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15 社交クラブ潜入に向けて
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やがてレディバード・ベルベッドに到着しドアを開く。
幸い店内に他の客はいないようだった。
仕立屋の女主人が私たちを見つけ、笑顔でこちらに歩み寄る。
「いらっしゃいませ! 本日は何をお求めですか?」
「ごめんなさい、今日はグレイスと話したくて来たの。少しだけ彼女の時間をもらえないかしら」
私がそう伝えると、女主人は表情を曇らせた。
「今日は来ていないんです。あの子が休むことなんて滅多にないんですが」
思わずルーファスと顔を見合わせる。
急いだ方がいいかもしれない。
私たちは店を出ると、足早に馬車へと戻った。
グレイスの家の場所については、昨夜彼女を家まで送ったエミリーから聞いている。
「急ぎましょう。考えたくはないけれど……もしかしたらということもあるかもしれないから」
「ああ、そうだな」
ルーファスは険しい表情で御者に急ぐよう伝えてから、私の隣に乗り込んだ。
すぐに馬車が走り出す。私は焦る気持ちを抑え、窓の外を眺めた。
「……君は、魔物が怖くないのか?」
出し抜けに聞かれて、ルーファスの方を見る。
「君だって命の危険があるはずだ。いくら訓練していようとも、未知の存在と戦ってることに変わりない。今までは一人で立ち向かってたんだろう?」
「……怖いわよ。でもそれ以上に、私にとっては倒すべき敵なの」
まるで何かが欠落してしまったようにいつも凪いでる胸の中が、ざわざわとする。
腹の底で燻っている怒りの炎が、息を吹きかけられた薪のように火の粉を散らした。
「魔物は、私の大切なものを奪っていったから」
いつか、両親を殺して私の足を奪ったあの魔物を見つけたい。
そうしないと気が済まなかった。
「それに……何もしなければ、今後も奪われてしまうわ」
「どういうことだ?」
私は馬車のソファに座ったままスカートの裾をめくった。
ルーファスが慌てて目を逸らそうとする前に、足首の痣を見下ろして唇を開く。
「前にもこの痣を見せたでしょう? これは、母から魔女の血と呪いを受け継いだ証なの」
「生まれつきじゃなかったのか」
「このいばらのつぼみが膨らんで、花が咲くと、私は死ぬらしいわ」
淡々と告げると、ルーファスが息を呑んだ。
「つぼみを鎮める方法は、魔物を狩り続けることだけ。生きている限り逃れられないことなの。それに、平穏に生きていきたいと願っても、それが叶うとも思えない。魔物に殺されたお父様とお母様みたいに」
「……! 君のご両親は……そうだったのか」
「現場に魔力の痕跡がべったり残っていたの。私の脚もその時に失った。その瞬間の時のことはよく覚えていないのだけど」
「……そうか。辛いことを思い出させたね」
「もう昔のことよ」
ルーファスの、まるで自分が痛みを感じているような表情に思わず苦笑する。
こうして喋ってると、やはり優しい人だと感じてしまう。
「だから気遣いは無用よ。私は10年かけて魔物と戦うことのできる私を作り上げてきたの」
その間に失ったものもきっとたくさんある。
自覚できているか出来ていないかにかかわらず。
正気のままでは受け入れられないことがたくさんあった。
でも私は今の自分が好きだ。
納得できないことは何一つ選ばなかったから。
できるならこの先も、このままの自分でいたい。
今更他者の理解や優しさなどを求めたくはなかった。
だから私はルーファスの優しいまなざしに少し居心地の悪さを感じながら、グレイスのアパートへの到着をただ待つことにした。
グレイスのアパートは、労働階級の住居が多くある地区にあった。
当然、ここの住人は昼間留守にしていることが多いだろう。
しんと静まり返った中で、ますますグレイスが心配になった。
女主人に教えてもらった部屋の前までやってきた私は、そのドアをそっとノックする。
「グレイス、突然訪ねてごめんなさい。いるかしら?」
しばらく待っていると、やがてドアがかすかに空き、その隙間からグレイスが何かに怯えているような顔でこちらを覗き込んだ。
私の姿を認めた瞬間大きく目を見開く。
