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5 初夜と不穏
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その後はとんとん拍子に話が進み、私はしばらくフェーンベリーに留まり結婚式の準備に勤しむこととなった。
通常よりも急いで式の準備が進められているのは、ルーファス様の仕事の関係と、私の希望が一致した結果だった。
式を挙げた後はルーファス様がロンドンに用意してくれた新しいタウンハウスで新生活を始めることになっている。
ルーファス様は思った通り人として好ましい方だった。
今は敬語も取れ、初めて会った時よりももっと気さくに話してくれる。
けれどあくまでも適切な距離を保ち、世間話だけであっさりと私を解放してくれるところも気に入っていた。
「ベラ様、恋って知ってます?」
「概念としてはね」
ずいぶんと唐突な質問を投げかけてきたエミリーは、私の返答に不服そうな顔をした。
今はウェディングドレスの採寸の真っ最中だ。
ロンドンのテーラーが出張してきてくれ、今まさにお針子が私の体のいたるところを測っている。
母が遺してくれたウェディングドレスをアレンジし、私に合わせて丈を調整してもらうことになっていた。
ちなみに、採寸に入る前にルーファス様が顔を見せ、私と他愛ない話をした後にロンドンに帰っていった。
私もまだいばらの痣のつぼみが咲く様子はないとはいえ、早くロンドンに帰りたい。
私の中を巡る魔女の血に急かされているような気がした。
「ルーファス様はかなり素敵な殿方のように見えますが」
エミリーが食い下がる。
確かに、ルーファス様は少し変わっている所はあるものの、女性に好かれるタイプだろう。
私はその少し変わっている所をこそ好ましく思っているのだが。
「そうね。とても良い人だと思う。礼儀正しいし、お優しいし、私の義足についても変に気遣ったりなさらないし……うまくやっていけそうだわ」
わざわざフェーンベリーまで来て私に婚約を申し込んでくださったわりにはさらっとしている。
紳士的な距離感を保ってくれているとも言えるだろう。
なぜ私を相手に選んでくださったのか、ますますわからなくなるばかりだった。
「それなら、もう少しこう……ドキドキするとか、式に向けて気持ちが華やぐとか、そういう反応があってもよろしいのではないでしょうか」
どうやら、エミリーは私がはしゃいでいないことが不満らしい。
いつもは必要以上に私の意思に干渉しようとしないのに、この結婚については思うところがあるようだった。
「そうは言っても、元々私に恋なんて無縁だもの。憧れは小さい頃に捨てたの」
恋だけじゃない。あの事件以来、私の心は一部が凍ってしまったようだった。
魔女の魂を宿す以前の私とは、決定的に何かが違う。自分でも結婚を控えた淑女の反応としてどうかと思うのだが、仕方ないものは仕方ない。
私とエミリーの身も蓋もない会話をよそに、着々と採寸が進んでいく。
私は小柄なお針子の手元を眺めた。さっきからずっと、気になっていることがあったのだ。
確認のために目を閉じる。すると、今までぼんやりとしか見えていなかったものが、光を伴ってはっきりと眼前に現れた。
――やっぱり。
全て終わった後、仕立屋の女主人は私に向かっておっとりと微笑み挨拶をした。
背の高い美人だ。
「採寸お疲れ様でございました。それでは、期限までにお打ち合わせ通りにお仕立ていたします」
「ええ、お願いね。今日はありがとう」
仕立屋は、採寸を手伝ってくれたお針子と一緒に、使用人に連れられて部屋を出て行く。
私はその背中を見送りながら唇を開いた。
「ロンドンに帰ったら、なるべく早めに訪ねたいところができたわ。普段着用のドレスをもう一着仕立ててもらおうかしら」
確か、テーラーの店名はレディバード・ベルベットだっただろうか。
「気に入ったようで何よりですが、式よりも待ち望んでいるような顔をしないでください」
エミリーが呆れたように言う。
「仕方ないわ。だって、久方ぶりに獲物を見つけたんだもの」
私の瞼の裏には、お針子の手に糸のように巻き付いた魔力の残像がまだ残っていた。
◆
結婚式はつつがなく行われた。
教会で厳かに誓いを交わした後、ルーファス様がロンドンに用意してくれた新居の広間でパーティーが開かれた。
私も妻として祝いの言葉を浴び、なんとかそれなりに対応できたと自分では思っている。
客観的に見れば感動的な一日だったのかもしれないが、私はコルセットとドレスがいつもよりも窮屈で動きにくいことしか覚えていない。
エミリーが数日前から腕によりをかけて私を磨き上げてくれたおかげで、ドレス姿の私は普段の私よりも数倍まともに見えた。
しかし当の本人である私は、想定していた以上の準備に追われていたせいで式の開始時にはすでにげっそりしており、周囲から投げかけられるお世辞交じりの賞賛と祝いの言葉に応える余裕はなかった。
あまりにも笑顔を忘れていたせいで、ルーファス様が私の体調を気遣ってくださったほどだ。
それはあくまでルーファス様の人柄と、紳士的な振る舞いからもたらされる言葉だ。
互いに愛などない結婚のはずなのに――そのうえ私は秘密を抱えたまま結婚生活を送るつもりだというのに、あまり優しくされると申し訳なくなる。
私の頭は、どちらかというと式の後のことでいっぱいだった。
明日と明後日の二日間は、ルーファス様と過ごすことになる。
ルーファス様の仕事の都合でハネムーンには行けないが、せめて夫婦水入らずで過ごそうとのことだった。
私としては、旅行に連れていかれるよりその方がありがたい。
