愛さずにはいられない

松澤 康廣

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危険な関係

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 河井壮夫たけおと私はどこか馬が合った。そこに波が立ったのは河井の一言からだった。
 河井が「これからは俺を肥前守ひぜんのかみと呼べ。俺はお前を出雲守いずものかみと呼ぶから」と言ったのは二人が幸田小学校5年生となった、昭和37年(1962年)の冬のことだった。河井の豪邸の応接間での出来事だった。

 ここに来る前、私と壮夫は野球をしていた。
 子供が毎日遊びまわるため固くなった、河井家所有の、水のれた田で、今日も、手ごろな長さと太さの古木をバットにし、ゴムボールで私たちは野球をしていた。代官地区の小学校男子の大半が参加していた。が、雪が降り出して、それもかなり大粒の雪になったので、野球は中止となったが、私だけ河井から解放されず河井の家に付き合わされたのだ。

 二人は、小さいときからよく遊んだ。家は決して近くは無かった。100m以上離れていた。
 どういう経緯で知り合ったのかは覚えていない。しかし、知り合ってからすぐ仲良くなったと思う。
 この頃二人はいつも一緒だった。場所は決まって河井の家の庭だった。そこには当時の子どもが満足できる全てがあった。  
 庭に面した納屋なやには河井の遊び道具が詰まっていた。納屋の奥に置かれた何個もの樽は玩具入れになっていて、そこには古い、木製の旧式の玩具から最新のセルロイドの玩具まで何でもあった。卓球台もあった。二人の顔がようやく台を越えるようになってから、毎日のように卓球をしたものだ。

 庭は広かった。そこには、大小様々な樹木が溢(あふ)れていた。
 かくれんぼには最適だった。
 走り回る二人は、剪定せんていしていた庭師に庭木を折らないように注意しな、とよく声をかけられた。
 庭師に限らず、河井の家に出入りする大人は多かった。家の中にも、近くの畑にも……。
 河井家は小高い山に面していて、そこもまた遊び場で、また冒険の場だった。そこにも大人が出入りした。彼らは山に育つたけのこや栗や野草を盗みに来る者たちだ。河井壮夫を見ると、慌てて逃げていった。彼らだけが、仕事外で出入りする少数の悪者で、後の大人は何らかの仕事で来ている者たちだった。河井家の裕福振りを象徴していた。
 納屋には犬もいた。バロという名のコリーだ。
 高齢で、テレビ番組で登場した「ラッシー」のようには走り回らなかった。が、背が小さく怖がりだった私にはそれが嬉しかった。
 常に腹を空かしていた私には、いつ来ても果実が実っていることも魅力だった。畑には各所に桃、葡萄、柿などいくつもの果樹があり、冬を除けばいつでも季節ごとの果実を採って食べられた。小学校5年生となった、この頃は流石さすがに私も「遠慮」が理解できるようになり、自由にとって食べることはなくなったが……。

 二人は河井の母家の端にある、大きな畠に面した応接間にいた。二人が向かい合った、木目の浮き上がった、鮮やかな黒光りのする大きなテーブルには、大皿に収まりつかないほどの、十数本もの実をつけたバナナが一房置かれていた。
 当時、バナナは貴重品だった。私は見たことはあるが、食べたことは無かった。
 河井の母が運んできた紅茶もあった。それを飲むのも初めてだった。
 河井はすぐに飲み始めた。
 私は口をつけなかった。
 応接間に入ったのもこの時が初めてだった。緊張していた。
 河井壮夫の座るソファの後ろには大きなステレオがあった。
 河井は陽気に、大きな声でその一部を歌った。
 歌手は絶叫していた。河井も絶叫した。
 ハリー・ベラフォンテという外国の歌手の「バナナボート」という歌だと壮夫は言った。


 歌い終わると、ステレオのレコード針を外すために河井は立ち上がった。
 痒いのか頭を掻きながら河井は戻ってきた。そして、ソファに座ると、すぐに河井は言った。
「ここは、昔、幸田村と呼ばれていて、おれんちとおまえんちがここに最初に住んだんだ。クサワケって言って、偉い侍だったんだぞ」
 彼は続けた。
「だから、子孫であるおれたちはそれを忘れないように、お互いを昔の名前で呼ぶんだ」
 きっと、父親か母親から先祖の話を聞かされたのだろう。まさか、親が壮夫に自分をそう呼べとまでは言わなかっただろうが、先祖に誇れる自分になりなさいぐらいは言われたに違いない。
 河井はいいよ、とその時私は思った。
 河井家は江戸時代に代官を務めていたので、彼の家のまわりは代官地区と今も呼ばれている。御殿のような大きな家で、この応接間だけで、我が家と変わらない広さだ。いや、広い。
 河井は優雅に紅茶を飲み、分かりもしない外国の流行歌の流れる豪邸で生活している。肥前守がどういう身分かは知らないが、きっと偉いんだろう。そう呼んでも壮夫には違和感はない。いや、相応ふさわしい……。

 その時から、私は彼を肥前守と呼んだ。自然に出た。彼も私を出雲守と呼んだ。
 私は呼ばれて、嬉しく思ったことは一度もない。それでも、本人の前であからさまに嫌がらなかったのは、そう河井が呼ぶのは二人でいる時か、他の子がいても気づかれないような場面でだけだったからだ。
 もし、他の友達が知りうる場面でそう呼んだら、いくら気の弱い私でも、きっと「絶交だ」と大きな声で言ったに違いない。そのくらい、嫌だった。
 今から考えれば、そう言うべきだった。
 そう言わなかったから、あれほど仲のよかった関係が壊れていってしまったのだ。しかし、その頃は壊れることなど想像もできなかった。
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