「イザベラ様……! ご無事だったのですね、よかった……。それにルーファス様も……」
顔色が悪かった。
やはり昨夜の事件が尾を引いているようだ。
グレイスは警戒するように周囲を見回してからドアを開いた。
「急に訪ねてごめんなさい。少しお話しできないかしら。その……昨日のことも話したくて」
グレイスは意を決したような顔で頷いた。
「こんな所までご足労をお掛けして申し訳ございません。どうぞ入りください」
クレイスは私たちに椅子を勧め、部屋のカーテンを開けた。
今まで薄暗い部屋で一人で過ごしていたらしい。
グレイスはあの時初めて人ならざる者を目視してしまったのだろう。
この怯えようも無理はない気がした。
「すみません、何もおもてなしができるような場所ではなく……」
「気にしないで。今日はあなたに聞きたいことがあって来たの。まず、昨夜は何事もなかった? 私の侍女があなたを馬車に乗せて、あの場から離れたと聞いているのだけど」
「ええ。エミリー様は、私をこのアパートの近くまで送ってくださいました」
昨夜のことを思い出したのか、エミリーはぶるりと身を震わせた。
「私は……何か、見てはいけないものを見てしまったのではないでしょうか」
私はグレイスにどう伝えるべきか少し考えてから口を開く。
「昨夜のあれは、ただの不審者だったわ。彼をつけてきたみたい。過激なファンかもね」
ルーファスが何か言いたげな視線を私に向け、小声で耳打ちをしてきた。
「不審者とは……いくらなんでも無理があるんじゃないか?」
「似たようなものよ。本当のことは言えないしね」
私も小声でそう返す。
不審者も魔物も、人間を害することに変わりはない。
それに今はまだ、グレイスの想い人があの恐ろしい化け物に関係しているかもしれないことは、伏せておいたほうがいいだろう。
愛する人が自分に危害を加えようとしていたかもしれないなんて、きっとすぐに信じられる話じゃない。
「そんな……。いえ、でも、あの時は私も気が動転していましたし……周囲も薄暗かったせいで、ただの人が、その……まるで化物に見えたのかもしれません」
グレイスは戸惑いながらも、自分で自分を納得させるようにそう言った。
正体の分からないものよりも、人間だと思った方が恐怖が紛れるのだろう。
「あの、彼は大丈夫なんですか? もしかして、なにか危険なことに巻き込まれているんじゃ……」
グレイスの方こそあんなに危険な目に遭い、おまけに先に逃げられてしまったのに、グレイスは自分よりもオリーのことが心配なようだった。
きっと心優しい子なのだろう。
「わからないわ。でもそうかもしれない。私たちは、彼の周辺について調べるためにここに来たの。何かおかしなことや変わったことはなかった?」
「……いえ、私の知る限りでは何も……。彼は本当に優しい人でした。いつも自分の仕事に対して真摯に向き合っていて、尊敬できて……。私も背筋を伸ばして仕事しようって、そんな風に思わせてくれるんです。彼に変な噂があることは知っています。でも、彼のような独特の絵を描く画家にとって、そういう噂話は作品の一部のようなものです」
グレイスの青ざめていた頬に、わずかに朱が差した。
「彼のことも心配だから、今どこにいるのか知りたいんだけど……心当たりはあるかしら」
そう聞いてみると、グレイスは少し考えるように首を傾げた。
「彼ならいつもコーヒーハウスかアトリエにいると思います。最近はクラブの集会場所にもアトリエを作ったって言ってましたから、もしかしたらそっちにいるかもしれません」
「……クラブか」
ルーファスは少し考えるような間の後、微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「僕も彼の『女神の楽園』というクラブについては聞いたことがあるよ。ぜひとも僕もそのクラブに入ってみたいものだと思っていたんだ。僕も芸術について見識を深めてみたくてね。君は何かクラブについての詳細を聞いてはいないか?」
「ええと、それは……」
グレイスの瞳が揺れる。
何かに迷っている様子だった。
私達が何も言わずに待っていると、グレイスは思い切ったように唇を開く。
「実は……一度私も参加してみないかと声をかけられたことがありました」
「あなたが?」
