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第1章『始まりの村と魔法の薬』編
第19話 入浴/Bathtime
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森での乱闘を終え、エレリアとミサは無事にコックル村の自宅に帰ることができた。道中は、日没の闇に包まれた森を進んで行かなければならず、また再び魔獣に会う危険もあったのだが、実際は何も現れることのない穏やかな帰り道だった。
ただ、家に着いたとたん、獣の返り血で汚れた二人を見てソウヤは「何があったんだ!?」とひどく仰天していた。だが、詳しく事情を説明し、なんとか彼にも森であった事を理解してもらうことができた。
そして、血や汗で汚れた身体を洗うため、まず先にエレリアが入浴を済ませることとなった。
「はぁ、今日は疲れたな…」
脱いだ服を脱衣場のカゴに入れる。
実はエレリアの一張羅でもあるあの白いローブは高級そうな風格なゆえに、普段はタンスの中にしまっているのだ。なので、いつもエレリアはミサの服を代わりに着ている。彼女とは体格も似ているため、特に着心地に問題はない。
そして、エレリアは浴室の扉を開けた。
すると、浴室はすでに白い蒸気に包まれており、浴槽にも温かい湯が張ってあった。どうやら、もう先にソウヤが入ってしまっていたようだ。
この家の風呂場は決して広くはないものの、浴槽とシャワーが付いている点から、浴室としての一般的な設備は整っている。床は青いタイル張りで、上半身を映せる大きめの鏡も備わっている。
エレリアは扉を閉め、白く曇った鏡の奥を何気なくじっと見つめてみた。
そこには、白い肌をあらわにした少女が一人ぽつんと立っている。
「…エレリア」
そこで、エレリアは何の意味もなく自身の名前を静かに呟いた。
そして、ふと素朴な疑問が生まれた。
なぜ、自分は「エレリア」という名前なのだろうか。この名は、ミサたちと初めて会った初日、自身の口から無意識に吐き出されたものだ。
しかし、この名に心当たりはまったくない。過去の記憶を失っているから当然のことだ。
ただ何よりもまず、自分は本当に何者なのだろうか。
先ほど森の中で、エレリアはミサと共に新しい家族になることを受け入れた。そして、過去の自分を捨て去ることを大きく決意した。
しかし、だからこそ、エレリアは「過去の自分」という存在を気にせずにはいられなかった。
記憶を失っていない人間なら、当然過去の自分との区切りはない。どこにおいても途切れることなく、過去から現在まで一通り思い出せるはずだ。
だが、エレリアは違う。彼女は記憶を失ってしまったため、消えた過去の自分という、もう一人の自分が生まれてしまった。そして、そのもう一人の自分について知る術は今のところ何もない。
「あなたは、誰なの?エレリア」
エレリアは眉を寄せて、鏡の中の少女に問いかけた。
もちろん、向こうから答えが返ってくるはずがない。鏡の自分も同じように口を動かすだけだ。
するとその時、鏡に映る自身の口の端が少し歪んだ気がした。
「…!?」
今、笑った?
