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第1話 初夏の空
いつになく寒い十一月のある日。僕はコタツにもぐって夕食を待っていた。私鉄沿線にある古い木造アパートの二階の部屋は近くに大きな川があるせいか年中風通しが良い。おかげでこの時期からは隙間風も良く通るため、鉄橋を渡る電車の轟音と共にひんやりとした空気が部屋の隅々から流れてくるようだった。
狭く古臭い造りの台所に目をやると、華奢な背中が鍋や食材を並べて忙しそうに動いていた。彼女の名前は初夏。本名ではなく、自分で考えてつけた名前なのだそうだ。
「初夏ってね、一番好きな季節なの。だから名前も初夏って書いて はつか って言うの」
彼女の照れくさそうな顔を思い浮かべていると、自然と顔が緩んでしまう。5月頃の澄んだ青空と瑞々しい緑の気配が陽炎になって揺らめくように、彼女もまた濃厚で匂いたつような色気をまとっている。まるで風来の上がらない僕には不釣合いなほど、初夏はつくづく魅力的で美しかった。
「出来たよ。ねえ、お箸並べて!」
低く澄んだ音と鼻にかかったような高い音が危うげに混じった甘い声が僕を急かす。
「へい、へい」
僕はおどけながら台所へ向かい、洗ったばかりの箸を掴んでコタツに並べた。するとすぐに白いご飯がこんもり盛られたお茶碗と、熱いお味噌汁。それに今日は豚肉の野菜炒めが食卓に並んだ。
「いただきます」
ちょこんと手を合わせて、彼女はもくもくと食べ始めた。
「ほら大介、ちゃんと食べてね! あと戸締りと火の元もお願いね」
「わかってるよ。ごはん、今日も美味しいね」
初夏は料理が上手だった。何でもそつなく作れたし、掃除も洗濯も実に手際が良かった。独り暮らしが長かった事もあってか面倒見も良く、僕はと言えば水商売で暮らす彼女のアパートに転がり込み、ヒモ同然の生活を送っていた。
「ごちそう様でした。ああ、お腹一杯になっちゃった」
初夏は細身の割に良く食べる。慌しく食器を片付けると、急いでメイクを始めた。
「今夜も遅くなるから、早く休んでね。夜更かししちゃダメよ?」
さっきから子供のような事ばかり言われている。けど、まあ、その通りだ。
「よし、と。じゃ、行って来るから」
「ああ、気をつけてね。……綺麗だよ」
「ふふ。ありがと」
僕の頬に軽くキスをして、初夏はかかとの高い靴をカツコツ鳴らして小走りに出かけていった。アパートの鉄階段をカンコンカンコン、と急ぎ足で下りる音がここまで聞こえてきた。
僕は目当ても無く点けたテレビをぼんやり眺めながら、だらだらと食事を終えた。その後お風呂に入って歯を磨いたら、もう何もする事がなくなってしまった。点けっぱなしのテレビ画面からは最近起こった世界の出来事を解説する、という番組が流れている。話題が大学生の就職率に移ったところでいたたまれなくなって主電源ごとブツンと切る。僕は初夏と暮らすよりずっと前から定職になんて就いていないのだ。
その真夜中。僕はかすかな物音で目が覚めた。枕元のデジタル時計がぼんやりした蛍光塗料の灯りを放っている。午前三時。暖房の切れた部屋はすっかり冷え切っていた。Tシャツとボクサーブリーフだけで寝こけてしまった僕には大きめの羽毛布団のふかふかした温もりは何よりも大切なものに感じられた。
物音は浴室から聞こえてくる。初夏が帰ってきてシャワーを浴びているようだった。そのうちにシャワーの音が止み、代わりにバスルームの扉が開き、バタンと鳴って閉まった。
低いセミダブルベッドの壁際に寝返りを打って、僕は寝たふりをしていた。乾燥した部屋にほんのりした湿り気が流れてくる。静かな足音についでシーツに体が触れる音がして、初夏がふかふかした羽毛布団にもぐりこんできた。
ほっそりした長い足が絡みついてくる。パジャマのズボンは穿いていないらしく、すべらかな肌を直接感じた。背中から抱きしめられると、やわらかでまだ熱い乳房がぎゅっと押し付けられる。細くてなめらかな腕が首筋にまきついて、大きな吐息を僕の耳や鼻に届かせた。彼女のお気に入りのシャンプーのにおい。それと独特の甘い体臭で、僕の胸はすぐにいっぱいになってしまった。
「ねえ」
初夏が小さくささやいた。そして僕を強く引き寄せると、小ぶりだが厚めの唇を静かに重ねてきた。二人の胴体で挟まれた僕の左手の甲が触れた、熱い塊。それは今にもはちきれそうなほど、どくりどくりと脈打っていた。
初夏の小さなパンティをするりとずらすと、その熱が開放された喜びのごとくあふれ出し、勢い良く ぶるん と揺れた。彼女は、僕の大好きな初夏は男の子だ。それも飛びきり美人で、可愛らしいんだ。でも僕はちっとも構わなかった。だってそれが僕の彼女だもの。
荒い息と塩辛く淫靡なにおいに包まれて、僕たちは朝焼けを眺めていた。彼女の吐き出した煙草の煙が薄青色に白々明ける景色に溶けて、消えてゆく。いつもより激しく求め合い、いつもより悲しそうに歯を食いしばって僕を受け止めてくれた初夏。だけど、いつもは終わってもすぐにまた甘えてくるのに、今日はうつろな目をしてベッドの端に座り込んでいるだけだった。
「どうしたの? 大丈夫? どこか悪いの?」
僕は不安になって、矢継ぎ早に質問を浴びせた。けれど、彼女は首を横に振るだけで答えようとはしなかった。
そのまま僕が困っていると、なおも俯いた彼女は両手で顔を覆ってはたはたと泣き出してしまう始末。細い指の隙間から涙がこぼれて、白いシーツに暗い斑点をぽたぽたと落としている。
「大介」
初夏が掠れたような、普段の甘い声とは違う声で僕を呼んだ。
「大介は、私のどこが好き?」
「どこがって」
「私が女装してるから? 私がなんでもしてあげるから? 私が……」
震える声を絞り出すように問いかける彼女の、涙でぼろぼろになった瞳に見つめられると、僕はたまらなくなって、思わず彼女を強く抱きしめた。
冷たい空気をわずかに震わせながら、彼女のすすりなく声と、裸の胸元にこぼれる温かな涙だけを感じていた。しばらく黙っていて、僕はこう言った。
「こんな僕でも、愛してくれる初夏だからだよ」
抱きしめる腕に力をこめると、初夏も僕に身をゆだねてきた。
そのままめちゃくちゃになったシーツに倒れこんで、僕たちはもう一度強く抱き合った。
次に目が覚めると昼前だった。初夏はとっくに起きていて、ベランダには洗濯物が気持ちよさそうに揺れていた。今日も秋晴れのいい天気だ。明るい六畳の居間に、トーストとコーヒーが置かれている。ベーコンと目玉焼きの乗っかった僕の大好物だ。
「おはよう!」
起き上がった僕に気付いた初夏は、もういつもの笑顔だった。
「あのね、大介」
「ん?」
「私、性転換する!」
「へ?」
寝ぼけた頭にこだまする初夏の言葉。ぐるぐる何週も脳裏を駆け巡った後で、ようやく事態を飲み込んだ。
「ええっ!? 初夏、ほんとに?」
「うん、ずっと悩んでたんだけど」
初夏は僕の隣にしずしずと座って、顔を間近にして僕の見つめた。
「大介なら、ずっと一緒に居てくれるよね? だから私、女の子になる!」
「そっか、わかった。俺ずっと一緒にいるよ……約束する」
すると初夏の顔から笑顔が消えて、綺麗に整った顔は涙と強張った表情でくしゃくしゃになってしまった。
僕は初夏を抱きしめて、唇を強く押し付けた。初夏も両腕を僕の肩にまわして抱きしめてくる。ホルモン注射でふっくらと膨らんだ胸に手を当てると、やわらかな鼓動が段々と早く、激しくなってきている。硬くなった彼女の乳首は少し大ぶりに思えた。これもホルモンの作用なのだろうか……谷間に顔をうずめる直前に、ふとそんな事を考えた。けれど初夏の甘い吐息が切なげな響きに変わるころには、そんな事はとうに忘れてしまっていた。
その日を境に僕たちの生活は慌しくも幸せな充実感に包まれた。初夏の決意を目の当たりにした僕も発奮して、近所のガソリンスタンドでアルバイトをする事にした。生活のために、そして少しでも初夏の役に立つために。
当の初夏も前にも増して張り切って仕事に向かうようになった。手術の費用を捻出するため依然として生活は厳しかったけれど、ひとつずつ目標に向かっているという実感があって苦にはならなかった。
それからあっという間に三ヶ月が過ぎて、真冬も終わろうとする二月の下旬。もうじき春先だというのにひどく風の冷たい、そんなある日。
近所のスーパーに買出しに行った初夏が憮然として帰ってきた。
「おかえり……どうしたの?」
うつむいた初夏はふうーっと大きな溜め息をついた。なんだか少し怯えている様な顔だ。
「アイツが来たの」
「あいつ?」
「大山田。宗教キチガイのボンボンで、昔居たお店の客だったんだけど……私のことを気に入ってたみたいで。最初はただのお客だったんだけど、だんだんしつこくなってきて、最後にはストーキングしてくるようになったの。店とかマンションの前で待ち伏せされたり、番号教えてないのに何度も電話がかかってきて。あたし、向こうで上手くいってたのに……アイツのストーキングがあんまりひどいからココに引っ越したのよ」
僕はあまりに予想外な出来事に唖然としてしまった。
「ええ……で、何か言われたの?」
「うん。ゴシンゾンサマのお導きで再び君と出会えた、これは運命だ。って。神戸に居た時もお店の女の子にいきなり仏教がどうしたとか説教し出してさ、もう! なんだってのよ」
「はあ? ゴシンゾン? それでどうしたの?」
「これはゴシンゾンサマの決めたこういう運命だから、僕と付き合ってくれ! だってさ。ハッキリ断わってやってきちゃった」
「とんでもない奴だな」
「またつけて来るのかな……」
初夏は溜め息混じりに俯いて、心底嫌そうな顔をした。
「とにかく、警察行こう。早く相談した方がいいよ」
僕は気を取り直したように、少し語気を強めて提案した。
「そうだよね」
「そうだよ! そんな身勝手な奴、許せねえ!」
段々と腹の底から、その大山田とか言う奴に対して怒りが湧いてきた。やっと見つけた僕たちの幸せを、そんな世間知らずのストーカーごときに台無しにされてたまるものか。それにいつもは温厚で誰にでも分け隔てなく接する初夏が、こんなに怯えた顔で憎しみを顕わにするのも珍しかった。よほど嫌な思い出なのだろう。
