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第0181話「本職」
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指紋で積年の未解決事件を解明するというのは、江遠の専門分野だった。
二等功臣の賞状は今も玄関に日光浴させられ、父が毎日磨き上げて鏡面のように輝かせている。
これまで多くの積年の指紋を扱ってきた江遠は、この革ジャンの血手形を見た瞬間、比対可能な条件があると直感した。
これは個人能力に基づく自信だ。
まず、血手形の鮮明さは通常の範疇内にある。
ただし革に付着しているため若干鮮度が落ちているものの、一般的な汗潜紋よりはるかに優れた条件である。
次に、この指紋は全体の10分の3程度のサイズで中心点を欠き、しかし指先部分が残っているという個人的な特徴を持っている。
通常の痕跡鑑定では中心点がない場合や曖昧な場合は諦めてしまうが、江遠にとっては正確に中心点の位置を判断できれば、周辺の紋線が明瞭であれば問題ない。
成功率は中心点のない指紋より僅かに低い程度だ。
現行事件なら条件が良いほど容易だが、積年の事件では逆説的に意味がない。
誰でも見つかるような完璧な指紋は、どこにでもいる犬のように主を持たない存在なのだ。
江遠はその指紋をコンピュータにダウンロードし、画像を見ながらすぐに作業を始めなかった。
目の前にシステムメッセージが表示された。
「疑案突破タスク」の内容は「405徐海事件解決」とある。
まさに自分が選んだ案件だ。
これで楽になった。
困難に直面した場合でも他の案件を選択する必要がない。
この一件に集中すればいい。
江遠は手を擦り合わせた。
いつものように、指紋の条件がどうであろうとまずは加工(P)から始める。
俗に言う「PS三回転」で美女も立たないほど歪んだ画像だが、江遠が必要とするのはそれだけではない。
完全な指紋なら15個の特徴点を抽出するが、今回は不完全な3分の1の指紋から8個の特徴点を抽出すれば比対可能な基盤ができる。
古い高性能コンピュータが轟音を立て始めた。
吴軍はその音に反応して顔を上げた。
「案件選んだのか?」
江遠は「405徐海事件」と答えた。
「死者の状況を説明すれば分かるよ」そう言いながら吴軍は立ち上がり、ついでにタバコを吸い始めた。
江遠は要点だけ伝えた。
「理塘郷の道路脇で発見され、道路から約8メートル離れていて樹木と蔓が遮断していた。
高度な腐敗状態で腹部と胸部に中等度の損傷がある…」江遠は頷いた「彼の革ジャンに血手形があったので比対してみよう」
「指紋を使うのか、それなら分かるよ」吴軍はつい口を滑らせた「この案件は難儀だぞ」江遠も興味津々で訊ねた「どこがつまずいていたんだ?」
吴軍は答えずに尋ねた。
「この事件、どういう性質だと思う?」
江遠は主に指紋に目を向けつつも、全体像にも軽く視線を走らせた。
考えてみれば、「道端で金品を奪い、さらに殺害?」
というシナリオだろうか。
なぜ8メートル離れた場所での発生なのか?現場写真には草木の状態が特撮されている。
ご覧あれ、非常に繁茂した植物が道路から8メートル先まで続いており、通り抜けは困難だ。
江遠は内務部の過去事件ファイルを調べた。
鮮明な画像を見れば、田舎道から3メートル外側には既に多くの植物が生えている。
8メートルまで近づくためには、その茂みの中へ突入する必要がある。
刃物で脅迫する場合、予期せぬ動きを起こすリスクが高い。
ただし、そのリスク自体が犯罪の性質を変える理由になる可能性もある。
江遠はまだ明確な結論に至らなかったが、吴軍の意図は理解できた。
「つまり、当初は道端強盗と考えていたのか?」
と尋ねた。
しかし吴軍は首を横に振った。
「そう考える人が多い。
でも上層部は否定する」
「なぜなら、道端強盗による殺害事件では解決不可能だからだ」吴軍が手を広げて嘆息した。
「確かに道理がある。
当時は現場検証・人探し・突入という三段階の捜査法だった。
荒野での犯罪となると、強盗殺人として扱うのは難しすぎる。
『一查二排三突』とはつまり、現地調査、容疑者特定、逮捕ということだ」
戦後日本の住民登録制度により人口の移動が激減。
大部分の事件は知人間で発生し、排查だけで十分な解決率を確保できた。