なるべく早く新居での生活に慣れ、怪しまれることなく私にとっての日常――魔物を狩る生活を取り戻すために、計画を練らなければならなかった。
式の準備中も、フェーンベリーで乗馬の練習がてら怪しい場所を訪れ、見つけた魔物を倒していた。
けれど田舎にいる名無しの魔物なんてたかが知れている。両親の仇が見つかるわけもなかった。
幸いつぼみを眠らせるための足しにはなったけれど、早くロンドンでの生活を再開したい。
そんなことで頭をいっぱいにしていたものだから、私は自分でも呆れてしまうほどうっかりしていたのだ。
当日は式を済ませればそれで終わるわけではない。
そう、式の後には二人きりの時間があり、初夜がある。
考えてみれば当たり前のことだ。
貴族同士の結婚は家同士の問題だということはいつも念頭にあったにも関わらず、なぜか私の頭から初夜のことがすっぽりと抜け落ちていた。
家同士の問題であるならば、必然的に世継ぎを期待される。
エミリーの言う『ドキドキ』を理解できていれば、重要イベントとして私の頭にも刻まれていたに違いない。
けれどいかんせん、今まであまりそういうことに興味を抱かず生きてきたせいもあり、初夜に関する知識がおぼろげにしかないのだ。
同性同士の噂話のついでにうっすら聞いてはいるが、大抵肝心な箇所は『相手にお任せするのよ』と濁される。
エミリーもさすがに私にそんなところまで助言をする気はないのか、何も言っていなかった。
ただ、聞き及ぶ限りは二人でベッドに入るのは必須のようだった。となれば、義足を外す瞬間も見られることだろう。
ルーファス様は、私の脚を見ても気味が悪いと思わないだろうか。
ふとそんな普通の女性のような思いに駆られて、私は自覚しているよりもルーファス様のことを人として気に入ってしまっていることに気づいた。
これは良くない傾向だ。
むしろ離縁されない程度に幻滅してもらった方が都合が良いというのに。
「良い式だった」
パーティーを終え、部屋で二人きりになった後、ルーファス様は感慨深げにそう言った。
私と違って、式自体に意義を見いだしているようだった。
夢を見た後のような少しぼうっとした表情は、まるで初めての観劇から帰ってきたばかりの子どものようで、少し可愛らしく思える。
「ええ。ルーファス様のおかげでついにこの日を迎えることができました」
自然と笑みが浮かぶのを感じながら、改めてそう声をかける。
するとルーファス様は苦笑を浮かべた。
「前も言ったが、もっと気楽に話してほしい。距離を取られてるようで少し寂しくなる」
親しみを込めた眼差しを向けられ、私は少し考えた。
式の準備をする間、一緒に話す時間は何度か取れたが、あとは手紙のやりとりが主だ。
結婚前の男女が二人きりで過ごすことははしたないとされる。
ルーファス様はその貴族の常識をこれでもかというほどきっちりと守ってくれた。
おかげで、今まで何度かルーファス様から促されても、なかなか喋り方を改める機会がなかったのだ。
「わかりまし……わかったわ、ルーファス様」
「敬称のままなのか?」
「やはり急にとなると難しいものですね。夫婦として過ごせば、いずれ自然と距離も近づくでしょう。その時の楽しみにしておいていただけませんか?」
ルーファス様は愉快な返答を聞いたように、おどけて片眉を上げて見せた。
良い人だ。私の生意気な口ぶりにも嫌な顔ひとつしない。
それなのに私はこの人を騙そうとしている。罪悪感がないといえば嘘になる。
私はこの先の人生、秘密を抱えたまま、この人に全てを話すことはないのだろう。
お母様と同じように。
話したところで信じてもらえるとも思えない。
それでも、できれば良い関係を築いていきたかった。ルーファス様相手ならそれができるような気がする。
そこまで考えてから、少しだけ胸が締め付けられるような心地がしていることに気づいた。
もしかすると、これは恋に近い感覚なのかもしれない。他人事のようにそう思う。
もしこの信頼と少しのどきどきが恋ならば、そう悪いものではない。
けれどこの気持ちを意識すればするほど、きっとルーファス様への罪悪感は強まっていくのだろう。
「僕も君とこの日を迎えられて嬉しく思う」
ルーファス様が私との距離を縮める。その右手が私の方にそっと触れた。
大きくてごつごつとした手は、私のものとはまるで違う。
筋張った男性の手だ。
少し緊張しているような気配を感じるのは気のせいだろうか。
……いや、緊張しているのは私の方かもしれない。
今までこんなに間近で殿方に見つめられた事は初めてだった。
ルーファス様の青みがかったグレーの瞳は、やはりわずかに金を含んだような不思議な色をしている。
じっとしていると魅入られてしまいそうだ。
これからきっと噂に聞く初夜が始まる。
ロマンチックなことも、少し恐ろしいことも聞いているが、いずれにせよこれは貴族の令嬢としての義務のようなものだ。
結婚は避けられず、したがってこの夜を迎えることも避けられない。
ゆっくりと唇が近づく。
吐息が触れてしまいそうな距離に、相手の熱を感じた。
平静を装いきれず思わず視線を逸らしたその時――私の頬に触れていた手が、離れていった。
「……そういえば、済ませなければならない用事があった」
「え……」
突然そんなことを言い出したルーファス様は、視線を泳がせていた。
「用事ですか?」
「ああ。今夜うちに書類を仕上げて、届けなければいけない。本当は事前に済ませておくつもりだったのだがすっかり忘れていた」
そんなことがあるだろうか。
そわそわとした落ちつかない様子は、何か違う理由でここを離れたがっているように見えた。
