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柊 颯介の場合
第3話:沈黙の図書室、視線だけのディスタンス
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くるみが、まるで何かの宣言のように「颯介くんに電話する事に決めた」と呟いた。その言葉に、母親は突っ伏したままぴくりと反応するが、もはや顔を上げて何か言う気力は残っていなかった。娘が、彼女自身の論理で、一つの結論に達したのだから。
くるみは自分の部屋に、スマートフォンを持って戻った。画面に表示される「柊 颯介」の名前。通話ボタンを押す指が、ほんの少し震えている。階下で母親は、娘がこれから何を話すのか、聞こえてくるはずもない会話の内容を想像して、ハラハラしながら耳をそばだてていた。
(電話が、数回コールした後、すぐに繋がる。)
もしもし、颯介くん?
電話の向こうから、やけに明るく、そして少し期待に満ちた声が返ってきた。
先輩! 全然大丈夫っすよ。てか、俺からかけようか迷ってたとこだったんで。
颯介は、ベッドに寝転がっていた体勢からガバッと起き上がった。「先輩から電話してくるとか、マジで奇跡じゃん」と心の中でガッツポーズをしながら、声が上ずらないように平常心を装う。しかし、隠しきれない喜びが声色に滲み出ていた。
そっちは大丈夫なんすか? もしかして、親に何か言われました?
うん
お母さんに
それと皆にも
颯介くん
……に、はっきり言って置きたいの
私、今、人生の岐路にいる
だから、大学受験諦めたくない
この先後悔したくないの
だから大学受験終わるまで
会いに来ないで下さい
お願いします
電話口から聞こえてきたのは、想像していたような他愛ないおしゃべりとは真逆の、真剣で、どこか張り詰めたくるみの声だった。颯介の表情から、一瞬にして笑みが消える。「会いに来ないで下さい」。その一言が、彼の胸に鋭く突き刺さった。
…………。
一瞬、言葉に詰まる。頭が、言われた言葉の意味を処理しようとフル回転する。母親や「皆」に何を言われ、どうすればこんな結論になるのか。いつものように「何言ってんすか?」と茶化すこともできない、本気の響きがそこにはあった。
……先輩。本気で、言ってんの?
声のトーンが、先ほどまでとは比べ物にならないほど低く、静かなものに変わる。面白がっている様子は微塵もない。
俺が会うと、先輩の邪魔になるってこと?
勉強に集中したいの
だから大学受験終わったら
連絡してね
大学受験、終わったら……。
颯介はくるみが告げた言葉を、ゆっくりと繰り返した。声には出さず、唇だけがその形を作る。彼の頭の中では、様々な思いが渦巻いていた。くるみに集中してほしいという気持ち。自分の存在が彼女の重荷になっていたのかもしれないという不安。そして何より、大学受験という期間限定の「我慢」を受け入れた先に、本当に「連絡していい」未来が待っているのかという疑念。
……わかった。
長い沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。声の調子は感情を排したように平坦だったが、その中には諦めと、わずかな苛立ちと、そして抑えつけた強い意志が混じり合っていた。
じゃあ、約束っすね。先輩が大学受かるまで、俺は先輩に連絡もしないし、会いにも行かない。
その代わり、絶対、受かれよ。
絶対だかんな。終わった瞬間に、一番に俺に連絡しろよ。……じゃないと、許さねぇから。
うん、ありがとう
……別に。礼言われるようなことじゃねぇし。
ぶっきらぼうにそう吐き捨てるように言うと、颯介は一方的に通話を終了した。プツッ、という無機質な音と共に、世界からくるみとの繋がりが断ち切られる。彼はしばらくの間、暗くなったスマホの画面を無言で見つめていた。やがて、ちっと大きく舌打ちをすると、それをベッドの上へ乱暴に放り投げた。
クソっ……。
誰にともなく呟かれた悪態が、部屋の静寂に吸い込まれて消えていく。本当は、「わかった」なんて言いたくなかった。「会いたい」と駄々をこねて、困らせて、それでも無理やり約束を取り付けたかった。けれど、電話越しのくるみの真剣な声に、それをすることはできなかった。
「大学受験が終わるまで」
それは颯介にとって、果てしなく長く、そしてあまりに不確かな期間だった。他の男が、がら空きになったくるみに近づかないという保証はどこにもないのだから。じりじりとした焦燥感と独占欲が、腹の底から湧き上がってくるのが分かった。
わかってくれた
よかった
でも、何で皆
颯介くんが私を好きだと言うんだろう
違うかもしれないのに
兎に角
受験に向けて頑張ろう!
