【完結】魔女と狼伯爵の契約結婚

保月ミヒル

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20 初めての気持ち

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 私は寝室の小さなテーブルの上に手帳を広げ、今回のことを記していた。
 レッドキャップのことや、リャナンシーのこと。
 そしてその裏には強力な魔物ではなく、哀れな芸術家がいたこと。

 あの後、地下から行方不明になっていた女性の体の一部が見つかり、新進気鋭の画家オリー・エヴァンズはロンドン市警に逮捕された。
 ルーファスが連れていた使用人、つまり変装した私が発見者ということになっている。
 オリーは『黒い狼に殺される』と繰り返していて、牢から出たがらないらしい。警察では、芸術に傾倒するあまり正気を失ったとされているようだ。
 気の毒なことだ。

 そして今、その恐ろしい獣である本人……というか本狼は、私の手帳を興味深そうに覗き込んでいる。
 もちろん、今は人間の姿だ。

「何か参考になりそうかしら?」
「ああ。僕の知らないことも多かった。見せてくれてありがとう」

 お礼を言いながら、ルーファスはあくびをかみ殺した。
 事件から数日経っているが、彼は今日までこの件を書類にまとめることに忙しくしていたらしい。
 警察が捜査しない怪奇事件を扱う内務省の監察官などという奇っ怪な立場にいるがゆえのことだったが、しかし書類に本当のことを書けば彼自身のことにも言及しなければならなくなる。

 それゆえに、適切にぼかしてことの顛末を伝え、オリーの周囲の女性の失踪が見過ごされてきたことも添えて、未解決怪奇事件の捜査は今後とも必要であることを訴える書類を作るために頭を絞っていたらしい。
 しばらく警察や内務省を行き来する生活をしていたけれど、今夜は久しぶりにゆっくり過ごすつもりのようだった。

「ところで、リャナンシーはどうしてる?」
「今はルーシーよ。使用人としての仕事は初めてみたいだけど、新鮮で楽しいって言ってたわ」

 リャナンシー、もといルーシーは、しばらく私たちの屋敷で働くこととなった。
 以前の私だったら魔物を身近に置くなんて考えられないことだったが、エミリーやルーファスと接してその考えが少し変わった。
 それに、強力な魔力をたくわえた存在を街に出すよりも、身近に置いて様子を見た方が安全というものだろう。

「……ルーシーとも契約したと聞いたが」
「ええ、念のためね。彼女も同意してくれたから」

 彼女は、自分が再び人間を害してしまうのではないかと怯えていた。
 契約で縛れば私の意に反することはできないということで、彼女は私の提案にすぐさま頷いてくれたのだった。

「そうか」

 ルーファスがぽつりと呟く。

「……そうか」

 もう一度。
 今度は何かを言いかけて止めたようなニュアンスだった。

「どうしたの?」
「いや……」

 妙に歯切れが悪い。
 じっと見つめていると、ルーファスは「う……」と小さく呻いた。
 そして観念したように唇を開く。

「その…………したのか? 僕以外と」

 私は少し首を傾げてから、キスのことだと思い当たった。

「指を少し切って握手をしただけよ。ほら」

 私は指先に残る小さな傷跡を見せた。

「そうか。よかった……」
「でも今思えば、キスの方がよかったかもしれないわね。ルーシーも痛い思いをしないで済むし」
「なっ……!」
「冗談よ」

 面白いくらいに動じてくれるルーファスをからかいながら、何か胸の奥がむずむずするのを感じた。
「ところで……善良な魔物と人間の共生、本当にできると思う?」

 私はルーファスに聞く。

「そう願いたい。人狼の血を引いた僕が存在するということは、昔心を通わせた魔物と人間がいたということだろう?」

 確かにそうかもしれない。
私はずっと、魔物の性は悪だと思っていた。無害な妖精もいるが、その本質は奪うことしか考えていないと。

 しかし悪意は魔物の中だけでなく、人間の中にもある。
 私は今回の件でそれを思い知ったのだけれど、それなら善意や美徳だって、きっと人間だけのものではない。 

「……僕と契約を交わしたこと、後悔はしていないか?」
「いいえ。むしろ良かったと思っているわ」

 私の魔力は限られていた。
回復にも時間がかかるし、使い方にも癖がある。けれどルーファスと契約を交わすことによって、何倍にも使い勝手がよくなった。
 今まで以上に順調に魔物狩りを進めていけることだろう。

