醜い白鳥

なうなす

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本編

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「イエン。あなたはきっと強く……」

 まだ十にも届かないような少女、イエン。彼女の前に立つ痩せ細った母親から託された汚れた簪。
 ある夏のこと、表通りではぺちゃくちゃと話し声が流れていて、繁盛している店からは甘い生地の焼ける匂いがする。
 栄える通りの放つ光によって出来た影に埋もれた人のいない路地裏で、少女は初めての喪失を味わった。
 しかし、泣き叫ぶ体力のない彼女は、静かに一滴の悲しみを落とすだけだった。

 生きるには金が必要だ。不相応に派手な大通りで、魚の描かれた飾りを太陽にかざした。
 この通りでそれは”ソレ”の合図。下衆な笑みを浮かべる客は四枚の通貨をイエンに見せた。
 黙ってイエンは頷き、生臭い通りから外れて奥へと消えた。客に手を引かれているが、どうにもぎこちない。大きさに合わない靴を履き、足には赤い染みが浮かぶ包帯が巻かれていた。

 イエンは”ソレ”を終え通りに帰った。五枚の通貨をカビた布袋にしまって。
 通りの奥へ落ちていく太陽は彼女の影をクッキリと映す。

 ”ソレ”に疲弊した時、彼女は耳に穴を開けた。負荷を紛らわす為だろう。
 何度も繰り返す内、左耳は黒く変色してしまった。本能的にそれを恐れた彼女は勇気を振り絞って、耳を切り落とした。
 傷口を、通りの灯りから盗んできた火で焼き、か細い声で激痛を叫ぶ。
 震えが止まらない体を抑え、何とか前を向く。
 しかし、彼女の顔の半分は焼け爛れてしまった。
 化粧など出来る筈も無く、長い髪を左に下ろすことで隠し、”ソレ”を続行した。


 ──三年は経った。
 カビた布袋にはジャラジャラと鳴る程の金が入っている。雨水を貯めていた桶をひっくり返し、身体を流す。
 前から買っておいた赤いチーパオを着て、いま着ているみすぼらしい服を投げ捨てる。
 汚れて光を反射しない簪はそのままだった。
 目的を果たしたイエンは港へ向かった。
 
 そこには巨大な黒い船が停泊していた。モクモクと煙を天へ送り込む。その煙は真っ黒な宝石をバクバクと食らっている証拠だ。

 シルクハットを被った金髪碧眼の男性の袖を引く。
 男は拒否感を示し、手を払う。
 イエンは負けじと男を見あげ、汚れた布袋の中身を一部見せた。
 男は目を見開いたが、言葉が通じないなりに彼女の意図を理解し、相場より多くの金を受け取ってから、大きな木箱に彼女と大きな布、水と袋に詰まったパンを渡した。

 船は彼女の母国を離れる。
 煙は龍のような様を描いた。

 次に外を見た時、彼女は焼かれるような日光に怯んだ。シルクハットの男はさらにパンを少し分け与えてから彼女に別れを告げる。ヒラヒラと手を振った男に、彼女は深く礼をした。
 彼女の手には男の持っていた壊れた懐中時計があった。

 街に着いて背を伸ばす。
 街にいるのは皆見たことのない見た目をしている。髪色も、目の色も、歩き方すらも違う。
 コツン。
 細い枝が、彼女の肩に当たった。枝の飛んできた先を見ると、そこには彼女と同じくらいの少年が立っていた。
 彼女は言葉が分からない。
 高そうな服を着た少年の罵倒と思わしき言葉に圧倒されるだけだった。

 街にはポスターが貼られていた。
 もちろん彼女はその文字は分からない。
 無計画な彼女はここで行き詰まった。
 人々は近づこうともしない。むしろハンカチを口に当て、シッシッと手で追い払おうとする。
 上品というには甘ったるい香水が不快に思える。
 しかし、あそこと違い、生臭さはないので何倍もマシだった。

 途方に暮れ、広場の端に座っていたイエンだった。
 しかし、そこに雨が降ってきた。
 慌てて頭を手で覆い、建物の影へと走る。
 建物までもうすぐという所で、雨は止んだ。真っ黒な傘が、彼女を雨から守っていた。
 傘を差していたのは、先程のシルクハットの男だった。

 男は彼女が話せないのを知っており、鍵を取り出して街の方へ向けた。まるであちらに何かがあるかのように。
 アテのない彼女は、同じ影の下を歩きながら街を歩いた。

「汚らわしい」

 通り過ぎる女はそう呟いた。

「あんな目じゃ前も見れないな」

 街にいる人間は皆そう告げていった。
 恥とすら言える言葉の数々を、男は無視していた。深くかぶったシルクハットは、目元を暗くしている。
 少しづつ早足になり、結局最後は布でイエンを隠した。
 
 周りと比べると小さく見える建物に着いた。
 ドアを開ける。
 暗いトーンの家具で整えられた一室だ。
 重苦しい服を脱いだ男は、ラフなシャツになった。
 そして、イエンに服を渡した。
 男には似合わない、白いフリルの目立つくすんだ赤いワンピースだ。
 男はイエンの前に立ち、サッと十字を切る。
 ブツブツとなにかを唱えた後、すぐ部屋の奥に行ってしまった。
 