次の日、仕事が休みの初夏を連れて警察署に相談に行った。ただストーカー被害に遭っているといっても、実際に暴力や不法侵入などの現行犯でなければ逮捕する事はできないのだそうだ。その代わり、アパートの周りとお店のある繁華街のパトロールを厳重に行ってくれる事になった。気休めぐらいにはなるかな、と、署を出た初夏が呟いた。
その足で、せっかくなので近所の河川敷を散歩することにした。多聞川(たもんがわ)と言う大きな川で、広い土手には遊歩道やベンチなどもある。手を繋いで肩を寄せ合って歩くと、僕たちは全く普通のカップルにしか見えないはずだった。
「あのね」
歩きながら、初夏がぽつりと切り出した。
「私、大山田に……レイプされそうになったの」
さあっ、と冷たい風が吹き抜けていった。二人は一瞬立ち止まって、僕は一瞬だけ目を閉じて。すぐにまた歩き始めた。
「神戸に居た時ね、朝方お店を出たら後ろから教われて、路地に引っ張り込まれて。捕まえられた時からずっと胸を掴まれて……」
あまりに衝撃的な事実に僕は頭がクラクラしてきたが、なんとか続きを聞いた。
「それで押し倒されてスカート捲くられて。大声を出したらすぐに人が沢山来てくれてね、助かったんだけど……今でも夢に見るときがあるの。あの血走ったギョロ目、臭い唾と息、気持ちの悪いゆがんだ顔。私の胸やお尻を触ったベタベタした指」
僕は黙って、彼女の独白を聞いていた。
「大山田はお店の人とかに囲まれて、どっかへ連れてかれた。けどあいつ、金持ちでしょ? お店の上客だったから、店長は大山田を警察に突き出さなかったの」
「……」
「私、それでお店もやめて、神戸を引き払ってここに住んだの」
「そうだったのか」
僕は驚きと、同情とも憤怒ともつかない気持ちの整理がつかないまま、遠くの青空にかかる電線を目で追った。
「だからね、初めのころは怖くて怖くて。朝も夜も独りじゃ寝れなくて、男の人も怖くて」
初夏の声がかすかに震え出した。話しているうちに感情が高ぶってきているらしかった。
「大介が初めて私のところに来て泊まってくれたときのこと覚えてる? あのとき私も大介が好きだった……だからね、帰って欲しくなかった。なんでもするから、ココにいて欲しかった」
「そっか」
僕の短い相槌が終わる前に、初夏は話を続けた。
「でもずっとアイツの事が怖くて。いつかまた来るんじゃないかって。でも大丈夫かなって思って、幸せになれるかなって……今度こそ。なのに」
とうとう初夏は泣き出してしまった。こんな美人を往来で泣かせるとはあまりに体裁が悪かったが、どうすることも出来ない僕は彼女の腕を取って二十メートルほど先のベンチに腰掛けようと彼女を促した。
「大介、ずっと側にいてね。もう私を独りにしないで。お願いだから」
「大丈夫だよ。ココにいるから。初夏を独りになんかしないさ」
「本当? 本当?」
「うん。初夏の事、愛してる。だから大丈夫だよ」
しばらくの間、初夏は人目もはばからず大声で泣き続けた。僕もそんな初夏を抱きしめて、腕に力を入れてぐっと引き寄せた。小ぶりで形の良い耳の辺りから、ほんのりと汗のにおいがした。その甘くて濃厚な香りと、いつものシャンプーの匂いが交じり合って、僕は座りながら少しだけ腰を引いた。
すっかり黄昏た夕陽の金色の光を浴びながら、手を繋いでアパートの鉄階段を上がった。カンカカンカカンカカン、と二人分の足音が乾いた空気に跳ね返ってよく響く。すぐ近くの線路を鉄道が通り過ぎる音と、踏み切りの音がかすかに聞こえた。
河川敷のベンチで彼女を抱きしめてから、ずっと心臓が高鳴っている。繋いだ右手にも汗が滲んで、頭が少しぼわんとする。一刻も早く、もっと強く強く初夏を抱きしめたくて仕方がなかった。顔では平静を装っていたけれど、否が応にも体は強張ってしまう。ふらふらと熱に浮かされたような足取りで漸くドアの前にたどり着いた。
ふと初夏の顔を見ると、彼女は艶やかに笑った。目の奥にちろちろと燃える感情を、視線に乗せて僕に伝えてきた。玄関のドアを開けると、閉め切った部屋に残った昼間の熱と、すっかり冷えた夕暮れ時の空気が混じり合って渦を巻いた。その渦の真ん中で靴を脱ぐのももどかしく僕たちは抱きしめあい、唇を貪った。
バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。彼女のルージュが溶けて僕の口の中に広がった苦味をかきまぜるように激しく舌が動きまわる。互いの荒い鼻息を吸い込んでしまうほど顔を寄せ合って、目を閉じたまま居間の畳へ倒れこんだ。仰向けになった僕のズボンとパンツを、初夏は手際よく脱がしてしまう。指先や掌や唇、それに彼女の小さな頭が上下するたびに下腹部をくすぐる髪の毛までが、僕を愛おしそうに包み込んだ。いつの間にかテーブルの端っこに彼女の下着が脱ぎ捨てられていた。そのまま僕に覆いかぶさった初夏を、僕は下から手を伸ばして抱きしめた。
結局、夕食の時間になっても何一つ準備が出来なかったので、僕たちは久々に外食をする事にした。といっても駅前の繁華街にある牛丼チェーンだ。初夏が働いているお店も近くにあり、いつも賑やかな場所だった。手を繋いで街を歩くのも、良く考えたら久しぶりだ。街灯と看板の灯りの人ごみの中を、初夏も上機嫌で歩いている。
この三ヶ月間、がむしゃらに働いていた。もちろんこれからもそうするつもりだし、僕は初夏の決意を心から応援していた。初夏の方も元々人一倍働く事が好きなので、欠席した同僚の早番を代わったり、営業の手伝いをしたりとお店の内外で忙しく動いていた。僕が昼間の仕事に就いたから時間が合わなくて、同棲しているのに中々会えない日もあった。僕が夕方帰ってくると、彼女は出かけてしまう。寂しいけれどそれで良いとも思った。二人で暮らす夢があるから、やっていけると信じていた。
僕の巡り合った最愛の人。僕の彼女。
そして将来の、僕の花嫁。
何があっても彼女を守り抜いてみせる。そう心に決めたんだ。
思わず繋いだ手を強く握り締めると、初夏は少し驚いた顔をして振り向いたけれど、すぐに小さく笑って向き直った。お見通しだったのかな。牛丼チェーンのオレンジ色の看板が見えて、さあ入ろうとしたその時。
「は、初夏さん!!」
突然、カン高く濁った叫び声が響き渡った。
どやどやと流れる雑踏の邪魔くさい位置に、薄汚れたベージュのジャケットに野暮ったいジーンズの男が立っていた。顔を紅潮させて、かなり興奮しているらしかった。
背は僕より低いのに、ぶよぶよと鈍重そうでしまりの無い体。悪い意味で子供っぽいまま老けた様な顔に張り付いたいびつな表情を、分厚い黒縁メガネで押しつぶしたギョロ目が余計に引き立てていた。男は唇の端に唾で泡をたてながら尚も喚き続けた。
「きき、君はまだわからないのか! そんな〝いい加減慣習者〟なんかと一緒に居たら、君まで地獄へ落ちてしまうぞ!」
コイツか……初夏は全身から嫌悪感を露にして、僕の腕にしがみついた。
ふーっ、ふーっ、と大山田の吐き出す気持ち悪い息遣いがこちらまで漂ってきそうで、僕は背筋を不愉快なミミズどもがぞーっと這い登ってくるのを感じながら言い返した。
「何の用だ!?」
「お前こそ、どうして初夏さんと一緒にいられるんだ!? この〝いい加減慣習者〟め!」
「ワケのわからない事、言いやがって! 迷惑しているんだ! 俺たちに金輪際近付くな!!」
「こ、この私を批判するなぞ滑稽だ! この極悪第六天魔王め!!」
話にならない。こいつは一体何を言っているのか。大山田は紫色に膨れ上がった唇をぶるぶる震わせながら奇妙な合掌をし、
「なみゃあら、はみゃあら、ぼじゃあら……なみゃあら、はみゃあら、ぼじゃあら」
と呪文のようなものをブツブツ呟いていた。
あまりの身勝手さに怒りを堪えきれなくなった僕の袖を引っ張って、初夏が小声で呟いた。
「大介、行こっ。相手しないで」
「でも!」
「いいから。お店入ろ!!」
初夏に引っ張られるようにして、僕たちは大山田をその場に取り残して自動ドアをまたいで店内に入った。ドアの外では尚もナニゴトか喚いていたが、通行人の視線が突き刺さって居た堪れなくなったのか。すぐに立ち去って行ったようだった。
「らっしゃいあせーえ」
外の騒ぎをあらかた見ていたであろう店員の奇異の眼差しを浴びながら、僕たちはカウンターに並んで腰掛けた。二人で牛丼特盛を二杯頼む。ちょっとだけの贅沢だ。
「あいつ、やっちゃおうか」
「……ごめんね」
「ううん、初夏は悪くないよ! 今度来たらタダじゃ済ませねえ!」
「おまたせしあっしたー特盛二丁ぃーす」
さっきの無気力な店員が話に割り込んで僕たちの前にドンブリをドンと置いた。まだ怒りは収まらなかったが、僕も初夏も腹ペコだ。
「いたたきます」
初夏はちょこんと手を合わせて、少しずつきちんと箸で掴んで食べ始めた。僕はドンブリを抱え込むようにして、牛肉と汁のしみたご飯をわしわしと口の中へ送り込んだ。
そんな風にして僕が特盛の牛丼をあっという間に平らげると、その食べっぷりを見た初夏が悪戯っぽく微笑んだ。
「大介って、美味しそうに食べるよね」
食事中、いつも言われる言葉だ。僕はいつも「初夏の料理が美味しいからだよ」と言っていたが、どうやらそれも通じなくなってしまうかも知れない。
そういう初夏は、まだお箸でちょこちょこと食べている。変な話、口に出したら失礼なのだろうけど、彼女は、女の子なんだな。今更ながらそんな風に思って初夏をじっと見つめていると、視線に気付いた初夏が照れくさそうに笑った。やっぱり、彼女は僕が守らなきゃ。ようやく怒りが薄れた代わりに、僕はますます初夏の事が愛おしくてたまらなくなった。
会計を済ませてお店を出ると、外は薄暗くなってきていた。時刻は十八時過ぎ。行き交う人の波は慌しく往来を埋めて、居酒屋の客引きやティッシュ配りの張り上げた声が頭上を通り過ぎてはかき消されてゆく。初夏と僕はかたく手を繋いで歩き出した。今日はもうお風呂に入って寝るだけだ。久々にゆっくりしようか…そんな他愛もない話をしながら、ジュースとタバコの自動販売機が幾つも並んだ角を曲がったその時。
ドッ!!