一方、浮浪児たちは警察に『盲流』と呼ばれる存在で、頻繁に取り調べや送還処分を受けた。
そのため社会の移動が自由になるにつれ、警察の捜査能力は低下し、治安も悪化した。
吴軍は江遠には告げなかったが、道端強盗事件そのものが当時は一定数存在していたことだ。
上層部の解決意欲は強くない傾向があった。
江遠は興味津々に「あの頃黄所長はどうおっしゃったのか?」
と聞いた。
ちょうど派出所長を務めていた時期だったようだ。
「おそらくこの事件で刑事課長が交代したんだろう」
江遠も吴軍の話を続けさせようとせずに、再び事件そのことに戻った。
「つまり、この事件の問題点は方向性か?死体との関係網は既に網羅的に調べたが成果なし。
吴軍は首を横に振った「君は指紋を探せよ。
今はそれだけ頼りだ」
無差別殺害の場合、当時は困難だった捜査も現代ではさらに不可能になった。
近年の解決された積年の事件は多くが指紋やDNAで判明しており、理由は同じだ。
当時検出できなかった証拠は、数十年経てからより詳細に調べられる可能性もない。
江遠は師匠がさらに情報を得られると思っていた。
なぜなら、多くの事柄は捜査記録には書かれていないからだ。
吴軍が先ほど言ったような「排除された捜査方向」もその一つで、現時点では活用できないにせよ。
江遠はあれこれと考えることをやめ、再び指紋の分析に戻った。
長陽での全省指紋会戦の時と同じように。
当時は誰かと協力する相手もいなかった。
単純に指紋を調べるだけ。
ヒットすればそれで終わり、ヒットしなければ諦めるだけだった。
その頃は全国の省級以上の痕跡鑑定専門家の大半がLV3レベルで、帰宅時には卵を乗せたまま帰っていたという話だ。
江遠は一枚の指紋だけで終業時間まで分析を続けた。
吴軍が立ち上がり、「終業ですか?」
と尋ねてきた。
「残業です」と江遠がため息をついてスマホを取り出し、父にメッセージを送った。
吴軍は笑って「労働と休息のバランスですね。
休みなさい」
「気分を害けた」江遠は肩をすくめた。
全省指紋会戦中、なぜ指紋専門家がより多くの成果を得られるのか?重視されるのはその一因ではあるが、帰宅せずに集中できるからという理由もあった。
江遠はこの血の指紋に油断せず、指紋会戦時の状態を再現することで最も有利だと判断した。
二等功臣の賞状は今も玄関に日光浴させられ、父が毎日磨き上げて鏡面のように輝かせている。
これまで多くの積年の指紋を扱ってきた江遠は、この革ジャンの血手形を見た瞬間、比対可能な条件があると直感した。
これは個人能力に基づく自信だ。
まず、血手形の鮮明さは通常の範疇内にある。
ただし革に付着しているため若干鮮度が落ちているものの、一般的な汗潜紋よりはるかに優れた条件である。
次に、この指紋は全体の10分の3程度のサイズで中心点を欠き、しかし指先部分が残っているという個人的な特徴を持っている。
通常の痕跡鑑定では中心点がない場合や曖昧な場合は諦めてしまうが、江遠にとっては正確に中心点の位置を判断できれば、周辺の紋線が明瞭であれば問題ない。
成功率は中心点のない指紋より僅かに低い程度だ。
現行事件なら条件が良いほど容易だが、積年の事件では逆説的に意味がない。
誰でも見つかるような完璧な指紋は、どこにでもいる犬のように主を持たない存在なのだ。
江遠はその指紋をコンピュータにダウンロードし、画像を見ながらすぐに作業を始めなかった。
目の前にシステムメッセージが表示された。
「疑案突破タスク」の内容は「405徐海事件解決」とある。
まさに自分が選んだ案件だ。
これで楽になった。
困難に直面した場合でも他の案件を選択する必要がない。
この一件に集中すればいい。
江遠は手を擦り合わせた。
いつものように、指紋の条件がどうであろうとまずは加工(P)から始める。
俗に言う「PS三回転」で美女も立たないほど歪んだ画像だが、江遠が必要とするのはそれだけではない。
完全な指紋なら15個の特徴点を抽出するが、今回は不完全な3分の1の指紋から8個の特徴点を抽出すれば比対可能な基盤ができる。
古い高性能コンピュータが轟音を立て始めた。
吴軍はその音に反応して顔を上げた。
「案件選んだのか?」
江遠は「405徐海事件」と答えた。
「死者の状況を説明すれば分かるよ」そう言いながら吴軍は立ち上がり、ついでにタバコを吸い始めた。