 帰ってきた男は、赤いワンピースを着たイエンを胸元のロケットの写真と見比べる。
 ロケットの端は黒ずんでいた。
 写真には明るい笑顔な女性と、小さな少女があった。
 滲んだ視界のままで、穏やかな顔で男はまたパンを渡す。
 パンの置いてある棚には女性の名前が刻まれていた。

 イエンはそのパンを食べ、気付いた。
 船で食べたパンと同じ味がする事に。
 パンは噛めば噛むほどに甘くなる。それを強く実感する。噛み締めるようにパンを食べている彼女の姿を、男はじっと見守っていた。
 なにかを得られたかのように──


 共に歩み始めたある日、男がイエンを連れて劇場にやって来た。 
 まず、真っ暗な舞台の一点を一筋の光が照らす。静かで、深みのある弦の音は、照らされた少女を着飾るドレスの様だ。
 舞台の静はやがて動へと進む。
 ドレスが激しく揺れている。
 その舞に劇場の皆は魅了され、劇場の空気は一色に染まっていく。真っ白なドレスと、強く打たれながらも繊細な感情を表す弦の音。手先や足先さえも、複雑な愛の様を描いている。
 悲劇も、愛も、過ちも、その終焉すらも、その音と舞で描ききってみせた。
 それは、美しい白鳥の様だった。

 男と見たそのバレエは、彼女に大きな翼を与えることになった。
 見様見真似の歪なバレエ。決して上手とは言えずとも、そこには確かな愛があった。

 
 毎朝食べる、男の用意するパン。
 毎朝見る真っ暗な男の背中。
 毎朝男のする祈り。
 毎朝確認する、棚の上にある人名の書かれた紙。

 その全てが今を積み重ねる証拠となる。
 変化しないその繰り返しが、彼女を安心させた。
 言葉は無いが、その静かな繰り返しだけが、お互いを繋ぐ最後の糸だった。
 上達していくイエンのバレエは独学故の味があり、それは人々に新鮮な衝撃を与えるのには十分だった。

 少し肌を刺すような冷たい空気、日が落ちるのも早く早くなっている。
 人々のぺちゃくちゃとした話し声が響く通りの石の噴水の前で、仮面の少女は孤独な今を表現する。
 日常の全てを着飾る様に舞い、通り過ぎる大衆に魅せる歪なバレエ。それをバレエと認識しているかは定かではないが、一つ言えることとして、それは強く人を惹きつけるものだった。

 いつもの家に帰って来た。男は少し崩したスーツを着ていて、今帰ってきたという雰囲気だった。
 男は棚の上にある紙に一つの印を書き、不機嫌そうに寝室へ向かった。
 二人を言葉が繋ぐことはない、最低限の手振りと言葉を介さない繋がりが、コミュニケーションとして機能する。
 
 イエンのバレエを見て評価した人々の投げた銭を男に渡す。男は少し目を見開いて、すぐに戻った。
 そして男は首を横に振り、銭を握ってイエンの掌に強く押し付けた。
 日は橙に染まり、部屋に射す陽光は少しずつ暗くなっていく。
 その銭は部屋の中で、一番目立つ棚に置いておいた。

 色は、雪に残る足跡のように薄れていく。少しだけでも評価をされているという実感が、温かみを帯びて日常に色を乗せる。
 広場で踊り、夕刻には戻る。
 くすねた懐中時計を見て、再び動かない事を確認する。
 銭を集め、夕刻には背を向ける。
 少しだけ道を間違え、帰るのが遅くなりそうになった時、男の顔が浮かんだ。その男には眉間にはシワが寄っている。
 しかし、男は穏やかな顔をしていた。
 減っていく見物客を無視して帰る。
 
 家に帰る。いつも通りに。
 静かだ。いつもならいる筈の男がいない。必死に探したが、少なくともその一室にはいなかった。
 一室を激しく駆け回っている彼女の起こした風で、壁に貼られた紙が静かに揺れる。
 数人の人名、印の無い最後の名前にも、黒鉛のバツ印がされていた。

 雨が降ろうと、人々が彼女を見下そうと、彼女は走った。また失うのを恐れたからだ。

 息を切らして街路樹の縁に座り込んだ。ドレスの裾は泥に汚れ、全身が雨に濡れている。空を見て彼女は覚悟した。
 一枚も通貨を持たず、残されたのは汚れた衣服。
 そして、この感情。

 顔の爛れた部分は仮面で隠し、雨音の奏でるリズムが彼女を彩る。人のいないこの通りは、今だけは彼女の舞台に変わる。
 無彩色の街で、孤独なバレエが始まった。
 滑稽とすら思えるはずの舞。
 砕かれ、細くされた足先で回る。ステップによって跳ねた水すらも巻き込んでいく。
 泥に塗れたドレスは激しく揺れる。あの日の白鳥はこんなに醜くはない。
 しかし、その中の信念だけは本物だった。雨に濡れて簪が外れても、バレエは終わらない。

 人影の無い広場、いつも香っている匂いは無い。
 倒れた少女の傍らには、壊れた懐中時計があった。あの時から、それは時を刻まない。
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