前世を思い出したけど推しの義弟が最恐のヤンデレラスボスだったので俺が幸せにしてみせます

柊 らんか

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38.メフィストフェレス

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「遅かったじゃない、焦らすのが趣味なの?」

 応接室へ向かう廊下に、拗ねたような声音が響く。
 まるで子供が水たまりを踏んで遊ぶように、大げさな足取りで歩きながら、客人は言った。

「ご予定に合わせる時間が十分に取れず、不手際がございました。お待たせして申し訳ありません。」

「まあ、随分な嫌味だこと。」

 斜め前をゆっくり歩く彼女を、ジルバードは一瞥して、零れそうになった溜息をぎりぎりのところで飲み込んだ。

 初めて彼女を応接室に案内してから、もう幾度目だろうか。
 門前払いしても良いというのなら、とっくにそうしていたに違いない。

 しかし仮にも相手は王女であり、ハミルトンの名がいくら強大であろうとそれはジルバードの力では無い。当然ジルバード本人には後ろ盾もない。

 何より、数年前のレイリアの誕生祭で、レイリア自身が王家の体裁を守る態度を示したことは大きかった。


 そのため、ジルバードが王女を無碍に扱うということは、即ちレイリアの意に反することと同義であり、ジルバードにとってそれは存在しない選択だ。

 彼女はすっかり応接室の場所を覚えてしまったのか、ジルバードが案内するまでもなく、部屋の前でぴたりと足を止めた。  
 ジルバードは一歩進み出て扉を開き、彼女を先導するように軽く手を差し伸べる。
 彼女は慣れた様子でソファに腰を下ろすと、フードを外した。

「……いい運動になったわ。何かお茶でも淹れてちょうだい。喉が渇いたの。」  
「……承知いたしました。」


 ジルバードは銀製のトレイに並ぶティーポットと茶葉の罐を手に取った。

 ポットを軽く湯で温め、茶葉を入れ、沸かしたばかりの熱湯を注ぐ。  
 湯気が立ち上り、ほのかな香りが部屋に広がった。  
 数分して、砂糖壺とミルクピッチャーを添えたトレイを手に、彼女の前に丁寧に置いた。

「……いい香り、お茶を淹れるのが上手なのね。」

 彼女は、ティーカップから沸き立つダージリンの芳醇な香りを堪能するようにそっと鼻を寄せてから小さな口を開いた。

「美味しいわ。あなたの兄君が淹れるお茶も、いずれ飲んでみたいわね」
「ご冗談を。」


 ジルバードは悠然と茶を嗜む目の前の女を見て思わず鼻で笑いそうになった。

 ──兄上は茶など淹れない。ましてや人のために兄上ほどのお方が手ずから給仕のような事をするはずもない。
 そんなこと、してはいけない存在なのだから。

 兄上が、誰かの前で穏やかにポットを傾ける光景を。
 白い指先が、丁寧に茶葉を計り、湯を注ぐ姿を。
 その茶を、他の誰かが気安く受け取る様子を。

 想像しただけで、嫌悪に反吐が出そうだった。

 王女は、いつもそうだ。その身分にあやかり、兄上を、まるで誰かと並ぶ存在のように扱う。兄上を、まるで手の届くもののように語る。

 だから、嫌いだ。

「まあいいわ。本題に入りましょう。」
「……何度同じ話をされても、私は兄上の口から聞くまで何も疑わず、何も信じません。」

 ジルバードの拒絶するような声音に王女は鈴を転がしたような愛らしい声で小さく笑った。

「……まあ。では毎日一生懸命したためているラブレターに、一回でも否定の返事はあったの?」

 彼女は緩くカールした金髪を人差し指に巻き付けながら、視線を落として言った。
 少し冷めた紅茶を見て、残念そうに目を伏せた。

「兄上はご多忙の為、普段から返事はお書きになりません。」
「ふふ、多忙ね……。たかが数分で書ける返事もできないほどかしらね?」

「ええ、少なくとも無意味な雑談のために魔塔を何度も訪れるような時間は、兄上にはないでしょうね。」  

 苛立ちを含んだ声に王女は一瞬笑みを消したが、ぱちんと手のひらを合わせて、柔らかな色を帯びた笑みを浮かべた。


「……よしましょう。言い争いをするために来たんじゃないわ。今日はね、頑固な貴方にとっておきのものを見せたくて来たのよ。」

「……」

 姿勢を正すと、膝の上に置いた革封筒に手を伸ばし、そこから取り出した一枚の紙を見て、ジルバードは目を見開いた。

「こ、れ…」
「そうよ。……ねえどう?あなたの大好きなお兄様の字に間違いないでしょう?」

 王女の言葉が耳に突き刺さり、ジルバードの頭を殴られたような衝撃が襲う。  
 一瞬、目の前が暗くなる錯覚に襲われながら、彼は目の高さでひらひらと揺らされる紙を見つめた。  