「ええ。基本的には紳士しか参加できないそうなんですけど……特別だって言って。実際に途中まで一緒に向かいました。でも、その……」
グレイスが言い淀む。
そして思いきったように私を見た。何かに怯えているような瞳だった。
「何だか、怖くて。クラブの集会場所は、ロンドンの外れにある廃墟みたいな修道院だったんです。彼の芸術性には合う場所だったのかもしれませんけど、私はどうしてもあの中に入りたくありませんでした」
「それで、そのまま引き返してきたの?」
「ええ。……でもそれ以来彼とも気まずくなってしまって。昨夜は久しぶりに会う約束をしていたんです」
もしかしたら、グレイスはレッドキャップに遭遇することで難を逃れたのかもしれない。
「グレイス、その修道院に行くまでの道について教えてくれるかしら。彼の身に危険が迫っているかもしれないの」
こんな風に言うのは、オリーに純粋な思いを寄せているグレイスを騙すようで忍びない。
けれどこの重要な手がかりをみすみす見逃す気もなかった。
グレイスはおそらく場所を秘密にするよう言われているのだろう。
しばらくためらっていたが、やがてぽつりぽつりと私たちに話してくれた。
「確かに、そこには10年ほど前まで修道院があったな。もうなくなったと聞いていたが、建物はまだ残されていたのか」
ルーファスには心当たりがあるらしい。
このぶんだと場所は問題なく特定できそうだ。
「グレイス。もし可能なら、しばらくあまり外に出ないでほしいの。せめて3日間はここにいて。もしかするとあの不審者があなたのことも狙っているかもしれないから。食料は私の侍女に届けさせるわ」
「え? でも……どうしてそこまでしてくださるんですか?」
「知っている人が犠牲になるのはもう嫌なのよ。絶対にね」
私は魔物を見ることも、退治することもできる。
けれど万能じゃない。
相手が悪意を持った人間であればなおさらだ。
特別な力を持っているのに人を守れないというのは、歯がゆく辛かった。
大人になった今はある程度割り切ることができても、やはり罪のない人が理不尽に襲われる可能性を見過ごすことはできない。
そんな私の事情を知る由もないグレイスは戸惑っていたが、それでも私の説得に応じてく頷いてくれた。
馬車に戻る頃には、すでに日暮れが迫っていた。
「クラブか。それなら僕が潜入して探ってくることにしよう。グレイスは何らかの目的で入ることを許されたみたいだが、君が立ち入れば目立つし怪しまれるだろうしな」
「あら、方法はあるわ。それに、あなたは実体化した魔物に対してこれ以上にないほど強いけど……そうでない魔物には攻撃できないんでしょう?」
ルーファスがうっと言葉に詰まる。
ルーファスがあれだけ膨大な魔力を纏っていながら物理攻撃に特化しているのは、もしかすると人間の血が濃いせいなのだろうか。
私が魔女の魔力を金属に込めて攻撃手段にしているように、ルーファスの魔力もなんらかの形で実体のない魔物に効くように加工できるかもしれない。
色々と試してみたいような気もするが、今はそれよりも社交クラブへの潜入についてだ。
「あなた一人で潜入したとして、もし廃修道院に実体化できないような中途半端な力を持つ魔物がたくさん居たらどうするの? 急に具合が悪くなって死んでしまうかもしれないわ」
「そ、そんな恐ろしいことがあるのか……?」
「人が突然死だと思っているものの何割かは魔物のせいよ。見えないぶん容易に対象に近づいて悪さができるから」
事故に見せかけて人を殺す魔物もいるし、病気にさせる魔物もいる。
ルーファスは知らないようだった。
「……お互いに持っている魔物に関する知識が違うようね」
「そうだな。君を危険な場所に連れていくにはあまり気は進まないが、能力のことを考慮すると君も一緒の方が心強い」
「大丈夫よ。あなたは私を庇護下に置くべきかよわい存在だと思ってるみたいだけど、それなりに戦えるわ」
「いや、そうじゃなくてだな……。まあ、いいか」
「……?」
「君が強いことはわかった上で、僕は個人の感情から勝手に心配しているだけだ。でも確かに、これは失礼なことでもあるのかもしれない。協力を申し出た以上、僕も自分のこの気持ちに折り合いを付けよう」
ルーファスは半ば独り言のようにそう言った。
「……それじゃあ、お互いに見つかっても誤魔化せるような格好で行くとしましょう。準備が必要ね。明日の夜に決行ということでどうかしら」