鈍い音と小さなうめき声。初夏に誰かがぶつかってきたみたいだった。けれど、ぶつかってきた男がその場を動こうとしない。ベージュのジャケットに野暮ったいジーンズ。黒々としているが手入れのされていない、脂っぽくべったりした汗臭い頭髪。
ぶしゅー、ぷしゅー、という気味の悪い呼吸音。
嫌な予感がした。
そしてぶつかってきた不潔な男が、ちろりと顔を上げてこちらを見た。
「ダボがぁぁぁぁ!!」
僕はあらん限りの声で叫んだ。そのままの姿勢で動かない大山田を初夏から引き離そうと二人の間に割り込んだとき
ぬるり。
と生暖かい、嫌な感触がした。鉄錆の臭いがぷんと鼻を衝く。一瞬ハッとしたものの予感が当たったことを知った僕は、大山田の弛んだ顎を目掛けて左右の拳を振り回した。
「オドレぇコラァ!!」
べっとりと赤い血のこびりついた拳が大山田の顔面をとらえた。初夏は腹部を押さえたまま汚れたアスファルトの地面に倒れ伏した
「うひっ、うひっうひっ……ばびゃあら、ばみゃあら、ぼびゃあら……」
仰向けに倒れながら例の呪文をブツブツ呟く大山田の右手はぶるぶると震え、そこには血で濡れて光る刃物が握られていた。
騒ぎを見た人々が声を上げた。
「女の人が刺されたど!」
「救急車、救急車じゃ!」
「警察呼やあ!!」
たちまち悲鳴と怒号が繁華街の一角を飛び交い、さながら塹壕のような騒ぎになった。
「ぶ、仏罰だぞ!!」
よろよろと立ち上がった大山が頬に付いた血を拭いながら狂ったように叫ぶ。
「お前たちはどうせゴシンゾンサマの事を何も知らないんだろう! ご、ゴシンゾンサマのは、は花祭りも祝わずに、く、クリスマスやバレンタインばかり祝ってるから仏罰が下ったんだ!!」
血走った目をカっと見開いて、血まみれのナイフを振り回しながら大山は喋り続けた。
「そ、そ、それなのに、お前が正式な作法を習得したこの私を、拒み、批判するなど滑稽だ!」
唖然とした群集は、大山の周りで一定の距離を取って丸く囲んでいる。その状況に気を良くしたのか、大山は続けた。
「初夏さんはまだ間に合ったんだ! 私とともにゴシンゾンサマを拝み、仏式の結婚式をあげるべきだったんだ!!」
僕はその支離滅裂な言い訳にもならない長口上を無視して、横たわる初夏に駆け寄り声を張り上げて名前を呼び続けていた。
「初夏! 初夏―!!」
「君、あんまり動かしちゃダメだ!」
騒ぎを聞いて駆けつけてくれた壮年の男性が僕をなだめて、横たわる初夏を覗き込んだ。
「うう……う」
初夏の透き通るように白い肌が、みるみる血の気を失って青くなってゆく。
「出血がひどい、おい、君の上着を」「待て!」
僕が男性に促されて上着を脱いだ時、別の方角で大きな怒号が飛んだ。
「逃げたぞ!」
「捕まえろ!!」
どうやら大山が逃げたらしい。だが、そんなものに構ってはいられなかった。
「ううっ!」
苦痛で美しい横顔をゆがめた初夏がくぐもった呻き声を上げた。見ると、男性が自分のハンカチと僕の上着を傷口にあてている。べっとりと血の染みたハンカチがおぞましく、僕は不安と怒りで頭がぐらぐらしてきた。
夕闇を切り裂くようなサイレンが鳴り響き、赤いパトランプが二つこちらに向かって慌しく走りこんできた。すぐに救急隊員がバラバラと下りてきて、手際よく初夏を搬送する準備を整えている。僕は救急隊員に事情を話し、一緒に乗せてもらえることになった。
警官には、あの壮年男性が受け答えをしてくれることになったので急いで礼を言うと、男性は穏やかに、力をこめて
「しっかりね。君が側にいてあげなきゃ」
と言うと、僕の目をキッと見ながら肩をぽんと叩いた。
(救急車が通ります 道をあけてください)(右へ曲がります ご注意ください)
慌しく走り出した救急車の中はあらゆる医療器具が所狭しと並び、チカチカと点滅する無数のランプ全てが初夏の命の灯火のように思えた。耳を劈くようなサイレンと走行音に紛れて、規則的な電子音がかすかに聞こえている。僕は初夏の左側に座って、彼女の白い掌をしっかりと握り締めていた。名前を呼んで励ましてあげたかったが、バインダーを持った若い救急隊員に状況を説明しなくてはならないのがもどかしかった。
一つ一つ焦りながら、不安に駆られながら受け答えをした。
しかし初夏の苦しげな顔を見るたびに僕は取り乱し、その都度救急隊員が穏やかに、しかし冷静に僕を諭した。僕よりも気持ち年上だろうか。そんな若い救急隊員の顔がやけにハッキリと印象的だった。
救急車が病院の救急外来に滑り込み、初夏を乗せたストレッチャーが救急治療室に運び込まれると、すぐに検査と治療が始まった。僕は薄暗い待合室のソファに腰掛けて、ひたすら彼女の無事を祈った。しかし刻々と時間だけが流れるにつれて沸々と、あの大山への怒りがたぎってくるのを感じ始めていた。薄緑色をしたリノリウムの床を右往左往しながら、行き場の無い気持ちを持て余した僕は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
しかし、身勝手で理不尽な暴力へ怒りの次に湧いて来たのは、あまりにも非情な悔恨と無力感だった。牛丼を食べ終わってすぐ、僕は彼女を守ると心に決めたのではなかったか。何があっても彼女のそばに居て、彼女のために生きようと決めたのではなかったか。それが、僕の青臭い決心は、ものの1時間足らずで全て崩れ落ちてしまった。それも醜悪なストーカーごときの凶刃によって。
そのような事態でこそ、僕が彼女を守るべきではなかったのか。
僕は今まで初夏の世話になってばかりだった。食事も洗濯も、生活そのものを初夏に依存していたというのに。やっとアルバイトを始められたのも、初夏のアパートがあってこそではないか。彼女の収入があったから、僕はのんきにアルバイトなどをしていられたのではないのか。僕は本当に、初夏を心から愛していたのだろうか。彼女の決心を心底支えていこうと思っていたのだろうか。なんとなく今のままの生活が続けば良いと、心の奥底で思っていたのではないか。どんどん湧き上がってくる自己嫌悪と疑心暗鬼に押しつぶされそうで、とうとう僕は声を上げてわんわん泣き出してしまった。廊下の向こう側までびりびりと響くような大声を張り上げ、止め処なく流れてくる涙を拭きもせず、嗚咽も鼻水をすする音も、全てが空しく思えていた。
どれぐらい泣いていただろう。
すっかり腫れ上がったまぶたが、涙で擦り切れてひりひりしている。何度か深呼吸をして消毒液の匂いのする空気を吸い込むと、ようやく落ち着いてきて、とにかく今は初夏の無事を祈るしかないと思い直せるようになった。しかしふとした拍子に、あのべっとりした赤い血や、美しい顔を苦悶にゆがめた初夏の姿が脳裏にありありと浮かんでしまう。とてもソファにじっとしていられるような場合ではなく、僕は相変わらず廊下を行ったり来たりしていた。
その時。
キィ、と短い音がして手術室の隣の部屋のドアが開いた。中から痩せた中年の女性看護師が現れて、
「付き添いの方ですか? 中へどうぞ」
と僕を招き入れた。部屋の中は白いパーティションで仕切られたベッドに、雑然としたテーブルと椅子が二つ。テーブルの壁際にはレントゲン写真をかざすパネルがあるが、灯りは消えている。部屋の奥は通路が繋がっているらしく、手術室のある方向の通路から若い女医が入ってきた。
「こんばんは。今回、検査を担当した高村と申します。失礼ですが患者の小林さんとはどのようなご関係ですか?」
小林とは、初夏の苗字だ。
「こ、恋人です。諸戸と申します」
僕は少しどもりながら、そう答えた。女医の方は動じない様子だったが、奥に立っていた中年看護師は腑に落ちない表情で僕をちらと見た。
「わかりました。では、諸戸さん。小林さんの状況を簡単にお話いたします」
今まで彼女を本名で呼ぶ機会がほとんど無かったせいか、僕は初夏が小林という名前で呼ばれることに勝手な違和感を覚えていた。
「小林さんは腹部を三センチほど鋭利な刃物で刺されていました。幸い内臓は逸れていましたので命に別状は在りませんでしたが」
「そうですか!? よかった!!」
僕は思わず立ち上がって、全身で喜びを顕わにしてしまった。またも中年看護師の視線が突き刺さるが、知った事ではない。
「ただ傷口の縫合が必要ですので、どうしても僅かに傷跡が残ってしまいます。それだけは申し訳ありませんが……」
命が助かる。初夏は生きている。そう思うと、女医の説明はあまり頭に入ってこなかった。とにかく助かったんだ。ああ、よかった。途端に体中の力が抜けて、背もたれの無い丸椅子の上で僕は背中を丸め、大きな安堵の溜め息を漏らした。
「ですので、大体一週間ほど入院していただく事になります」
「わかりました」
あまりキチンと聞いていなかったが、つい返事をしてしまった。
「では、治療を続けていますので今しばらく外でお待ちください」
女医はそう言うと、スタスタとスリッパを鳴らして奥へ引っ込んでしまった。僕は再びソファに腰掛けようと部屋を出た。すると、さっきまで僕が座っていたソファに見慣れない人物が腰掛けていて、僕を見ると小さく会釈をした。
「諸戸さんですね。警察のものですが」
やっぱりそうか。
「はい。そうですが……」
ベージュのコートにグレーの背広を着た中年の男性は、黒い手帳を僕の目の前にかざして見せた。そういえば警察手帳の本物を見るのは初めてだった。