もう少し質問を重ねてみようとしたけれど、私はすぐに思い直した。
この状況は、私にとって好都合かもしれない。
もとより互いに条件が会うという理由で結ばれた婚姻関係なのだから。
初夜に妻をほったらかしにして仕事に向き合おうとしているこの人は、私にとって理想の夫に違いない。
「お気になさらないで。行ってらっしゃい」
「……ああ。すまない」
もう一度謝り、私と視線も合わせず足早に部屋を出て言った彼の背中を見送りながら、いくつかの仮説を立ててみる。
仮説その一。
本当にどうしようもない急な仕事が入っていることを忘れていた。
けれどこの可能性は低いだろう。
仮説その二。
彼にとってあらゆる意味でちょうどいい相手が私であり、彼も私と同じように自分の使命を最優先として考えている。
美女とは言えない女を前に我に返って、仕事をする時間を優先したくなった。
仮説その三。
彼には他に相手がいる。今から本命の機嫌を取りに行かなければならない。
どれも私にとっては都合が良いはずだ。
私はじんわりと胸に広がっていた釈然としない思いを打ち消した。
今までのやりとりから、ルーファス様には誠実な方だという印象を抱いているが、まだそのすべてを知っているわけではない。
少しだけ……そう、ほんの少しだけ、心を通わせられることを期待してしまったが、これは私が勝手に抱いた気持ちだ。
それを盾に相手に批難めいた気持ちを抱くのは理不尽というものだろう。
きっともうすぐ私にとっての日常が戻ってくる。
妻として最低限のことはしなければならないが、ルーファス様はこの通り忙しい方だ。
エミリーに協力してもらえば、多少出歩いても干渉されることはないだろう。
魔物を狩り、両親の敵を探すこと。
それが私の生きる意味で、私が生きていることを実感できる瞬間でもあった。
いつからこうなったのだろう。
幼い頃は令嬢としてはやんちゃだったとはいえ、もう少しまともな感性を持っていたような気がする。
すでにそちらの生活の方が私にとっての当たり前になっているせいで、ここ数ヶ月の貴族令嬢らしい暮らしとイベントの数々にはすっかり辟易していた。
この際正直に本音を言えば、早く銃を撃つ機会が欲しい。
狩人じみたこの衝動もきっと魔女の魂のせい……と言いたかったが、私は小さい頃から乗馬と銃と冒険小説に興味を示す妙な淑女であり、生前の母にも少し心配されていたほどなので、これは生来の気質の問題なのかもしれない。
「…………ベラ様」
地を這うような声が聞こえて、私はベッドから飛び起きた。
いつの間にか空いていたドアの方を見ると、エミリーがどんよりした表情で私を見つめている。
思えば、侍女として他の使用人たちと連携を取り、式の段取りを仕切るのは相当に骨が折れたことだろう。
私はねぎらおうとしたが、彼女の恨みがましい表情の理由は別のところにあるらしかった。
「あの男は、私がこんなに素晴らしく磨き上げたベラ様を前にして仕事に戻られたんですか? 初夜だと言うのに……?」
「今ルーファス様のことをあの男と呼んだ?」
「口が滑りました。旦那様のことです。さきほど廊下ですれ違いました」
まったく悪いと思っていない口調でエミリーが言う。
よっぽど腹に据えかねているらしかった。
「いいのよ。私はむしろほっとしたわ」
私はベッドに寝転んだまま、お行儀悪くあくびをする。
「初夜からこんな調子なら、きっと互いにほどよく放任主義の関係を築けるじゃない。それに私も今日は疲れたわ。後のことは何も考えずに眠ってしまいたい」
「ベラ様がそうおっしゃるのなら、私はこれ以上何も言いませんが」
そう言いつつもエミリーはまだ怒っている。
その様子を見て、理屈では説明のつかない私の胸のモヤモヤも、おかげで少し晴れたような気がした。
「あなたとあの狭いタウンハウスで暮らした独身の日々が懐かしいわね。もう戻れないのが寂しいくらい」
「魔性の女とはベラ様のような方のことを言うのかもしれませんね」
「友情を伝えただけよ。それとも惚れそうになった?」
キザな紳士のように、流し目でウインクを送ってみせる。
「さあ、どうでしょうか。私はこれからもベラ様にお仕えするだけです」
そう返すエミリーの唇にも、悪戯っぽい笑みがあった。
エミリーがいなければ、私はもうとっくに正気をなくしていたかもしれない。
彼女が秘密を共有してくれて私の気持ちをいつでも尊重してくれたからこそ、私はこうして形の上だけでも、貴族の令嬢として過度に道を外れない範囲で生きていけている。
だからこの先もエミリーとの関係さえ今まで通り続いていけば私に不満はないはずだ。
それなのに今もまだルーファス様の反応を気にしてしまう自分に私はとまどっていた。
その後はエミリーを下がらせ、私は一人で眠るには広すぎるベッドの上で、泥のように眠った。
自分でも意外なほど疲れていたようだった。
◆
翌朝、窓から射し込む光のまぶしさに目を覚ましたとたん、紅茶の匂いに鼻先をくすぐられた。
ベッドのそばに誰かが座っていることに気付く。
「エミリー?」
まだぼんやりとした頭のまま寝ぼけ半分に聞くと、低く穏やかな笑い声が降ってくる。
「おはよう。君も寝ぼけることがあるんだな」
その声の正体に気づいて私は慌てて身を起こす。
ベッドテーブルの上には紅茶とスコーンが用意されていた。
目を瞬かせる私の横で、ルーファス様が手に持っていた本を置く。
「これは……」
「ああ、大丈夫、まだ温かい。君がなかなか起きなかったから、さっき淹れ直したんだ」
微妙に会話が噛み合ってないことを疑問に思い、次に、もうとっくに昼を過ぎているらしいことに気付いた。
どうやらルーファス様は一度朝に私を起こしに来て、その際にモーニングティーを用意してくれたようだ。