「ああ。異論はない」
決まりだった。
幸い店内に他の客はいないようだった。
仕立屋の女主人が私たちを見つけ、笑顔でこちらに歩み寄る。
「いらっしゃいませ! 本日は何をお求めですか?」
「ごめんなさい、今日はグレイスと話したくて来たの。少しだけ彼女の時間をもらえないかしら」
私がそう伝えると、女主人は表情を曇らせた。
「今日は来ていないんです。あの子が休むことなんて滅多にないんですが」
思わずルーファスと顔を見合わせる。
急いだ方がいいかもしれない。
私たちは店を出ると、足早に馬車へと戻った。
グレイスの家の場所については、昨夜彼女を家まで送ったエミリーから聞いている。
「急ぎましょう。考えたくはないけれど……もしかしたらということもあるかもしれないから」
「ああ、そうだな」
ルーファスは険しい表情で御者に急ぐよう伝えてから、私の隣に乗り込んだ。
すぐに馬車が走り出す。私は焦る気持ちを抑え、窓の外を眺めた。
「……君は、魔物が怖くないのか?」
出し抜けに聞かれて、ルーファスの方を見る。
「君だって命の危険があるはずだ。いくら訓練していようとも、未知の存在と戦ってることに変わりない。今までは一人で立ち向かってたんだろう?」
「……怖いわよ。でもそれ以上に、私にとっては倒すべき敵なの」
まるで何かが欠落してしまったようにいつも凪いでる胸の中が、ざわざわとする。
腹の底で燻っている怒りの炎が、息を吹きかけられた薪のように火の粉を散らした。
「魔物は、私の大切なものを奪っていったから」
いつか、両親を殺して私の足を奪ったあの魔物を見つけたい。
そうしないと気が済まなかった。
「それに……何もしなければ、今後も奪われてしまうわ」
「どういうことだ?」
私は馬車のソファに座ったままスカートの裾をめくった。
ルーファスが慌てて目を逸らそうとする前に、足首の痣を見下ろして唇を開く。
「前にもこの痣を見せたでしょう? これは、母から魔女の血と呪いを受け継いだ証なの」
「生まれつきじゃなかったのか」
「このいばらのつぼみが膨らんで、花が咲くと、私は死ぬらしいわ」
淡々と告げると、ルーファスが息を呑んだ。
「つぼみを鎮める方法は、魔物を狩り続けることだけ。生きている限り逃れられないことなの。それに、平穏に生きていきたいと願っても、それが叶うとも思えない。魔物に殺されたお父様とお母様みたいに」
「……! 君のご両親は……そうだったのか」
「現場に魔力の痕跡がべったり残っていたの。私の脚もその時に失った。その瞬間の時のことはよく覚えていないのだけど」
「……そうか。辛いことを思い出させたね」
「もう昔のことよ」
ルーファスの、まるで自分が痛みを感じているような表情に思わず苦笑する。
こうして喋ってると、やはり優しい人だと感じてしまう。
「だから気遣いは無用よ。私は10年かけて魔物と戦うことのできる私を作り上げてきたの」
その間に失ったものもきっとたくさんある。
自覚できているか出来ていないかにかかわらず。
正気のままでは受け入れられないことがたくさんあった。
でも私は今の自分が好きだ。
納得できないことは何一つ選ばなかったから。
できるならこの先も、このままの自分でいたい。
今更他者の理解や優しさなどを求めたくはなかった。
だから私はルーファスの優しいまなざしに少し居心地の悪さを感じながら、グレイスのアパートへの到着をただ待つことにした。
グレイスのアパートは、労働階級の住居が多くある地区にあった。
当然、ここの住人は昼間留守にしていることが多いだろう。
しんと静まり返った中で、ますますグレイスが心配になった。
女主人に教えてもらった部屋の前までやってきた私は、そのドアをそっとノックする。
「グレイス、突然訪ねてごめんなさい。いるかしら?」
しばらく待っていると、やがてドアがかすかに空き、その隙間からグレイスが何かに怯えているような顔でこちらを覗き込んだ。
私の姿を認めた瞬間大きく目を見開く。
「イザベラ様……! ご無事だったのですね、よかった……。それにルーファス様も……」
顔色が悪かった。
やはり昨夜の事件が尾を引いているようだ。
グレイスは警戒するように周囲を見回してからドアを開いた。
