上 下
1 / 8

五本松のでん留

しおりを挟む
 十代家治公の治世の最晩年、天明と呼ばれた時代の話である。
 本所・深川を南北に延びる大横川と、総州行徳の塩田の塩を江戸に運ぶ為、江戸を東西に横切る様に拓かれた小名木川。この二つの川が丁度交差する点の北東一帯の町人地は猿江町と呼ばれ、丹波綾部一万九千五百石、九鬼様の御下屋敷があった。
 この御屋敷には五本の松の大木があり、御屋敷の塀を乗り越え小名木川に迫り出す程であったため五本松と呼ばれ、川を行き交う舟からもよく見え、いつしかこの町の俗称ともなっていた。
 かの松尾芭蕉が、かつてこの松の大木の辺りに舟を浮かべ句を詠んだと云う逸話もあり、成田山詣でに出かける人々が、舟で小名木川を上下する際の名所としても知られる様になっていった。
 木場の材木問屋で荷揚げ人足の仕事を始めてから十日が経ったある日の夕方、三村市兵衛はそれまで前を素通りしていた、五本松町の裏路地にある店の前で足を止めた。
 縄のれんが掛かる腰高障子には、それぞれ左右に、
「でん留」
「燗酒、でんがく」
 と、大きく墨書されている。
 市兵衛は、晩飯は仕事場への往復で通る扇橋町辺りの四文屋しもんやで簡単な菜を買い求め、この店の先にある棟割り長屋の自室で冷えた残り飯に湯を掛けて流し込むのが常であったのだが、慣れない人足仕事も十日が経ち、日雇取ひようとりの差配をしている番頭にその働きを誉められた事もあって、珍しく晩飯に酒の一本も付けようかという心持ちになったのだ。
「御免」
 と云って引戸を引く市兵衛。五尺七寸と背の高い市兵衛は潜る様に店の中に入った。
 引戸の直ぐ左手に欅板の台に乗った黒漆喰の大きな二つへっついがあり、それぞれに大鍋が掛かっていて、その隣には大きな俎板と流しがある。
 広い土間には二人が並んで腰かけられる縁台の様な長床几ながしょうぎが四台横に並び、一番奥に畳を一列に六枚並べた長六畳の入れ込みがある。客は長床几に二人と、奥の入れ込みに子供を二人連れた職人風の男が子供に飯を喰わせながら一杯飲んでいる。
「いらっしゃいましっ」
細長い焼き台で何かを焼いていた娘が振り向いて頭を下げた。店の中居であろうか、未だ若い娘は頬を赤くして市兵衛に頭を下げた。
 さて、どこに腰掛けたものか……思案をして立ちすくんだその時、調理場の娘が、客の一人の白髪の目立つ、顔の四角い五十絡みの男に小声で話し掛けた。
「おじさん、お願い……」
 娘に、両手を合わせて拝む様な素振りをされた年寄りは直ぐに合点がいった様で、軽く手を打って立ち上がり、市兵衛へ近づいて来た。
「お侍様、どうぞ、こちらへお掛けになってください。ここはね、あのが独りでやっている店なんですよ。ですから、少々手が行き届かない所がございますが、その分安くて旨い。江戸中どこを探したってこの店程安くて旨い店は、そうざらにはございませんよ。ささ、こちらへどうぞ。そうだ、御腰の物は、あの入れ込みの壁際に刀掛けがございますんで、そちらへどうぞ」
 存外に愛想の良いおじさんと呼ばれた男に、彼が今座っていた長床几の対面に案内された市兵衛は、いわれた通りに奥の入れ込みへ行き、腰の差料を壁の刀掛けへ置いた。
 入れ込みの親父が、猪口を持ったまま軽く会釈をして来たので市兵衛も挨拶を返した。紺看板の衿字の染めから、どうやら大工らしい。子供は上が女の子、下がころころと肥えた男の子で、それは良く食べている。

 長床几へ戻ると、そのおじさんが笑顔で話し掛けて来た。
御酒ごしゅは召し上がられますか」
