたくさんある?」
「どうだろうなあ……」
    壮大だな、と思いつつも、悟はそれを口に出すことは無かった。
    先程の話の続きなのだろう。蒼空はキョロキョロと周囲を確認した後に聞いてきた。悟との約束をきちんと守っているようだった。
    悟は考える。蒼空の言葉を否定するつもりは無い。人間の可能性は幅広い。もちろん、すべてが出来る訳では無い。
    だが――。
    悟は考えた末、少しずつ話すことにした。
「そうだなあ……。例えば、パパが困っていたとする。それが、蒼空と協力してできることだってある。逆に、パパ一人で解決できることだってあるし、蒼空と協力しても解決できないこともある」
「……」
「だけど、一人で出来ないことなら、身近な人が協力してくれれば、できることは増えると思うな。二人でダメでも、もっとたくさんの人がいたら解決するかもしれないだろう?」
「……ぼくも?」
「そうだね。蒼空が困っていたら、パパやママ、お友達に助けを求めたら、きっと助けてくれるはずだよ。そうやって、協力し合って解決できると、パパは思うかな」
「……そっかー!」
    蒼空はふにゃっと笑った。どうやら、納得してくれたらしい。悟も口元が緩む。
    先日の説明では、理解出来ていないように思えた。それが今回のことを通して、教える機会となったのなら、学ぶ機会となったのなら、それで良かったと思う。
    悟は嬉しい思いをそのままに、息子に声をかけた。
「蒼空、少し寄り道をしようか」
「よりみち?」
「ああ。今日はあまり遊べなかっただろう。パパに付き合わせてしまったし。だから、何かおやつでも買おうか。パパも喉が渇いたし。ママには内緒だぞ」
「やったー!」
    蒼空は大いに喜んだ。悟は笑った。まだまだ子供らしい反応で、ついつい甘やかしたくなってしまう。
    しかし、今日は蒼空と遊ぶところか、放ったらかしにしてしまったことは事実であった。自分の喉が渇いていることも確かだ。たまには、いいだろうと判断する。その足で、二人は帰り道にあるコンビニに寄ることにした。
    コンビニに入店し、悟は小さいペットボトルのお茶を手にする。二人分を手にし、それからお菓子コーナーへと向かった。蒼空はどれにしようかと迷っている。悟は静かに見守った。やがて、一つを手にして、「これにする!」と息子は高らかに宣言する。悟は苦笑した後、「静かにな」と窘めた。
    蒼空が手にした菓子も含めて、レジで会計する。合計三点分の金額を支払った悟は、菓子の箱を蒼空に手渡す。店員にシールを貼ってもらっているため、これで問題は無いだろう。
    蒼空は嬉しそうに菓子の箱を手にしたが、すぐにその視線は店の入口へと向けられた。一人の人間が入店してくる。パーカーのフードを目深く被った者であった。
    悟はそれに気が付かずに、会計を終えると、蒼空を連れて店を出た。
    手を繋がれた蒼空は、そのままぐいぐいと悟を引っ張った。突然のことに悟は驚く。
「ど、どうしたんだ、蒼空」
    蒼空は返事をしなかった。ぐいぐいと引っ張ったまま、人のいない駐車場の端へと移動していく。何度も呼びかけたが、一回も返事をしなかった。やがて、悟が強めに名前を呼ぶと、蒼空は足を止めた。すでに人のいない駐車場の端へと移動し終えていた。
「蒼空、急に強く引っ張ったら、危ないだろう」
「パパ」
    蒼空は父親の窘める声を聞かなかった。話を遮るかのように、父親を呼ぶ。悟が首を傾げて見せれば、蒼空は周囲をキョロキョロと確認した。それから、悟を呼び寄せる。悟が屈んで見せれば、息子はこそりと耳打ちをした。
「パパ、いまのひと、わるいことかんがえてた」



    Ⅳ

    悟は一瞬何を言われたのか、理解できなかった。しかし、蒼空の発言を理解すると、慌てて周囲を見渡す。誰もいなかったことに安堵し、蒼空を見つめる。視線を合わせて、こそりと確認した。
「それ、本当か?    それに、どうして分かったんだ?