けれど私が起きなかったため、そのまま眠らせてくれた上に、私が起きそうな気配を感じて紅茶を淹れ直してくれた。
……と、いうことらしい。
私のぼうっとした様子を心配したのか、ルーファス様が心配そうに私の顔を覗き込む。
「新婚の朝はこうするものだと聞いていたが……何か間違っていたか? それとも、やはり昨夜のことを怒っているのだろうか」
いつもはきりっとしている眉が、しゅんとしたように下がる。
こんな顔をされると、どんな感情を抱けば良いのかわからなくなる。
一番に頭に思い浮かぶのは『可愛い』の文字だが、自分が抱いた感情に自分で混乱してしまいそうだった。
「……怒ってはいません」
そう、怒る道理はないはずだ。私にとって悪いことは何も起きていない。
「それならよかった。君を一人にして、本当に申し訳なく思っている」
言葉通り、本当に申し訳なく思っているような顔をしている。
もしかして、本当に緊急の仕事があったのだろうか。
変に穿った予測をしてしまったことが、とたんに恥ずかしくなってくる。
「ありがとうございます。まさかモーニングティーを用意していただけるとは思っていなかったので」
「これくらいはさせてくれ。熱いうちに飲むと良い」
促されて、カップに口を付ける。
蜂蜜が入っているらしく、甘く豊かな香りが鼻先をくすぐった。
「スコーンも、君の侍女――エミリーが、君の好きなジャムを教えてくれたんだ。どうだ?」
わくわくとした表情を隠せもせずにルーファス様が言う。
「とても美味しいです。コケモモのジャムは、フェーンベリーにいた時によく食べました」
「よかった。ジャムを作ってくれたメイドにも感想を伝えておこう」
ルーファス様ははにかんだように笑う。
黙っていると精悍な顔をしているが、笑うと眉が下がるせいで、可愛らしい雰囲気になる。
男性に可愛らしいという形容を使うのは失礼かもしれないが、間違いなくルーファス様のこういうところが私を絆し、そして罪悪感をチクチク刺激してきた。
いやけれどルーファス様にだって何か隠していることがあるのだろう。
そうじゃなければ昨夜のあの様子の説明がつかない。
ルーファス様も、彼なりの罪悪感を覚えて、こうして償いのために普通の夫婦のように穏やかなひとときを演出してくれているのかもしれない。
私の眼差しから何を読み取ったのか、ルーファス様は少し心配そうに小首をかしげた。
「どうかしたのか? まだぼんやりしているな」
そして私の方へと手を伸ばす。
私は昨夜の妙な緊張を思い出し、反射的にびくりと身をすくませた。
するとルーファス様ははっとした様子で手を引っ込める。
そして誤魔化すように微笑みを浮かべた。
「今日はゆっくり過ごすといい。朝食を終えたら、僕は別室にいよう。もし気が向いたら訪ねてきてくれ」
不思議な距離の取り方をされた。
――もしかして。この人は、私が怖がっていると思って接触を避けてくれているのだろうか。
昨夜もそれで……?
いや、いくらなんでもその考えは驕りすぎのような気がする。
普通、妻となった女にそこまで遠慮をするものだろうか。
自分で言うのもおこがましいが、まるで好きな相手を気遣っているように聞こえる。
確かにルーファス様から縁談を申し込んで来たわけだが、巷の紳士たちが想い人にするような熱烈なアピールや甘い言葉を受けたわけではない。
第一、ルーファス様だって貴族の結婚がどういうものか承知の上だろう。
優しく振る舞ってくれているのは、わざわざ家庭に波風を立てないようにしてくれているからに違いない。
そう自己完結しようとした後に、思い直す。
どんな事情であれ、夫婦になったからには無用なすれ違いを避けた方がいい。
ルーファス様なりに努力してくれているのなら、私もできる限りは誠実であるべきだろう。
「ルーファス様、ひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
「どうかしたか?」
「どうして私に求婚してくれたのですか?」
我ながら今さら過ぎる問いだった。
ルーファス様は少し迷うように眉根を寄せ、慎重な様子で口を開いた。
「…………秘密だ」
「秘密ですか」
何かを堪えるような、妙な間があったような気がする。
「いつか話そう」
謎が深まってしまった。
探られたくない腹のある私としては、しつこく追及するわけにもいかない。
けれど、これは誠実な返答だった。
その気になれば、いくらでも誤魔化しようはあるのに。
甘い言葉で煙を撒くとか、適当なことを言うとか。
ルーファス様は真剣な表情で言葉を続けた。
「その他にも、いずれ君に話したいことがある。でも、それはきっと今じゃない。その時が来るまで、君には僕がどんな男なのか、ちゃんと見ておいてほしい」
「随分と気になることを言うのですね」
冷静にそう返すと、ルーファス様はうっと言葉に詰まる。
またもや素直な反応が返ってきた。
あまりにも自分の美しさを知り尽くしたような表情で訴えかけてくるものだから、てっきり今度こそ何かしらうまいことを言って私の追及を逃れるつもりかと思ったのに。
その上、申し訳なさそうな顔までしてみせる。
「すまない。少しずるいことを言った。こんなことを言われても、君はますます気になってしまうだろう。でも、一つだけ信じてほしい」
ルーファス様はいったん言葉を切り、少し緊張したように息を吸い込んだ。
そして、まるで大切な秘密を打ち明けるように、誠実な瞳で言葉を紡ぐ。
「君とこうして夫婦になれたことを、とても嬉しく思ってる」
わずかに赤くなった耳も、こちらを見つめる瞳も、まるで愛しい女性に意を決して告白しているようで、妙な錯覚に囚われそうになる。