「頂きます。あ、念の為伺いたいのですが……値は、酒の値は如何程でしょうか」
(裏通りの縄のれんの安酒の値段等、高が知れている。一合で高くても二十と四文という所だ。その値を気にする辺り、この若い牢人、日々の暮らしにも苦労が絶えないと見える。歳の頃は二十五歳位か、若いのに頬もこけている。気の毒な……)
 おじさんはそんな考えを巡らせたが、決して顔には出さず、殊更に笑顔で市兵衛に語り掛ける。
「一合で十六文です。安いですが悪い酒ではありませんよ。名物のでんがくを付けて丁度二十文、波銭五枚です。ここのでんがくの味噌は色々工夫がされていましてね、他とは違いますよ。味には折り紙を付けます。如何です」
「それは有難い。それをお願いします」
 市兵衛はすっかりおじさんの手の内に乗せられてしまった様だ。おじさんは振り返り、竃の後ろで仕事をしている娘に声を掛けた。
「お春ちゃん、こちらへ一合とでんがくだよ」
「はぁい。只今」
 焼き台から振り返り、市兵衛を見て笑顔で頭を下げたお春と呼ばれた女は、片口から銚釐ちろりに酒を入れ、竃の脇にある、湯気の立ち上る銅壺どうこに納めた。
 おじさんが、何やら台所の脇に置いてある丸い笊を持ってきて、恐る恐る、切り出した。
「お侍様、先程も申しました通り、この店は色々事情がありまして使用人も使わずあの娘が独りでやっております。お武家様に向かって誠に御無礼とは存じますが、この店にはその、店の決まりってえのがございまして、何分ご容赦願いたいので」
「はい。どんな決まりでしょう」
 市兵衛は淡々と聞いている。
「まず、注文なさるときは、この笊の中に銭を先に入れて頂きたいのでございます。釣りは勿論ご自分で笊から取ってください。それから、御酒や菜は、支度が整いましたらお春ちゃんが声を掛けますので、畏れ入りますがご自身で取りに行って頂きたいのです。それと……」
「帰る時は皿を下げるんですな。お安い御用です」
 笑顔で返す市兵衛に、あっと云い手を打ったおじさんが、
「早速呑み込んで下さいましたか。これは有り難い。今日はまだ空いているから良いのですが、六つ半過ぎには湯の帰りに立ち寄る客で少々立て込んで参ります。畏れ入りますが宜しくお願いを申し上げます」
「それがし、見ての通り脇差も帯びぬ牢人者です。お恥ずかしい話ですがひと月程前に主家をしくじりまして、今では木場の材木問屋で荷揚げ人足をさせて貰い日雇ひようで糊口を凌ぐ身分でござる。そんなそれがしにとっては、二十文で酒に肴が付いてくる事が何よりも有難い。礼を云わねばならぬのはこちらです。御懇篤に御教授頂き忝い」
 市兵衛が頭を下げ、おじさんがほっとした顔をした所へ、調理場から声が掛かった。
「お武家様、出来ましたっ」
 小さな四つ切の杉板の折敷の上に、程良く燗がついた銚釐ちろりと猪口、小皿には串に刺さったでんがくが一本、そして塗り箸が乗っている。お春から折敷を受け取ると、市兵衛は
「忝い、これは旨そうだ」
と相好を崩した。お春も又、笑顔で会釈を返した。格段に美人という訳ではないのだけれど、笑顔が何とも人の心を暖かくする、そんな印象の娘である。笑顔を見せる度に、頬に紅を差したようになるところが可愛らしい。
  折敷を長床几の脇に置き、銚釐から酒を注ぎ、左手で猪口を口元に寄せ、さあ呑もう。という姿勢になった途端、市兵衛は固まってしまった。
(酒を口にするのはあの中山道、大宮宿の夜以来だな )
 忘れたいのに毎日鮮明に思い出しては悶々とする、あの忌まわしい事件の顛末を、あの忌々しい組頭の顔を、知らぬ顔を決め込んだ朋輩や上役の顔を、市兵衛は思い出していた。