「ほんとう。いまはいったひと、あぶないとおもうの。ゆきさんとひょうさんがすごくさわいでるの」
    「雪」と「雹」の言葉に、悟ははっとした。以前、蒼空が説明してくれた内容を思い出す。
    「雪」は、思考を凍らす。
    「雹」は、凍らした思考を砕く。
      その二つが騒いでいる。蒼空はそれによって、あの人間が悪いことを考えていると分かったのだ。
    確かに、一瞬だけ視界に入った。パーカーのフードを目深く被っていたので、不思議には思ったのだ。
    だが、と悟は考え直す。
    天気たちが騒いでいるとしても、それは他の人間には分からない。もちろん、悟自身もだ。
    もし、間違っていたら――。蒼空が怒られる結末になる可能性は十分高い。むしろ、怒られるだけならまだマシかもしれない。それ以上何か起こるとしたら、さすがに悟でもフォローは出来ないだろう。
    どうする――。
    悟は蒼空が嘘を言っているとは思わなかった。だが、コンビニという人の目が多くある場所で無事に済むのだろうか。
    ――蒼空を、息子を傷つける結末とならないだろうか。
    必死に頭を働かせる悟を見て、蒼空はクイッと父親の服の裾を引っ張った。我に返った悟が見たのは、蒼空の困った表情。不安になったのか、眉が八の字になっている。
    そんな顔、させたくないのにな……。
    悟の顔が歪みそうになる。何とか堪えて、ポーカーフェイスを努めることに専念する。
    言葉が出てこない父親を、息子は見て言った。
「パパ、ぼくやりたい」
「だけど……」
    悟はまだ迷っている。しかし、蒼空は続けた。
「あのひと、わるいひとになっちゃうよ」
    蒼空はとにかくそれを阻止したいようだった。
    迷っている時間はない、か。
    子どもを危険な目に遭わすなんて、間違っている。そんなことはよく分かっていた。だが、そうは思っても、ここは息子に任せることにした。「感情の天気予報士」として、動きたがっている息子の背中を押してやる。
「……分かった。パパも協力する。だけど、無理をしないこと。それから、あまり人目につかないように、騒ぎにならないように静かにやること。いいな?」
「!    うんっ!」
    悟は覚悟を決め、息子ともう一度入店した。目当ての人物を見つけ、距離を保つことを忘れずに近づく。標的は、なんだかそわそわしていて、落ち着きがないように見えた。
    棚の陰に隠れ、蒼空は「天気のマーク」たちを呼び出すと、すぐさま雪の結晶を手にした。悟はそれを見つつ、周囲に目を光らせる。幸い、周囲には人はおらず、誰もこちらに視線を向けてくることもなかった。
   蒼空は雪の結晶を、目的の人物に向かって投げる。今日は状況が状況なので、何も言わずに投げていた。標的の頭の上に雪の結晶はちょこんと座る。ここからでは、思考を凍らせてるかどうかは分からなかった。
    蒼空は待つことなく、氷の塊を投げた。雪の結晶をどかして、氷が頭を占拠した。
    すると、標的に動きがあった。そわそわと周囲を伺っていたはずなのに、急に天井を見上げたのだ。空を仰ぐかのようであった。
    悟が呆然としていると、蒼空は太陽を投げた。悟は目を瞬かせる。
    何故、太陽を――。
    一瞬の隙に、太陽は頭の上に乗っていて。雪の結晶と氷の塊は戻ってきていた。
    標的が動く。ぱさりとフードを取った。見れば、まだ青年である。悟より幾分も若い彼は、ふらふらと歩いて、時間がかかったか店を出ていた。何も持っておらず、店の出入口のブザーも鳴らない。最近は、防犯用にブザーが鳴るようになっているが、それは邪魔をしようとはしなかった。つまり、彼は何も、手だけではなく服の中にも何も持っていないということであった。
    何がしたかったのかは、謎のままであったが、悟は一息つく。しかし、その瞬間、蒼空が駆け出し始めた。落ち着いたのは束の間で、結局悟も走り出す。
「おにいさん!」
「こら、蒼空!」
    悟は焦った。まさか蒼空が追いかけて、しかも声をかけるとは思っていなかったのである。慌てて蒼空を掴んで、抱き上げた。声をかけられた青年は、きょとんと二人を見つめる。
「すみません、息子が」
「……いえ」
    青年は覇気がないように見えた。悟はどうしようかと思ったが、そのまま去ったほうがいいだろうと判断する。
    しかし、目の前の青年は、悟に声をかけてきたのだった。
「あ、の……。初対面の方に申し訳ないんですけど、話を、聞いてもらえませんか……?」