信じられない現象に、エレリアは思わず目を見張った。
自分は浴室に入ってからずっと固く口を閉ざしたままだ。しかし、確かに今、鏡の中の自分は笑った。
気のせいなのか。それとも、風呂場の蒸気でそう見えただけか。
その瞬間、またしても鏡の中の自分が口を開いた。
「私ワ、あなた…」
エレリアは背筋が凍った。
そう、鏡に映る自分がまるで意思を持ったかのように喋り出したのだ。
理解の範疇を越えた超常現象に、エレリアは口を開くどころが、身体を動かすことさえできなかった。
「私ワ天使。天の使いエレリアなのヨ。忘れたノ?」
「…な、何を言っているんだ、こいつ…」
もう一人の自分が語る意味深長な発言に、エレリアは眉を寄せた。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
これが本当に現実で起こっていることだと言えるのか。
あらわになった白い肌は細かく震え、恐怖が身体を支配する。
「まァ、分かんないのも当然カ。なにせ、そっちの私は記憶を失っているもんネ」
鏡の中の自分は呆れ顔で冷えた笑みをこぼした。
自分が自分でない感覚。
そして、意識は次第に曇った鏡の奥へ流れ込んで行く。
「さァ、こっちへおいデよ…」
すると、鏡の中のエレリアが冷酷な表情でゆっくりと右手を上げた。
その瞬間、エレリアは自身の体に起こる怪現象に息を飲んだ。
「っ!?」
そう、なぜか右手が鏡の自分と連動するように上がっていくのだ。
続けて、鏡の自分が左手を上げると、同じく現実の自分の左手も無情に上がっていく。
「ど、どうなってんの、これ…」
まるで、身体の自由を鏡の自分にすべて支配されてしまったようだ。
このままじゃ、危ない。
身の危険を感じたエレリアは、思わずミサに助けを求めようとした。
「あ、ぁ…」
だが、なぜか声を発することができない。言葉を喉から絞り出すことができないのだ。
鏡の自分の顔は、不適な微笑で怪しく歪んでいた。
完全に身体を乗っ取られてしまった。
その間も鏡のエレリアは、現実のエレリアを鏡の中へたぐり寄せるように手招きをしている。
「やっと故郷に帰れるんダヨ?なんデ、抵抗しようとするのサ」
この時、現実世界の自分と鏡の世界の自分の立場は完全に逆転していた。気を抜いてしまえば、意識さえも鏡の向こうに流されてしまいそうになる。
そして、鏡のエレリアは不思議そうに現実の自分に首を傾げた。
「わ、私は…」
その時、エレリアは心中にあったただ唯一の心情を震える声で告白した。
「私は決めたんだ。ミサと一緒に暮らすって。一緒に家族になる、って…。あの時、約束したんだ!」
胸にある確かな気持ちをエレリアは鏡に向かって言い放つ。
この心情に嘘はない。
「だから、まだ帰らない…!!」
エレリアは確かな自我を保つように、そして、もう一人の自分に強く知らしめるように、そう叫んだ。
すると突然、風呂場の扉が勢いよく開いた。
「リアちゃん、入るよー」
「!?」
浴室に響き渡る何者かの声。
とっさにエレリアは背後を振り返った。
その瞬間、凍りついていた時間が再び動き出し、視界が鮮やかな彩りを取り戻す。
「ミサ!?」
エレリアが頬を赤め、目を丸くする。
するとそこには、前身をタオルで隠した裸体のミサの姿があった。
エレリアに予想以上に驚かれ、ミサは動揺の表情を顔に張り付けていた。
「あっ、か、勝手に入っちゃって、ごめんなさい…。まさか、そんなに驚かれちゃうなんて思わなかった…」
「な、なんで、ここに…?」
「あ、いや、ていうのもね。私も汗とか流してサッパリしたいし、何より今夜はポーション作りで忙しくなりそうだから、早くお風呂に入りたいなぁ、って思って…」
困惑するエレリアに、ミサは誤解されないよう丁寧にわけを説明した。
「リアちゃんとだったら、一緒に入ってもいいかと思ったんだけど。ダメだったかな?」
「う、うん。いいけど…」
エレリアはミサの問いかけに、おぼろげな返答を呟いた。
そして彼女の笑みを眺めていると、エレリアは浴室が元の雰囲気に戻っていることに気づいた。
先ほどまでの、背筋の凍るような恐ろしい戦慄の余韻はどこにもない。いつもどおり、温かい湯が張った浴槽とミサの姿がそこにある。
その時ふいにエレリアの脳内に、鏡に映っていたあのもう一人の自分の姿が横切った。
