愛さずにはいられない

松澤 康廣

文字の大きさ
上 下
62 / 67
マイ ファニー 

11(1)

しおりを挟む
 携帯が鳴った。河井由紀子からだった。約束通りの正午だった。
 階段を降り、マンションの裏の駐車場にシルバーのプリウスが停まっていた。
「お似合いね」と由紀子は言った。私は指定通りの喪服を着ている。由紀子も黒のドレス姿だった。胸に真珠のネックレスが輝いている。
「気に入っていただけるといいんだけど。今日のお店」と由紀子は言った。
「青葉台って言っていましたけど、よくご存じのお店ですか?」と私は訊いた。
「いえ、教えてもらったの。落ち着いて食事が出来るお店と言うことで……。私もちょっと期待しているんです」と、由紀子は前方を見ながら答えた。
 道は混んでいた。
 左を曲がれば、子どもの国に向かう。私が勤めた幾つかの学校では、1年生の遠足で度々使っていた場所だった。
 由紀子はそこを曲がらず、まっすぐ坂を上っていった。ここから先は行ったことがなかった。

 低い丘の中腹に料亭Sはあった。
 由紀子は後部ドアを開け、そこから大きな紙袋を取り出した。
 着物を着た若い仲居に案内され、6畳ほどの和室に入ると、由紀子は、袋から、額と位牌を取り出して、正面の壁に面したテーブルの上に並べた。そこには切り花の入った花瓶が置かれている。額の中に笑顔の河井がいた。遺影に使われた写真に違いない。
 部屋の中央には、2人には大きすぎるテーブルが置かれていた。奥に私は座り、入口側に由紀子が向かい合う形で座った。
 仲居は飲み物の注文を取った。由紀子は「ビールでいいわね」と私に確認して、烏龍茶とビールを注文した。
 落ち着くと、この店の主人が挨拶に来た。一通りの挨拶の後、今日の創作料理について説明をした。

 K学園に行くことは由紀子に伝えてあった。いつかそこで知り得たことを由紀子に伝えなければならない。それは由紀子の期待していることでもあった。伝えることは幾つもあった。しかし、その多くは由紀子を驚かせることばかりだった。悲しませることにしかならない。話す内容を整理する必要がある。そう思うとなかなか由紀子に電話ができなかった。
 電話は由紀子からかかってきた。もうすぐ49日だから、一緒に食事でもしようという提案だった。断る理由はない。49日はまだ2週間近く先だ。二人で食事するのに由紀子が思いついた名目だろう、と私は意味もなく推測した。

「樫村さん、お元気でしたか?いくつになられたのでしょう。もう90歳近くだと思うんだけど」
 挨拶に来た、店の主人が退席すると、由紀子はすぐに口を開いた。私の話に期待していることがよく分かった。
「そんなになるんですか。とてもそうには見えませんでしたよ。ええ、仙人のように元気でした。上下青のジャージ姿でしたよ。実に若々しい。運動会が近いということで、草むしりをなさっている途中だったようです」と、私は眼を精一杯見張って驚きの表情をして言った。
 言葉とは裏腹に、樫村の悲しそうな顔が脳裏をよぎった。
「そうですか。それは嬉しい。もうずっと会っていないから。そう、私たちの結婚式のあとにお会いしてからずっと会っていない。樫村さんの主義なんです。卒業生には会わない、消息もお互いに知らせない、という主義なんです。知ったところで、何も卒業生のためにできない。だから、知らせてほしくないというんです」
「分かるような気がします。卒業生の、それも不幸を知ったら、心が動く。しかし、問題をいっぱい抱える在園生のことを考えたら、何もできない、いや、するべきではないと考えたのでしょう……」
「あれからもう30年近く経っているんですね。私たちのこと、覚えていましたか?」
 心配そうな顔で由紀子は言った。
「よく覚えていました。お話を聞いて、忘れるはずがないと思いました。河井が志穂さんを養子にもらいたいと言ったこと。その条件が奥さんをもらうこと、奥さんが養子の話を了解すること、河井とあなたがそこで知り合ったこと、そして、結婚して志穂さんを引き取ったこと。すべてがドラマチックで、樫村さんにとっては忘れることができるはずはありません」と私は言った。
「結婚を決意するまでには、そう時間はかかりませんでした。志穂ちゃんを知っていましたから。あそこにいる子はみな何かしら家庭の不幸を抱えています。でも、志穂ちゃんの不幸は比べものにならない。彼女の不幸に比べたら、自分は不幸だなんて言えない。志穂ちゃんを幸せにしたい、という思いは私も同じでしたから、自然に結婚ということになりました。一番の心配は河井のご両親のことでした。でも、本当に理解があるお二人でした。志穂を養子に貰いましたが、父母は血のつながる子がほしかったと思います。でも、河井は志穂への愛情を優先して子を望まず、私も自分の子ができたときの不安があって、私たちは子を設けませんでした。父母は私たちに子が出来ず、跡継ぎのことが気になったはずですけど、それに一切触れない。それはお亡くなりになるまで変わりませんでした」
「ご両親とも人格者でしたからね。特にお父上の逸話を河井からよく聞きました」と私は言った。
「ところで、あのS・Tという女性のことは分かりましたか。樫村さんは知っていたのでしょうか?」と由紀子は本筋に入る質問をしてきた。 
「驚かないでください。衝撃的なことが分かったんです。今もそれをあなたに話すべきかどうか迷いがあります。でも、きっと河井はそれを望んでいると思います。そう思うんです」私は強い眼をして、言った。
「河井が望んでいることでしたら、どうぞ話してください。私は驚くことはないと思います」
「そうですね」と私は言った。河井の自殺さえ受けいれた彼女だ。冷静に聞けるに違いない。私は話すことに抵抗がなくなった。
「樫村さんは自分が河井を死なせたと大変後悔なさっていました。志穂さんのことで、樫村さんは嘘をつきました。それを河井にも強要しました。河井は強くその嘘に反対したそうです。そのことでずっと苦しんで……。それで自殺に踏み切ったと樫村さんはお考えのようです」
「それはどういうことですか?もっと分かるように教えてください」由紀子は私が樫村に言った言葉と同様のセリフを吐いた。
「分かりました。分からないことがあったら、すぐに言ってください。間違って伝わってはいけない内容ですから。志穂さんに関わることですから」
「ええ。志穂も私も心配ありませんから、知っていることをすべてお話しください」と由紀子は言った。
 このとき、由紀子の後ろのふすまが開いた。二人の女性が先ほど頼んだ飲み物と食事をもってきた。前菜の用意が終わるまで沈黙が続いた。