「もし、御牢人様、如何なさいました。酒に何か支障でもございましたか」
  酒が入った猪口に眼を落としたまま茫然として動かない市兵衛に、見兼ねたおじさんが対面の長床几から話掛けた。
  その声に我に返った市兵衛は一息で酒を飲み干した。
「少々、考え事をしておりまして……」
「御酒は、如何でございますか。お口に合いますか」
「いや誠に結構、菜が付いてこれで二十文とは確かに安い」
「それは良うございました。押し売りで申し訳ねえですが、その皿の上の、芋の味噌でんがくも是非やってみておくんなさいましな」
 仲秋も過ぎ、江戸の街にも芋が出回る時期であった。蒸した大振りの里芋を二つに切り、表面を香ばしく焼いたものに赤味噌のたれが掛かっているそのでんがくを、市兵衛は一口齧った。
 ねっとりと暖かい芋に掛かる甘しょっぱい赤味噌のタレにはどうやら粉山椒が隠し味に入っている様で、江戸の味付けにしては甘さがそんなに諄くない。酒のあてにも、飯の菜としても合いそうだ。
「旨い。味噌が江戸味噌の甘さとは違いますね。白味噌ではなく赤味噌の様だ。この味噌が何とも良い。これは気に入りました」
 おじさんの隣で飲んでいた小太りの男がまんまるな顔を笑顔にして銚釐を下げて市兵衛の隣に座った。
「御牢人様は味がお判りになりますね。この味噌は仙台味噌なんです、旨いでしょう。ささ、お近づきの印に一献」
 如才なく市兵衛に酒を注ぎ、男は続けた。
「手前は猿江河岸で小さな搗米屋つきごめやを営んでおります、奥州屋伊之助と申します。私も仙台の産でして、この味噌で育ちました。いや仙台味噌の味の良さに気付いて頂けるとは嬉しい、ささどうぞ、どうぞ」
 歳の頃、四十位と思われる奥州屋伊之助は本当に嬉しそうに笑っている。
「こ、これはご丁寧に忝い。それがし、上州牢人、三村市兵衛と申します。主家をしくじり、ひと月程前にこの先の佐治店へ参りました。上州育ちの田舎者故、江戸の流儀がとんと判らず、お恥ずかしい限りですが、一つ、宜しく」
 市兵衛は隣の奥州屋伊之助と、前の長床几のおじさんに順番に頭を下げた。
「こいつは申し遅れました。手前は猿江裏町の飾り職、長次郎と申しやす。そうですか、佐治爺さんの所に店借を。あの福禄寿みたいなつるっぱげの爺さん、口数は少ねぇですが悪い人じゃねえでしょう」
「はい、こちらに移って早々は大変にお世話になりました」
「まあでも、店子の面倒を見るのが大家の仕事です。気にするこたぁございませんよ。さて、あっしは、お春ちゃんの父親、この店を始めた留蔵とは幼馴染でしてね。お春ちゃんも、なんだかてめえの娘の様に思えてしまって、ついつい、余計な世話を焼いてしまっております。先程から、色々小姑みてえに細けぇ事ばかり申しましたが、何卒、お許しを」

 侍や牢人者は扱いが難しい。ぞんざいに扱う素振りを見せると、侮られたと怒り出す者が少なくない。馬鹿にされたと勘違いするのであろう。それだけ、思うに任せない世の中に、彼らの心が傷ついている証でもある。長次郎と名乗ったこの男が当初市兵衛に対して慇懃であったのは彼らへの扱いの難しさが、自然に態度に出たものだが、市兵衛にその心配は無用と判るや、長次郎の言葉も普段の深川言葉に戻っていった。
「その様なお気遣いは無用でござる。長次郎殿のお陰で旨い酒とでんがくに有りつけました。こちらこそ、一つ宜しく」
 普段は侍らしくそう喋る方では無いのだが、市兵衛は気軽に口を開いた。いや、寧ろ今日は喋りたかった。