狂気に歪んだ微笑に、意味深長な謎の言葉。
思い出すだけでも、ひどく体に寒気が走る。
もしかすると、まだあのおぞましいもう一人の自分が鏡に映っているかもしれない。
そう思ったエレリアは、恐る恐る鏡を見返してみた。
しかし、エレリアの懸念は幸いにも外れ、鏡には顔を青くした自身の姿が正直に映し出されていた。そこに、あの時のような恐ろしい自身の姿はない。
その時、ミサが口を開いた。
「リアちゃん、もしかして調子悪い?なんか、顔色悪いよ…?」
「え…、そ、そう?私は別に元気だけど」
ミサは顔面蒼白になっているエレリアのことを心配してくれた。
あれは、一体なんだったのだろう。ミサの心配をよそに、エレリアは鏡をじっと見つめる。
やはり、夢だったのか。それとも、現実だったのか。
とにかく、あのことはエレリアは誰にも話すことなく、自身の心の奥にしまっておくことにした。
「リアちゃんの背中、私が洗ってあげようか?」
エレリアが黙々と自身の身体を石鹸で洗っていると、浴槽の湯に浸っていたミサが身体を乗り出して提案を持ちかけてきた。
「大丈夫だよ…。背中ぐらい自分で洗える」
「いいから、いいから。遠慮なんかしないで。私がリアちゃんの背中綺麗に洗ってあげるね」
ミサは笑顔でそう言うと、浴槽から立ち上がり、一方的にエレリアの背中へ回った。
そして、泡立ったタオルを手にとり、それをエレリアの背中へ滑らせていく。
仕方なくエレリアは背中を丸めて、ミサの為すがままに任せた。
すると、おもむろにミサが口を開いた。
「そういえば、リアちゃんのお肌でほんとに真っ白だよねぇ。なんで、そんなに真っ白でいられるの?」
「えっ、なんで、って…。うーん、生まれつき、だからかな?」
「いいなぁ。私ももっと白い肌で生まれたかったなぁ…」
突然のミサの質問に、エレリアは即興で曖昧な返答を返した。なぜ肌が白いのかなんて、自分でも分からないし、これまで考えたこともない。
「…」
ミサが背中を洗ってくれている最中、エレリアは頬を赤く染め、ひたすら黙り込んでいた。
何より、この状況はエレリアにとってはとても耐えうるものではなかった。いくら同性と言えども、自身の裸を他人に見られるのはやはり恥ずかしい。
ミサは何も気にしていないようだが、エレリアは無意識に手で身体を隠すような体勢をとってしまっていた。
すると、ミサがおもむろに動く手を止めた。
「ん?」
その物言いから、ミサは何かに気づいたようだった。
「あれ、リアちゃん。こんなところに白いアザがあるよ」
「白いアザ?」
彼女の発言に、エレリアは首をかしかげる。
なぜ、背中にアザがあるのだろうか。心当たりはまったくない。
「ほら、こことここ」
ミサはエレリアの背中にある二つの白いアザを優しく手でなぞった。その時、彼女の手が肌に触れ、思わずエレリアは少しすくみあがってしまった。
しかし、白いアザとは本当に奇妙だ。気づかぬうちにどこかで背中をぶつけて、その時にできたものだろうか。だが、エレリアはこの家に来て、どこかで背中に何かをぶつけた記憶はなかった。この時、ミサに言われて初めて気づいた。
何よりまず、肌を強くぶつけると、たいていは青紫色のアザができるはずだ。白いアザなんて聞いたことがない。
エレリアは色々理由を考えたが、ミサの言う白いアザに関する真相は何も浮かんでこなかった。
「不思議だね…、何でこんなところに…」
ミサもエレリアの背中にある白いアザを眺めて、神妙な顔つきをしていた。
その時、
「はっ…!!」
いきなりミサが手を叩いて、エレリアに口を開いた。
「ミサ、どうしたの…?」
「私、閃いちゃった!」
「な、何を?」
ミサの言葉に、エレリアは思わず振り向いて眉根を寄せた。
「もしかして、リアちゃんは天使だったのかも!?」
「て、天使!?」
彼女の突拍子のない発言を聞き、エレリアは自身の耳を疑ってしまった。
何をふざけたことを言っているのか。
「ほら、この白いアザはリアちゃんの背中に天使の羽が生えていた痕なんだよ。そう考えたら、辻褄が合わない!?」
エレリアは彼女の言葉に期待していたのだが、今の発言にはさすがに呆れてしまった。
たまにソウヤもこういったように、冗談に似た常識はずれな発言を口にすることがある。どうやら、この家の人たちは二人そろって型破りな性格をしているらしい。