――エミリーは私のことを魔性の女と言ったが、もしかすると魔性の男というものも存在するのかもしれなかった。
通常よりも急いで式の準備が進められているのは、ルーファス様の仕事の関係と、私の希望が一致した結果だった。
式を挙げた後はルーファス様がロンドンに用意してくれた新しいタウンハウスで新生活を始めることになっている。
ルーファス様は思った通り人として好ましい方だった。
今は敬語も取れ、初めて会った時よりももっと気さくに話してくれる。
けれどあくまでも適切な距離を保ち、世間話だけであっさりと私を解放してくれるところも気に入っていた。
「ベラ様、恋って知ってます?」
「概念としてはね」
ずいぶんと唐突な質問を投げかけてきたエミリーは、私の返答に不服そうな顔をした。
今はウェディングドレスの採寸の真っ最中だ。
ロンドンのテーラーが出張してきてくれ、今まさにお針子が私の体のいたるところを測っている。
母が遺してくれたウェディングドレスをアレンジし、私に合わせて丈を調整してもらうことになっていた。
ちなみに、採寸に入る前にルーファス様が顔を見せ、私と他愛ない話をした後にロンドンに帰っていった。
私もまだいばらの痣のつぼみが咲く様子はないとはいえ、早くロンドンに帰りたい。
私の中を巡る魔女の血に急かされているような気がした。
「ルーファス様はかなり素敵な殿方のように見えますが」
エミリーが食い下がる。
確かに、ルーファス様は少し変わっている所はあるものの、女性に好かれるタイプだろう。
私はその少し変わっている所をこそ好ましく思っているのだが。
「そうね。とても良い人だと思う。礼儀正しいし、お優しいし、私の義足についても変に気遣ったりなさらないし……うまくやっていけそうだわ」
わざわざフェーンベリーまで来て私に婚約を申し込んでくださったわりにはさらっとしている。
紳士的な距離感を保ってくれているとも言えるだろう。
なぜ私を相手に選んでくださったのか、ますますわからなくなるばかりだった。
「それなら、もう少しこう……ドキドキするとか、式に向けて気持ちが華やぐとか、そういう反応があってもよろしいのではないでしょうか」
どうやら、エミリーは私がはしゃいでいないことが不満らしい。
いつもは必要以上に私の意思に干渉しようとしないのに、この結婚については思うところがあるようだった。
「そうは言っても、元々私に恋なんて無縁だもの。憧れは小さい頃に捨てたの」
恋だけじゃない。あの事件以来、私の心は一部が凍ってしまったようだった。
魔女の魂を宿す以前の私とは、決定的に何かが違う。自分でも結婚を控えた淑女の反応としてどうかと思うのだが、仕方ないものは仕方ない。
私とエミリーの身も蓋もない会話をよそに、着々と採寸が進んでいく。
私は小柄なお針子の手元を眺めた。さっきからずっと、気になっていることがあったのだ。
確認のために目を閉じる。すると、今までぼんやりとしか見えていなかったものが、光を伴ってはっきりと眼前に現れた。
――やっぱり。
全て終わった後、仕立屋の女主人は私に向かっておっとりと微笑み挨拶をした。
背の高い美人だ。
「採寸お疲れ様でございました。それでは、期限までにお打ち合わせ通りにお仕立ていたします」
「ええ、お願いね。今日はありがとう」
仕立屋は、採寸を手伝ってくれたお針子と一緒に、使用人に連れられて部屋を出て行く。
私はその背中を見送りながら唇を開いた。
「ロンドンに帰ったら、なるべく早めに訪ねたいところができたわ。普段着用のドレスをもう一着仕立ててもらおうかしら」
確か、テーラーの店名はレディバード・ベルベットだっただろうか。
「気に入ったようで何よりですが、式よりも待ち望んでいるような顔をしないでください」
エミリーが呆れたように言う。
「仕方ないわ。だって、久方ぶりに獲物を見つけたんだもの」
私の瞼の裏には、お針子の手に糸のように巻き付いた魔力の残像がまだ残っていた。
◆
結婚式はつつがなく行われた。
教会で厳かに誓いを交わした後、ルーファス様がロンドンに用意してくれた新居の広間でパーティーが開かれた。
私も妻として祝いの言葉を浴び、なんとかそれなりに対応できたと自分では思っている。
客観的に見れば感動的な一日だったのかもしれないが、私はコルセットとドレスがいつもよりも窮屈で動きにくいことしか覚えていない。
エミリーが数日前から腕によりをかけて私を磨き上げてくれたおかげで、ドレス姿の私は普段の私よりも数倍まともに見えた。
しかし当の本人である私は、想定していた以上の準備に追われていたせいで式の開始時にはすでにげっそりしており、周囲から投げかけられるお世辞交じりの賞賛と祝いの言葉に応える余裕はなかった。
あまりにも笑顔を忘れていたせいで、ルーファス様が私の体調を気遣ってくださったほどだ。
それはあくまでルーファス様の人柄と、紳士的な振る舞いからもたらされる言葉だ。
互いに愛などない結婚のはずなのに――そのうえ私は秘密を抱えたまま結婚生活を送るつもりだというのに、あまり優しくされると申し訳なくなる。
私の頭は、どちらかというと式の後のことでいっぱいだった。
明日と明後日の二日間は、ルーファス様と過ごすことになる。
ルーファス様の仕事の都合でハネムーンには行けないが、せめて夫婦水入らずで過ごそうとのことだった。
私としては、旅行に連れていかれるよりその方がありがたい。
なるべく早く新居での生活に慣れ、怪しまれることなく私にとっての日常――魔物を狩る生活を取り戻すために、計画を練らなければならなかった。