「清水と申します。今回の件で、諸戸さんにも事情をお聞きしなくてはなりませんので……お疲れのところ恐れ入りますがご協力をお願いします」
「あの、大山は……」
「ああ彼ならすぐに取り押さえられました、現行犯です」
「そうですか。それは良かった」
僕は再び胸をなでおろした。
「お気の毒でしたね。実は大山は他にも色々と問題を抱えていまして、警察にも相談を頂いていたのに、その中でこのような事件になってしまって申し訳ない」
清水刑事はそう言って僕に深く頭を下げた。
「実は事件についてはかなり詳しい目撃証言があります。なので諸戸さんには、まずそれを確認していただきたいのですが」
「わかりました」
刑事の質問は、おおむね僕の記憶に間違いなかった。むしろその場に居た僕でも気が付かなかった事があったぐらいだ。
「ずいぶん詳しく見ていた方がいるんですね」
「ええ、実はあの時小林さんを介抱した男性は私の先輩なんですよ」
あの壮年男性だ。確か真っ先に駆けつけて、応急処置をしてくれたっけ。そうか、刑事さんだったのか……。
「湯沢さんと言いましてね、もう引退して数年になりますが今でも敏腕は健在でしたよ」
その後清水さんは僕と一緒にソファに腰掛けて、手術が終わるまで色々な話をして待っていてくれた。
やがて手術中の赤いランプが消えたとき、時刻は二十二時を回っていた。緑色をした大きな扉が開くと、麻酔を掛けられているのか眠ったままの初夏がストレッチャーに乗せられて出てきた。その奥から、高村女医が続く。
「出血が多く難航しましたが、もう大丈夫です。これから病室へ案内いたしますので、どうぞ」
案内役は、さっきの中年看護師だった。
清水さんとも別れ、僕はなんとも気まずいまま中年看護師に連れられて病院の三階にあるナースステーションそばの個室に案内された。初夏は既にベッドに運ばれて、穏やかな寝息を立てていた。あの瞬間からまだ数時間しか経っていないのに。僕には随分長いこと離れ離れになってしまっていたような気がした。窓のブラインドの向こうに大きな満月が見える。空調の聞いた室内は暖かく、乾いた汗と涙で僕の顔はべたついていた。僕は設備の説明を一通り聞いて、その日はそのまま病室のソファで寝るつもりだったが、看護師に止められてしまった。
「貴方も疲れているでしょう? それに服も汚れたままだし」
「しかし」
食い下がる僕を制して看護師は言う。
「大丈夫。彼女の事は私たちに任せて、貴方も休みなさい」
「はあ」
「看護師の言う事は聞くものですよ。患者さんじゃなくってもね」
そう言われてふと鏡に映った自分を見ると服や肌には血がこびり付いているし、砂埃にもまみれていてすっかりくたびれてしまっていた。この有様では確かにあんまりだな、と大人しくアパートに帰ることにした。夕方二人で出た部屋に一人で帰る寂しさといったら無かった。とりあえず命が助かったという事だけが救いだ……今まで起こったあまりの出来事に僕は頭がクラクラと混乱していた。
熱いシャワーを浴びてベッドに倒れこんむ。
いつも二人で寝ているベッド。毛布団を顔に寄せて、すぅ、と息を吸い込んでみた。甘くてやわらかな、初夏の匂いがする。胸の奥がぼうっとするような、僕だけの匂い。寝返りを打てば、すぐ隣に彼女が寝ているような錯覚さえ起こしそうだった。
目が覚めると朝だった。夢も見ず、ぐっすり眠ったらしかった。時計を見ると午前八時。ガソリンスタンドのシフトが八時半からだ。顔面蒼白になった僕に携帯電話の着信音が追い討ちをかける。バイト先の石川店長からだ。
「もしもし。諸戸です! すみません、まだ家なんですがすぐに支度を」
「ああ諸戸君? 石川だよ。君、今日は来なくていいよ」
「へっ?」
「大変だったね。実は昨日警察の方から連絡が来て、ワケは聞いたから」
「あ、それはその」
「いいからお見舞いに行っておいで。君はしばらく休みで良いよ」
「あ、ありがとうございます!」
「その代わり……手が開いたら、危険物の勉強をしておくように! わかったね。じゃあ」
石川店長の電話を切って、僕はすぐに病院に向かった。総合病院なので診察のロビーは混み合っていたが、病室棟に入るとそんな喧騒も薄れていった。
301号室のプレートの下に、小林 とだけ書かれている。苗字の下には名前も書いてあるのだが、マジックで上から塗りつぶしてある。おそらく初夏が頼んで消してもらったのだろう。よほどその名前を思い出すのが嫌なようだ。薄い黄色のスライドドアをスーッと開けて、コの字型の薄いカーテンの向こう側に声をかける。
「初夏……?」
「大介!?」
カーテンの向こうから、元気そうな声が帰ってきた。窓際に回り込んでカーテンをめくると、ベッドに横たわった初夏の姿があった。顔色はだいぶ元通りだが、表情にはまだ疲労の色が残っている。
「どう?」
「うん、ちょっと痛む」
「そっか」
「あ、あのね! 実は入院費なんだけど……」
ドキっとした。気にはなっていたが、そういえばこんな個室に入れてもらえてタダで済むはずがない。僕はバイトの身だし、初夏も保険や保障と言うものの話を聞いたことが無かった。
「あの後すぐに店長が病院に連絡して、費用は全部持ってくれるって!」
「へっ?」
「私、あの店で随分稼いでるからね!元気になって、また戻ってきてくれって」
僕は昨日に続いて、またもや胸を撫で下ろした。
それから一週間が過ぎた。初夏は順調に回復し、僕も昨日からバイトに復帰している。
十七時に仕事が終わったらそのまま病院へ直行してお見舞いをしてから帰るのにもすっかり慣れた頃、ついに退院の許可が出た。高村女医も驚くほどの生命力を見せた初夏は、逆にお墨付きを頂くほど元気になっていた。
その日はことのほか忙しかった。三月の春休み前なので給油も洗車もオイル交換も引っ切り無しだった。そのため一時間半も残業をして、病院に着いたら十九時を回っていた。もう夕食も済み、あとは消灯までぼんやりと過ごすだけの時間。
僕は慌てて病室に駆け込むと、初夏の姿が見当たらなかった。仕方が無いので病室のテレビをぼんやり見る。いつだったか見た、世界のニュースを司会者の男が解説する番組だ。僕らの事情と事件とを知ったら、どんな風に解説してくれるだろう。そんな事を考えていると静かにレールの音がして、ドアが開いた。
「大介?」
「あ、ごめんごめん! 遅くなっちゃった」
初夏は僕を見るなり、ベッドに縺れ込むようにして抱きついてきた。
「遅くてごめん、ねえ、汗臭いよ?」
「……寂しかった」
「ごめん」
「もう来てくれないのかと思った……」
二週間も離れていたうえ、あんな事件の後だからか、初夏はすっかり弱っていた。明るく振舞っていたようでも、夜は一人で恐怖や不安と戦っていたのだ。僕も初夏の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよ。ずっと一緒だよ」
「本当?」
「ああ。ずっとね」
「……」
「どうしたの?」
「大介の匂い」
二週間ぶりに抱きしめた初夏の体は、心なしか少しふっくらしているようだった。病室に持ち込んだシャンプーもお化粧品もいつもと同じなんだけど、今日はなんだかいい匂いがした。
僕と初夏はほとんど同時に顔を見合わせて、どちらともなく唇を寄せた。星空へと変わり出した窓からは市街地のネオンや、県道を走る車のヘッドライトが見えた。ささやかな天と地の星たちだけが、僕と初夏の愛を確かに見届けている。初夏は僕の首筋にむしゃぶりついて、大きな音を立てた。
「ねえ、見る?」
「何を?」
「うふふ」
初夏は悪戯っぽく笑うと、パジャマのズボンとお気に入りの黒い小さな下着をほんの少しずり下ろした。
まるで白磁の陶器のような滑らかできめ細かい肌に、無残な傷跡が残されていた。これから先もこの傷を見るたびに、このことを思い出すのだろう。けれどそれは、僕たちにとって全く問題にはならなかった。むしろ、今日までで僕たちはより一層愛を深める事ができたのだから。
僕は黙って傷跡に口づけた。
「くすぐったいよ!」
初夏が弾けるように笑った。
僕も笑った。
つづく
狭く古臭い造りの台所に目をやると、華奢な背中が鍋や食材を並べて忙しそうに動いていた。彼女の名前は初夏。本名ではなく、自分で考えてつけた名前なのだそうだ。
「初夏ってね、一番好きな季節なの。だから名前も初夏って書いて はつか って言うの」
彼女の照れくさそうな顔を思い浮かべていると、自然と顔が緩んでしまう。5月頃の澄んだ青空と瑞々しい緑の気配が陽炎になって揺らめくように、彼女もまた濃厚で匂いたつような色気をまとっている。まるで風来の上がらない僕には不釣合いなほど、初夏はつくづく魅力的で美しかった。
「出来たよ。ねえ、お箸並べて!」
低く澄んだ音と鼻にかかったような高い音が危うげに混じった甘い声が僕を急かす。
「へい、へい」
僕はおどけながら台所へ向かい、洗ったばかりの箸を掴んでコタツに並べた。するとすぐに白いご飯がこんもり盛られたお茶碗と、熱いお味噌汁。それに今日は豚肉の野菜炒めが食卓に並んだ。
「いただきます」
ちょこんと手を合わせて、彼女はもくもくと食べ始めた。
「ほら大介、ちゃんと食べてね! あと戸締りと火の元もお願いね」
「わかってるよ。ごはん、今日も美味しいね」