「私が天使だなんて、そんなわけないじゃん!!」
「ま、まぁ、それもそうだよね…」
エレリアは丁重にミサの発言にツッコミを入れた。
しかし、今のこの茶番にも似たやりとりを通して、エレリアは自身の緊張気味の心が少しほぐれてきているのに気づいた。
ミサには、人を癒す力がある。
彼女と初めて会った時もそうだった。記憶喪失のエレリアが途方に暮れている時、彼女は孤独で不安な心を温かい言葉で癒してくれた。そして、寄合に行くときも一緒に手を繋いでくれた。
これは彼女が意図的にやっているのか、無意識でやっているのか。それはエレリアには分からない。だが、結果としてエレリアの気持ちは晴れやかになった
ミサには人を元気にさせる能力を秘めている。ポーションを使わずとも傷を癒す素質を、彼女は持っている。
「ミサ、ありがと」
「ん?何?急にあらたまっちゃって」
これまでの彼女の取り計らいを胸に、エレリアは彼女に感謝の意を伝えた。
この時ミサは少し戸惑いの様子を見せていたが、あえてエレリアは理由説明はしなかった。そのまま、その気恥ずかしさと共に再び心の奥へしまった。
「じゃあ私、もう出ようかな」
しばらくエレリアは湯船に浸かった後、一足先に風呂から上がることにした。身体もずいぶん温まり、たまった疲労もいくらかは取れた気がする。
「私も出たら晩ごはん作るから、ちょっと待っててね」
ミサが自身の身体を洗いながら、エレリアに声だけを伝える。
浴室の扉を開け、風呂場から立ち去ろうとする。
そして最後に、エレリアはバレないようにこっそり視線だけをミサの控えめな胸元に向け、勝ち誇ったような表情と共に浴室を後にした。
「ふふ、勝った…」
ただ、家に着いたとたん、獣の返り血で汚れた二人を見てソウヤは「何があったんだ!?」とひどく仰天していた。だが、詳しく事情を説明し、なんとか彼にも森であった事を理解してもらうことができた。
そして、血や汗で汚れた身体を洗うため、まず先にエレリアが入浴を済ませることとなった。
「はぁ、今日は疲れたな…」
脱いだ服を脱衣場のカゴに入れる。
実はエレリアの一張羅でもあるあの白いローブは高級そうな風格なゆえに、普段はタンスの中にしまっているのだ。なので、いつもエレリアはミサの服を代わりに着ている。彼女とは体格も似ているため、特に着心地に問題はない。
そして、エレリアは浴室の扉を開けた。
すると、浴室はすでに白い蒸気に包まれており、浴槽にも温かい湯が張ってあった。どうやら、もう先にソウヤが入ってしまっていたようだ。
この家の風呂場は決して広くはないものの、浴槽とシャワーが付いている点から、浴室としての一般的な設備は整っている。床は青いタイル張りで、上半身を映せる大きめの鏡も備わっている。
エレリアは扉を閉め、白く曇った鏡の奥を何気なくじっと見つめてみた。
そこには、白い肌をあらわにした少女が一人ぽつんと立っている。
「…エレリア」
そこで、エレリアは何の意味もなく自身の名前を静かに呟いた。
そして、ふと素朴な疑問が生まれた。
なぜ、自分は「エレリア」という名前なのだろうか。この名は、ミサたちと初めて会った初日、自身の口から無意識に吐き出されたものだ。
しかし、この名に心当たりはまったくない。過去の記憶を失っているから当然のことだ。
ただ何よりもまず、自分は本当に何者なのだろうか。
先ほど森の中で、エレリアはミサと共に新しい家族になることを受け入れた。そして、過去の自分を捨て去ることを大きく決意した。
しかし、だからこそ、エレリアは「過去の自分」という存在を気にせずにはいられなかった。
記憶を失っていない人間なら、当然過去の自分との区切りはない。どこにおいても途切れることなく、過去から現在まで一通り思い出せるはずだ。
だが、エレリアは違う。彼女は記憶を失ってしまったため、消えた過去の自分という、もう一人の自分が生まれてしまった。そして、そのもう一人の自分について知る術は今のところ何もない。
「あなたは、誰なの?エレリア」
エレリアは眉を寄せて、鏡の中の少女に問いかけた。
もちろん、向こうから答えが返ってくるはずがない。鏡の自分も同じように口を動かすだけだ。
するとその時、鏡に映る自身の口の端が少し歪んだ気がした。
「…!?」
今、笑った?