「それが聞けて安心したよ。今後のことについては、また今度話そう」

 ルーファスはほっとしたように言って、私から離れる。

「それじゃあ、おやすみ」

 そのままドアノブに手をかけたのを見て、私は思わず声をかけた。

「どこに行くの?」
「え? いや、今夜も書斎のカウチで眠るつもりだったんだが」

 ルーファスが当然のように言う。
 私と同じ寝室で眠る気はないらしい。

「それなら、今夜は私がカウチを借りるわ。ひと仕事終えてくたくたの夫をカウチで寝かせるのだと思うと、さすがに良心が咎めるもの」

 ルーファスの従者であるジャックも、ますます眉間に皺を寄せるに違いない。

「それはさせられない。君が風邪を引いたらどうする」
「それじゃあ一緒に寝ましょうか。一応、ここは夫婦の寝室でもあるんだから」

 折衷案はそれしかない。
 何気なく口にすると、ルーファスが目を見開いた。

「……君がいいなら、僕は構わないが……しかし……」
「じゃあ問題ないわね」

 すでに着替えは済ませてある。手帳を書くために灯していた蝋燭を吹き消すと、私は先にベッドに入った。
 ルーファスも何か葛藤するような間のあと、そっと私の隣に入ってくる。

「何もしないから安心してほしい」
「わかっているわ。別にそういう目的で夫婦になったわけではないものね」

 承知していることなのに、言葉にするとなぜか少しの寂しさがあった。
 私は両親に憧れていたのかもしれない。秘密を抱えつつも、互いを思いやり愛するあの姿に。

「……」

 何か言いたげな無言が続き、ルーファスがこちらに寝返りを打つ。

「どうしたの?」
「いや、どう伝えれば君の心に触れることができるのか考えていた」
「たまにキザな言い回しをするわよね。そういうの、いらぬ誤解を招くと思うわ」

 ルーファスが眉根を寄せる。どうやら気に障ることを言ってしまったようだ。

「本当に何も伝わっていないみたいだな。僕は、本当に君のことを――」

 ルーファスが何か言いかけたその時、彼の背後からひょっこりと見えたものがあった。
 黒くふさふさした尻尾だ。
 思わず目で追うと、ルーファスがはっとしたような顔をする。

「ああ、クソ」

 紳士にあるまじき悪態をつくと、自分の尻尾を片手で捕まえ、シーツの中へと戻す。

「気にしないでくれ。先日初めて完全な狼になったんだ。そのせいでたまに制御が利かなくなる」
「それは……仕事に支障はないの? もし他の人がいる場でこうなったら……」
「大丈夫だ。動揺したり、相当感情が高ぶった時じゃないとこうはならない。それに、制御の仕方も少しは分かってきた」

 ……なるほど。
 私はほんの悪戯心で、ルーファスに寄り添ってみた。

「……!」

 尻尾が左右に揺れる。今度は狼の耳までもぴょこんと現われ、動揺したようにぴくぴくと動いた。
 ……可愛い。

「もしかして、私が近づくと嬉しいの?」

 ルーファスはきっと少し驚いただけだ。
 けれど動揺しているさまを見ると、ついからかいたくなってしまう。
 しばらくの気まずそうな間のあと、ルーファスは頷いた。

「……そうだ。君のことを、愛してるから」

 初めて聞いた言葉に、私は大きく目を見開く。
 愛しているというのは、言葉通りの意味だろうか。いや、この人が器用に嘘をつけるタイプではないということを、私はもう知っている。
 それに、ルーファスのこの尻尾を見る限り、嘘をついているわけでも、夫婦としての表面上の会話というわけでもなさそうだ。

「……さすがに、そこまで驚かれることに驚くんだが。君への好意を隠してるつもりはなかった」

 確かに好意を示すような言葉は伝えられていた。でも……

「私の協力を得るため、とか。好意でも、仲間意識から来る好意の可能性もあるわよね。一応結婚しているのだから、家族愛という可能性も……?」
「そこまで丁寧にパートナーとしての愛情を除外する必要はないんじゃないか……?」

 ルーファスが呆れたように言う。
 なんだか今更この状況に落ち着かない気持ちになった。

「いつから?」
「……ずっと前から。君が魔物と対峙するところを見たのは、あの舞踏会が初めてじゃない」
「そうだったの……?」

 意外だった。
 他の人に魔物を狩るところを見られたら面倒なことになる。
 エミリーも周囲には充分に注意してくれていたはずだ。

「誰にも見られないように、周囲には気を配っていたつもりなのだけど」

「そうだろうね。でも、僕も魔物の気配は感じ取れる。だから、ここ数年間、ロンドンで起きる無数の怪奇事件を調べているうちに、君の存在に気づいたんだ。まさか人知れず魔物を狩っている『ハンター』が、義足の小柄な女性だと知ったときは驚いたが」

 話しぶりから察するに、最近知ったというわけではなさそうだった。

「君に感心して、同時に自分を恥じたよ。当時の僕は、自分の正体が世間に露見することを恐れるあまりなにもできなかった。僕が内務省にかけあって警察に働きかけたきっかけは、君にもらったようなものだ」
「……初めて知ったわ」
「初めて話したからな」

 まさか、以前から知られているとは思っていなかった。

「舞踏会の夜も、バルコニーから私を眺めていたみたいだけど……あれは、私の力量を測っていたのかしら。以前から知っていたなら、声をかけてくれてもいいのに」

 後から婚約という形で顔を合わせるよりも、もっとスムーズに話が運んだような気がする。
 魔物の血を引いていると聞けば私は警戒するだろうけれど、妙な拗れ方はしなかったのではないだろうか。