初夏は料理が上手だった。何でもそつなく作れたし、掃除も洗濯も実に手際が良かった。独り暮らしが長かった事もあってか面倒見も良く、僕はと言えば水商売で暮らす彼女のアパートに転がり込み、ヒモ同然の生活を送っていた。
「ごちそう様でした。ああ、お腹一杯になっちゃった」
初夏は細身の割に良く食べる。慌しく食器を片付けると、急いでメイクを始めた。
「今夜も遅くなるから、早く休んでね。夜更かししちゃダメよ?」
さっきから子供のような事ばかり言われている。けど、まあ、その通りだ。
「よし、と。じゃ、行って来るから」
「ああ、気をつけてね。……綺麗だよ」
「ふふ。ありがと」
僕の頬に軽くキスをして、初夏はかかとの高い靴をカツコツ鳴らして小走りに出かけていった。アパートの鉄階段をカンコンカンコン、と急ぎ足で下りる音がここまで聞こえてきた。
僕は目当ても無く点けたテレビをぼんやり眺めながら、だらだらと食事を終えた。その後お風呂に入って歯を磨いたら、もう何もする事がなくなってしまった。点けっぱなしのテレビ画面からは最近起こった世界の出来事を解説する、という番組が流れている。話題が大学生の就職率に移ったところでいたたまれなくなって主電源ごとブツンと切る。僕は初夏と暮らすよりずっと前から定職になんて就いていないのだ。
その真夜中。僕はかすかな物音で目が覚めた。枕元のデジタル時計がぼんやりした蛍光塗料の灯りを放っている。午前三時。暖房の切れた部屋はすっかり冷え切っていた。Tシャツとボクサーブリーフだけで寝こけてしまった僕には大きめの羽毛布団のふかふかした温もりは何よりも大切なものに感じられた。
物音は浴室から聞こえてくる。初夏が帰ってきてシャワーを浴びているようだった。そのうちにシャワーの音が止み、代わりにバスルームの扉が開き、バタンと鳴って閉まった。
低いセミダブルベッドの壁際に寝返りを打って、僕は寝たふりをしていた。乾燥した部屋にほんのりした湿り気が流れてくる。静かな足音についでシーツに体が触れる音がして、初夏がふかふかした羽毛布団にもぐりこんできた。
ほっそりした長い足が絡みついてくる。パジャマのズボンは穿いていないらしく、すべらかな肌を直接感じた。背中から抱きしめられると、やわらかでまだ熱い乳房がぎゅっと押し付けられる。細くてなめらかな腕が首筋にまきついて、大きな吐息を僕の耳や鼻に届かせた。彼女のお気に入りのシャンプーのにおい。それと独特の甘い体臭で、僕の胸はすぐにいっぱいになってしまった。
「ねえ」
初夏が小さくささやいた。そして僕を強く引き寄せると、小ぶりだが厚めの唇を静かに重ねてきた。二人の胴体で挟まれた僕の左手の甲が触れた、熱い塊。それは今にもはちきれそうなほど、どくりどくりと脈打っていた。
初夏の小さなパンティをするりとずらすと、その熱が開放された喜びのごとくあふれ出し、勢い良く ぶるん と揺れた。彼女は、僕の大好きな初夏は男の子だ。それも飛びきり美人で、可愛らしいんだ。でも僕はちっとも構わなかった。だってそれが僕の彼女だもの。
荒い息と塩辛く淫靡なにおいに包まれて、僕たちは朝焼けを眺めていた。彼女の吐き出した煙草の煙が薄青色に白々明ける景色に溶けて、消えてゆく。いつもより激しく求め合い、いつもより悲しそうに歯を食いしばって僕を受け止めてくれた初夏。だけど、いつもは終わってもすぐにまた甘えてくるのに、今日はうつろな目をしてベッドの端に座り込んでいるだけだった。
「どうしたの? 大丈夫? どこか悪いの?」
僕は不安になって、矢継ぎ早に質問を浴びせた。けれど、彼女は首を横に振るだけで答えようとはしなかった。
そのまま僕が困っていると、なおも俯いた彼女は両手で顔を覆ってはたはたと泣き出してしまう始末。細い指の隙間から涙がこぼれて、白いシーツに暗い斑点をぽたぽたと落としている。
「大介」
初夏が掠れたような、普段の甘い声とは違う声で僕を呼んだ。
「大介は、私のどこが好き?」
「どこがって」
「私が女装してるから? 私がなんでもしてあげるから? 私が……」
震える声を絞り出すように問いかける彼女の、涙でぼろぼろになった瞳に見つめられると、僕はたまらなくなって、思わず彼女を強く抱きしめた。
冷たい空気をわずかに震わせながら、彼女のすすりなく声と、裸の胸元にこぼれる温かな涙だけを感じていた。しばらく黙っていて、僕はこう言った。
「こんな僕でも、愛してくれる初夏だからだよ」
抱きしめる腕に力をこめると、初夏も僕に身をゆだねてきた。
そのままめちゃくちゃになったシーツに倒れこんで、僕たちはもう一度強く抱き合った。
次に目が覚めると昼前だった。初夏はとっくに起きていて、ベランダには洗濯物が気持ちよさそうに揺れていた。今日も秋晴れのいい天気だ。明るい六畳の居間に、トーストとコーヒーが置かれている。ベーコンと目玉焼きの乗っかった僕の大好物だ。
「おはよう!」
起き上がった僕に気付いた初夏は、もういつもの笑顔だった。
「あのね、大介」
「ん?」
「私、性転換する!」
「へ?」
寝ぼけた頭にこだまする初夏の言葉。ぐるぐる何週も脳裏を駆け巡った後で、ようやく事態を飲み込んだ。
「ええっ!? 初夏、ほんとに?」
「うん、ずっと悩んでたんだけど」
初夏は僕の隣にしずしずと座って、顔を間近にして僕の見つめた。
「大介なら、ずっと一緒に居てくれるよね? だから私、女の子になる!」
「そっか、わかった。俺ずっと一緒にいるよ……約束する」
すると初夏の顔から笑顔が消えて、綺麗に整った顔は涙と強張った表情でくしゃくしゃになってしまった。
僕は初夏を抱きしめて、唇を強く押し付けた。初夏も両腕を僕の肩にまわして抱きしめてくる。ホルモン注射でふっくらと膨らんだ胸に手を当てると、やわらかな鼓動が段々と早く、激しくなってきている。硬くなった彼女の乳首は少し大ぶりに思えた。これもホルモンの作用なのだろうか……谷間に顔をうずめる直前に、ふとそんな事を考えた。けれど初夏の甘い吐息が切なげな響きに変わるころには、そんな事はとうに忘れてしまっていた。
その日を境に僕たちの生活は慌しくも幸せな充実感に包まれた。初夏の決意を目の当たりにした僕も発奮して、近所のガソリンスタンドでアルバイトをする事にした。生活のために、そして少しでも初夏の役に立つために。
当の初夏も前にも増して張り切って仕事に向かうようになった。手術の費用を捻出するため依然として生活は厳しかったけれど、ひとつずつ目標に向かっているという実感があって苦にはならなかった。
それからあっという間に三ヶ月が過ぎて、真冬も終わろうとする二月の下旬。もうじき春先だというのにひどく風の冷たい、そんなある日。
近所のスーパーに買出しに行った初夏が憮然として帰ってきた。
「おかえり……どうしたの?」
うつむいた初夏はふうーっと大きな溜め息をついた。なんだか少し怯えている様な顔だ。
「アイツが来たの」
「あいつ?」
「大山田。宗教キチガイのボンボンで、昔居たお店の客だったんだけど……私のことを気に入ってたみたいで。最初はただのお客だったんだけど、だんだんしつこくなってきて、最後にはストーキングしてくるようになったの。店とかマンションの前で待ち伏せされたり、番号教えてないのに何度も電話がかかってきて。あたし、向こうで上手くいってたのに……アイツのストーキングがあんまりひどいからココに引っ越したのよ」
僕はあまりに予想外な出来事に唖然としてしまった。
「ええ……で、何か言われたの?」
「うん。ゴシンゾンサマのお導きで再び君と出会えた、これは運命だ。って。神戸に居た時もお店の女の子にいきなり仏教がどうしたとか説教し出してさ、もう! なんだってのよ」
「はあ? ゴシンゾン? それでどうしたの?」
「これはゴシンゾンサマの決めたこういう運命だから、僕と付き合ってくれ! だってさ。ハッキリ断わってやってきちゃった」
「とんでもない奴だな」
「またつけて来るのかな……」
初夏は溜め息混じりに俯いて、心底嫌そうな顔をした。
「とにかく、警察行こう。早く相談した方がいいよ」
僕は気を取り直したように、少し語気を強めて提案した。
「そうだよね」
「そうだよ! そんな身勝手な奴、許せねえ!」
段々と腹の底から、その大山田とか言う奴に対して怒りが湧いてきた。やっと見つけた僕たちの幸せを、そんな世間知らずのストーカーごときに台無しにされてたまるものか。それにいつもは温厚で誰にでも分け隔てなく接する初夏が、こんなに怯えた顔で憎しみを顕わにするのも珍しかった。よほど嫌な思い出なのだろう。
次の日、仕事が休みの初夏を連れて警察署に相談に行った。ただストーカー被害に遭っているといっても、実際に暴力や不法侵入などの現行犯でなければ逮捕する事はできないのだそうだ。その代わり、アパートの周りとお店のある繁華街のパトロールを厳重に行ってくれる事になった。気休めぐらいにはなるかな、と、署を出た初夏が呟いた。
その足で、せっかくなので近所の河川敷を散歩することにした。多聞川(たもんがわ)と言う大きな川で、広い土手には遊歩道やベンチなどもある。手を繋いで肩を寄せ合って歩くと、僕たちは全く普通のカップルにしか見えないはずだった。
「あのね」
歩きながら、初夏がぽつりと切り出した。
「私、大山田に……レイプされそうになったの」