式の準備中も、フェーンベリーで乗馬の練習がてら怪しい場所を訪れ、見つけた魔物を倒していた。
けれど田舎にいる名無しの魔物なんてたかが知れている。両親の仇が見つかるわけもなかった。
幸いつぼみを眠らせるための足しにはなったけれど、早くロンドンでの生活を再開したい。
そんなことで頭をいっぱいにしていたものだから、私は自分でも呆れてしまうほどうっかりしていたのだ。
当日は式を済ませればそれで終わるわけではない。
そう、式の後には二人きりの時間があり、初夜がある。
考えてみれば当たり前のことだ。
貴族同士の結婚は家同士の問題だということはいつも念頭にあったにも関わらず、なぜか私の頭から初夜のことがすっぽりと抜け落ちていた。
家同士の問題であるならば、必然的に世継ぎを期待される。
エミリーの言う『ドキドキ』を理解できていれば、重要イベントとして私の頭にも刻まれていたに違いない。
けれどいかんせん、今まであまりそういうことに興味を抱かず生きてきたせいもあり、初夜に関する知識がおぼろげにしかないのだ。
同性同士の噂話のついでにうっすら聞いてはいるが、大抵肝心な箇所は『相手にお任せするのよ』と濁される。
エミリーもさすがに私にそんなところまで助言をする気はないのか、何も言っていなかった。
ただ、聞き及ぶ限りは二人でベッドに入るのは必須のようだった。となれば、義足を外す瞬間も見られることだろう。
ルーファス様は、私の脚を見ても気味が悪いと思わないだろうか。
ふとそんな普通の女性のような思いに駆られて、私は自覚しているよりもルーファス様のことを人として気に入ってしまっていることに気づいた。
これは良くない傾向だ。
むしろ離縁されない程度に幻滅してもらった方が都合が良いというのに。
「良い式だった」
パーティーを終え、部屋で二人きりになった後、ルーファス様は感慨深げにそう言った。
私と違って、式自体に意義を見いだしているようだった。
夢を見た後のような少しぼうっとした表情は、まるで初めての観劇から帰ってきたばかりの子どものようで、少し可愛らしく思える。
「ええ。ルーファス様のおかげでついにこの日を迎えることができました」
自然と笑みが浮かぶのを感じながら、改めてそう声をかける。
するとルーファス様は苦笑を浮かべた。
「前も言ったが、もっと気楽に話してほしい。距離を取られてるようで少し寂しくなる」
親しみを込めた眼差しを向けられ、私は少し考えた。
式の準備をする間、一緒に話す時間は何度か取れたが、あとは手紙のやりとりが主だ。
結婚前の男女が二人きりで過ごすことははしたないとされる。
ルーファス様はその貴族の常識をこれでもかというほどきっちりと守ってくれた。
おかげで、今まで何度かルーファス様から促されても、なかなか喋り方を改める機会がなかったのだ。
「わかりまし……わかったわ、ルーファス様」
「敬称のままなのか?」
「やはり急にとなると難しいものですね。夫婦として過ごせば、いずれ自然と距離も近づくでしょう。その時の楽しみにしておいていただけませんか?」
ルーファス様は愉快な返答を聞いたように、おどけて片眉を上げて見せた。
良い人だ。私の生意気な口ぶりにも嫌な顔ひとつしない。
それなのに私はこの人を騙そうとしている。罪悪感がないといえば嘘になる。
私はこの先の人生、秘密を抱えたまま、この人に全てを話すことはないのだろう。
お母様と同じように。
話したところで信じてもらえるとも思えない。
それでも、できれば良い関係を築いていきたかった。ルーファス様相手ならそれができるような気がする。
そこまで考えてから、少しだけ胸が締め付けられるような心地がしていることに気づいた。
もしかすると、これは恋に近い感覚なのかもしれない。他人事のようにそう思う。
もしこの信頼と少しのどきどきが恋ならば、そう悪いものではない。
けれどこの気持ちを意識すればするほど、きっとルーファス様への罪悪感は強まっていくのだろう。
「僕も君とこの日を迎えられて嬉しく思う」
ルーファス様が私との距離を縮める。その右手が私の方にそっと触れた。
大きくてごつごつとした手は、私のものとはまるで違う。
筋張った男性の手だ。
少し緊張しているような気配を感じるのは気のせいだろうか。
……いや、緊張しているのは私の方かもしれない。
今までこんなに間近で殿方に見つめられた事は初めてだった。
ルーファス様の青みがかったグレーの瞳は、やはりわずかに金を含んだような不思議な色をしている。
じっとしていると魅入られてしまいそうだ。
これからきっと噂に聞く初夜が始まる。
ロマンチックなことも、少し恐ろしいことも聞いているが、いずれにせよこれは貴族の令嬢としての義務のようなものだ。
結婚は避けられず、したがってこの夜を迎えることも避けられない。
ゆっくりと唇が近づく。
吐息が触れてしまいそうな距離に、相手の熱を感じた。
平静を装いきれず思わず視線を逸らしたその時――私の頬に触れていた手が、離れていった。
「……そういえば、済ませなければならない用事があった」
「え……」
突然そんなことを言い出したルーファス様は、視線を泳がせていた。
「用事ですか?」
「ああ。今夜うちに書類を仕上げて、届けなければいけない。本当は事前に済ませておくつもりだったのだがすっかり忘れていた」
そんなことがあるだろうか。
そわそわとした落ちつかない様子は、何か違う理由でここを離れたがっているように見えた。
もう少し質問を重ねてみようとしたけれど、私はすぐに思い直した。
この状況は、私にとって好都合かもしれない。
もとより互いに条件が会うという理由で結ばれた婚姻関係なのだから。