「君の言う通り、声をかけようと思った。でも、それはできなかったんだ。……戦う君の姿に見惚れいて」
「見惚れ……どうして?」

 私は思わず珍しい生き物を見るような顔でルーファスを見つめ返した。
 足首が出るのにも構わず見えない何かと戦う令嬢などというものは、一般的な紳士から見て眉をしかめるべき存在ではないのだろうか。
 すると、ルーファスは少し気恥ずかしそうにぶっきらぼうな口調で言葉を続けた。

「僕は君のことを知っていただけじゃない。憧れだった。こんなことを言うのはおかしいかもしれないが……つまり、君は、その……俺にとっての、ヒーローだった」

 ヒーロー。
 言われ慣れていない言葉を口の中で転がしてみる。
 そういえば、ルーファスの旧友であるライリーを訪ねた時、ルーファスは『ガキの頃に妄想してたヒーローみたいな女と結婚したのか』と言われていた。
 まさかその通りだったとは。
 なんだか気恥ずかしい。

「でも、ヒーローと結婚したいだなんて、変わってるわね」
「君への敬意と恋情は両立するよ。でも、初めは君の側で協力できればそれでよかった。それなのに――」 

「結婚してから、君には振り回されっぱなしだ。人の気も知らないで何の気なしに触れてくるわ、契約のためとはいえ人の襟首掴んでキスはするわ……」
「想定外の新婚生活になったみたいね。後悔してるかしら」

 むずがゆいような照れくさいような感覚に耐えきれず、思わず軽口を叩く。

「後悔するわけがない。しばらく一緒に暮らして、君のことをもっと好きになった」

 真っ直ぐに返ってきた言葉に、逃げ場がなくなったような気がした。
 私よりも大きな手に、頬を包み込まれる。

「キスをやり直してもいいか? さすがに不意をつかれたままだと夫として恰好がつかない」

 契約のためにした鉄格子越しのキスのことを言っているのだろう。
 小さく頷くと、そっと唇が重ねられた。
 優しいキスは、かすかな温もりを残してすぐに離れていく。

 間近で見つめられて、なぜか胸のあたりがそわそわした。
 冷たい鉄の牢越しにしたキスとは全く違う。
 間近でこちらを見つめる瞳から今すぐ逃げ出してしまいたくなる。
 初めての感覚に戸惑い、回らない頭でなんとか言葉をひねり出す。

「ええと……これは、妻としての義務よね?」

 ついそんなことを言ってしまったのは、今までにない甘酸っぱい空気に耐えかねてのことだった。

「嫌ならやめる。君の意思を尊重したい」

 そう言われて、少し考えてみる。嫌ではない。そう伝えると、ルーファスは私を抱き寄せる腕に力を込め、唇を寄せた。
 最初は唇についばむようなキスから始まり、次に頬、その次は耳元と、ルーファスの唇が移動していく。
 勝手に吐息が零れ、私は自分の唇を軽く噛んだ。

「……こんなにたくさんするものなの?」
「したいからしてる。あまり好きじゃないのか?」
「そういうわけでは……ないみたい」

 契約のために交わしたキスとは違う。
 頬を撫でる手や、ついばむようなキスからは、ルーファスの私に対する思いが伝わってくるような気がした。

「長いこと誤解されていたみたいだから、改めて伝えておこう。僕は君のことをちゃんと愛してる。君を利用するために結婚を申し込んだわけじゃない。……信じてもらえるか?」

 ルーファスの指先がそっと私の髪を梳く。

「貴族同士の結婚は義務の側面が大きいことを、僕も知っている。それに、僕は以前から君を知っていたけれど、君のほうはそうじゃない。僕の一方的な片想いのような関係だということは承知してる。だけど、君にこれからも僕と夫婦を続けてくれる気があるのなら、大切にしたいんだ。嫌がることはしないと約束する。だからこれからも、危険に立ち向かう君の側にいさせてくれないか。そしてできれば、こうやって君に想いを伝えることも許してほしい」

 青みがかったグレーの瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
 胸を締め付けるような切なさと、温かく柔らかいものに包まれているような感覚。
 それは長らく私が知らなかったもので、戸惑いを覚えた。
 昔々、小さな頃に母様や父様に抱きしめられたときと、少し似てる。
 でも明確な違いがあった。

「もしかしたら、この気持ちが恋なのかもしれないわ。初めてだからよくわからないのだけど」
「ベラ……」

 初夜に怯えていたあの夜とは違って、このままどうなってもいいと思える。
 でも――おかげで、ひとつ新しい懸念ができてしまった。

「ねえ、ルーファス。お願いがあるの」
「なんだ?」
「申し訳ないんだけど、その……」

 さすがに伝えづらい内容に、思わず言い淀む。

「大丈夫だ。なんでも言ってほしい」

 その言葉に励まされて、私は再び口を開いた。

「子供ができるようなことは、しないでほしいの。お願いできるかしら」
「…………え?」
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