信じられない現象に、エレリアは思わず目を見張った。
自分は浴室に入ってからずっと固く口を閉ざしたままだ。しかし、確かに今、鏡の中の自分は笑った。
気のせいなのか。それとも、風呂場の蒸気でそう見えただけか。
その瞬間、またしても鏡の中の自分が口を開いた。
「私ワ、あなた…」
エレリアは背筋が凍った。
そう、鏡に映る自分がまるで意思を持ったかのように喋り出したのだ。
理解の範疇を越えた超常現象に、エレリアは口を開くどころが、身体を動かすことさえできなかった。
「私ワ天使。天の使いエレリアなのヨ。忘れたノ?」
「…な、何を言っているんだ、こいつ…」
もう一人の自分が語る意味深長な発言に、エレリアは眉を寄せた。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
これが本当に現実で起こっていることだと言えるのか。
あらわになった白い肌は細かく震え、恐怖が身体を支配する。
「まァ、分かんないのも当然カ。なにせ、そっちの私は記憶を失っているもんネ」
鏡の中の自分は呆れ顔で冷えた笑みをこぼした。
自分が自分でない感覚。
そして、意識は次第に曇った鏡の奥へ流れ込んで行く。
「さァ、こっちへおいデよ…」
すると、鏡の中のエレリアが冷酷な表情でゆっくりと右手を上げた。
その瞬間、エレリアは自身の体に起こる怪現象に息を飲んだ。
「っ!?」
そう、なぜか右手が鏡の自分と連動するように上がっていくのだ。
続けて、鏡の自分が左手を上げると、同じく現実の自分の左手も無情に上がっていく。
「ど、どうなってんの、これ…」
まるで、身体の自由を鏡の自分にすべて支配されてしまったようだ。
このままじゃ、危ない。
身の危険を感じたエレリアは、思わずミサに助けを求めようとした。
「あ、ぁ…」
だが、なぜか声を発することができない。言葉を喉から絞り出すことができないのだ。
鏡の自分の顔は、不適な微笑で怪しく歪んでいた。
完全に身体を乗っ取られてしまった。
その間も鏡のエレリアは、現実のエレリアを鏡の中へたぐり寄せるように手招きをしている。
「やっと故郷に帰れるんダヨ?なんデ、抵抗しようとするのサ」
この時、現実世界の自分と鏡の世界の自分の立場は完全に逆転していた。気を抜いてしまえば、意識さえも鏡の向こうに流されてしまいそうになる。
そして、鏡のエレリアは不思議そうに現実の自分に首を傾げた。
「わ、私は…」
その時、エレリアは心中にあったただ唯一の心情を震える声で告白した。
「私は決めたんだ。ミサと一緒に暮らすって。一緒に家族になる、って…。あの時、約束したんだ!」
胸にある確かな気持ちをエレリアは鏡に向かって言い放つ。
この心情に嘘はない。
「だから、まだ帰らない…!!」
エレリアは確かな自我を保つように、そして、もう一人の自分に強く知らしめるように、そう叫んだ。
すると突然、風呂場の扉が勢いよく開いた。
「リアちゃん、入るよー」
「!?」
浴室に響き渡る何者かの声。
とっさにエレリアは背後を振り返った。
その瞬間、凍りついていた時間が再び動き出し、視界が鮮やかな彩りを取り戻す。
「ミサ!?」
エレリアが頬を赤め、目を丸くする。
するとそこには、前身をタオルで隠した裸体のミサの姿があった。
エレリアに予想以上に驚かれ、ミサは動揺の表情を顔に張り付けていた。
「あっ、か、勝手に入っちゃって、ごめんなさい…。まさか、そんなに驚かれちゃうなんて思わなかった…」