初夜に妻をほったらかしにして仕事に向き合おうとしているこの人は、私にとって理想の夫に違いない。
「お気になさらないで。行ってらっしゃい」
「……ああ。すまない」
もう一度謝り、私と視線も合わせず足早に部屋を出て言った彼の背中を見送りながら、いくつかの仮説を立ててみる。
仮説その一。
本当にどうしようもない急な仕事が入っていることを忘れていた。
けれどこの可能性は低いだろう。
仮説その二。
彼にとってあらゆる意味でちょうどいい相手が私であり、彼も私と同じように自分の使命を最優先として考えている。
美女とは言えない女を前に我に返って、仕事をする時間を優先したくなった。
仮説その三。
彼には他に相手がいる。今から本命の機嫌を取りに行かなければならない。
どれも私にとっては都合が良いはずだ。
私はじんわりと胸に広がっていた釈然としない思いを打ち消した。
今までのやりとりから、ルーファス様には誠実な方だという印象を抱いているが、まだそのすべてを知っているわけではない。
少しだけ……そう、ほんの少しだけ、心を通わせられることを期待してしまったが、これは私が勝手に抱いた気持ちだ。
それを盾に相手に批難めいた気持ちを抱くのは理不尽というものだろう。
きっともうすぐ私にとっての日常が戻ってくる。
妻として最低限のことはしなければならないが、ルーファス様はこの通り忙しい方だ。
エミリーに協力してもらえば、多少出歩いても干渉されることはないだろう。
魔物を狩り、両親の敵を探すこと。
それが私の生きる意味で、私が生きていることを実感できる瞬間でもあった。
いつからこうなったのだろう。
幼い頃は令嬢としてはやんちゃだったとはいえ、もう少しまともな感性を持っていたような気がする。
すでにそちらの生活の方が私にとっての当たり前になっているせいで、ここ数ヶ月の貴族令嬢らしい暮らしとイベントの数々にはすっかり辟易していた。
この際正直に本音を言えば、早く銃を撃つ機会が欲しい。
狩人じみたこの衝動もきっと魔女の魂のせい……と言いたかったが、私は小さい頃から乗馬と銃と冒険小説に興味を示す妙な淑女であり、生前の母にも少し心配されていたほどなので、これは生来の気質の問題なのかもしれない。
「…………ベラ様」
地を這うような声が聞こえて、私はベッドから飛び起きた。
いつの間にか空いていたドアの方を見ると、エミリーがどんよりした表情で私を見つめている。
思えば、侍女として他の使用人たちと連携を取り、式の段取りを仕切るのは相当に骨が折れたことだろう。
私はねぎらおうとしたが、彼女の恨みがましい表情の理由は別のところにあるらしかった。
「あの男は、私がこんなに素晴らしく磨き上げたベラ様を前にして仕事に戻られたんですか? 初夜だと言うのに……?」
「今ルーファス様のことをあの男と呼んだ?」
「口が滑りました。旦那様のことです。さきほど廊下ですれ違いました」
まったく悪いと思っていない口調でエミリーが言う。
よっぽど腹に据えかねているらしかった。
「いいのよ。私はむしろほっとしたわ」
私はベッドに寝転んだまま、お行儀悪くあくびをする。
「初夜からこんな調子なら、きっと互いにほどよく放任主義の関係を築けるじゃない。それに私も今日は疲れたわ。後のことは何も考えずに眠ってしまいたい」
「ベラ様がそうおっしゃるのなら、私はこれ以上何も言いませんが」
そう言いつつもエミリーはまだ怒っている。
その様子を見て、理屈では説明のつかない私の胸のモヤモヤも、おかげで少し晴れたような気がした。
「あなたとあの狭いタウンハウスで暮らした独身の日々が懐かしいわね。もう戻れないのが寂しいくらい」
「魔性の女とはベラ様のような方のことを言うのかもしれませんね」
「友情を伝えただけよ。それとも惚れそうになった?」
キザな紳士のように、流し目でウインクを送ってみせる。
「さあ、どうでしょうか。私はこれからもベラ様にお仕えするだけです」
そう返すエミリーの唇にも、悪戯っぽい笑みがあった。
エミリーがいなければ、私はもうとっくに正気をなくしていたかもしれない。
彼女が秘密を共有してくれて私の気持ちをいつでも尊重してくれたからこそ、私はこうして形の上だけでも、貴族の令嬢として過度に道を外れない範囲で生きていけている。
だからこの先もエミリーとの関係さえ今まで通り続いていけば私に不満はないはずだ。
それなのに今もまだルーファス様の反応を気にしてしまう自分に私はとまどっていた。
その後はエミリーを下がらせ、私は一人で眠るには広すぎるベッドの上で、泥のように眠った。
自分でも意外なほど疲れていたようだった。
◆
翌朝、窓から射し込む光のまぶしさに目を覚ましたとたん、紅茶の匂いに鼻先をくすぐられた。
ベッドのそばに誰かが座っていることに気付く。
「エミリー?」
まだぼんやりとした頭のまま寝ぼけ半分に聞くと、低く穏やかな笑い声が降ってくる。
「おはよう。君も寝ぼけることがあるんだな」
その声の正体に気づいて私は慌てて身を起こす。
ベッドテーブルの上には紅茶とスコーンが用意されていた。
目を瞬かせる私の横で、ルーファス様が手に持っていた本を置く。
「これは……」
「ああ、大丈夫、まだ温かい。君がなかなか起きなかったから、さっき淹れ直したんだ」
微妙に会話が噛み合ってないことを疑問に思い、次に、もうとっくに昼を過ぎているらしいことに気付いた。
どうやらルーファス様は一度朝に私を起こしに来て、その際にモーニングティーを用意してくれたようだ。
けれど私が起きなかったため、そのまま眠らせてくれた上に、私が起きそうな気配を感じて紅茶を淹れ直してくれた。
……と、いうことらしい。
