愛さずにはいられない

松澤 康廣

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忘れ時の

7(2)

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 結局、私は彼の期待に応えることにした。しかし、出来る限り楽をしようと思った。
 市史に書かれている中から抜粋ばっすいして終わりにしようと思った。いや、そうすべきだと思った。河井がどう期待しようと、史料価値の無いものを載せるわけにはいかない。
 市史の大人向けのむずかしい表現を中学生向けに分かりやすく書き直せば十分だ。
 方針が決まると気持ちが楽になった。
 先(ま)ずは、どう分かりやすくしたらよいか考えながら、丁寧に読んだ。
 読んでみると、おかしなことが幾つもあることに気づいた。
「太田家系譜」は史料価値がないだけではない。書かれていることにいくつも疑問がある。
 市史では忠勝に関する記述にある「永禄六年甲斐国兵乱出」について、当時、相模は甲斐と同盟関係にあったから、この記述にのみ疑問をていしていた。しかし、それだけではないのだ。おそらく、市史の執筆者は「系図」そのものに興味はなかったから、気づかなかったのだろう、あるいは、気づいていても、指摘する価値もないと思ったのだろうか。
 疑問箇所は系図の以下の部分に集中している。

忠親 出雲守 天正拾年午九月四日六拾七歳二而死、
 男子 忠継
 同  忠義 同村住 市右衛門と号
 同  忠勝
 女子
忠勝 出雲守 永禄六年甲斐国兵乱出
       慶長五年子九月十四日、濃州青野合戦打死、五拾六歳
 女子 伊都
忠継 半左衛門尉 慶長九年辰四月十日六拾三歳二而死、
 男子 忠盛
 同  忠長 文禄三年午四月十日 沢柳さわやぎ村住
 同  時忠 文禄三年午十月四日 蓼川たでかわ村住
 女子 弐人

 一つ目の疑問は忠勝の年齢だ。五十六歳で濃尾合戦(関ケ原の合戦)に出かけたりするのだろうか。高齢過ぎではないか。
 近くで起きた戦いであるなら、それもあるかもしれない。しかし、場所は岐阜県関が原だ。そこは琵琶湖に近い遠隔地だ。新たに幸田村を支配した徳川の家臣から動員されたのだろうが、果たして、村の有力者が話し合った結果が、56歳の遠隔地への出陣となったのだろうか。要請された人数はさほど多いとは考えられない。どの家からも動員されたとは考えにくい。他に適当な者がいるはずなのに、この老人と決めて、支配者の理解は得られたのか。はなはだ疑問だ。
 二つ目が何故、3代目が忠勝なのかだ。彼は三男だ。
 どういう事情があったのか。
 その忠勝には子に男子がいない。
 では4代目は誰になったか。
 系譜では忠継となっている。この人物はどのような人物かというと、2代目の長男としても登場する忠継としか考えられない。最初は別人と考えたが、年齢を考えると同一人物と考えざるを得ない。何故、3代が2代目の三男で、4代が2代目の長男なのか。
 私は推論した。
 本当は忠勝は家を継いでいない。忠勝が「関が原」で戦死した功績を強調するため、虚偽の系譜を造った。祖先に「関ヶ原」に行った、それも戦死した人物がいることを残したかっただけではないのか。
しかし、系図に細工を加えるほどのことかとも思う。市史の担当者の系譜そのものへの疑問を考えると、本当に関ヶ原に行ったのかも怪しいものだ……。
 こう考えると、資料的価値云々うんぬん以前に、系譜そのものが出鱈目の可能性が高いのではないかと思えた。副読本に載せる価値はなかった。

 1年掛けて、原稿をしあげた。
 原稿の中心は鎌倉時代にこの地を収めていた渋谷氏にした。資料は更に少ないが、その歴史的価値は揺るぎがない。幸田村については、「幸田村を開発した九人衆」という題で、「相定候一札之事あいさだめそうろいっさつのこと」のみを資料として載せた。
 3月に原稿を市の担当者に渡すと、それから数日して河井壮夫から電話がかかってきた。河井の声を聞くのは何年ぶりだったろう。
 電話の主は「河井」と名乗ったが、彼から電話があるとは思ってもいなかったので、すぐに壮夫と気づかなかった。
 私が返答にきゅうしていると相手は「市長の河井だ」と名乗った。怒った声だった。そして言った。
「どうしても聞きたいことがあってね。失礼だとは思ったが……。今回の副読本のことだが、なぜ、太田家系譜を載せなかったのか。その理由を聞きたくてね」
 私は、河井の突然の電話に驚いたが、その内容が私を冷静にさせた。系譜を載せなかったのは十分考えての結論だったからだ。だが、なぜ、そのようなことで河井が電話をかけてきたのか不思議に思った。
「市史には、系譜の内容について、疑念があると書かれています。私もその結論には納得がいきましたから、はずしました」と答えた。
「疑念ねえ。私は太田君自身の家の系譜だから遠慮したのかと思ってね。関が原の合戦も出てくるし、いい資料だと思うんだけど」
「実は関ヶ原の合戦に祖先が参加したという記述も事実かどうか疑わしいと思っているんです……。あの合戦に参加したと書かれている忠勝の記述は市史の執筆者に指摘された永禄六年甲斐国兵乱出の記述だけではなく、怪しい部分がいくつもあるんです」
「ほう。そうなのかねえ。しかしねえ、それが事実だとしても、それほど事実でないことは重要なことかなのかねえ。私は書かれたという事実こそが大事だと思うんだが。その事実に比べれば歴史的事実などという価値はその半分もないと思うが……」
「言っている意味が分かりかねますが……。心情の問題のことを言っているのであれば個人的にはそうかもしれません。しかし、社会科副読本に載せるわけですから歴史的事実かどうかで判断すべきではないですか。生徒に嘘は教えられません」
 私は相手が市長であることを忘れて、向きになって反論した。
 が、河井はどこまでも冷静だった。そして、河井から意外な言葉が返ってきた。それはその後、ずっと私の頭の中を支配した。
「嘘も事実の一つだと言っているんだがね。私が言いたいのは、書かれたという事実のほうがよほど重要だということだ。じゃあ、なぜ、君の祖先は嘘をついたのかね。その方がよほど重要だと君は思わないのかね」

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