「な、なんで、ここに…?」
「あ、いや、ていうのもね。私も汗とか流してサッパリしたいし、何より今夜はポーション作りで忙しくなりそうだから、早くお風呂に入りたいなぁ、って思って…」
困惑するエレリアに、ミサは誤解されないよう丁寧にわけを説明した。
「リアちゃんとだったら、一緒に入ってもいいかと思ったんだけど。ダメだったかな?」
「う、うん。いいけど…」
エレリアはミサの問いかけに、おぼろげな返答を呟いた。
そして彼女の笑みを眺めていると、エレリアは浴室が元の雰囲気に戻っていることに気づいた。
先ほどまでの、背筋の凍るような恐ろしい戦慄の余韻はどこにもない。いつもどおり、温かい湯が張った浴槽とミサの姿がそこにある。
その時ふいにエレリアの脳内に、鏡に映っていたあのもう一人の自分の姿が横切った。
狂気に歪んだ微笑に、意味深長な謎の言葉。
思い出すだけでも、ひどく体に寒気が走る。
もしかすると、まだあのおぞましいもう一人の自分が鏡に映っているかもしれない。
そう思ったエレリアは、恐る恐る鏡を見返してみた。
しかし、エレリアの懸念は幸いにも外れ、鏡には顔を青くした自身の姿が正直に映し出されていた。そこに、あの時のような恐ろしい自身の姿はない。
その時、ミサが口を開いた。
「リアちゃん、もしかして調子悪い?なんか、顔色悪いよ…?」
「え…、そ、そう?私は別に元気だけど」
ミサは顔面蒼白になっているエレリアのことを心配してくれた。
あれは、一体なんだったのだろう。ミサの心配をよそに、エレリアは鏡をじっと見つめる。
やはり、夢だったのか。それとも、現実だったのか。
とにかく、あのことはエレリアは誰にも話すことなく、自身の心の奥にしまっておくことにした。
「リアちゃんの背中、私が洗ってあげようか?」
エレリアが黙々と自身の身体を石鹸で洗っていると、浴槽の湯に浸っていたミサが身体を乗り出して提案を持ちかけてきた。
「大丈夫だよ…。背中ぐらい自分で洗える」
「いいから、いいから。遠慮なんかしないで。私がリアちゃんの背中綺麗に洗ってあげるね」
ミサは笑顔でそう言うと、浴槽から立ち上がり、一方的にエレリアの背中へ回った。
そして、泡立ったタオルを手にとり、それをエレリアの背中へ滑らせていく。
仕方なくエレリアは背中を丸めて、ミサの為すがままに任せた。
すると、おもむろにミサが口を開いた。
「そういえば、リアちゃんのお肌でほんとに真っ白だよねぇ。なんで、そんなに真っ白でいられるの?」
「えっ、なんで、って…。うーん、生まれつき、だからかな?」
「いいなぁ。私ももっと白い肌で生まれたかったなぁ…」
突然のミサの質問に、エレリアは即興で曖昧な返答を返した。なぜ肌が白いのかなんて、自分でも分からないし、これまで考えたこともない。
「…」
ミサが背中を洗ってくれている最中、エレリアは頬を赤く染め、ひたすら黙り込んでいた。
何より、この状況はエレリアにとってはとても耐えうるものではなかった。いくら同性と言えども、自身の裸を他人に見られるのはやはり恥ずかしい。
ミサは何も気にしていないようだが、エレリアは無意識に手で身体を隠すような体勢をとってしまっていた。
すると、ミサがおもむろに動く手を止めた。
「ん?」
その物言いから、ミサは何かに気づいたようだった。
「あれ、リアちゃん。こんなところに白いアザがあるよ」
「白いアザ?」
彼女の発言に、エレリアは首をかしかげる。
なぜ、背中にアザがあるのだろうか。心当たりはまったくない。