私のぼうっとした様子を心配したのか、ルーファス様が心配そうに私の顔を覗き込む。
「新婚の朝はこうするものだと聞いていたが……何か間違っていたか? それとも、やはり昨夜のことを怒っているのだろうか」
いつもはきりっとしている眉が、しゅんとしたように下がる。
こんな顔をされると、どんな感情を抱けば良いのかわからなくなる。
一番に頭に思い浮かぶのは『可愛い』の文字だが、自分が抱いた感情に自分で混乱してしまいそうだった。
「……怒ってはいません」
そう、怒る道理はないはずだ。私にとって悪いことは何も起きていない。
「それならよかった。君を一人にして、本当に申し訳なく思っている」
言葉通り、本当に申し訳なく思っているような顔をしている。
もしかして、本当に緊急の仕事があったのだろうか。
変に穿った予測をしてしまったことが、とたんに恥ずかしくなってくる。
「ありがとうございます。まさかモーニングティーを用意していただけるとは思っていなかったので」
「これくらいはさせてくれ。熱いうちに飲むと良い」
促されて、カップに口を付ける。
蜂蜜が入っているらしく、甘く豊かな香りが鼻先をくすぐった。
「スコーンも、君の侍女――エミリーが、君の好きなジャムを教えてくれたんだ。どうだ?」
わくわくとした表情を隠せもせずにルーファス様が言う。
「とても美味しいです。コケモモのジャムは、フェーンベリーにいた時によく食べました」
「よかった。ジャムを作ってくれたメイドにも感想を伝えておこう」
ルーファス様ははにかんだように笑う。
黙っていると精悍な顔をしているが、笑うと眉が下がるせいで、可愛らしい雰囲気になる。
男性に可愛らしいという形容を使うのは失礼かもしれないが、間違いなくルーファス様のこういうところが私を絆し、そして罪悪感をチクチク刺激してきた。
いやけれどルーファス様にだって何か隠していることがあるのだろう。
そうじゃなければ昨夜のあの様子の説明がつかない。
ルーファス様も、彼なりの罪悪感を覚えて、こうして償いのために普通の夫婦のように穏やかなひとときを演出してくれているのかもしれない。
私の眼差しから何を読み取ったのか、ルーファス様は少し心配そうに小首をかしげた。
「どうかしたのか? まだぼんやりしているな」
そして私の方へと手を伸ばす。
私は昨夜の妙な緊張を思い出し、反射的にびくりと身をすくませた。
するとルーファス様ははっとした様子で手を引っ込める。
そして誤魔化すように微笑みを浮かべた。
「今日はゆっくり過ごすといい。朝食を終えたら、僕は別室にいよう。もし気が向いたら訪ねてきてくれ」
不思議な距離の取り方をされた。
――もしかして。この人は、私が怖がっていると思って接触を避けてくれているのだろうか。
昨夜もそれで……?
いや、いくらなんでもその考えは驕りすぎのような気がする。
普通、妻となった女にそこまで遠慮をするものだろうか。
自分で言うのもおこがましいが、まるで好きな相手を気遣っているように聞こえる。
確かにルーファス様から縁談を申し込んで来たわけだが、巷の紳士たちが想い人にするような熱烈なアピールや甘い言葉を受けたわけではない。
第一、ルーファス様だって貴族の結婚がどういうものか承知の上だろう。
優しく振る舞ってくれているのは、わざわざ家庭に波風を立てないようにしてくれているからに違いない。
そう自己完結しようとした後に、思い直す。
どんな事情であれ、夫婦になったからには無用なすれ違いを避けた方がいい。
ルーファス様なりに努力してくれているのなら、私もできる限りは誠実であるべきだろう。
「ルーファス様、ひとつ聞いてもよろしいでしょうか」
「どうかしたか?」
「どうして私に求婚してくれたのですか?」
我ながら今さら過ぎる問いだった。
ルーファス様は少し迷うように眉根を寄せ、慎重な様子で口を開いた。
「…………秘密だ」
「秘密ですか」
何かを堪えるような、妙な間があったような気がする。
「いつか話そう」
謎が深まってしまった。
探られたくない腹のある私としては、しつこく追及するわけにもいかない。
けれど、これは誠実な返答だった。
その気になれば、いくらでも誤魔化しようはあるのに。
甘い言葉で煙を撒くとか、適当なことを言うとか。
ルーファス様は真剣な表情で言葉を続けた。
「その他にも、いずれ君に話したいことがある。でも、それはきっと今じゃない。その時が来るまで、君には僕がどんな男なのか、ちゃんと見ておいてほしい」
「随分と気になることを言うのですね」
冷静にそう返すと、ルーファス様はうっと言葉に詰まる。
またもや素直な反応が返ってきた。
あまりにも自分の美しさを知り尽くしたような表情で訴えかけてくるものだから、てっきり今度こそ何かしらうまいことを言って私の追及を逃れるつもりかと思ったのに。
その上、申し訳なさそうな顔までしてみせる。
「すまない。少しずるいことを言った。こんなことを言われても、君はますます気になってしまうだろう。でも、一つだけ信じてほしい」
ルーファス様はいったん言葉を切り、少し緊張したように息を吸い込んだ。
そして、まるで大切な秘密を打ち明けるように、誠実な瞳で言葉を紡ぐ。
「君とこうして夫婦になれたことを、とても嬉しく思ってる」
わずかに赤くなった耳も、こちらを見つめる瞳も、まるで愛しい女性に意を決して告白しているようで、妙な錯覚に囚われそうになる。
――エミリーは私のことを魔性の女と言ったが、もしかすると魔性の男というものも存在するのかもしれなかった。
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