「急に訪ねてごめんなさい。少しお話しできないかしら。その……昨日のことも話したくて」
グレイスは意を決したような顔で頷いた。
「こんな所までご足労をお掛けして申し訳ございません。どうぞ入りください」
クレイスは私たちに椅子を勧め、部屋のカーテンを開けた。
今まで薄暗い部屋で一人で過ごしていたらしい。
グレイスはあの時初めて人ならざる者を目視してしまったのだろう。
この怯えようも無理はない気がした。
「すみません、何もおもてなしができるような場所ではなく……」
「気にしないで。今日はあなたに聞きたいことがあって来たの。まず、昨夜は何事もなかった? 私の侍女があなたを馬車に乗せて、あの場から離れたと聞いているのだけど」
「ええ。エミリー様は、私をこのアパートの近くまで送ってくださいました」
昨夜のことを思い出したのか、エミリーはぶるりと身を震わせた。
「私は……何か、見てはいけないものを見てしまったのではないでしょうか」
私はグレイスにどう伝えるべきか少し考えてから口を開く。
「昨夜のあれは、ただの不審者だったわ。彼をつけてきたみたい。過激なファンかもね」
ルーファスが何か言いたげな視線を私に向け、小声で耳打ちをしてきた。
「不審者とは……いくらなんでも無理があるんじゃないか?」
「似たようなものよ。本当のことは言えないしね」
私も小声でそう返す。
不審者も魔物も、人間を害することに変わりはない。
それに今はまだ、グレイスの想い人があの恐ろしい化け物に関係しているかもしれないことは、伏せておいたほうがいいだろう。
愛する人が自分に危害を加えようとしていたかもしれないなんて、きっとすぐに信じられる話じゃない。
「そんな……。いえ、でも、あの時は私も気が動転していましたし……周囲も薄暗かったせいで、ただの人が、その……まるで化物に見えたのかもしれません」
グレイスは戸惑いながらも、自分で自分を納得させるようにそう言った。
正体の分からないものよりも、人間だと思った方が恐怖が紛れるのだろう。
「あの、彼は大丈夫なんですか? もしかして、なにか危険なことに巻き込まれているんじゃ……」
グレイスの方こそあんなに危険な目に遭い、おまけに先に逃げられてしまったのに、グレイスは自分よりもオリーのことが心配なようだった。
きっと心優しい子なのだろう。
「わからないわ。でもそうかもしれない。私たちは、彼の周辺について調べるためにここに来たの。何かおかしなことや変わったことはなかった?」
「……いえ、私の知る限りでは何も……。彼は本当に優しい人でした。いつも自分の仕事に対して真摯に向き合っていて、尊敬できて……。私も背筋を伸ばして仕事しようって、そんな風に思わせてくれるんです。彼に変な噂があることは知っています。でも、彼のような独特の絵を描く画家にとって、そういう噂話は作品の一部のようなものです」
グレイスの青ざめていた頬に、わずかに朱が差した。
「彼のことも心配だから、今どこにいるのか知りたいんだけど……心当たりはあるかしら」
そう聞いてみると、グレイスは少し考えるように首を傾げた。
「彼ならいつもコーヒーハウスかアトリエにいると思います。最近はクラブの集会場所にもアトリエを作ったって言ってましたから、もしかしたらそっちにいるかもしれません」
「……クラブか」
ルーファスは少し考えるような間の後、微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「僕も彼の『女神の楽園』というクラブについては聞いたことがあるよ。ぜひとも僕もそのクラブに入ってみたいものだと思っていたんだ。僕も芸術について見識を深めてみたくてね。君は何かクラブについての詳細を聞いてはいないか?」
「ええと、それは……」
グレイスの瞳が揺れる。
何かに迷っている様子だった。
私達が何も言わずに待っていると、グレイスは思い切ったように唇を開く。
「実は……一度私も参加してみないかと声をかけられたことがありました」
「あなたが?」
「ええ。基本的には紳士しか参加できないそうなんですけど……特別だって言って。実際に途中まで一緒に向かいました。でも、その……」
グレイスが言い淀む。
そして思いきったように私を見た。何かに怯えているような瞳だった。