「奥州屋殿には実はそれがしも世話になっております。猿江町へ越して来た折、右も左もわからないそれがしに、家主の佐治殿が米を贖うなら奥州屋殿が良いと教えてくださいました。昨今の東北の飢饉で米の値が上がっている中でも、百文相場で奥州屋さんは他より五勺から一合は量が多いと評判だとか。その日暮らしのそれがし、大いに助かっております」
 この時代、物をツケで贖えるのは表通りに店を構えた商人位のもので、多くの庶民は、米でも味噌でも、価百文で買える分量を現金で贖っていた。これを、「百相場」と云う。
「あ、それはそれは、いつもご贔屓に畏れ入ります。しかし、こう毎年冷害続きで米が不足では堪ったものではありませぬなあ。津軽では飢餓で大勢の人が亡くなって、出羽へ逃散する百姓衆も少なくないとか。仙台米も日に日に値が高くなる一方で、安く質のよいお米をお届けするのがどんどん難しくなってきています。今年の作柄も東北では宜しくない様で、少し前まで百相場で一升に余る程でしたのに、今では一升を切ってしまいます。毎度お店へ足を運んでくださるお客様へは、誠に心苦しいのですが……」
「数年前に浅間山が火を噴いた折は、上州でも打ちこわしや一揆が起きました、もう、足掛け四年も不作が続いているのに、高騰したといえども江戸では白い飯が未だ手に入るだけ、我々は恵まれています」
 市兵衛が、奥州屋伊之助を慰める様に呟くと、その言い方に救われたのか、伊之助が何度も頷いた。

 すると、入れ込みで飯を喰っていた少女が、弟の分の膳と自分の膳を上手く重ねて台所に運んできた。
「お春ねえちゃん、ご馳走様でした。美味しかった」
少女はそういうと、奥の洗い場へ食器を運び、洗いはじめた。
「はいお粗末様。おみっちゃん、いつもありがとう。助かるわ」
 大事そうに、ちびちびと酒を舐めながらその様子を眺めていた市兵衛に、長次郎が話し掛けた。
「あの親子、てて親を金助っていう大工なんですがね、冬に風邪を拗らせて女房がぽっくり逝ってしまいまして、それ以来、飯はここで面倒見て貰ってるんです。子供らに至っては昼飯も含め毎日三度の飯を喰わして貰ってますから、金助は晦日にひと月分、纏めて払っています。洗い物をしているのが上のおみち。まだ十ですがね、お春ちゃんを本当の姉だと思って慕っていて、飯を喰い終わると洗い物を手伝っています。時には銚釐に酒を詰めたりもしていますよ。入れ込みの下の子が弟の金太、まだ八つなのに母親を亡くして気の毒で、そろそろ金助も後添えの事を考えないといけないんですがねえ……」
 ため息を吐く様に長次郎が語った。そこへ、
「お春ちゃん、俺も酒は仕舞にして飯にすらぁ、頼むよ」
 入れ込みから金助が台所に声を掛けると、
「はぁい、今支度するから待っててね」
 と、お春が新しい折敷を出し、飯を盛り、菜を並べ、暖かい豆腐汁を椀に注ぐ。
 それを観ていた市兵衛は猛烈に空腹を感じ、堪らなくなってきた。
「あの、長次郎殿、あの飯の値は如何程で」
「菜は見繕いで飯に豆腐汁、漬物が付いて二十文です」
「頂こう」
 云うや否や、立ち上がって調理場の端の笊に波線を5枚入れ、
「飯を頼みます」
 という市兵衛。
「はいっ、只今。お菜は芋の煮ころばしと煮豆ですが構いませんか」
「結構です」
 と、市兵衛の脇を、父親の飯が乗る折敷を持ってそろりそろりとおみちが奥の入れ込みまで届けようと歩いていく。仙台味噌の豆腐汁の香りが鼻を付き、腹がぐうと大きな音を立ててしまった。お春はそれを聞いてくすくすと笑い、
