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第68話 濃霧を漂う者③
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「ねぇ、シスター。どうして霧がでてるときは、森に入ってはいけないの?」
幼い声が、暖炉の前に座った老婆に、そう問いかける。
「濃い霧はね、『死者の国』に繋がっているのさ。」
「死者の……国……?」
老婆は、ゆっくりと頷きながら振り返る。
節くれた両手が、ぬっと顔の両側に差し込まれた。
「そこには恐ろしい亡霊たちがいて、小さな子供をさらっちまうんだよ……」
「――!」
少女は、目を見開いたまま、言葉を失った。
「だからねぇ、リーシャ。霧の森には、決して入っては、いけないよ……」
――それは、幼い日の記憶。
もちろん今では、そんな話は信じていないし、それが子供を危ない目にあわせないための方便だと知ってからは、自分だって小さい子たちにそういって聞かせたものだ。
それでも、あの夜。
『亡霊』の話をしたシスターの目は、とても暗くて、冷たくて。
今でも、そのことを思い出すと、少し背筋が寒くなるのだ。
+++
目の前のそれは、明らかに不自然に、空中に静止していた。
空を飛ぶ魔物自体は、別に珍しいものではない。
しかし、それらはあくまで羽などで『飛んでいる』のであって、勝手に『浮いている』わけではない。こんな熊ほどの大きさなら、相当の風圧なり振動なりがあるはずなのだ。
これは、まるで質量がないかのように、ただ宙に浮かんでいた。
――死者の国の、亡霊。
馬鹿げていると思っていても、連想するなというのは無理な話だ。
「……隙を見て、逃げるわよ……エト。」
「う、うん……っ」
体を離し、動揺を押し殺しながら、どうにか杖を構える。
エトの方も、小さく頷くと、双剣を手に取り、姿勢を下げた。
逃げるというのは、単に恐怖からの判断ではない。
ロルフからも、『討伐対象以外の魔物に遭遇した場合は逃げるように』と、口酸っぱく言われている。というのも、魔物にも縄張りというものがあり、そこに乱入してくるのは大抵格上の魔物だからだ。
つまり――魔物なのかは、さておき――こいつは、オオサソリバチの群れより『強い』と考えるべきなのだ。
幸い、周囲は濃霧。
ある程度距離を取ることができれば、認識阻害魔法でやり過ごせる。
この時点では、そう考えていた。
「エト、あいつが動いたら――」
そう、言い終わるよりも、早く。
宙に浮いていたそれは、突然時計回りに回転しだしたかと思うと、異様な速さでこちらに突進していた。
正確には、その動きを目で追えていたわけではない。
だから、どちらかといえば、『突進したであろう』という予想だ。
ただ、事実として、その骸骨の頭は、リーシャの目と鼻の先にあった。
「え……?」
その外套の内側から、氷の爪が現れた。
青くきらめくそれは、そのまま一直線に、リーシャへと駆けあがった。
「――っ!」
間一髪で差し込まれたエトの右手の刃が、それを辛うじて弾く。
ギィンと耳障りな音が、周囲に響いた。
「リーシャちゃん、離れてっ!!」
「ぁ……っ」
あっけにとられていた思考を何とか掴み戻し、後方に飛びのく。
それと入れ替わりに、エトはもう一つの刃を、敵の体をめがけて鋭く振り下ろした。
攻撃を外した瞬間を狙った、完璧な一撃。
にもかかわらず、宙にいるそれは縦に回転するように飛び上がり、刃は空を切った。
「外し、た……?」
エトは信じられないというように、目を瞬かせた。
それを間近で見たリーシャも、目を疑った。
速すぎる。
大きな魔物は、最高速度は別としても、基本的に動き出しが遅い。
少なくとも、その質量が足を引っ張り、小回りは利かないはずなのだ。
「くう……っ、『ウィンドエッジ』!」
空に後退したそれに向かって、横一列になるように、連続で魔法を放つ。
しかし、これもまた上下に回転するような、妙な動きで、全て避けられてしまった。
頬に汗が伝う。
まるで、物理法則を無視するかのような動き。
予測が、攻撃が当たるイメージが、できない。
前も後ろもわからない、濃霧。
攻撃を当てることも、攻撃を避けることもできない、正体不明の敵。
これじゃ、逃げることなんて――
「リーシャちゃん、大丈夫?!」
「……!」
気づけばエトは、自分を庇うように、すぐ目の前に立っていた。
いつでも、そうだった。
エトは、どんな絶望的な状況でも、絶対に守ることを諦めない。
だからこそ、その背後で、冷静に作戦を立てることができたのだ。
……情けない。
司令塔の私が諦めて、どうするの。
リーシャは、拳を痛いほどに握り込み、全力で思考を再稼働させた。
『ああ、そうだ。無いとは思うが、念のために……リーシャ。』
――!