「何だか、怖くて。クラブの集会場所は、ロンドンの外れにある廃墟みたいな修道院だったんです。彼の芸術性には合う場所だったのかもしれませんけど、私はどうしてもあの中に入りたくありませんでした」
「それで、そのまま引き返してきたの?」
「ええ。……でもそれ以来彼とも気まずくなってしまって。昨夜は久しぶりに会う約束をしていたんです」
もしかしたら、グレイスはレッドキャップに遭遇することで難を逃れたのかもしれない。
「グレイス、その修道院に行くまでの道について教えてくれるかしら。彼の身に危険が迫っているかもしれないの」
こんな風に言うのは、オリーに純粋な思いを寄せているグレイスを騙すようで忍びない。
けれどこの重要な手がかりをみすみす見逃す気もなかった。
グレイスはおそらく場所を秘密にするよう言われているのだろう。
しばらくためらっていたが、やがてぽつりぽつりと私たちに話してくれた。
「確かに、そこには10年ほど前まで修道院があったな。もうなくなったと聞いていたが、建物はまだ残されていたのか」
ルーファスには心当たりがあるらしい。
このぶんだと場所は問題なく特定できそうだ。
「グレイス。もし可能なら、しばらくあまり外に出ないでほしいの。せめて3日間はここにいて。もしかするとあの不審者があなたのことも狙っているかもしれないから。食料は私の侍女に届けさせるわ」
「え? でも……どうしてそこまでしてくださるんですか?」
「知っている人が犠牲になるのはもう嫌なのよ。絶対にね」
私は魔物を見ることも、退治することもできる。
けれど万能じゃない。
相手が悪意を持った人間であればなおさらだ。
特別な力を持っているのに人を守れないというのは、歯がゆく辛かった。
大人になった今はある程度割り切ることができても、やはり罪のない人が理不尽に襲われる可能性を見過ごすことはできない。
そんな私の事情を知る由もないグレイスは戸惑っていたが、それでも私の説得に応じてく頷いてくれた。
馬車に戻る頃には、すでに日暮れが迫っていた。
「クラブか。それなら僕が潜入して探ってくることにしよう。グレイスは何らかの目的で入ることを許されたみたいだが、君が立ち入れば目立つし怪しまれるだろうしな」
「あら、方法はあるわ。それに、あなたは実体化した魔物に対してこれ以上にないほど強いけど……そうでない魔物には攻撃できないんでしょう?」
ルーファスがうっと言葉に詰まる。
ルーファスがあれだけ膨大な魔力を纏っていながら物理攻撃に特化しているのは、もしかすると人間の血が濃いせいなのだろうか。
私が魔女の魔力を金属に込めて攻撃手段にしているように、ルーファスの魔力もなんらかの形で実体のない魔物に効くように加工できるかもしれない。
色々と試してみたいような気もするが、今はそれよりも社交クラブへの潜入についてだ。
「あなた一人で潜入したとして、もし廃修道院に実体化できないような中途半端な力を持つ魔物がたくさん居たらどうするの? 急に具合が悪くなって死んでしまうかもしれないわ」
「そ、そんな恐ろしいことがあるのか……?」
「人が突然死だと思っているものの何割かは魔物のせいよ。見えないぶん容易に対象に近づいて悪さができるから」
事故に見せかけて人を殺す魔物もいるし、病気にさせる魔物もいる。
ルーファスは知らないようだった。
「……お互いに持っている魔物に関する知識が違うようね」
「そうだな。君を危険な場所に連れていくにはあまり気は進まないが、能力のことを考慮すると君も一緒の方が心強い」
「大丈夫よ。あなたは私を庇護下に置くべきかよわい存在だと思ってるみたいだけど、それなりに戦えるわ」
「いや、そうじゃなくてだな……。まあ、いいか」
「……?」
「君が強いことはわかった上で、僕は個人の感情から勝手に心配しているだけだ。でも確かに、これは失礼なことでもあるのかもしれない。協力を申し出た以上、僕も自分のこの気持ちに折り合いを付けよう」
ルーファスは半ば独り言のようにそう言った。
「……それじゃあ、お互いに見つかっても誤魔化せるような格好で行くとしましょう。準備が必要ね。明日の夜に決行ということでどうかしら」
「ああ。異論はない」
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