「お侍さんはお腹がお空きなんですね」
 と手の甲で笑う口を押えながら云うと、
「いやお恥ずかしい、実はひと月が程、味噌汁に有りつけておりませんで……御町内佐治店、上州牢人三村市兵衛でござる。ひとつ、宜しく」
「春です。どうぞご贔屓に。今支度しますから」
 お春はそういうと軽く頭を下げ、膳の支度に取り掛かった。
 市兵衛は長床几に戻り、銚釐に入っている残り少ない一合酒を、またぞろちびちびと舐めていたが、ふと気になって、長次郎に尋ねてみた。
「この店は『でん留』という名ですよね。お春殿の御父上のお店ですか」
「はい。五年前に卒中で亡くなるまで、二十年の間、留蔵がここを女房のおいねさんと二人で切り盛りしておりました。あっけなく逝っちまったんですが」
「五年前……」
「それからは、女将のおいねさんが包丁を取って、当時十三だったお春ちゃんと一緒にやって来たんです。そのおいねさんが、ほんのふた月前です、この夏の始めに突然胸が痛いと苦しみだしまして、医者を連れて来た時にはもう手遅れでした……」
「それで、お春殿は独りで店を継いだと……」
 長次郎は腕を組んで視線を落としながら話を続けた。
「弔いが済んで直ぐに言い出しましてね。喪も明けないのに何を言っているんだと申しましても聞きゃしません。あれで親父に似て一徹な所がある。流石に独りじゃ無理だから、小女の一人二人は雇わないと廻らないと近所の皆で諭したんですがね、人を使うと値を上げなきゃならなくなる。幸い名物のでんがくの味付けは受け継いでいるし十三の歳から仕込みもやっている。でん留は安くて旨い物を出さないと死んだおとっつあんやおっかさんに叱られると頑として聞きません。何とか独りで切り盛り出来る様に皆で考えまして、お客さんにはこんな面倒な決まりをお願いする事に」
「そうだったんですか……しかし、お春殿は御立派だ。十八の娘さんが、母親が死んでまだふた月というのに独りで店を切り盛りするなんて中々に出来ることではありますまい。聞けば朝から店を開けているということですし」
「そうなんですよ。まあ、どうせ朝は仕込みをするし、飯を炊くのと汁を作ってさえしまえば、お客さんには申し訳ないけど前の晩の菜の残りでなんとか凌げるからなんて笑ってるんですけどね、やはり心配であっしらもついつい、顔を出して世話を焼いちまうんでさ」
 禄を失い牢人者となった己の惨めな現状を受け入れきれずに日々悶々としている自分と、笑顔を絶やさず働いているお春を比べてしまった市兵衛は、己の不甲斐なさを見せ付けられる様で堪らなくなった。
 そこへ、
「三村様っ、出来ました」
 と笑顔でお春が声を掛けた。お春の笑顔の手前には、折敷の上で旨そうな湯気を上げる味噌汁が有った。
「お春殿、これでは飯の量が……」
 差し出された折敷の上の飯茶碗には、先程金助に供された物より五割増しの飯が山の様に盛られていた。
「力仕事でお腹もお空きになってるんでしょう。今日は折角いらしてくださったのでほんの気持ちです」
「か……忝い」
 長床几に戻った市兵衛は、湯気の立ち昇る豆腐汁の椀に飛び付いた。
 旨い。このひと月、味噌汁等作る余裕も無かっただけに、胃の腑に暖かい味噌汁が沁みた。
 芋の煮転ばし、煮豆、どれも味が良い。江戸の料理は甘い味付けが多いのだが、どうもこの店は甘さをそれほど強く出さず、その代わりに出汁を効かせている様で、上州生まれで濃い味に慣れている市兵衛の舌には新鮮であった。