探り当てたのは、二組に分かれる直前の、ロルフの言葉。
ほんのわずかな可能性を考慮した、一言。
思わず、苦笑いが漏れる。
「……まったく、過保護なんだから。」
リーシャは、すぅと深く息を吸って、その手に持つ杖を、勢いよく地面に突き刺した。
「エト! 作戦を変更するわ。少しの間……私を守って!」
「……! わかった、任せて!!」
双剣を構えるエトの背後、リーシャの足元に、青緑色の魔法陣が展開された。
幼い声が、暖炉の前に座った老婆に、そう問いかける。
「濃い霧はね、『死者の国』に繋がっているのさ。」
「死者の……国……?」
老婆は、ゆっくりと頷きながら振り返る。
節くれた両手が、ぬっと顔の両側に差し込まれた。
「そこには恐ろしい亡霊たちがいて、小さな子供をさらっちまうんだよ……」
「――!」
少女は、目を見開いたまま、言葉を失った。
「だからねぇ、リーシャ。霧の森には、決して入っては、いけないよ……」
――それは、幼い日の記憶。
もちろん今では、そんな話は信じていないし、それが子供を危ない目にあわせないための方便だと知ってからは、自分だって小さい子たちにそういって聞かせたものだ。
それでも、あの夜。
『亡霊』の話をしたシスターの目は、とても暗くて、冷たくて。
今でも、そのことを思い出すと、少し背筋が寒くなるのだ。
+++
目の前のそれは、明らかに不自然に、空中に静止していた。
空を飛ぶ魔物自体は、別に珍しいものではない。
しかし、それらはあくまで羽などで『飛んでいる』のであって、勝手に『浮いている』わけではない。こんな熊ほどの大きさなら、相当の風圧なり振動なりがあるはずなのだ。
これは、まるで質量がないかのように、ただ宙に浮かんでいた。
――死者の国の、亡霊。
馬鹿げていると思っていても、連想するなというのは無理な話だ。
「……隙を見て、逃げるわよ……エト。」
「う、うん……っ」
体を離し、動揺を押し殺しながら、どうにか杖を構える。
エトの方も、小さく頷くと、双剣を手に取り、姿勢を下げた。
逃げるというのは、単に恐怖からの判断ではない。
ロルフからも、『討伐対象以外の魔物に遭遇した場合は逃げるように』と、口酸っぱく言われている。というのも、魔物にも縄張りというものがあり、そこに乱入してくるのは大抵格上の魔物だからだ。
つまり――魔物なのかは、さておき――こいつは、オオサソリバチの群れより『強い』と考えるべきなのだ。
幸い、周囲は濃霧。
ある程度距離を取ることができれば、認識阻害魔法でやり過ごせる。
この時点では、そう考えていた。
「エト、あいつが動いたら――」
そう、言い終わるよりも、早く。
宙に浮いていたそれは、突然時計回りに回転しだしたかと思うと、異様な速さでこちらに突進していた。
正確には、その動きを目で追えていたわけではない。
だから、どちらかといえば、『突進したであろう』という予想だ。
ただ、事実として、その骸骨の頭は、リーシャの目と鼻の先にあった。
「え……?」
その外套の内側から、氷の爪が現れた。
青くきらめくそれは、そのまま一直線に、リーシャへと駆けあがった。
「――っ!」
間一髪で差し込まれたエトの右手の刃が、それを辛うじて弾く。
ギィンと耳障りな音が、周囲に響いた。
「リーシャちゃん、離れてっ!!」
「ぁ……っ」
あっけにとられていた思考を何とか掴み戻し、後方に飛びのく。
それと入れ替わりに、エトはもう一つの刃を、敵の体をめがけて鋭く振り下ろした。
攻撃を外した瞬間を狙った、完璧な一撃。
にもかかわらず、宙にいるそれは縦に回転するように飛び上がり、刃は空を切った。
「外し、た……?」
エトは信じられないというように、目を瞬かせた。
それを間近で見たリーシャも、目を疑った。
速すぎる。
大きな魔物は、最高速度は別としても、基本的に動き出しが遅い。
少なくとも、その質量が足を引っ張り、小回りは利かないはずなのだ。
「くう……っ、『ウィンドエッジ』!」
空に後退したそれに向かって、横一列になるように、連続で魔法を放つ。
しかし、これもまた上下に回転するような、妙な動きで、全て避けられてしまった。
頬に汗が伝う。
まるで、物理法則を無視するかのような動き。
予測が、攻撃が当たるイメージが、できない。
前も後ろもわからない、濃霧。
攻撃を当てることも、攻撃を避けることもできない、正体不明の敵。
これじゃ、逃げることなんて――
「リーシャちゃん、大丈夫?!」
「……!」
気づけばエトは、自分を庇うように、すぐ目の前に立っていた。
いつでも、そうだった。
エトは、どんな絶望的な状況でも、絶対に守ることを諦めない。
だからこそ、その背後で、冷静に作戦を立てることができたのだ。
……情けない。
司令塔の私が諦めて、どうするの。
リーシャは、拳を痛いほどに握り込み、全力で思考を再稼働させた。
『ああ、そうだ。無いとは思うが、念のために……リーシャ。』
――!
探り当てたのは、二組に分かれる直前の、ロルフの言葉。
ほんのわずかな可能性を考慮した、一言。
思わず、苦笑いが漏れる。
「……まったく、過保護なんだから。」
リーシャは、すぅと深く息を吸って、その手に持つ杖を、勢いよく地面に突き刺した。
「エト! 作戦を変更するわ。少しの間……私を守って!」
「……! わかった、任せて!!」
双剣を構えるエトの背後、リーシャの足元に、青緑色の魔法陣が展開された。
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