江遠は要点だけ伝えた。
「理塘郷の道路脇で発見され、道路から約8メートル離れていて樹木と蔓が遮断していた。
高度な腐敗状態で腹部と胸部に中等度の損傷がある…」江遠は頷いた「彼の革ジャンに血手形があったので比対してみよう」
「指紋を使うのか、それなら分かるよ」吴軍はつい口を滑らせた「この案件は難儀だぞ」江遠も興味津々で訊ねた「どこがつまずいていたんだ?」
吴軍は答えずに尋ねた。
「この事件、どういう性質だと思う?」
江遠は主に指紋に目を向けつつも、全体像にも軽く視線を走らせた。
考えてみれば、「道端で金品を奪い、さらに殺害?」
というシナリオだろうか。
なぜ8メートル離れた場所での発生なのか?現場写真には草木の状態が特撮されている。
ご覧あれ、非常に繁茂した植物が道路から8メートル先まで続いており、通り抜けは困難だ。
江遠は内務部の過去事件ファイルを調べた。
鮮明な画像を見れば、田舎道から3メートル外側には既に多くの植物が生えている。
8メートルまで近づくためには、その茂みの中へ突入する必要がある。
刃物で脅迫する場合、予期せぬ動きを起こすリスクが高い。
ただし、そのリスク自体が犯罪の性質を変える理由になる可能性もある。
江遠はまだ明確な結論に至らなかったが、吴軍の意図は理解できた。
「つまり、当初は道端強盗と考えていたのか?」
と尋ねた。
しかし吴軍は首を横に振った。
「そう考える人が多い。
でも上層部は否定する」
「なぜなら、道端強盗による殺害事件では解決不可能だからだ」吴軍が手を広げて嘆息した。
「確かに道理がある。
当時は現場検証・人探し・突入という三段階の捜査法だった。
荒野での犯罪となると、強盗殺人として扱うのは難しすぎる。
『一查二排三突』とはつまり、現地調査、容疑者特定、逮捕ということだ」
戦後日本の住民登録制度により人口の移動が激減。
大部分の事件は知人間で発生し、排查だけで十分な解決率を確保できた。
一方、浮浪児たちは警察に『盲流』と呼ばれる存在で、頻繁に取り調べや送還処分を受けた。
そのため社会の移動が自由になるにつれ、警察の捜査能力は低下し、治安も悪化した。
吴軍は江遠には告げなかったが、道端強盗事件そのものが当時は一定数存在していたことだ。
上層部の解決意欲は強くない傾向があった。
江遠は興味津々に「あの頃黄所長はどうおっしゃったのか?」
と聞いた。
ちょうど派出所長を務めていた時期だったようだ。
「おそらくこの事件で刑事課長が交代したんだろう」
江遠も吴軍の話を続けさせようとせずに、再び事件そのことに戻った。
「つまり、この事件の問題点は方向性か?死体との関係網は既に網羅的に調べたが成果なし。
吴軍は首を横に振った「君は指紋を探せよ。
今はそれだけ頼りだ」
無差別殺害の場合、当時は困難だった捜査も現代ではさらに不可能になった。
近年の解決された積年の事件は多くが指紋やDNAで判明しており、理由は同じだ。
当時検出できなかった証拠は、数十年経てからより詳細に調べられる可能性もない。
江遠は師匠がさらに情報を得られると思っていた。
なぜなら、多くの事柄は捜査記録には書かれていないからだ。
吴軍が先ほど言ったような「排除された捜査方向」もその一つで、現時点では活用できないにせよ。
江遠はあれこれと考えることをやめ、再び指紋の分析に戻った。
長陽での全省指紋会戦の時と同じように。
当時は誰かと協力する相手もいなかった。
単純に指紋を調べるだけ。
ヒットすればそれで終わり、ヒットしなければ諦めるだけだった。
その頃は全国の省級以上の痕跡鑑定専門家の大半がLV3レベルで、帰宅時には卵を乗せたまま帰っていたという話だ。
江遠は一枚の指紋だけで終業時間まで分析を続けた。
吴軍が立ち上がり、「終業ですか?」
と尋ねてきた。
「残業です」と江遠がため息をついてスマホを取り出し、父にメッセージを送った。
吴軍は笑って「労働と休息のバランスですね。
休みなさい」
「気分を害けた」江遠は肩をすくめた。
全省指紋会戦中、なぜ指紋専門家がより多くの成果を得られるのか?重視されるのはその一因ではあるが、帰宅せずに集中できるからという理由もあった。
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