「あのS・Tという女性は志穂さんの母親でした。志穂さんがK学園の門の前に捨てられていたというのは嘘だったんです」
 私は由紀子の表情をうかがった。
 由紀子は明らかに動揺していた。私は話を続けた。長い話となった。
 S・TがK学園の卒業生であったこと、実は彼女こそがK学園の門に捨てられていた赤ちゃんだったこと、その子を樫村さん一家が育てたこと、神様が届けてくれた贈り物として、学園の子たちも一緒になって育てたこと、学園卒業後、H高校に進み、T大学に入ったこと、そのころ大学は学園紛争の真っただ中で、それにS・Tも巻き込まれたこと、彼女はT派の活動家になり、対立するK派の内ゲバで殺されたこと、そのとき、S・Tには子がいて、それが志穂だったこと、志穂を樫村さんが引き取ったこと、志穂の将来を考え、志穂も学園の門の前に捨てられていたことにしたこと……。それが志穂のためになると考えた……。
 冷静に、冷静に。自分にそう言い聞かせて私は淡々と説明した。
「どうして、そうしなければならなかったのでしょう。どうして、それが志穂の将来を考えることになるのでしょう?」と由紀子は声を少し荒げて言った。
「父親は分からない。母親は内ゲバで殺された。そのような過去を知ったとしても、志穂さんに良いことはないと思った、とおっしゃっていました」
「河井はS・Tという女性をいつ知ったのです?あのビラを持っていたということは、大学生の時には知っていたと言うこと?河井とS・Tはどういう関係だったのですか?いえ、その前にS・T、その人の名前を教えてください」と由紀子はたたみかけるように早口で言った。
「佐宗千佳子さんです。私は二人は恋人同士で、志穂さんは二人の子、河井は彼女の父親ではないかと思いました。だから、彼女を引き取りたかった……。樫村さんもそう考えなかったのか聞きました。少しは考えたそうですが、結局、血液型が合わなかったそうです。ほかにも理由はあります。父親だったら、樫村さんの嘘を河井は受け入れるわけはないからです。それに……。志穂さんは河井と似たところがない」私はゆっくり、最後の言葉を言った。由紀子は戸惑っているようだった。話の展開が早すぎるのか……。
「それでも河井は樫村さんの提案をどうして受け入れたのでしょう。河井の性格を考えると、受け入れるとはとても思えません」
「受け入れなければ、養子を認められなかったからです。よく考えてください。樫村さんにも嘘をひるがえせない事情があるのです。樫村さんが必死に願って、捨て子にした。それを受け入れられるためには、たくさんの人を巻き込んだ。その嘘を成り立たせるためには、協力者が何人も必要だったんです。その人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。樫村さんのたっての願いで受け入れた善意の協力者のことを考えたら、河井も受け入れざるを得なかった。受け入れはしたが、それがどういうことか、河井は訴えたそうです。志穂さんを捨て子にするのは佐宗さん自身の存在を抹殺することになる。この世に存在した事実を消す、それは佐宗さんを殺すことと同じだ、と。河井にはあまりに辛いことだったのでしょう。樫村さんがそれでそれが自殺の原因だと考えているのです」
 由紀子は沈黙した。納得がいかない、何か腑に落ちないという様子が見えた。そして、口を開いた。
「少し、考えてみます。食事にしましょう」
 テーブルの上に並べられている前菜はすぐに無くなった。ほぼ同時に、再び仲居が食事を持ってきた。
「お飲みになってください。私は運転がありますから、おつきあいできませんけど。河井のために、楽しい時間にしましょう」と由紀子は言った。
 私はグラスを持った。それに由紀子はビールをゆっくり注いだ。そして、笑顔の河井の前に座って、そこにあるグラスにもビールを注いだ。
しおりを挟む

処理中です...