「ほら、こことここ」
ミサはエレリアの背中にある二つの白いアザを優しく手でなぞった。その時、彼女の手が肌に触れ、思わずエレリアは少しすくみあがってしまった。
しかし、白いアザとは本当に奇妙だ。気づかぬうちにどこかで背中をぶつけて、その時にできたものだろうか。だが、エレリアはこの家に来て、どこかで背中に何かをぶつけた記憶はなかった。この時、ミサに言われて初めて気づいた。
何よりまず、肌を強くぶつけると、たいていは青紫色のアザができるはずだ。白いアザなんて聞いたことがない。
エレリアは色々理由を考えたが、ミサの言う白いアザに関する真相は何も浮かんでこなかった。
「不思議だね…、何でこんなところに…」
ミサもエレリアの背中にある白いアザを眺めて、神妙な顔つきをしていた。
その時、
「はっ…!!」
いきなりミサが手を叩いて、エレリアに口を開いた。
「ミサ、どうしたの…?」
「私、閃いちゃった!」
「な、何を?」
ミサの言葉に、エレリアは思わず振り向いて眉根を寄せた。
「もしかして、リアちゃんは天使だったのかも!?」
「て、天使!?」
彼女の突拍子のない発言を聞き、エレリアは自身の耳を疑ってしまった。
何をふざけたことを言っているのか。
「ほら、この白いアザはリアちゃんの背中に天使の羽が生えていた痕なんだよ。そう考えたら、辻褄が合わない!?」
エレリアは彼女の言葉に期待していたのだが、今の発言にはさすがに呆れてしまった。
たまにソウヤもこういったように、冗談に似た常識はずれな発言を口にすることがある。どうやら、この家の人たちは二人そろって型破りな性格をしているらしい。
「私が天使だなんて、そんなわけないじゃん!!」
「ま、まぁ、それもそうだよね…」
エレリアは丁重にミサの発言にツッコミを入れた。
しかし、今のこの茶番にも似たやりとりを通して、エレリアは自身の緊張気味の心が少しほぐれてきているのに気づいた。
ミサには、人を癒す力がある。
彼女と初めて会った時もそうだった。記憶喪失のエレリアが途方に暮れている時、彼女は孤独で不安な心を温かい言葉で癒してくれた。そして、寄合に行くときも一緒に手を繋いでくれた。
これは彼女が意図的にやっているのか、無意識でやっているのか。それはエレリアには分からない。だが、結果としてエレリアの気持ちは晴れやかになった
ミサには人を元気にさせる能力を秘めている。ポーションを使わずとも傷を癒す素質を、彼女は持っている。
「ミサ、ありがと」
「ん?何?急にあらたまっちゃって」
これまでの彼女の取り計らいを胸に、エレリアは彼女に感謝の意を伝えた。
この時ミサは少し戸惑いの様子を見せていたが、あえてエレリアは理由説明はしなかった。そのまま、その気恥ずかしさと共に再び心の奥へしまった。
「じゃあ私、もう出ようかな」
しばらくエレリアは湯船に浸かった後、一足先に風呂から上がることにした。身体もずいぶん温まり、たまった疲労もいくらかは取れた気がする。
「私も出たら晩ごはん作るから、ちょっと待っててね」
ミサが自身の身体を洗いながら、エレリアに声だけを伝える。
浴室の扉を開け、風呂場から立ち去ろうとする。
そして最後に、エレリアはバレないようにこっそり視線だけをミサの控えめな胸元に向け、勝ち誇ったような表情と共に浴室を後にした。
「ふふ、勝った…」
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