    Ⅴ

    悟は蒼空を抱えたまま、青年と公園に来ていた。先程より幾分か人が減ったように感じた。空いているベンチに並んで腰掛ける。青年、悟、蒼空と並んだ。
    悟は蒼空の手をしっかりと握っていた。
    青年は、「しんじ」と名乗った。名前だろうと思ったが、詳しくは聞かなかった。悟と蒼空も名前だけ名乗る。人の多いところで、あまりフルネームを名乗りたくはなかった。
    悟が促すことも無く、しんじはぽつりぽつりと話し始めた。悟は黙って聞くことにした。蒼空も何も言わずにじっと見ているだけであった。
    ただ、蒼空と繋いでいないもう片方の手は、ポケットに入っているスマホに伸ばされていた。悟の気は抜けない。目的の物があって、少しだけ安心することが出来た。
    しんじの話は、こうだった。
    彼はここのところ、まったくついていなかったらしい。詐欺に遭ってしまって、お金がまったくなく、バイトを探すがなかなか見つからない。どんどん追い込まれていく彼は、相当参っていたという。両親に助けを求めることも考えたが、心配をかけたくなかったから、それすらもしなかったとのことだ。
    ――そうして、ついに今日、考えてはいけないと分かっていたのに、窃盗や強盗を考えてしまったのだという。
    すべてを話し終えたらしい彼は、少しだけすっきりした顔をしていた。
    悟は彼に問いかける。
「何故、俺たちを呼び止めたんですか?」
「……何故、でしょうね」
    彼は泣きそうに笑った。それから、「でも、」と続けたのである。
「でも、誰かに聞いて欲しかったんです。あんなにも自分を追い込んで、必死に言い訳して、自分を正当化して手を染めようとしていたのに……。信じて下さるかは分かりませんが、何かが、温かい何かが止めてくれたんです。まるで、そんなことをしてはいけないと言ってるみたいに。馬鹿なことを考えてないで、温かいものを大事にしなさい、と言われてるみたいでした。……おかしいですよね、何も根拠はないのに。でも、僕の心はとても温かい。ぽかぽかと太陽がいるみたいに、温かいんです」
    彼はゆっくりと左手を胸に当てた。心の上に添えられる手が、何故か光を放っているように見えた。そして、その表情はとても優しい。
「久しぶりに温かさに触れた気がします。だから、かな。誰かに聞いて欲しかったんです」
    青年は笑った。悟は静かに目を見開いた。
    蒼空が何故最後に太陽を投げたのか、理解した。
    雪は溶けて冬が終わり、春が訪れる――。
    その言葉が、悟の頭で響く。
「話、聞いてくださってありがとうございました。少し、すっきりしました」
「いえ、俺は何も――。でも、お力になれたのであれば、良かったです。大したことは言えませんが」
「いいえ、十分です。見ず知らずの僕の話を聞いてくださって、ありがとうございました。……せっかく思いとどまれたので、もう一度やり直してみようと思います。真っ当に生きられるように、二度とこのようなことを考えないように――」
    しんじは笑っている。悟は頷いて見せた。
「そうだね。……苦労の連続があると、心が折れそうになると思いますが、きっと幸せは待ち構えています。偉そうに聞こえたら申し訳ないですが、頑張ってください」
「はい。……僕も、付き合わせてごめんね、つまらなかったね」
    しんじは蒼空に声をかけ、頭をぽんと撫でる。蒼空はそれに対して、ふるふると首を横に振った。息子が何か言うことは、なかった。
    青年は笑って去って行った。清々しい顔をして。
    悟と蒼空はその背中を、姿が見えなくなるまで、見送った。
    蒼空はその背中に、ぽつりと言葉をかけたのだった。
「わるいこころはくだかれてなくなり、やがてあたたかさがあのひとをつつむでしょう。あたたかさが、あのひとをすくうのです――」
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