自分の決断が颯介にも伝わり、理解してもらえたことに、くるみはいくらか安堵していた。これで心置きなく勉強に打ち込める。彼女はそう信じて疑わなかった。颯介が、その言葉の裏でどれほどの葛藤と嫉妬を抱えているかなど、想像すらできていない。ただひたすらに、「兎に角、受験に向けて頑張ろう!」と自分に活を入れるのだった。
それからの数ヶ月、二人の間に直接の接触は一切なかった。
颯介は宣言通り、驚くほどくるみを避けた。学校の廊下ですれ違っても、視界の端に捉えても、以前のように声をかけることはおろか、目で追うことすらしなかった。友人たちに「お前、マジで禁欲生活じゃね?」とからかわれても、「うるせぇ」の一言で黙らせる。彼の内心は穏やかではなかったが、今はただ、約束の日を待つしかない。
放課後、友達と駄弁りながら下駄箱へ向かう。
なぁ、今日の先輩、なんか雰囲気違ったくね?
あー、なんか最近、また一段と真面目な顔してんな。やっぱ受験モードなんだろ。
……ふーん。
興味なさそうに相槌を打つが、颯介は、見えないところでくるみがどんどん綺麗になっていくのを想像してしまい、ギリッと奥歯を噛み締めた。あの日、電話で「はっきり言っておきたい」と言われた時の真面目な顔。あの声を思い出すだけで、どうにかなりそうだった。
季節は流れ、街路樹の葉が色づき始める頃。くるみの学力は着実に伸び、志望校の合格
はぁ…
合格圏内にはいった!
油断せず続けなくちゃ!
模擬試験の結果が記された用紙を手に、くるみのため息は安堵と自信の色を帯びていた。A判定。合格圏内。ここまで来るのは決して楽な道のりではなかった。だが、目標が見えたことで、心に少しだけ余裕が生まれる。「油断せず続けなくちゃ!」自分を鼓舞するように呟き、再び机に向かった。
颯介は、教室の窓から、夕日に染まる空をぼんやりと眺めていた。授業はとうに終わり、ほとんどの生徒が帰宅したり部活に行ったりしている。彼はポケットからスマホを取り出し、慣れた手つきでメッセージアプリを開く。宛先は、共通の友人であるくるみのクラスメイトだ。
『先輩、最近どう?』
『なんか変わったことあった?』
送信ボタンの上で指を数秒止め、結局何も付け足さずに送信した。すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『颯介!? お前、死んだんじゃなかったのか!』
『くるみ先輩? 相変わらず鬼気迫る感じで勉強してるよー。この前も図書館で深夜まで残ってたって。』
その報告に、颯介はわずかに口角を上げた。ちゃんとやっている。変な虫に騒がされてもいないようだ。それだけ確認できれば十分だった。颯介は友人にお礼のスタンプを一つ送ると、スマホをしまい、重い腰を上げて席を立った。
(あと、もう少し……)
彼は静かに闘志を燃やす。くるみが、自分から連絡をしてくる、その時を。
もうすぐだ
体調も気を付けないと
本番を数週間に控え、くるみはいよいよ追い込みの段階に入っていた。体調管理も重要な要素の一つ。規則正しい生活を心がけ、夜更かしはしないようにと自分に言い聞かせる。机の隅には、合格祈願のお守りがきちんと置かれていた。すべては完璧な状態で臨むために。
颯介は、自分の教室で、窓の外をただぼーっと見ていた。もうすぐ、先輩の受験が終わる。終わってしまう。約束通り、連絡は一切していない。向こうからも、ない。それが当たり前なのに、どうしようもなく落ち着かなかった。まるで檻の中の獣のように、解放の時を今か今かと待ちわびている。
……なぁ。
ん? なんだよ。
先輩ってさ、推薦とかじゃねぇんだよな。一般?