さあっ、と冷たい風が吹き抜けていった。二人は一瞬立ち止まって、僕は一瞬だけ目を閉じて。すぐにまた歩き始めた。
「神戸に居た時ね、朝方お店を出たら後ろから教われて、路地に引っ張り込まれて。捕まえられた時からずっと胸を掴まれて……」
あまりに衝撃的な事実に僕は頭がクラクラしてきたが、なんとか続きを聞いた。
「それで押し倒されてスカート捲くられて。大声を出したらすぐに人が沢山来てくれてね、助かったんだけど……今でも夢に見るときがあるの。あの血走ったギョロ目、臭い唾と息、気持ちの悪いゆがんだ顔。私の胸やお尻を触ったベタベタした指」
僕は黙って、彼女の独白を聞いていた。
「大山田はお店の人とかに囲まれて、どっかへ連れてかれた。けどあいつ、金持ちでしょ? お店の上客だったから、店長は大山田を警察に突き出さなかったの」
「……」
「私、それでお店もやめて、神戸を引き払ってここに住んだの」
「そうだったのか」
僕は驚きと、同情とも憤怒ともつかない気持ちの整理がつかないまま、遠くの青空にかかる電線を目で追った。
「だからね、初めのころは怖くて怖くて。朝も夜も独りじゃ寝れなくて、男の人も怖くて」
初夏の声がかすかに震え出した。話しているうちに感情が高ぶってきているらしかった。
「大介が初めて私のところに来て泊まってくれたときのこと覚えてる? あのとき私も大介が好きだった……だからね、帰って欲しくなかった。なんでもするから、ココにいて欲しかった」
「そっか」
僕の短い相槌が終わる前に、初夏は話を続けた。
「でもずっとアイツの事が怖くて。いつかまた来るんじゃないかって。でも大丈夫かなって思って、幸せになれるかなって……今度こそ。なのに」
とうとう初夏は泣き出してしまった。こんな美人を往来で泣かせるとはあまりに体裁が悪かったが、どうすることも出来ない僕は彼女の腕を取って二十メートルほど先のベンチに腰掛けようと彼女を促した。
「大介、ずっと側にいてね。もう私を独りにしないで。お願いだから」
「大丈夫だよ。ココにいるから。初夏を独りになんかしないさ」
「本当? 本当?」
「うん。初夏の事、愛してる。だから大丈夫だよ」
しばらくの間、初夏は人目もはばからず大声で泣き続けた。僕もそんな初夏を抱きしめて、腕に力を入れてぐっと引き寄せた。小ぶりで形の良い耳の辺りから、ほんのりと汗のにおいがした。その甘くて濃厚な香りと、いつものシャンプーの匂いが交じり合って、僕は座りながら少しだけ腰を引いた。
すっかり黄昏た夕陽の金色の光を浴びながら、手を繋いでアパートの鉄階段を上がった。カンカカンカカンカカン、と二人分の足音が乾いた空気に跳ね返ってよく響く。すぐ近くの線路を鉄道が通り過ぎる音と、踏み切りの音がかすかに聞こえた。
河川敷のベンチで彼女を抱きしめてから、ずっと心臓が高鳴っている。繋いだ右手にも汗が滲んで、頭が少しぼわんとする。一刻も早く、もっと強く強く初夏を抱きしめたくて仕方がなかった。顔では平静を装っていたけれど、否が応にも体は強張ってしまう。ふらふらと熱に浮かされたような足取りで漸くドアの前にたどり着いた。
ふと初夏の顔を見ると、彼女は艶やかに笑った。目の奥にちろちろと燃える感情を、視線に乗せて僕に伝えてきた。玄関のドアを開けると、閉め切った部屋に残った昼間の熱と、すっかり冷えた夕暮れ時の空気が混じり合って渦を巻いた。その渦の真ん中で靴を脱ぐのももどかしく僕たちは抱きしめあい、唇を貪った。
バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。彼女のルージュが溶けて僕の口の中に広がった苦味をかきまぜるように激しく舌が動きまわる。互いの荒い鼻息を吸い込んでしまうほど顔を寄せ合って、目を閉じたまま居間の畳へ倒れこんだ。仰向けになった僕のズボンとパンツを、初夏は手際よく脱がしてしまう。指先や掌や唇、それに彼女の小さな頭が上下するたびに下腹部をくすぐる髪の毛までが、僕を愛おしそうに包み込んだ。いつの間にかテーブルの端っこに彼女の下着が脱ぎ捨てられていた。そのまま僕に覆いかぶさった初夏を、僕は下から手を伸ばして抱きしめた。
結局、夕食の時間になっても何一つ準備が出来なかったので、僕たちは久々に外食をする事にした。といっても駅前の繁華街にある牛丼チェーンだ。初夏が働いているお店も近くにあり、いつも賑やかな場所だった。手を繋いで街を歩くのも、良く考えたら久しぶりだ。街灯と看板の灯りの人ごみの中を、初夏も上機嫌で歩いている。
この三ヶ月間、がむしゃらに働いていた。もちろんこれからもそうするつもりだし、僕は初夏の決意を心から応援していた。初夏の方も元々人一倍働く事が好きなので、欠席した同僚の早番を代わったり、営業の手伝いをしたりとお店の内外で忙しく動いていた。僕が昼間の仕事に就いたから時間が合わなくて、同棲しているのに中々会えない日もあった。僕が夕方帰ってくると、彼女は出かけてしまう。寂しいけれどそれで良いとも思った。二人で暮らす夢があるから、やっていけると信じていた。
僕の巡り合った最愛の人。僕の彼女。
そして将来の、僕の花嫁。
何があっても彼女を守り抜いてみせる。そう心に決めたんだ。
思わず繋いだ手を強く握り締めると、初夏は少し驚いた顔をして振り向いたけれど、すぐに小さく笑って向き直った。お見通しだったのかな。牛丼チェーンのオレンジ色の看板が見えて、さあ入ろうとしたその時。
「は、初夏さん!!」
突然、カン高く濁った叫び声が響き渡った。
どやどやと流れる雑踏の邪魔くさい位置に、薄汚れたベージュのジャケットに野暮ったいジーンズの男が立っていた。顔を紅潮させて、かなり興奮しているらしかった。
背は僕より低いのに、ぶよぶよと鈍重そうでしまりの無い体。悪い意味で子供っぽいまま老けた様な顔に張り付いたいびつな表情を、分厚い黒縁メガネで押しつぶしたギョロ目が余計に引き立てていた。男は唇の端に唾で泡をたてながら尚も喚き続けた。
「きき、君はまだわからないのか! そんな〝いい加減慣習者〟なんかと一緒に居たら、君まで地獄へ落ちてしまうぞ!」
コイツか……初夏は全身から嫌悪感を露にして、僕の腕にしがみついた。
ふーっ、ふーっ、と大山田の吐き出す気持ち悪い息遣いがこちらまで漂ってきそうで、僕は背筋を不愉快なミミズどもがぞーっと這い登ってくるのを感じながら言い返した。
「何の用だ!?」
「お前こそ、どうして初夏さんと一緒にいられるんだ!? この〝いい加減慣習者〟め!」
「ワケのわからない事、言いやがって! 迷惑しているんだ! 俺たちに金輪際近付くな!!」
「こ、この私を批判するなぞ滑稽だ! この極悪第六天魔王め!!」
話にならない。こいつは一体何を言っているのか。大山田は紫色に膨れ上がった唇をぶるぶる震わせながら奇妙な合掌をし、
「なみゃあら、はみゃあら、ぼじゃあら……なみゃあら、はみゃあら、ぼじゃあら」
と呪文のようなものをブツブツ呟いていた。
あまりの身勝手さに怒りを堪えきれなくなった僕の袖を引っ張って、初夏が小声で呟いた。
「大介、行こっ。相手しないで」
「でも!」
「いいから。お店入ろ!!」
初夏に引っ張られるようにして、僕たちは大山田をその場に取り残して自動ドアをまたいで店内に入った。ドアの外では尚もナニゴトか喚いていたが、通行人の視線が突き刺さって居た堪れなくなったのか。すぐに立ち去って行ったようだった。
「らっしゃいあせーえ」
外の騒ぎをあらかた見ていたであろう店員の奇異の眼差しを浴びながら、僕たちはカウンターに並んで腰掛けた。二人で牛丼特盛を二杯頼む。ちょっとだけの贅沢だ。
「あいつ、やっちゃおうか」
「……ごめんね」
「ううん、初夏は悪くないよ! 今度来たらタダじゃ済ませねえ!」
「おまたせしあっしたー特盛二丁ぃーす」
さっきの無気力な店員が話に割り込んで僕たちの前にドンブリをドンと置いた。まだ怒りは収まらなかったが、僕も初夏も腹ペコだ。
「いたたきます」
初夏はちょこんと手を合わせて、少しずつきちんと箸で掴んで食べ始めた。僕はドンブリを抱え込むようにして、牛肉と汁のしみたご飯をわしわしと口の中へ送り込んだ。
そんな風にして僕が特盛の牛丼をあっという間に平らげると、その食べっぷりを見た初夏が悪戯っぽく微笑んだ。
「大介って、美味しそうに食べるよね」
食事中、いつも言われる言葉だ。僕はいつも「初夏の料理が美味しいからだよ」と言っていたが、どうやらそれも通じなくなってしまうかも知れない。
そういう初夏は、まだお箸でちょこちょこと食べている。変な話、口に出したら失礼なのだろうけど、彼女は、女の子なんだな。今更ながらそんな風に思って初夏をじっと見つめていると、視線に気付いた初夏が照れくさそうに笑った。やっぱり、彼女は僕が守らなきゃ。ようやく怒りが薄れた代わりに、僕はますます初夏の事が愛おしくてたまらなくなった。
会計を済ませてお店を出ると、外は薄暗くなってきていた。時刻は十八時過ぎ。行き交う人の波は慌しく往来を埋めて、居酒屋の客引きやティッシュ配りの張り上げた声が頭上を通り過ぎてはかき消されてゆく。初夏と僕はかたく手を繋いで歩き出した。今日はもうお風呂に入って寝るだけだ。久々にゆっくりしようか…そんな他愛もない話をしながら、ジュースとタバコの自動販売機が幾つも並んだ角を曲がったその時。
ドッ!!