 飯は、朝に炊いた物であろうからとっくに冷えてはいるが、保存の仕方にコツでもあるのか、水っぽくもならず、乾いて固くなってもいない。みずみずしいままの飯である。
 市兵衛はゆっくりと時間を掛けて味わって食べた。
 この瞬間、あの忌まわしい大宮宿での出来事は完全に市兵衛の頭からは消えていた。そして、まだ十八の娘がこの料理を全て独りで作っているのかと改めて驚き、調理場に目を遣ると、手が空いたお春と目が合った。
 お春は又、あの笑顔を市兵衛に返した。
 市兵衛は立ち上がり、自分の食べた飯茶碗や銚釐ちろり等を纏めて運び、
「御馳走になったお礼に、それがしも洗い物をさせて頂きます。その洗い場で宜しいでしょうか」
「あ、いやそんな積りじゃありませんよ私、困ります。お武家様にそんな事して頂いちゃ……」
「いや、こんな旨い飯を食べたのは久方ぶりです。是非とも洗い物をさせて頂きます。御免」
 といい、やや強引に、市兵衛は奥の洗い場へ行き茶碗を洗い始めた。

 市兵衛が洗い物をし始めて暫くすると、勢い良く引戸が開き、揃いの総形袢纏そうがたばんてん鯔背いなせに着こなした町火消の一団が騒がしく入って来た。
 井筒紋が縦に重なる、『重ね井筒』の意匠を袢纏一面に染め抜き、背中には鏡朱で『九』の字が入っているその袢纏は、本所の一部と深川は小名木川以北を受け持ちとする町火消、猿江町町抱えの九組のものだ。
 彼らは皆一様に肩に手拭いを下げている所から、湯屋でさっぱりとしてきた帰りの様である。
 丁度店を出る所だった金助親子と入れ違いに奥の入れ込みへ上がり、最後に入って来た、身の丈六尺はあろうかという大男が、笊に纏まった銭を入れ
「お春ちゃん、いつもの頼むよ」
 と人数分を支払った。
「源太兄ちゃん、いらっしゃい。ちょっと待ってね、今支度しますから」
 お春が早速酒の燗に取り掛かる。
 源太と云われた大男は、土間を振り返って長次郎と伊之介に向って腰を折ってきちんと挨拶をした。
 「やあ源太兄ぃ、今湯屋の帰りかね」
 長次郎が云うと、
「へぇ、七組からすけて欲しいという話で、森下町のお寺さんの屋根の葺き替えの足場の仕事で少々遅くなりました」
「そりゃあご苦労さんだったね。さて、伊之さん、重ね井筒の兄ぃ達もお見えになったことですし、我らはそろそろ引き上げますかね」
「そうですな、そうしましょう」
 奥の洗い場から出て来た市兵衛に、二人は揃って腰を折り、暇乞いをした。
「今日は御一緒出来て楽しゅうございました。あっしらは大抵、夜はここで一杯やっておりますから、三村様も、是非又お立ち寄りくださいな」
「こちらこそ、今日は良い夜でした。御酒も馳走になりました。又その内に寄らして頂きます」
 市兵衛は奥の入れ込みの刀掛けへ行き、差料を取った。その時、入れ込みの上がり框で片足を膝に乗せて煙草を呑んでいた源太と目が合った。源太の左頬には、二寸程の刀傷があり、眼を細めて煙草を呑んでいると氷の様に冷たい凄みがあった。
 ところが意に反して源太は立ち上がって市兵衛に対して軽く会釈をしてきたので、市兵衛も立ったまま返礼をした。見た目と違って、心の優しい男なのかもしれない。
「今日は旨い物を食べさせていただきました。では、お春殿、又、邪魔をさせていただきます。御免」
 と市兵衛は竃越しにお春に挨拶をすると、
「ありがとうございました。うちは、簡単な物しか出せませんが朝から店を開けてますから、きっと又来てくださいね」
 お春は又、あの笑顔で市兵衛を店の前まで見送った。

 今宵も、未だ月が大きいので提灯は要らない。
しおりを挟む

処理中です...