ああ、確かそうだったはず。だから今、めちゃくちゃ追いつめられてんだろ。話しかけんなよ、お前が。
……わかってるよ。
颯介はそう短く答えると、机に突っ伏した。分かっている。だからこそ、何もできない。今の自分にできることは、ただ待つことだけ。彼の指先が、無意識に机をカリ、と引っ掻いた。早く、早くあの声を聞きたい。顔が見たい。触れたい。そんな欲求が、日増しに強くなっていた。
くるみは自分の部屋に、スマートフォンを持って戻った。画面に表示される「柊 颯介」の名前。通話ボタンを押す指が、ほんの少し震えている。階下で母親は、娘がこれから何を話すのか、聞こえてくるはずもない会話の内容を想像して、ハラハラしながら耳をそばだてていた。
(電話が、数回コールした後、すぐに繋がる。)
もしもし、颯介くん?
電話の向こうから、やけに明るく、そして少し期待に満ちた声が返ってきた。
先輩! 全然大丈夫っすよ。てか、俺からかけようか迷ってたとこだったんで。
颯介は、ベッドに寝転がっていた体勢からガバッと起き上がった。「先輩から電話してくるとか、マジで奇跡じゃん」と心の中でガッツポーズをしながら、声が上ずらないように平常心を装う。しかし、隠しきれない喜びが声色に滲み出ていた。
そっちは大丈夫なんすか? もしかして、親に何か言われました?
うん
お母さんに
それと皆にも
颯介くん
……に、はっきり言って置きたいの
私、今、人生の岐路にいる
だから、大学受験諦めたくない
この先後悔したくないの
だから大学受験終わるまで
会いに来ないで下さい
お願いします
電話口から聞こえてきたのは、想像していたような他愛ないおしゃべりとは真逆の、真剣で、どこか張り詰めたくるみの声だった。颯介の表情から、一瞬にして笑みが消える。「会いに来ないで下さい」。その一言が、彼の胸に鋭く突き刺さった。
…………。
一瞬、言葉に詰まる。頭が、言われた言葉の意味を処理しようとフル回転する。母親や「皆」に何を言われ、どうすればこんな結論になるのか。いつものように「何言ってんすか?」と茶化すこともできない、本気の響きがそこにはあった。
……先輩。本気で、言ってんの?
声のトーンが、先ほどまでとは比べ物にならないほど低く、静かなものに変わる。面白がっている様子は微塵もない。
俺が会うと、先輩の邪魔になるってこと?
勉強に集中したいの
だから大学受験終わったら
連絡してね
大学受験、終わったら……。
颯介はくるみが告げた言葉を、ゆっくりと繰り返した。声には出さず、唇だけがその形を作る。彼の頭の中では、様々な思いが渦巻いていた。くるみに集中してほしいという気持ち。自分の存在が彼女の重荷になっていたのかもしれないという不安。そして何より、大学受験という期間限定の「我慢」を受け入れた先に、本当に「連絡していい」未来が待っているのかという疑念。
……わかった。
長い沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。声の調子は感情を排したように平坦だったが、その中には諦めと、わずかな苛立ちと、そして抑えつけた強い意志が混じり合っていた。
じゃあ、約束っすね。先輩が大学受かるまで、俺は先輩に連絡もしないし、会いにも行かない。
その代わり、絶対、受かれよ。
絶対だかんな。終わった瞬間に、一番に俺に連絡しろよ。……じゃないと、許さねぇから。
うん、ありがとう
……別に。礼言われるようなことじゃねぇし。
ぶっきらぼうにそう吐き捨てるように言うと、颯介は一方的に通話を終了した。プツッ、という無機質な音と共に、世界からくるみとの繋がりが断ち切られる。彼はしばらくの間、暗くなったスマホの画面を無言で見つめていた。やがて、ちっと大きく舌打ちをすると、それをベッドの上へ乱暴に放り投げた。
クソっ……。
誰にともなく呟かれた悪態が、部屋の静寂に吸い込まれて消えていく。本当は、「わかった」なんて言いたくなかった。「会いたい」と駄々をこねて、困らせて、それでも無理やり約束を取り付けたかった。けれど、電話越しのくるみの真剣な声に、それをすることはできなかった。
「大学受験が終わるまで」
それは颯介にとって、果てしなく長く、そしてあまりに不確かな期間だった。他の男が、がら空きになったくるみに近づかないという保証はどこにもないのだから。じりじりとした焦燥感と独占欲が、腹の底から湧き上がってくるのが分かった。
わかってくれた
よかった
でも、何で皆
颯介くんが私を好きだと言うんだろう
違うかもしれないのに
兎に角
受験に向けて頑張ろう!