鈍い音と小さなうめき声。初夏に誰かがぶつかってきたみたいだった。けれど、ぶつかってきた男がその場を動こうとしない。ベージュのジャケットに野暮ったいジーンズ。黒々としているが手入れのされていない、脂っぽくべったりした汗臭い頭髪。
ぶしゅー、ぷしゅー、という気味の悪い呼吸音。
嫌な予感がした。
そしてぶつかってきた不潔な男が、ちろりと顔を上げてこちらを見た。
「ダボがぁぁぁぁ!!」
僕はあらん限りの声で叫んだ。そのままの姿勢で動かない大山田を初夏から引き離そうと二人の間に割り込んだとき
ぬるり。
と生暖かい、嫌な感触がした。鉄錆の臭いがぷんと鼻を衝く。一瞬ハッとしたものの予感が当たったことを知った僕は、大山田の弛んだ顎を目掛けて左右の拳を振り回した。
「オドレぇコラァ!!」
べっとりと赤い血のこびりついた拳が大山田の顔面をとらえた。初夏は腹部を押さえたまま汚れたアスファルトの地面に倒れ伏した
「うひっ、うひっうひっ……ばびゃあら、ばみゃあら、ぼびゃあら……」
仰向けに倒れながら例の呪文をブツブツ呟く大山田の右手はぶるぶると震え、そこには血で濡れて光る刃物が握られていた。
騒ぎを見た人々が声を上げた。
「女の人が刺されたど!」
「救急車、救急車じゃ!」
「警察呼やあ!!」
たちまち悲鳴と怒号が繁華街の一角を飛び交い、さながら塹壕のような騒ぎになった。
「ぶ、仏罰だぞ!!」
よろよろと立ち上がった大山が頬に付いた血を拭いながら狂ったように叫ぶ。
「お前たちはどうせゴシンゾンサマの事を何も知らないんだろう! ご、ゴシンゾンサマのは、は花祭りも祝わずに、く、クリスマスやバレンタインばかり祝ってるから仏罰が下ったんだ!!」
血走った目をカっと見開いて、血まみれのナイフを振り回しながら大山は喋り続けた。
「そ、そ、それなのに、お前が正式な作法を習得したこの私を、拒み、批判するなど滑稽だ!」
唖然とした群集は、大山の周りで一定の距離を取って丸く囲んでいる。その状況に気を良くしたのか、大山は続けた。
「初夏さんはまだ間に合ったんだ! 私とともにゴシンゾンサマを拝み、仏式の結婚式をあげるべきだったんだ!!」
僕はその支離滅裂な言い訳にもならない長口上を無視して、横たわる初夏に駆け寄り声を張り上げて名前を呼び続けていた。
「初夏! 初夏―!!」
「君、あんまり動かしちゃダメだ!」
騒ぎを聞いて駆けつけてくれた壮年の男性が僕をなだめて、横たわる初夏を覗き込んだ。
「うう……う」
初夏の透き通るように白い肌が、みるみる血の気を失って青くなってゆく。
「出血がひどい、おい、君の上着を」「待て!」
僕が男性に促されて上着を脱いだ時、別の方角で大きな怒号が飛んだ。
「逃げたぞ!」
「捕まえろ!!」
どうやら大山が逃げたらしい。だが、そんなものに構ってはいられなかった。
「ううっ!」
苦痛で美しい横顔をゆがめた初夏がくぐもった呻き声を上げた。見ると、男性が自分のハンカチと僕の上着を傷口にあてている。べっとりと血の染みたハンカチがおぞましく、僕は不安と怒りで頭がぐらぐらしてきた。
夕闇を切り裂くようなサイレンが鳴り響き、赤いパトランプが二つこちらに向かって慌しく走りこんできた。すぐに救急隊員がバラバラと下りてきて、手際よく初夏を搬送する準備を整えている。僕は救急隊員に事情を話し、一緒に乗せてもらえることになった。
警官には、あの壮年男性が受け答えをしてくれることになったので急いで礼を言うと、男性は穏やかに、力をこめて
「しっかりね。君が側にいてあげなきゃ」
と言うと、僕の目をキッと見ながら肩をぽんと叩いた。
(救急車が通ります 道をあけてください)(右へ曲がります ご注意ください)
慌しく走り出した救急車の中はあらゆる医療器具が所狭しと並び、チカチカと点滅する無数のランプ全てが初夏の命の灯火のように思えた。耳を劈くようなサイレンと走行音に紛れて、規則的な電子音がかすかに聞こえている。僕は初夏の左側に座って、彼女の白い掌をしっかりと握り締めていた。名前を呼んで励ましてあげたかったが、バインダーを持った若い救急隊員に状況を説明しなくてはならないのがもどかしかった。
一つ一つ焦りながら、不安に駆られながら受け答えをした。
しかし初夏の苦しげな顔を見るたびに僕は取り乱し、その都度救急隊員が穏やかに、しかし冷静に僕を諭した。僕よりも気持ち年上だろうか。そんな若い救急隊員の顔がやけにハッキリと印象的だった。
救急車が病院の救急外来に滑り込み、初夏を乗せたストレッチャーが救急治療室に運び込まれると、すぐに検査と治療が始まった。僕は薄暗い待合室のソファに腰掛けて、ひたすら彼女の無事を祈った。しかし刻々と時間だけが流れるにつれて沸々と、あの大山への怒りがたぎってくるのを感じ始めていた。薄緑色をしたリノリウムの床を右往左往しながら、行き場の無い気持ちを持て余した僕は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
しかし、身勝手で理不尽な暴力へ怒りの次に湧いて来たのは、あまりにも非情な悔恨と無力感だった。牛丼を食べ終わってすぐ、僕は彼女を守ると心に決めたのではなかったか。何があっても彼女のそばに居て、彼女のために生きようと決めたのではなかったか。それが、僕の青臭い決心は、ものの1時間足らずで全て崩れ落ちてしまった。それも醜悪なストーカーごときの凶刃によって。
そのような事態でこそ、僕が彼女を守るべきではなかったのか。
僕は今まで初夏の世話になってばかりだった。食事も洗濯も、生活そのものを初夏に依存していたというのに。やっとアルバイトを始められたのも、初夏のアパートがあってこそではないか。彼女の収入があったから、僕はのんきにアルバイトなどをしていられたのではないのか。僕は本当に、初夏を心から愛していたのだろうか。彼女の決心を心底支えていこうと思っていたのだろうか。なんとなく今のままの生活が続けば良いと、心の奥底で思っていたのではないか。どんどん湧き上がってくる自己嫌悪と疑心暗鬼に押しつぶされそうで、とうとう僕は声を上げてわんわん泣き出してしまった。廊下の向こう側までびりびりと響くような大声を張り上げ、止め処なく流れてくる涙を拭きもせず、嗚咽も鼻水をすする音も、全てが空しく思えていた。
どれぐらい泣いていただろう。
すっかり腫れ上がったまぶたが、涙で擦り切れてひりひりしている。何度か深呼吸をして消毒液の匂いのする空気を吸い込むと、ようやく落ち着いてきて、とにかく今は初夏の無事を祈るしかないと思い直せるようになった。しかしふとした拍子に、あのべっとりした赤い血や、美しい顔を苦悶にゆがめた初夏の姿が脳裏にありありと浮かんでしまう。とてもソファにじっとしていられるような場合ではなく、僕は相変わらず廊下を行ったり来たりしていた。
その時。
キィ、と短い音がして手術室の隣の部屋のドアが開いた。中から痩せた中年の女性看護師が現れて、
「付き添いの方ですか? 中へどうぞ」
と僕を招き入れた。部屋の中は白いパーティションで仕切られたベッドに、雑然としたテーブルと椅子が二つ。テーブルの壁際にはレントゲン写真をかざすパネルがあるが、灯りは消えている。部屋の奥は通路が繋がっているらしく、手術室のある方向の通路から若い女医が入ってきた。
「こんばんは。今回、検査を担当した高村と申します。失礼ですが患者の小林さんとはどのようなご関係ですか?」
小林とは、初夏の苗字だ。
「こ、恋人です。諸戸と申します」
僕は少しどもりながら、そう答えた。女医の方は動じない様子だったが、奥に立っていた中年看護師は腑に落ちない表情で僕をちらと見た。
「わかりました。では、諸戸さん。小林さんの状況を簡単にお話いたします」
今まで彼女を本名で呼ぶ機会がほとんど無かったせいか、僕は初夏が小林という名前で呼ばれることに勝手な違和感を覚えていた。
「小林さんは腹部を三センチほど鋭利な刃物で刺されていました。幸い内臓は逸れていましたので命に別状は在りませんでしたが」
「そうですか!? よかった!!」
僕は思わず立ち上がって、全身で喜びを顕わにしてしまった。またも中年看護師の視線が突き刺さるが、知った事ではない。
「ただ傷口の縫合が必要ですので、どうしても僅かに傷跡が残ってしまいます。それだけは申し訳ありませんが……」
命が助かる。初夏は生きている。そう思うと、女医の説明はあまり頭に入ってこなかった。とにかく助かったんだ。ああ、よかった。途端に体中の力が抜けて、背もたれの無い丸椅子の上で僕は背中を丸め、大きな安堵の溜め息を漏らした。
「ですので、大体一週間ほど入院していただく事になります」
「わかりました」
あまりキチンと聞いていなかったが、つい返事をしてしまった。