 ──婚姻契約書

『レイリア・ハミルトンとアシェル・リンデンの婚姻に関する契約』
 ───我ら、エリスタール王家の名の下に、聖なる神々の加護と王国の繁栄を願い、ここに婚姻の契約を結ぶ。  

 羊皮紙特有のざらついた質感、精巧な印刷。そして文末に記された気品ある筆跡──。
 何度も読み返したメッセージカードと同じ字体で綴られたサインを、震える人差し指でそっと撫でた。  

「どうしたの?顔色がとっても悪いわ」

 王女の声が遠くから聞こえるようだった。彼女はジルバードの手から滑らかに紙を抜き取るとテーブルの上にそっと置いた。その動作さえも、ジルバードには挑発的に映った。

「……うそだ」  

 声が掠れた。喉が締め付けられるように乾き、言葉を紡ぐのもやっとだった。

「ううん、そうじゃないって、あなたは分かってる」  

 王女の声は穏やかで、どこか楽しげだった。彼女は優雅にカップを持ち上げ、冷めた紅茶を一口飲むと、ジルバードの苦しむ姿を眺めるように目を細めた。

「な、なん、で、なんで……なんで」

 毎日、手紙を書き続けた。インクが滲むほど丁寧に、兄上に届くかも分からない手紙を。

「いい子ねジルバード。大丈夫よ、落ち着くのよ」

 それでもよかった。返事がなくても、年に一度、たった一言でも兄上の字を見られれば、それだけで生きていけた。

「……あ、兄上は、兄上は、誰も選んだり、しませんっ!」

 自分が選ばれるなんて、恐れ多いことは、最初から思ってもいなかった。兄上が高みにいて、誰とも結ばれず、皆が下から見上げる存在でいてくれれば、それでよかった。

「しない……しないんです、するわけ、ないんです……」

 震える声で呟きながら、ジルバードは自分の思い込みに縋りついた。
 どこかで、兄上に一番近いのは自分だと、そう信じていた。兄上が気にかけてくれるのは自分だけでいいと、傲慢にも思っていた。

 兄上の背後に控えることを許されているのは、自分だけでいいと、そう夢見ていた。

 毎朝、兄上のために祈り、毎晩、兄上の無事を願って眠りについた。あの遠い存在に、少しでも近づきたくて、ただひたすらに努力してきた。  


「気持ち悪い、もう、全部」

 足から力が抜け、嫌悪からくる気持ち悪さに膝をついた。

 これからも変わらない日々が続くはずだった。
 魔塔を出て、一人前になって、兄上の傍で役に立って、死ぬまでそばにいられると、そう信じていた。いつか兄上が微笑んでくれる日を夢見て、どんなに辛くても耐えてきた。

 だって、自分にはそれしかない。

 兄上のそばにいることだけが、自分の生きる理由だ。希望だ。

 どんなに不安を煽られようとも、心を乱されようとも、この目で、耳で直接確かめるまでは信じないと決めていた。兄上との未来だけを思い描いて、前を向いた。

 なのに、この紙が、兄上の字が、すべてを壊していく。夢が、希望が、音を立てて崩れ落ちていく。  


「……ああ、可哀想。大丈夫よ、そんな顔しないで、ジルバード」


 ジルバードは一点を見つめたまま、荒い息を繰り返しながら肩を震わせていた。
 王女はその背後にそっと近づき、優しく肩を抱いた。されるがままに頭を肩に預け、ジルバードは何も言わなかった。ただ、目の前の呪いのような契約書が目の奥に黒く染み込んで離れなかった。



「……いい子ね。大丈夫よ、私、素晴らしい考えがあるのよ。絶対にレイリア卿の結婚を阻止できるとっておきの案よ。聞きたい?」

「っ、な、お、教えてくださいっ、なんでもします、なんでも……」

 本当に、何でもする。その為だったら、自分のすべてを投げ打っていい。何を犠牲にしてもいい、どんな代償も支払う。兄上が誰かに笑いかける未来さえ、無くなるというのならば。

「ちゃんと、お願いなさい」
「……お願いです、お願いします……。教えて、ください」

 王女が差し出した白い手に、ジルバードは静かに口付けを落とした。両手でその手を包み込むように握り締め、まるで神に祈るかのように額を寄せると、静かな涙がその手のひらにぽたりと滴った。

「悲しいわよね、あなたの兄上は、あなたなしでも生きていけるんだもの。あなたがどれだけ思い詰めても、彼は振り返らずに前へ進んでいく。貴方を置いてね」

「っ……そんなこと」
「ないかしら?どう思う?」


 彼女の声は耳元で甘く囁かれ、柔らかで優しげな響きの中にはたっぷりの毒が混じっていた。まるでジルバード自身に言葉を吐かせて、傷を深く抉ろうとするかのように。  

「ねえ、ジルバード。私と結婚しなさいな」

 突然の思わぬ言葉に、ジルバードは顔を上げた。いつの間にか陽は落ち、月明かりに照らされた王女の顔が静かに浮かび上がっているその光景は、どこか非現実的に感じられた。
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