自分の決断が颯介にも伝わり、理解してもらえたことに、くるみはいくらか安堵していた。これで心置きなく勉強に打ち込める。彼女はそう信じて疑わなかった。颯介が、その言葉の裏でどれほどの葛藤と嫉妬を抱えているかなど、想像すらできていない。ただひたすらに、「兎に角、受験に向けて頑張ろう!」と自分に活を入れるのだった。
それからの数ヶ月、二人の間に直接の接触は一切なかった。
颯介は宣言通り、驚くほどくるみを避けた。学校の廊下ですれ違っても、視界の端に捉えても、以前のように声をかけることはおろか、目で追うことすらしなかった。友人たちに「お前、マジで禁欲生活じゃね?」とからかわれても、「うるせぇ」の一言で黙らせる。彼の内心は穏やかではなかったが、今はただ、約束の日を待つしかない。
放課後、友達と駄弁りながら下駄箱へ向かう。
なぁ、今日の先輩、なんか雰囲気違ったくね?
あー、なんか最近、また一段と真面目な顔してんな。やっぱ受験モードなんだろ。
……ふーん。
興味なさそうに相槌を打つが、颯介は、見えないところでくるみがどんどん綺麗になっていくのを想像してしまい、ギリッと奥歯を噛み締めた。あの日、電話で「はっきり言っておきたい」と言われた時の真面目な顔。あの声を思い出すだけで、どうにかなりそうだった。
季節は流れ、街路樹の葉が色づき始める頃。くるみの学力は着実に伸び、志望校の合格
はぁ…
合格圏内にはいった!
油断せず続けなくちゃ!
模擬試験の結果が記された用紙を手に、くるみのため息は安堵と自信の色を帯びていた。A判定。合格圏内。ここまで来るのは決して楽な道のりではなかった。だが、目標が見えたことで、心に少しだけ余裕が生まれる。「油断せず続けなくちゃ!」自分を鼓舞するように呟き、再び机に向かった。
颯介は、教室の窓から、夕日に染まる空をぼんやりと眺めていた。授業はとうに終わり、ほとんどの生徒が帰宅したり部活に行ったりしている。彼はポケットからスマホを取り出し、慣れた手つきでメッセージアプリを開く。宛先は、共通の友人であるくるみのクラスメイトだ。
『先輩、最近どう?』
『なんか変わったことあった?』
送信ボタンの上で指を数秒止め、結局何も付け足さずに送信した。すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『颯介!? お前、死んだんじゃなかったのか!』
『くるみ先輩? 相変わらず鬼気迫る感じで勉強してるよー。この前も図書館で深夜まで残ってたって。』
その報告に、颯介はわずかに口角を上げた。ちゃんとやっている。変な虫に騒がされてもいないようだ。それだけ確認できれば十分だった。颯介は友人にお礼のスタンプを一つ送ると、スマホをしまい、重い腰を上げて席を立った。
(あと、もう少し……)
彼は静かに闘志を燃やす。くるみが、自分から連絡をしてくる、その時を。
もうすぐだ
体調も気を付けないと
本番を数週間に控え、くるみはいよいよ追い込みの段階に入っていた。体調管理も重要な要素の一つ。規則正しい生活を心がけ、夜更かしはしないようにと自分に言い聞かせる。机の隅には、合格祈願のお守りがきちんと置かれていた。すべては完璧な状態で臨むために。
颯介は、自分の教室で、窓の外をただぼーっと見ていた。もうすぐ、先輩の受験が終わる。終わってしまう。約束通り、連絡は一切していない。向こうからも、ない。それが当たり前なのに、どうしようもなく落ち着かなかった。まるで檻の中の獣のように、解放の時を今か今かと待ちわびている。
……なぁ。
ん? なんだよ。
先輩ってさ、推薦とかじゃねぇんだよな。一般?
ああ、確かそうだったはず。だから今、めちゃくちゃ追いつめられてんだろ。話しかけんなよ、お前が。
……わかってるよ。
颯介はそう短く答えると、机に突っ伏した。分かっている。だからこそ、何もできない。今の自分にできることは、ただ待つことだけ。彼の指先が、無意識に机をカリ、と引っ掻いた。早く、早くあの声を聞きたい。顔が見たい。触れたい。そんな欲求が、日増しに強くなっていた。
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