「では、治療を続けていますので今しばらく外でお待ちください」
女医はそう言うと、スタスタとスリッパを鳴らして奥へ引っ込んでしまった。僕は再びソファに腰掛けようと部屋を出た。すると、さっきまで僕が座っていたソファに見慣れない人物が腰掛けていて、僕を見ると小さく会釈をした。
「諸戸さんですね。警察のものですが」
やっぱりそうか。
「はい。そうですが……」
ベージュのコートにグレーの背広を着た中年の男性は、黒い手帳を僕の目の前にかざして見せた。そういえば警察手帳の本物を見るのは初めてだった。
「清水と申します。今回の件で、諸戸さんにも事情をお聞きしなくてはなりませんので……お疲れのところ恐れ入りますがご協力をお願いします」
「あの、大山は……」
「ああ彼ならすぐに取り押さえられました、現行犯です」
「そうですか。それは良かった」
僕は再び胸をなでおろした。
「お気の毒でしたね。実は大山は他にも色々と問題を抱えていまして、警察にも相談を頂いていたのに、その中でこのような事件になってしまって申し訳ない」
清水刑事はそう言って僕に深く頭を下げた。
「実は事件についてはかなり詳しい目撃証言があります。なので諸戸さんには、まずそれを確認していただきたいのですが」
「わかりました」
刑事の質問は、おおむね僕の記憶に間違いなかった。むしろその場に居た僕でも気が付かなかった事があったぐらいだ。
「ずいぶん詳しく見ていた方がいるんですね」
「ええ、実はあの時小林さんを介抱した男性は私の先輩なんですよ」
あの壮年男性だ。確か真っ先に駆けつけて、応急処置をしてくれたっけ。そうか、刑事さんだったのか……。
「湯沢さんと言いましてね、もう引退して数年になりますが今でも敏腕は健在でしたよ」
その後清水さんは僕と一緒にソファに腰掛けて、手術が終わるまで色々な話をして待っていてくれた。
やがて手術中の赤いランプが消えたとき、時刻は二十二時を回っていた。緑色をした大きな扉が開くと、麻酔を掛けられているのか眠ったままの初夏がストレッチャーに乗せられて出てきた。その奥から、高村女医が続く。
「出血が多く難航しましたが、もう大丈夫です。これから病室へ案内いたしますので、どうぞ」
案内役は、さっきの中年看護師だった。
清水さんとも別れ、僕はなんとも気まずいまま中年看護師に連れられて病院の三階にあるナースステーションそばの個室に案内された。初夏は既にベッドに運ばれて、穏やかな寝息を立てていた。あの瞬間からまだ数時間しか経っていないのに。僕には随分長いこと離れ離れになってしまっていたような気がした。窓のブラインドの向こうに大きな満月が見える。空調の聞いた室内は暖かく、乾いた汗と涙で僕の顔はべたついていた。僕は設備の説明を一通り聞いて、その日はそのまま病室のソファで寝るつもりだったが、看護師に止められてしまった。
「貴方も疲れているでしょう? それに服も汚れたままだし」
「しかし」
食い下がる僕を制して看護師は言う。
「大丈夫。彼女の事は私たちに任せて、貴方も休みなさい」
「はあ」
「看護師の言う事は聞くものですよ。患者さんじゃなくってもね」
そう言われてふと鏡に映った自分を見ると服や肌には血がこびり付いているし、砂埃にもまみれていてすっかりくたびれてしまっていた。この有様では確かにあんまりだな、と大人しくアパートに帰ることにした。夕方二人で出た部屋に一人で帰る寂しさといったら無かった。とりあえず命が助かったという事だけが救いだ……今まで起こったあまりの出来事に僕は頭がクラクラと混乱していた。
熱いシャワーを浴びてベッドに倒れこんむ。
いつも二人で寝ているベッド。毛布団を顔に寄せて、すぅ、と息を吸い込んでみた。甘くてやわらかな、初夏の匂いがする。胸の奥がぼうっとするような、僕だけの匂い。寝返りを打てば、すぐ隣に彼女が寝ているような錯覚さえ起こしそうだった。
目が覚めると朝だった。夢も見ず、ぐっすり眠ったらしかった。時計を見ると午前八時。ガソリンスタンドのシフトが八時半からだ。顔面蒼白になった僕に携帯電話の着信音が追い討ちをかける。バイト先の石川店長からだ。
「もしもし。諸戸です! すみません、まだ家なんですがすぐに支度を」
「ああ諸戸君? 石川だよ。君、今日は来なくていいよ」
「へっ?」
「大変だったね。実は昨日警察の方から連絡が来て、ワケは聞いたから」
「あ、それはその」
「いいからお見舞いに行っておいで。君はしばらく休みで良いよ」
「あ、ありがとうございます!」
「その代わり……手が開いたら、危険物の勉強をしておくように! わかったね。じゃあ」
石川店長の電話を切って、僕はすぐに病院に向かった。総合病院なので診察のロビーは混み合っていたが、病室棟に入るとそんな喧騒も薄れていった。
301号室のプレートの下に、小林 とだけ書かれている。苗字の下には名前も書いてあるのだが、マジックで上から塗りつぶしてある。おそらく初夏が頼んで消してもらったのだろう。よほどその名前を思い出すのが嫌なようだ。薄い黄色のスライドドアをスーッと開けて、コの字型の薄いカーテンの向こう側に声をかける。
「初夏……?」
「大介!?」
カーテンの向こうから、元気そうな声が帰ってきた。窓際に回り込んでカーテンをめくると、ベッドに横たわった初夏の姿があった。顔色はだいぶ元通りだが、表情にはまだ疲労の色が残っている。
「どう?」
「うん、ちょっと痛む」
「そっか」
「あ、あのね! 実は入院費なんだけど……」
ドキっとした。気にはなっていたが、そういえばこんな個室に入れてもらえてタダで済むはずがない。僕はバイトの身だし、初夏も保険や保障と言うものの話を聞いたことが無かった。
「あの後すぐに店長が病院に連絡して、費用は全部持ってくれるって!」
「へっ?」
「私、あの店で随分稼いでるからね!元気になって、また戻ってきてくれって」
僕は昨日に続いて、またもや胸を撫で下ろした。
それから一週間が過ぎた。初夏は順調に回復し、僕も昨日からバイトに復帰している。
十七時に仕事が終わったらそのまま病院へ直行してお見舞いをしてから帰るのにもすっかり慣れた頃、ついに退院の許可が出た。高村女医も驚くほどの生命力を見せた初夏は、逆にお墨付きを頂くほど元気になっていた。
その日はことのほか忙しかった。三月の春休み前なので給油も洗車もオイル交換も引っ切り無しだった。そのため一時間半も残業をして、病院に着いたら十九時を回っていた。もう夕食も済み、あとは消灯までぼんやりと過ごすだけの時間。
僕は慌てて病室に駆け込むと、初夏の姿が見当たらなかった。仕方が無いので病室のテレビをぼんやり見る。いつだったか見た、世界のニュースを司会者の男が解説する番組だ。僕らの事情と事件とを知ったら、どんな風に解説してくれるだろう。そんな事を考えていると静かにレールの音がして、ドアが開いた。
「大介?」
「あ、ごめんごめん! 遅くなっちゃった」
初夏は僕を見るなり、ベッドに縺れ込むようにして抱きついてきた。
「遅くてごめん、ねえ、汗臭いよ?」
「……寂しかった」
「ごめん」
「もう来てくれないのかと思った……」
二週間も離れていたうえ、あんな事件の後だからか、初夏はすっかり弱っていた。明るく振舞っていたようでも、夜は一人で恐怖や不安と戦っていたのだ。僕も初夏の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよ。ずっと一緒だよ」
「本当?」
「ああ。ずっとね」
「……」
「どうしたの?」
「大介の匂い」
二週間ぶりに抱きしめた初夏の体は、心なしか少しふっくらしているようだった。病室に持ち込んだシャンプーもお化粧品もいつもと同じなんだけど、今日はなんだかいい匂いがした。
僕と初夏はほとんど同時に顔を見合わせて、どちらともなく唇を寄せた。星空へと変わり出した窓からは市街地のネオンや、県道を走る車のヘッドライトが見えた。ささやかな天と地の星たちだけが、僕と初夏の愛を確かに見届けている。初夏は僕の首筋にむしゃぶりついて、大きな音を立てた。
「ねえ、見る?」
「何を?」
「うふふ」
初夏は悪戯っぽく笑うと、パジャマのズボンとお気に入りの黒い小さな下着をほんの少しずり下ろした。
まるで白磁の陶器のような滑らかできめ細かい肌に、無残な傷跡が残されていた。これから先もこの傷を見るたびに、このことを思い出すのだろう。けれどそれは、僕たちにとって全く問題にはならなかった。むしろ、今日までで僕たちはより一層愛を深める事ができたのだから。
僕は黙って傷跡に口づけた。
「くすぐったいよ!」
初夏が弾けるように笑った。
僕も笑った。
つづく
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